べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「鳳来寺山」(補)

さて。
景色ばかりの前回と比べると、文章だらけですが。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯 第7編

 

↑『東海道名所図会』から参りましょうか(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
引用は、

 

新訂 東海道名所図会〈中〉尾張・三河・遠江・駿河編 (新訂 日本名所図会集)

新訂 東海道名所図会〈中〉尾張・三河・遠江・駿河編 (新訂 日本名所図会集)

 

 

↑こちらから行います(p133より)。
デジタルコレクションでは、233コマです。

 

「煙巌山鳳来寺勝岳院
三州設楽郡門谷村の山頭にあり。天台、真言の二派に分る。
本尊薬師仏 長さ一寸八分。開基利修仙人[伝説の僧、五七〇ー八七八]、一刀三礼[一刀入れる度に三度礼拝する、仏像彫刻の作法]の作。日光、月光(略)、十二神将(略)、四大天王(略)を安ず。秘仏
神祖御宮 諸堂の上方にあり。御宮殿壮麗微妙なり。別当職天台学頭松高院。

(略)

鎮守三社権現 中央、熊野権現、左、山王地主権現、右、白山権現。利修仙人の弟子心月坊祐仙勧請す。
六所護法神 利修仙人百済国より帰朝の時、六人の護法神香華を捧げて随従したまう。茲によって勧請す。
開基利修仙人堂 この堂は飛騨の匠が造れるという。飛騨の匠というは、一人のみに限れる名にもあらず。
(略)
三層塔 源頼朝卿の建立。梶原景時奉行(略)のよしいい伝えり。常行堂とこの塔は、むかしの姿にて、造替なしという。
鏡堂 護摩堂の傍にあり。薬師の東方大円鏡[仏のくもりない智慧の象徴となる鏡。東方は薬師仏の仏世界]をもって、諸人の願により、鏡に万象を模し、利益を施したまう誓願あるゆえ、薬師尊へ鏡を奉り諸願を祈るなり。これ当山鏡堂の由縁なり。
八幡宮 伊勢両太神宮 弁財天祠 天神祠 毘沙門堂 一王子 二王子 荒神祠 弘法大師堂 元三大師堂 鐘楼 楼門 諸堂の次第図画に見えたり。楼門の額は光明皇后の御筆にして、「鳳来寺」と書す。左右に金剛力士たつ。
名号題目石 楼門の傍にあり。弥陀の名号と法華題目を鐫じ、慶安四年(一六五一)、篠原氏建つる。これを弘法大師の投筆と生じて、詣人尊信す。
八王子祠 麓の門谷町にあり。生土神とす。
(略)
六本杉 奥院の路傍にあり。
煙厳山 本堂の西に当たれり。ここは利修仙人護摩(略)を修せらる。煙、常に巌上に立ち昇る故名とす。開基の山居の地なれば、当寺の山号とせり。
勝岳院 本堂の乾[西北]当る。利修仙人ここに住して簫を籟きたまうゆえ、簫楽仙人という名あり。また勝れたる岳なればとて院号とせり。この岳にて仙人の作られし不動尊、また役行者(略)の作りたまう不動尊もあり。一宇(略)に安置せり。前の岩面に八大童子(略)の像あり。
(略)
行者帰 当山の峰より東の方、大野へ行く道なり。役行者登山のとき、岩路嶮しく登りがたければ、本道より至り、利修仙人に遇いたまう。故にこの名あり。
猿橋 当山の南にあり。むかし勅使公宣卿登山のとき、渓川洪水して橋落ちたり。忽然として猿数百出でて、手足を組み合い橋となし、勅使を渡せしゆえこの名あり。また今の橋、算木(略)のごとくなるゆえに、算橋ともいう。
篠谷 南の方に当る。むかし浄瑠璃姫(略)、当山の本尊薬師仏を尊信し、この篠谷に棲んで日毎に詣し、示現を蒙り、十二段の浄瑠璃を語り初むる。」

 

この辺りで休憩。
東照宮」「本堂」「開山堂」以外は、現在ではほとんど見られないようです。
浄瑠璃姫」についての記事がp95(デジタルコレクションは218コマ)にあるのでご紹介。

 

浄瑠璃姫墳 西矢矧左の方、圃の中にあり。むかし、矢矧の宿の長が娘、美艶の女伶なりしが、平家の盛衰を十二段に作り諷う。薬師の十二神将に比すれば、浄瑠璃御前と呼ぶ。今の世の浄瑠璃の始りなり。またこの里に誓願寺という浄土宗の寺あり。ここに浄るり姫の像、義経(略)の像あり。寺説にいわく、「九郎判官東下りのとき、ここに宿し、この姫を愛したまう」とぞ。」

 

なるほど、義経伝説のかたでしたか……名前は何となく聞いていたのですが全く知りませんでした。
もっと浄瑠璃元祖をアピールしてもいいのかも……もうしていたらすみません。


「それ当山は、推古天皇の勅願にして、利修仙人の開基なり。
その頃、上宮太子聖徳太子摂政したまうとき、三河国司奏していわく、「桐生山に桐樹あり。相伝う神代よりの霊樹なり。その高さ四十九丈[一丈は十尺]、囲り三十九尋[尋は左右の手を広げた長さ]。虚洞あって大室のごとし。竜その虚洞に棲む。その西の枝に異鳥棲めり。その尺八咫[咫は親指と中指を開いた長さ]、尾の尺丈余。全身五彩金翠にして、啼く声■■たり。人いまだその名を知らず。一日三尾羽を落とす。故にこれを献ず。またその洞中に仏像あり。金石に非ず、土木に非ず、手指に宝壺を持して金光あり」と奏する。太子これを聞こし召して、「これは鳳鳥の尾なり。この鳥文徳を好む。今出ずるは、蓋し階下神皇の紀を闢き、儒仏の道を弘むるの前表なり。かの仏像は瑠璃光仏[薬師如来]なり。後代竜去って精舎となる」とぞ。
同帝の御宇(略)、詔を蒙りて、利修仙人当山七本椙を一株伐って、薬師、日光、月光、十二神将、四大天王を彫刻し、巌上に安置す。今の本尊これなり。
皇太子驪に騎って空中を駆けたまうに、蹄のあたるところあり。これ三河国設楽の峰と『太子伝』[上宮聖徳太子伝]にあり。故に峰の薬師と称す。
その後、文武天皇御悩のとき、草鹿砥公宣卿を勅使として、仙人を召したまう。利修仙再三辞したまえども、勅命遁れがたく、参内ありて加持を奉りければ、御悩たちまち平愈ならせたまう。そのとき天皇、仙人の意願を勅問ありけるに、答えていわく、「烟霞を栖とし、青苔を衣とし、松実を服して、名利を親しまざれば、身にとりての願心なし。国家安泰の御祷りとして、仏堂を建てて尊影を安置せんこと、これ本来の願望なり」と奏しければ、叡感ありて、大宝三年[七〇三]、造立し、その後、光明皇后(略)の御筆にて「鳳来寺」の額を賜う。
また青赤黒の三鬼ありて、常に利修仙に随従せり。仙人入定(略)の時、この三鬼の首を薬師堂の下に埋み、当山の守護神とす。元和年中(一六一五ー一六二四)、本堂炎上の後、造立の折柄、石櫃よりこれを出し、当山の衆僧初めて三鬼首を見けるとかや。また元の如く封じて、蔵め埋みしという。
宿昔利修仙の許へ、勅使公宣卿登山の折から、本宮ガ岳に登りたまう、そのとき老翁あらわれ、導きをして当山へ送りたまう。

 

今度は「聖徳太子」の伝説です。
日本で仏教の源泉を求めようと思えば、「聖徳太子」に帰結するのは当然なのかもしれません。
善光寺」も、崇仏排仏論争の頃を起源においていますし。
伝説なのですが、とにかく「鳳来寺」が古刹だった、と訴えたいことは伝わってきます。
「利修仙人」が開山となっているところにも、その古さを訴えたい感じが出ているように思います(上人、和尚ではないんですね……そういう位の人がいないくらい昔、という意味でしょうか)。

 

「また青赤黒の三鬼ありて、常に利修仙に随従せり。仙人入定(略)の時、この三鬼の首を薬師堂の下に埋み、当山の守護神とす。元和年中(一六一五ー一六二四)、本堂炎上の後、造立の折柄、石櫃よりこれを出し、当山の衆僧初めて三鬼首を見けるとかや。また元の如く封じて、蔵め埋みしという。」

 

おっと、鬼がいましたか。
役行者」との共通点が見えてくるような気がします。
例えば、「鬼」というのが、当時は朝廷に従わないような独立勢力だったとすると、「利修仙人」、いたしかたないとはいえ朝廷の下につき、「鬼」を裏切った、と。
そこでその首を埋めて、守護神に祀り上げることで、祟りを回避しようとした。
そんな解釈があっさりできてしまうほどに、高田崇史氏に毒されているな……。

 

「宿昔利修仙の許へ、勅使公宣卿登山の折から、本宮ガ岳に登りたまう、そのとき老翁あらわれ、導きをして当山へ送りたまう。」

 

↑この話は、

 

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「砥鹿神社」 - べにーのGinger Booker Club

「砥鹿神社」末社等 - べにーのGinger Booker Club

 

↑「砥鹿神社」の由緒でも触れられています。
「砥鹿神社」ももうちょっと掘り下げてみないと、ですね。

 

「そもそも開山利修仙人は、もと山城国二葉里、賀茂間賀都岐麻呂の子なり。『欽明天皇紀』三十一年庚寅[五七〇]四月七日に誕し、利修童子と号く。成長の後、忽然としてこの山嶺に来たり、夢中に五台山の長秋仙人に謁し、千歳の寿を授かるがゆえに、その峰を千寿峰と号す。その後万寿を保ちけるより、万寿坂というところ今にあり。
陽成帝元慶二年(八七八)、利修仙人三百九歳のとき、勝岳の深窟に入定し、当来(略)慈氏[弥勒菩薩]の出世を俟つといえり。巌窟に池水あり。今に時々振鈴の音幽に聞こゆるという。これ武陵の人桃花源に遊ぶに似たり(略)。
まず江府の輩ここに詣するは、多く秋葉山より登りて、山路八里を歴てここに至る。京師より詣するには、御油の駅の端より入りて当山門前まで八里余なり。(略)
それより橋をわたり、楼門に入りて、石階を登ることすべて九町なり。一町ごとに石標あり。左右には老杉蓊鬱として、旭の出づること遅々たり。階段の両側には、僧房連なりて、天台、真言の二流あり。一念三千の諸法を顕し、胎金両部の羯磨会[羯磨会は本来金剛界曼荼羅の中央会を指すが、ここでは曼荼羅一般を指すのであろう]を具し、次第に登れば、宝閣、金塔、神窟、仏壟、玲瓏として壮観たり。真に王維が仏を好みし山水絶勝たる清涼寺に比して、参州に名を得たる第一の名刹なるべし。」

 

「利修仙人」の素性と、参詣の様子ですね。
今は駐車場で、「東照宮」の手前まですいーっと行けてしまいますが、当然往時のように、楼門から石段を登ってくることも可能です。
健脚のかたは試して見ましょう(私はなよなよ脚なので……)。

 

他の文献を探っていたら、

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾三郷土史料叢書. 第5編

 

↑『尾三郷土史料叢書』の第5編収録の『参河國名所図絵』というのがありましたので、こちらからも。
『名所図会』シリーズではなく『名所図絵』なのです(どうも江戸末期、『東海道名所図会』の後、1840年代に刊行されたようです)。
234コマです。

 

「煙巖山勝岳院鳳来寺
門谷村に在 寺領千三百五十石 顕密両宗無本寺 天台学頭松高院 真言学頭医王院 又天台方実泉院等覚院増進院岩本院般若院不動院 真言方藤本院日輪院一乗院法華院月蔵院円琳院 又天台方承仕吉祥坊杉本坊 同真言方尊教坊中谷坊茶屋坊 天台方円竜坊円蔵坊 同真言方善知坊
本尊 薬師如来長一尺八寸 利修仙人一刀三礼作 世に峯の薬師と称す 太田白雪の反古探に云 世俗当薬師を指て峯の薬師と云是は織田信長の侍女に小野於通と云るあり其女当國碧海郡矢作長者浄瑠璃姫の事を十二段に作りて唱ふ其文章に当薬師の事を峯の薬師といふこれより世に峰の薬師と称す」

 

「小野於通」という人は、

 

◯こちら===>>>

小野お通 - Wikipedia

 

とりあえず、ウィキペディアをご参照ください。
「お通」と聞くと……あれ、「宮本武蔵」を思い出すのはなぜだろう……。


「当寺の濫觴を尋るに 先代旧事本紀に云 人皇卅四代推古天皇の御宇 当国の国司奏し来りて曰参河国桐生山に桐樹あり 伝聞神代の樹なりと 其長さ四十九丈■三十九尋ありて枯枝半を過其中に虚洞あり恰も大室の如し龍其上に棲みて時々雲霧を発し且大雨を降す 其西枝三十尋異鳥此枝に棲て其長八咫余尾長一丈余全身五色金翠にして紅紫の光あり 一尾三茎十二の濃淡を成 人未だ其名を知ず 一日偶三尾を落す 此故に是を献ずと 又言ふ 其洞中一仏像あり金石にあらず亦土木にあらず手指宝壺を成 金光ありと云々 太子是を聞給ひて乃奏て曰此鳳尾なり此鳥丹穴に在 地国則希に此鳥あり 文徳を好む 今此に来れるもの蓋し 陛下神皇の紀を開き儒仏の経を弘るなり 亦彼仏像は是薬師瑠璃光如来にして国家を守護する仏尊なり 然して後代竜去て乃寺となる ここに鳳凰来儀せし所以をもて勅許を被り即寺号を鳳来寺と称しけるとぞ 亦斉明天皇の御代 利修仙人百済国に渡り鳳に乗じて還り来るとなん 亦文武天皇の御代彼の仙人鳳に乗じて参内す故に鳳来寺の号を賜ふとも伝へり 三設未だ其是なるを知らず 然して此の当山名有の元始にして其霊場たる久し されば我朝薬師如来の出現は当山其権輿たること掩ふべからす 此に謹んで惟は夫薬師如来は東方浄瑠璃界の教主にして国家安穏衆病悉除の願主なり 此故に薬師本願功徳経に曰 及彼如来本願力故令其圀即得安穏と 又曰我之名号一経其耳衆病悉除身心安楽と 誠に国界安穏ならずんば誰人か其楽を請ん 衆病相済ずんば孰か其寿命を保ん 此秋に当りては偏に此尊の大悲を仰て願望を成就すべき者なり かかる所以有に依て利修仙人山に分入 推古天皇の御宇国家安全衆病悉除の為当山に七本福の内一本を伐て薬師(今の本尊)日光月光十二神将四天王の尊像を一刀三礼に彫刻して岩上に安置せり 其後文武天皇御悩あらせ給ふにより草鹿砥公宣卿を勅使として仙人を召給ふ 仙人再三辞退あれども勅命遁れ難く参内ありて加持を奉りければ御悩は頓に平安ならせ給ふ(可敬云山崎氏の博物釜にも(三十八丁)鳳来寺三河国開山利修仙人文武帝御不豫の時加持して癒)其時天皇仙人の意願を勅問有けるに 某は苔の莚岩を枕にて事足侍ぬ 唯願くは国家安全衆病悉除の為伽藍を立尊像を安置せん事 是元よりの大願なりと奏し奉りければ 御感の余り即勅許ありて大宝三年卯造営事終りぬ 其後鳳来寺の額を賜ふ(可敬云大宝三年より年歴凡七百七十余年を経て後円融天皇の御代に此額を賜ひしなり) 光明皇后の御筆にて今楼門の額是なり 尓来後本尊の威光も倍増して参詣の貴賎日を逐年を経て利益を蒙るもの枚挙に竭べからず 実に尊き霊場になん委くは当山縁起に見へたり」

 

内容は『東海道名所図会』と変わりませんが、そりゃ同じ寺伝を参照しているので同じでしょうね。

 

「敬雄按に此縁起に引る先代旧事本紀は一名旧事大成経とも称て其文は第三十七之巻 推古天皇十年閏十月の条同卅三巻に見えたり 全文引てほしけれども老年に堪ず然とも彼書は美濃国黒滝の潮音僧と志摩国伊雑社人と相計りて偽撰せしにて正部卅八巻副部卅四巻合七十二巻ありて見本は河内国泡輪宮より出たる由にて世に流布せしを天和元年偽書なる事顕はれて両人とも流罪になれり 其書に矢作橋の板も焼捨てられたり掛橋始の本をものせたれど如何あらん 彼の寺に古昔より云伝へし説は有へけれども彼書を引ては偽説なるべし」

 

おっと、面白い記述が。
先代旧事本紀』は、物部氏系の歴史書として知られていますが、その成立にはいくつかの疑問があり、史料としてどのように取り扱うべきかは議論があるようです(偽書といってしまえば、まあ偽書でしょう)。
日本書紀』『古事記』にない記述もあるので、妄想家としては参考にさせていただいております。
で、「鳳来寺」の由来は、『先代旧事本紀』に見られる、としているのですが、刊行されている『先代旧事本紀』にはそういった記述はありません。
そこで『美濃國名所図絵』の著作者は、これは『先代旧事本紀』ではなく、先代旧事本紀大成経のことだろうと書いています。

 

 

日本の偽書 (文春新書)

日本の偽書 (文春新書)

 

 

↑こちら『日本の偽書』より、従来の説明として、

 

「延宝七年(一六七九)上州館林城下の万徳山広済寺の住職であった黄檗宗の傑僧潮音道海が、『旧事紀』一〇巻は抄本であり、『大成経』こそ聖徳太子真撰の国史であると喧伝し、江戸室町の書肆・戸嶋屋惣兵衛より板行した結果、流布したもの。
潮音道海が主となり、伊勢神宮の内宮七社の別宮の一つである志摩国伊雑宮の祠官永野采女と共謀して、伊勢神宮の本宮は伊雑宮であり、内宮・外宮はそれぞれ星の神、月の神を祀るに過ぎないとする前代未聞の伊勢三宮説を記したことが、伊勢の内外両宮の神官の忌諱にふれた。
そのため、天和三年(一六八三)、伊勢内外両宮の神官の再三の訴えをうけ、遂に幕府が板木の破却、板本の回収、板行に携わった潮音道海らの配流を決定した事件で著名な偽書。潮音道海は、五代将軍徳川綱吉の生母桂昌院が深く帰依したことから、流罪といってもさほどの咎めもなく、上州の山村の黒滝山不動寺の住職に移されただけであった。」(p152)

 

と書かれています。
この説明に対する異論が上記書には書かれていますが、近代の偽書であることはほぼ立証されています(幕府に禁書扱いされている、というのが、当時どれほど影響力を持ったかがうかがえると思います……詳細は『日本の偽書』を読んでくださいね)。
ということは、それを元にした寺伝もまた、近代に作られたものと考えざるを得ないのですが……何しろ私は『先代旧事本紀大成経』は読んでいないので、何とも言えません。
ただただ、なかなか面白い話だな、としか。
以下、ところどころ略しながら。


「(略)
神輿殿 坂口右の方に在
神楽殿 道より左の方に在
名号題目石 楼門の傍道より左の方に在慶安四年篠原氏某岩の面に弥陀の名号と法花題目とを鐫し 世に弘法大師の筆なりといふ
役行者 楼門の傍右の方窟の中にさす
不動明王 楼門の前なり岩の上にさす
牛巖 楼門の下溝の中に在 其形牛に似り故に名く又セバ石ともいふとぞ
橋 楼門の前に架す
芭蕉翁碑 道より右の方に在 「木からしの岩ふきとかる杉間かな」といふ名吟を碑面に彫刻せり
楼門 南に向ふ坂口より此辺までは石階なだらか■此より上りは石階直立して登るに辛苦す 門の左右に仁王を安ず
同額 光明皇后の御染筆にして集古十種扁額の部に撰び入給ふ 縮図下に出す 縁起に云光明皇后御誕生は当山に厚き御由緒有といへども事繁■れば除くと見えたり
(略……僧房の紹介がされています※ブログ筆者)
鑑堂 本堂西の方護摩堂の傍に在 薬師の東方火円鏡をもて諸人の願により鏡に万象を模し利益を施し給ふ誓願在故薬師尊へ鏡を奉り諸願を祈なり 是当山鏡堂のある由縁なりと縁起に見へたり可敬云鏡堂の正面に見ゆる方形の大鏡は当国宝飯郡豊川村に住せし水野八十郎所持の鏡なりしとぞ 水野氏常に髪剃るには必ず此大鏡を前に居て夫に向ふて座し若あやまちて髪結ふ人粗忽あるときは即座に手討にせしと口碑に存せり三河雀にいふ此人悪人にして下人の為に弑せられしと見へたり銘文にては左に非ず」

 

東海道名所図会』にも、鏡堂のことが掲載されていました。
「東方火円鏡」とか、はっきり言って、何のことかよくわからないので、

 

 

密教辞典

密教辞典

 

 

↑『密教辞典』を参照してみます。

 

薬師如来
(略)
東方浄土の浄瑠璃(瑠璃光)世界に住して衆生の現世利益を司る仏で、阿弥陀仏西方浄土が来世の世界であるのと対照的な信仰を持つ。釈迦が毘舎離国の会座で、東方遥かな世界の教主薬師如来が修行中に十二の大願を立てて成仏の後、一切衆生を利益することを誓われ、その結果浄瑠璃世界にあって利益を垂れている旨明らかにされた。(略)身心と物質的な苦悩を除く為、その信仰はインドから西域・中国・日本へと盛行した。わが国でも、持統天皇の病気平癒に発願された薬師寺を始め、主要寺院の本尊として造像された。また重病で死相の現われた時でも、昼夜六時に礼拝供養し、49遍この経を読誦し、49燈を点じて四十九天の五色の彩幡を作れば意識を回復するという続命法や、変死の九横死も薬師信仰で逃れるという徹底した現世利益が普及し、奈良・平安を通じて遺作の最も多いのが薬師如来である。また金胎両部の曼荼羅に記載されないため種々の説がある。(1)阿閦如来と同体。東方に関連して阿閦仏と同体というが確かな本拠はない。(以下略)」

 

うーん……とにかく、世間的に人気のあった「薬師如来」で、それがインド〜日本にも伝わったけれども、密教的にはよくわからない、という感じでしょうか。
確かに、普通「五智如来」というときには「薬師如来」は入っていませんからね。
で、同じく『密教辞典』の「五智」の項目を見てみると、

 

「(2)大円鏡智(金剛智、(略)):第八阿頼耶識の転じて生じた円明無垢の智で、万象を映す鏡に喩え、東方阿閦如来菩提心の堅固を金剛と名付ける。」

 

とあります。
密教的な五分類の中に「五智」とか「五大」とかいろいろあるのですが、このうち「五方位」で「東方」に対応する「五仏」は「阿閦如来」、「五智」が「大円鏡智」、「五大」が「火大」、となっているらしいので、「阿閦如来」と「薬師如来」の同体説から「鏡」の信仰が出てきたのではないでしょうか。

 

 

 


いえ、よく知りませんけど。

 

「本堂 当領八百石当山の頂に南面に向ふ 反古探に云古代は坊中当山の麓東南の方引地村と謂処に有し之今猶坊舎礎の跡三十余ヶ所残れり中には坊舎の名号も存すとなん其後今の山上へ引移せし故当村を引地村と称すとぞ
新著聞集(十八ノ三丁)云三州設楽郡煙巖山鳳来寺の開山を利修仙人と申て常に鬼神を衆し仕へるとかや ある時仙人鬼に告げ給はく我往て後汝かくてあらんには人々おそれて此山に詣もおのつからやみなん疾く我に先たちて成仏せよと懇にすすめさせ則手つから鬼の首を切りて葬りたまひしとや さればむかしの伽藍は元和六年に回祿せしを仮堂にて年経たりし慶安二年に武江より御建立ありし惣奉行には太田備中殿副司には江原与右エ門との甲斐庄喜右エ門とのおのおの越たまひて扨伽藍の地形をつきいとなみけるにゆゆしき石の函をほり出したり 按て見ればさしわたし一尺ばかりの髑髏にてありし皆人おどろきあやしみけるにこれなん縁起にしるす処の鬼の首にておはしきとくはしく語りしかは本の如くに埋めおきし(反古探に云慶安年中御造営の砌鬼頭三つ有る内一つは損す二つは無事之新城にも其比見たるもの近き■まて生延て居り其物語を聞くに人間の頭より少大きく其厚き事一寸余り有りしとぞ其後石の櫃に入れて元の如く本堂内陣の下に納むと見えたり
(略……神明祠、弁財天祠、鎮守三社権現、八幡宮 三神社などの紹介※ブログ筆者)」

 

↑「鬼」の数にはいろいろな説があるようです。

 

「開山堂 本堂後の方に在 飛騨匠が作れる所なりと云り 飛騨匠といふは一人の名にはあらず 往昔匠は飛騨の国より出しと見へたり 抑も開山利修仙人は山城国端正郡二葉里高賀茂の老翁高賀介都岐麿の子なり 発め母瑞夢を感じ令人きたりて口に入と見て則孕めり欽明天皇の御宇庚寅歳四月七日午の刻に誕生あり 利修童子と名く 漸く成長の後忽然として当山の一の峯に来れり 夢中に五台山の長釈仙人来り千年の寿を授けける為に其峯を千寿峰と号す其後万寿を授けたる事ありて万寿坂をいふ所も有 人皇五十七代陽成天皇の御宇元慶二戊戌歳三百九才の時勝岳の深窟に入定し当来慈氏の下生を待といへり 深窟に地水ありて■人の至る所にあらず 今に時として振鈴の音あり山人等聞■ありとす云々と縁起に見へたり
(略)
六本椙 同し道の左の方に在元は七本椙なりしを或■天童天降て此の霊木を礼す其文に曰椙木薬師医王薬師仏一歩一見諸群生現世安穏得長寿後生無量寿仏国と利修仙人これを聞て此七本椙に定て是七仏薬師之と欣喜し即其一本を代て尊像を彫刻せり故に今は六本椙といふと縁起に見へたり
(略……高野明神、弘法堂、元三大師堂などの紹介※ブログ筆者)」

 

↑六本杉についても、もうちょっと詳しく書かれていました。

 

東照宮 本堂より東北に在 御神領八百石御別当三台学頭松高院御例祭四月十七日一山の衆徒神前にて例祭を勤む其式厳重なり 当山縁起に云 殊にかけまくも賢き神の垂迹まことに恐れある事なれども東照大神君御誕生の霊顕を尋ね奉るに御慈父贈大納言広忠公若君の無き事を歎かせ給ひ北の御方ともとも当山の薬師へ御参籠御若君御誕生の御祈有りければ一と夜不思議の霊夢を蒙り給ひ北の御方御身もただならずおぼしめされ正しき卜筮の者へ尋ねさせ給ふに宿植徳本の御男子十月あまり二ヶ月にして御誕生あるべし是十二神擁護なりと考へ申上けるとなん誠に卜筮のおもて掌をさすがごとく十二ヶ月にあたり天文十一壬寅年十二月廿六日に御誕生ならせ給ひ其御容貌世のつねならずして人皆敬伏すと されはこそ後に一天四海を掌の内に治め給ひ終に東照宮権現とあらはれ給ひ餘光万世を照し給ふ 御誕生の折しも当山十二神の内寅の神見へたまはず御他界の後寅の神あらはれ給ふとなん 委しくは斯に記すも恐れあれは略しぬ 御誕生の不思議の霊験は日光山御宮の御縁起にも記させ給ふとかや かくて大猷院様御世にいたり当山御宮薬師堂其他諸堂社■御造営残るところなく美を尽し給ひ則数多の僧侶(山門十人東叡山五人当国台宗寺院)を召し集させられ御尊師日光御門主御名代を以神社仏閣安鎮御供養の御規式おこそかに執行はせ給へり誠に本地垂跡の御威力日を積年をかさねて輝き給へり 
かかる不思議の御威力誰人か信ぜざらん何人か仰ぎざらんや猶驚くことは筆に尽くしがたけれはあらあらここに又反古探に曰慶安元戊子年将軍家光公日光山御社参兼而被仰付東照宮御縁起出来於日光山初て上覧御申子の事前に出す阿部豊後守忠秋を召て鳳来寺東照宮御建立被仰出向同年御見分太田備中守杉浦内義助殿畧之御手伝の諸侯当国吉田の城主小笠原壹州侯西尾城主井伊侯遠州横須賀城主本多越前侯なり
(略……赤山明神、毘沙門堂、行者帰、慈悲心鳥、仏法僧鳥、などの紹介※ブログ筆者)」

 

最後は「東照宮」。

神社でいただいたパンフレットの由緒には、

 

「(略)東照(家康公)大権現のお父君(広忠卿)が、子どものないことを嘆いて、お母君(北の方伝通院)とご一緒に鳳来寺峯薬師へ御参籠されご祈願をなされたら、その証があって、それから間もなく北の方伝通院殿が身ごもられ、十二か月過ぎ、文十一壬寅年(一五四二)十二月二十六日にご出産遊ばされたのが東照大権現でした。
これは、「真達羅大将(寅童子)」が生まれ変わってこの世に現れ、武徳を天下に広く知れわたらせて、数百年の兵乱をお鎮めになり、世の中が極めて平和に過ごせる基礎を開かれたのでした。(以下略)」

 

ということで、「十二神将」中「寅」の守護神真達羅大将の生まれ変わりだと考えられていたわけですね、「徳川家康」(なお、「十二神将」と「十二支」の対応関係は、経軌によって異なるそうですので、「本当は「迷企羅大将」じゃないのか!」とか私に怒らないでくださいね)。
「寅」と「徳川家康」……「日光東照宮」に関する何かがあったような気がしたのですが……完全に忘れていますね。

それほど妄想もできなかった(字数は多いですが、ほぼ引用です)今回ですが、最後に、

 

日本の霊山読み解き事典

日本の霊山読み解き事典

 

 

↑こちらから。

 

鳳来寺山
(略)
三河にあり、山頂付近は原生林、中腹に薬師如来を本尊とする鳳来寺がある。山内は巨石が露出し信仰対象となり、鏡岩下には経塚・納骨信仰の遺跡も見つかっている。開山時期は諸説あるが、利修仙人が大宝二年(七〇二)あるいは三年に開山したとするものが多い。仙人が鳳凰に乗って参内したことから、鳳来寺の寺号を勅許されたとする。
鳳来寺は中世以降、天台方と真言方に属する多数の僧房がひしめく一山寺院となる。江戸時代には幕府の庇護を受けて、将軍徳川家光の慶安四年(一六五一)に境内へ東照宮が勧請され、千三百五十石の寺領を抱えた。
秋葉山とともにこの地方で多くの信仰を集めたが、明治の神仏分離鳳来寺東照宮が切り離されたことで鳳来寺は衰微する。明治三十九年(一九〇六)以降は真言宗に統一され、現在に至る。」

 

……巨石信仰があった、ということは、仏教伝来以前から何らかの信仰が行われていた可能性があり、その信仰者の末裔が「利修仙人」に味方した「鬼」なのかもしれません。
初期の山伏というのは、山を開くために、元々の住民の力を借りざるを得なかったと思われます。
そうして接触するうちに、仏教的なものが浸透して古来の信仰を捨てるのか、あるいは近代的な(当時として)文物に触れることで教化されるのか、独自の信仰を貫こうとして「鬼」にされてしまうのか……。
いずれでもあり、いずれでもない、という感じがします。

 

 

 

ああ長かった……デジタル文献は便利なのですが、引用がしんどいです……。
それでは今回はこのあたりで〜。