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神社仏閣ラブ(弛め)

「星宮社」(補)

さて。

 

まずは、

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名古屋市:星宮社(ほしのみやしゃ)(南区)


名古屋市南区の史跡散策路HPより。

 

「星宮社
創始は舒明(じょめい)天皇(629年から641年)のころで、星崎城築城のときにこの地に移されたと言われています。かつては星崎の岬の最南端に位置し、里人のともす常夜燈が灯台の役目を果たしたと伝えられています。

 境内社のうち、上・下知我麻(ちかま)神社は宮簀媛命(みやずひめのみこと)の父・母を祭神とし、現在熱田神宮内に祀られている両社もかつてはここに祀られていたと言われています。

 また、ここでは伊奈突智老翁(いなづちのおじ)が祀られています。縁起によると、この地に塩づくりを教えた人であるとのことです。」

 

なるほど、「舒明天皇」ですか……それはまたかなりの古社ですね。
では、いつもの通り、

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑『尾張名所図会』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
313コマです。

 

「星大明神社
星崎庄本地村にあり。天津甕星神を祭れり。或は香香背男神といへるも同神なるべし。承平年中平将門誅戮御祈の為に、熱田の神輿を此地に振出し奉りしに、忽ち七里光をたれ、池中に輝きしかば、其池を七面池と號し、御手洗池とせしよしいひ伝へなり。
星崎の神籬にて
尊くも 時雨にぬれし 榎かな  大阜」

 

そうですね、星の神様といったら、「天津甕星」か「香香背男神」かどちらか、になるのでしょう日本神話的には。
どちらも退治されていますけれども……だから「平将門」誅戮に神威を発揮されたのでしょうか。
続く記事が、

 

「伊奈突智翁社
同村にあり。当村地主神なり。伊奈突智翁は此村に鹽をやきそめし人なり。」

 

というわけで、史跡散策路HPの紹介では合わせて祀られている「伊奈突智翁」が、元々は別の社だったことがわかります。
312コマに図絵があるのですが、ほぼ現在と変わらない様相です。
「本社」の他に、「神明」「コンヒラ」「イナリ」「アキハ」とあり、さらには謎の「レイ社」も江戸末期にはあったらしいことがわかります。
その一段上、現代では両「知我麻神社」になっているところに、「イナツチヲキナノ社」とあり、ここが「伊奈突智翁」を祀っていたようです。
ということは、両「知我麻神社」はどうなっているのか……図絵には小祠が二つ並んでいるのです、今と同じように。
むん。

ところで、続きの記事には、「神輿塚」「星崎古城」とあり、そして、

 

「名産前濱鹽
同所の海濱にて製する所にして、尤も上品なり。鹽竈の大造なる、及び風景の佳なるも、図を見てしるべし。」

 

とあります。
314コマは、この製塩の様子を描いた図絵になっています。
今では面影もありませんが、当時は壮観な塩田だったようです。

 

続いて、

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 5 愛知郡

 

尾張志』の「5 愛知郡」より(9コマ)。

 

「星宮社
本地村にあり 天津甕星神を祭るよし府志に見ゆ 社説に舒明天皇九年七星天降けるに神託ありて往古千?の郷なる此處に初めて社を建て斎祭れりといへり こはあやしけに聞ゆる説なれども此舒明天皇の九年にかけていへるは伝混たるならむとおもはるる故あり下にいふべし まづ星と祭る事は上古の御代には決てなかりつれと 漢風をよろつに交へ用ひらるる御代となりてより以来は北辰の祭なといふ事もやや古くよりいできて 妙見なといふ神号さへものに見ゆる様になれれは 舒明天皇の大御代頃にこそあらざらめ やや古き年頃より祭初たる星社なるべし 又此星社あるによりておこれる星崎の地名ならむには星崎とよめる歌の堀河天皇初度の百首に見えたるにても 其時代は大概おしはからるる也」

 

適宜スペースを入れています。
社伝によれば、「舒明天皇」の頃に、このあたりに星が七つ降ってきたので、社を建ててこれを祀った、ということのようですが、それは怪しいだろうと。
ただ、地名を「星崎」というのは「堀河天皇」の頃にはすでに歌に歌われており、大陸伝来の北辰信仰や妙見信仰が古来の信仰と混ざり合うよりも前からの呼称だったのではないか、というところでしょうか。
ふむふむ。
続いて、

 

「上知我麻社
星宮の同地星のやしろの北の方にあり乎止與命を祭る」

 

という記事です。
なるほど、『尾張志』の書かれた頃には、「星宮社」の北にある社は「上知我麻社」で「乎止與命」(「宮簀媛命」の父)だと考えられていた、と。
尾張志』の書かれたのは、『尾張名所図会』とほとんど同じ時期です。

 

「下知我麻社
同所にあり 伊奈突智老翁真敷刀咩命を祭るよし社説にいへり 扨この上知我麻下知我麻といふ二社は星の宮より以前にここに鎮座したまへる地主神にて伊奈突智老翁は此處にてはしめて鹽竈を作り海潮を焼て塩つくる事を教へたる人を稱たる神名也といへり こはかの神代紀に見えたる塩土老翁なるへきを此處に伊奈突智といへるはいかなるにかあらむ この神号はいと古體の稱名にて中世以後の唱とは聞えす 又此上下知我麻の二社の号は延喜神名式に載て今は熱田なる源太夫神紀太夫神といふ社なるよしに熱田社の鎮座本紀に見えたるによりて然おもへるを今よく考ふれは此社そ舊地の本所なるへし」 

 

「下知我麻社」には、「宮簀媛命」の母である「真敷刀咩命」と、「伊奈突智老翁」が祀られている、と。
この人は、このあたりに製塩を伝授した人で、本当は「塩土老翁(しおつちのおじ)」と伝えられてしかるべきなのに、なぜだか「伊奈突智」になっている、と。
この「イナツチ」というのは中世以後のものとは思えないので、古い伝承の可能性がある。
それから、「熱田神宮摂社の両「知我麻神社」(「源太夫社」「紀太夫社」)については、こちらが本所だろう、と。
むむむ……塩と翁、が出てくれば、たいていの人は「塩土老翁」を想起するかと思います。
塩土老翁」というのは、『日本書紀』では神代段、天孫降臨の部分で登場します。

 

 

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

 

 

「時に彼処に一の神有り、名を事勝国勝長狭と曰ふ。故、天孫、其の神に問ひて曰はく、「国在りや」とのたまふ。対へて曰さく、「在り」とまうる。因りて曰さく、「勅の隨に奉らむ」とまうす。故、天孫、彼処に留住りたまふ。其の事勝国勝神は、是伊弉諾尊の子なり。亦の名は塩土老翁。」(岩波文庫日本書紀1』p148)

 

また、いわゆる海幸山幸神話の部分でも、兄の釣り針をなくした「彦火火出見尊」に、取り戻すすべを伝えていますし、神武天皇即位前段でも、「神武天皇」に対して「東方に良い地があります」と伝えています。
岩波文庫日本書紀1』の註では、

 

「(略)つまり、よい場所のあることを教える役割を持つ。そしてそこへ行く海の交通を支配している。(略)シホは潮。ツは助詞ノにあたる。チはイカヅチ・ヲロチなどのチ。潮の霊の意であろう。椎・土はツチと訓むのが普通であるが、筒はツツとだけ訓むのが普通。ツツは、粒の意から火花・星粒の意を表わす(イハツツノヲ・ウハツツノヲ・ナカツツノヲなどの例がある)から、シホツツと訓めば、潮と星の神ということになる。これも航海に関係が深いから、或いは、古くはシホツツであったのかもしれない。椎も土もツツとも訓める。しかし、シホツチ即ち潮ツ霊(チ)がもとでシホツツへと転化したとも考えうる。海路の神が老翁として登場するのは、そうした豊富な知識と経験とを持つ者としては、老翁に及ぶものが無かったからであろう。(略)」(p151)

 

とあります。
海の神としては、「住吉三神」や「宗像三女神」のような三柱一組となっていることがありますが、忘れられがちな海の神として「素盞嗚尊」がいらっしゃいます。
また、「猿田彦神」も、直接は海の神とは言い難いものがありますが、海の属性があり、嚮導の神として「塩土老翁」との共通点も見えます。
伊弉諾尊」の御子神とされていながら、天孫降臨までは登場せず、それでいて土着の神であることがうかがえますので、この辺りも「猿田彦神」との共通点でしょうか。
そんな「塩土老翁」ですが、決して製塩の神とは書かれておらず。
おそらく名前からの連想なのでしょうね……しかし、「星宮社」では「伊奈突智老翁」で、別の神格のようにも思われます。
さて……「シホ」が「イナ」に転ずる、というのはなかなか考えづらいですので、「イナ」は「稲」なのかもしれないですね。
一層製塩とは関係ありません。
原型が「塩土老翁」っぽいのは確かだ、という辺りでやめておきましょうか。
ところで、この「塩土老翁」が、海に出る妖怪の「海坊主」とか「海座頭」とかの原型になっているのではないか、と個人的に思っています。


この続きに、もう少し細かい考証の記事があります。

 

「そのよしは和名抄愛智郡の郷名に 中村 千?今千?を電に誤るる神名式に知我麻とある是也 日部 大毛 物部 厚田 作良 成海 神戸とある中に千?といふは本地村をはじめにて戸部山崎笠寺南野牛毛荒井七村を総いふ郷名也 されは此七村の内に上下と二所にわかれて上知我麻社下知我麻社の坐地往古はありしなるへし 上知我麻社は乎止與命を祭り下知我麻社は乎止與命の御妻尾張真敷刀咩命を祭れれは 熱田神宮につきてはなみなみならぬ故縁ある御社ゆゑ上古は彼大宮に属居給へる摂社の列にもやありけむ されはこそ承平年中将門追伐の御祈祷すとて熱田神輿を此處に出まさせ奉りけるならめ さて此いくはくも年を経ずして今の如く二社ともに熱田なる市場と籏屋に遷座し奉れるならむ かかる遷座の次第のまぎれによりて上下の坐地もなべての例にたがひて上に坐を下知我麻下に坐を上知我麻といふ様になれるならむか 又此處の二社は東の方に坐を上知我麻といひて縦三尺横三尺五寸の社西方に坐を下知我麻といひて縦二尺七寸横三尺三寸社にてともに南面に坐り さて遷座し給へる舊址に猶いささけき社なからも古代の社号をたがへす建祭れる御社なるへし 遷して祭奉れる熱田ゆゑにか知我麻といふ社号はふるくより聞ゑす源太夫神紀太夫神といふ名のみやや古くよりものにも見ゑて世に名高く伝はれるにここにはかの神名式のままなる古社号の今に存れるはさすがに千?といふ舊地知我麻神社の本所の遺址なる明燈ともいふへくめてたき社号なり また星社の鎮座を舒明天皇九年のよし社説にいへるは此知我麻社の事ならむを彼此混合せしなるへし 知我麻二社は星の社なかりし已前当處に鎮座したまひて地主神と往古よりいひ伝へたるよしも社説にいへり此説を熱田の源太夫神に受■市場の地主神のよしいひ伝へたり かくて上にいへることく千?といふは此本地村を本基にて此星崎七村の総名 知我麻は和名抄に千?とかける文字の意にてこの星崎海浜むかしより鹽竈の多くありし故の名なるへし なるをむかしよりあきらめ知れる人もなかりつとおほしく千?といふ郷名の在所及熱田地の其中に知我麻神社のまします不審をも先達も心つかでありしを おのれはやくより是いぶかしみ思ふ事切なりしに此編集の事に関りあまねく村里を見巡りありきて其地に至り聞 ただし見明らめ得たるおもふきをいささか臆説を交へてくたくたしく書つつけつ (中尾義稲考)」

 

むーん。

 

「知我麻は和名抄に千?とかける文字の意にてこの星崎海浜むかしより鹽竈の多くありし故の名なるへし」

 

↑「たくさん鹽竈があった=千?」というのが、単純ですが妥当っぽいです。
で、古代の尾張氏の勢力圏だったのは間違いないので、「宮簀媛命」の父母が地主神として祀られており、同時に製塩も司っていた、と(製塩の歴史まで調べていないので、いつから始まったのかといったツッコミはできませぬ……)。
あるいは、尾張氏の祖先に製塩を思いついた人がいて、その人を氏神として祀っていて、そこに「乎止與命」と「真敷刀咩命」を合わせ祀ったのか。
うーん……。

 

摂社神明社(天王相殿) 霊社 稲荷社(秋葉相殿) 金毘羅社 社宮司社 星宮別所(大道堤といふ處にあり) あり 社人を村上但馬と云」

 

↑やっぱり「霊社」はありますね……御嶽講の社でしょうか。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 張州府志. 第2

 

↑『尾張志』の元になった『張州府志』では(第二巻、36コマ)、「平将門」討伐の際のエピソード(「熱田神宮」の神輿を写したら七星が降った)に続いて、

 

「按事物記原曰。漢有天下。高祖制詔御史。令天下立霊星祠。蓋祈穀也。杜氏通典曰。周制。仲秋祭霊星於国之東南。則非漢始祀之。私曰。当祠為国之東南。適符合周制者乎。」

 

とあります。
「ものの本によれば、大陸を漢が支配していたとき、高祖(劉邦)は、穀物の実りを祈るために、「霊星」の祠を立てさせたそうだが、周(古代中国で理想とされた)の制度では仲秋の頃に、国の東南で「霊星」を祭るとなっているので、漢が始めたわけじゃないのよ、で私は、星宮はこの国(尾張)の東南にあって、周の制度に一致すると思うんですよね」といった意味でしょうか。
うん……考えすぎかも……。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張国地名考

 

↑『尾張国地名考』も見ておきましょうか(58コマ)。

 

「本地村(略)
星崎本地と呼わかつ本字は字音にして後世の俗称なり 星崎の名は中古の末円融花山両帝の年間より呼ならんと思ふことあり さて星崎の地を千?の郷とおもふは過失なり 和名抄延喜式等にのする千?は御器所村より南へ高田大喜井戸田戸部松本笠寺までにて星崎本地は少にかかれり さるほどに後世室町の頃より御器所辺の塩釜は絶果て笠寺本地の外牛尾新井南野の村々出来てより専ら塩を焼出せしによりて地勢おのづから千釜を成ぬ 此故に世俗は星崎四ケ村を千?と思へど否ず 是は古今の変格なり 【長尾山東海寺之古記云】上千?の神社はいにしへは他所にありその社焼失てより今の文殊堂に合せ祀るとみへたり(略)
星の宮
【社説曰】古へ天津甕星此地の崎に影向す 此故に星崎と号く 【里老曰】星石といふあり 七八寸許の丸き石也 社壇の中に納むといふ 【正生考】星の宮は桜笠寺より連綿たる平山の出崎に社頭あり 是より南は往昔は入海なり さて本社のうしろ小高き所に小祠二双てあり社司に問へば上下の千?明神並稲土翁をも此内に祀るといふ
【考證】地名に星川星合星池星野星田星山のたぐひ佗国におほし是等も或は星の影の水にうつるより呼初或は星落ると見てよりいひ初たる詞也然れども誠は星は落るものにあらずとなん」

 

ええと……とにかく、「実際に、星が落ちた(隕石)」という人がいる一方で、「いやいや、星が落ちたわけではないでしょう」という人もいたようですが、では何故に「星崎」なのか。

 

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名古屋市:喚続(よびつぎ)神社(南区)

 

↑実は、「星宮社」からそれほど離れていない「喚続神社」には、隕石が実際に落下したらしいのです。
ということは、この辺りは「隕石銀座」で、しょっちゅう降ってきたのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

そういうオチはだめですか?
うーん……海が近いということで、「星」が「干し」だったとか(干潮のときの波打ち際)。
航海のために「星」を観察した場所だったとか。

 

 

 

 

 

たぶん、昔からいろいろな人が「なんで星崎なんだろう?」と思ってきて、結論が出てないんでしょうね……。

 

 

 

ま、もやもやしたままで終わるのも一興かと(いつもですが)。