べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「袋町お聖天」(再)(中区)

11/23。
何が呼んだわけでもないのですが、

 

○こちら===>>>

「神明社(赤塚神明社)」(名古屋市東区) - べにーのGinger Booker Club

 

↑「赤塚神明社」で、とある記述を発見してしまいましたので、「袋町お聖天」へ再訪。

 

○こちら===>>>

「袋町お聖天」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。

 

f:id:bennybebad:20170130213345j:plain

門。
わりと早い時間だったのか……ビルの、というか店舗に囲まれた中にあるので、門は暗いです。

 

f:id:bennybebad:20170130213347j:plain

門の二階の蟇股の彫刻は、孔雀かな。

 

f:id:bennybebad:20170130213348j:plain

不動堂。

 

f:id:bennybebad:20170130213349j:plain

六角宝塔。

 

f:id:bennybebad:20170130213350j:plain

七福神

 

f:id:bennybebad:20170130213351j:plain

お地蔵様の向こうは、「青面金剛」「ぼけ封じ観音」「愛染明王」「辨才天」、と諸仏勢ぞろいな感じ。
さすが真言宗(?)。

 

f:id:bennybebad:20170130213352j:plain

毘沙門天」だけは、独立した祠に。

 

f:id:bennybebad:20170130213353j:plain

秋葉大権現」と「出世天神」。

 

f:id:bennybebad:20170130213354j:plain

本堂。

 

f:id:bennybebad:20170130213355j:plain

……「おびんずるさま」かな……。

 

さて。
再訪したのは「赤塚神明社」に、「福生院」から遷された「出世天神」がある、との案内を読んだからでした。


○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑『尾張名所図会』からいつもの通り行ってみましょう(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
62コマです。

 

「如意山福生
袋町通本町西へ入北側にあり。真言宗、海東郡蜂須賀村蓮華寺末。至徳年中、蓮華寺の住僧順譽建立して愛知郡中村にありしを、元和三年ここにうつす。
本尊 薬師如来大聖歓喜天の木像を相殿に安置す。霊験ありて、常に参詣の人多し。
天満宮祠 元和三年中村よりここに遷座す。秀吉公の守護神なりと言伝ふ。」

 

↑「出世天神」という言葉は出てきませんね。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋

 

↑『尾張志』も見てみましょう。

26コマです。

 

福生
袋町本町より西北側にありて如意山と号し海東郡蜂須賀村蓮華寺の末寺なり至徳年中僧順譽 蜂須賀村蓮華寺の住僧也 建立して愛智郡中村にありしを元和三年今の處に遷せり
本堂 本尊は薬師仏歓喜天の木像を相殿に安置す 天満天神社 世俗出世天神と称す此寺はもと中村にありしとき此天満宮別当にてありしよしいひ伝へたり

 

↑お、ありました「出世天神」。
江戸時代に書かれた書物ですので、当然まだ「福生院」にある、と。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

↑『名古屋市史 社寺編』も見ておきましょうか。
245コマです。

 

福生
福生院は一に福性院に作り、如意山と號す、俗に御聖天様といふ、西区袋町六丁目の北側に在り、(略)常法談林 もとは平僧地 一等にして、京都智積院の末寺 もと海東郡蜂須賀村(今海東郡美和村大字蜂須賀)蓮華寺の末「なり、明治四十四年三月直末となれり)なり、もと愛知郡中村に在り、至徳中、蓮華寺第五世順譽の建立なり、元和中、宥伝(寛永五年七月二十七日寂す、当院の中興也 の時、今の地に移る、万治三年正月の火災に罹りて、本尊の脇士二天の像、及び大釜一口を遺して、宝物、古記録等悉く焼失す、以来再興して御目見地となれり、本尊は木像薬師如来坐像(作者詳ならず)なり、堂宇は本堂、 一に聖天堂ともいふ、歓喜天の木像を安す 、稲荷堂、秋葉堂、不動堂、摩利支天堂、弘法堂、庫裏、門、井戸屋形等ありし、もと鎮守天満宮 元和中、当寺と共に此地に遷座す、祭神菅公の画像(繩敷坐像) は出世天神と称し、豊臣秀吉の崇敬に係るといひ、同社は頗る大社にして、当院は嘗て同社の別当なりきといふ ありしが、明治初年、東区山口町神明社の境内神社として、本社の東側に遷座す(以下略)」

 

↑「赤塚神明社」での解説とほぼ同じですね。
やはり、神仏分離で何か被害を被る前に、お遷しした、と考えるのが常道でしょうか。
で、時が流れて、「赤塚神明社」にも「福生院」にも、「出世天神」がお祀りされることとなりました。
うーん……「赤塚神明社」からお戻しする、ということにならなかったのは何故なのか。
菅原道真」公の画像は、果たしてどちらにあるのか。
元祖と本家をめぐって、ここにバトルが……始まりませんけども。
謎は解けませんでしたが、どちらでもお祀りされている、という状態がよろしいのではないか、と思います。
あまり争ってもしかたありませんです。

 

f:id:bennybebad:20170130213829j:plain

御朱印。

 

 

 

 

 

以下、ふと怒りを思い出したので。


○こちら===>>>

対馬の寺から盗まれた仏像 韓国の寺に引き渡し命じる判決 | NHKニュース

 

そういえば、対馬から盗まれて半島に持ち出された仏像を、日本に戻さず韓国の寺に渡す、とかいう判決が出たそうです。
↑のNHKの記事から引用。

 

「5年前に長崎県対馬市の寺から盗まれその後、韓国で見つかった仏像をめぐって、韓国の寺が「日本の倭寇に略奪されたものだ」と主張して仏像を保管する韓国政府に対し引き渡すよう求めていた裁判で、韓国の地方裁判所は26日、「仏像は過去、正常ではない形で対馬に渡ったと見られる」などとして、韓国の寺への引き渡しを命じる判決を言い渡しました。一方、韓国政府は判決を不服として控訴しました。
この裁判は5年前、長崎県対馬市の観音寺から韓国人の窃盗グループによって盗まれ、その後、韓国で見つかった仏像について、韓国中部のソサン(瑞山)にあるプソク(浮石)寺が「仏像は中世の高麗時代に自分たちの寺でつくられ、日本の倭寇に略奪されたものだ」と主張し、仏像を保管している韓国政府に対して、日本側に返還せずプソク寺に引き渡すよう求めていたものです。

これについてテジョン(大田)地方裁判所は26日、「仏像がつくられたあと、プソク寺がある地域に倭寇が5回侵入したという記録が残っている」と指摘したうえで、「仏像は過去、略奪や盗難など正常ではない形で対馬に渡ったと見られる」として、韓国政府に対し、仏像をプソク寺に引き渡すよう命じる判決を言い渡しました。」

 

 

「「仏像がつくられたあと、プソク寺がある地域に倭寇が5回侵入したという記録が残っている」と指摘したうえで、「仏像は過去、略奪や盗難など正常ではない形で対馬に渡ったと見られる」」

 

↑ああ、倭寇ね……何言ってんだろうね、この……どうにも罵倒する言葉しか浮かんできません。
儒教のために廃物に勤しんでいた国で、そのほにゃらら寺はずっと残っていたわけですか?
倭寇が日本人だとしても(後期は大陸や半島の人が多かった、という話もあります)、廃仏をしたのは李朝の人間だぞ?
それに、

 

○こちら===>>>

仏恥斬 - べにーのDoc Hack

 

↑でも書きましたが、だったら「ユネスコ関係条約」なんか批准せず、能書き垂れ流していればよろしかろうに。
真剣な話、日本中の神社仏閣史跡は、至急文化財を隔離するほうがいいと思います。
重要文化財、だけではないですよ。
街角の小さなお稲荷さんだって、その町には大切な文化財です(ああそういえば、どこかの半島の人が、日本国内のお地蔵様だとかお稲荷さんだとか、壊して回っていましたね……李朝に戻って廃仏ですか、お似合いな感じですが、国内でやっとけ)。
裁判所がお墨付きを与えたんですよ、「法を破ってでも、文化財を取り戻すことが正義」だと。
そうしたいなら、まず条約破棄してから来いよ。
その場合でも、やることは同じですけどね。
盗まれる前にしまい込むべきです。
それから、そんな国の人を近づけないように。
いや、本当に、真剣に。
日本だってろくでもない部分はありますが、法治を無視した判決がこう簡単に出されるような国とどうおつきあいしろというのか。

 

……ふう……ネガティブな感情は、将来にわたって保存されやすいので、できれば勘弁してもらいたいですが、もう覚えちゃったからね……消えないよ、当分。