べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「片山神社」(補)

さて。

 

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「片山八幡神社」(補) - べにーのGinger Booker Club

 

↑「片山八幡神社」(補)の記事も合わせてお読みいただければと思います。

「片山神社」か、「片山八幡神社」か、どちらが式内社の「片山神社」なのか。

それはひとまずおいておいて。

 

いろいろと引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
まずは、東区史跡散策路のHPより。


○こちら===>>>

www.city.nagoya.jp


「片山神社は蔵王大権現ともいわれ、和銅2年(709)創建と伝えられています。社叢は鬱蒼とした森で、蔵王の森と呼ばれました。神社の東西の坂は、「坊ヶ坂(男坂)」「尼ヶ坂(女坂)」と呼ばれていました。」


というわけで、「片山神社」はどうやら「蔵王大権現」と呼ばれていた、と。

では、


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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会


尾張名所図会』から「蔵王権現社」の記事を。
132コマです。

 

蔵王権現
長久寺筋の北にあり。[延喜式]に山田郡片山神社、[本国帳]に従三位片山天神とある是なり。末社に富士権現・白山権現等あり。また境内に汐見桜あり。芳野よりうつせし樹なるよし。又社邊に御手洗池・榧清水・銀杏清水・かねつけ清水・ぼうが坂・あまが坂等あり。
社人 森氏。」

 

130コマには図絵があり、なんとなく現在に通ずる配置などが読み取れます。

神木の杉が、この頃はまだ立っていたのだなあ、とか。

汐見桜、に関しては、現在の「片山神社」では発見していませんが。

ともかく、江戸時代末期の一説では、『延喜式』の式内社である「片山神社」は、「蔵王権現社」のことだと。
では、明治大正を経ますとどうなるか。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

ご存知『名古屋市史』より。
173コマです。

 

「片山神社
片山神社は西春日井郡杉村大字杉に在り、境内千八百五十一坪、内千二十四坪は従来の社地、二百四十一坪は明治四十三年二月増加、五百八十六坪は保安林にして、明治四十三年払下を受けたるものなり、寺社志には六段四畝二十八歩とあり、杉村志草稿には総坪数二千八百二十坪七分五厘、往古御改、境内二段四畝歩、松林、前々御除地とあり あり、社の旧構は片山神社文和の棟札 片山蔵王権現応永、文亀、天文、天正等の棟札 蔵王張州府志、尾張にして、又片山天神張州志略 八幡宮寺社志 とも書せるものあり、鎮座の年月詳ならず、尾張名陽図会には天武天皇の御宇となし、今の社伝には和銅二年となす、 応永二十六年四月、文亀三年二月、天文三年十一月、天正七年四月等、修造遷宮あり、文久二年閏八月、拝殿再建の工を起し、元治二年八月上棟、明治七年落成、同年社務所を建つ、明治初年式内に治定して、郷社に列せらる、」

 

というわけで、まずここまで。

大正時代、まだこの辺りは名古屋ではなく西春日井郡だったようです。

で、「片山神社」「片山蔵王権現」「蔵王社」「片山天神」「八幡宮とまあいろいろと呼び方が混乱しています。

「八満宮」なんてあると、「片山八幡神社」とさえ混じっているのではないか、と思えます。

 

延喜式神名帳山田郡の部に、「片山神社(小)」あり、国内神名帳に、「同郡従三位片山天神」あり、参考本国帳に「東杉村蔵王祠是也」とし、尾陽神名帳集説、参考本国神名帳集説に「山田庄東杉村(称蔵王権現) 按春日部郡座片山神社同之歟」とあり、延喜式及び国内神名帳、参考本国神名帳には春日部郡山田郡共に之を記せり、 張州府志は、「社伝云、是延喜式片山神社是也、然伝紀亡失、不可得而考之、姑俟後考」といひ、尾張志にも亦、「この社を本国帳集説に山田郡なる片山神社に充おきたるは、何によるにかその的證しられず、云々、社地のさまはまことに式に見えたる片山ともいふべき形勢ありて、古社ならむかともおぼしき境内也、されど大曽根八幡社も又かの片山神社なるよしいひて、此社地とひとしき形勢ありて、古社なるべき地名の存在せるもあれば、いづれをよしとも決がたし」といひ、尾張国地名考には、「瀧川弘美曰、大曽根八幡の地是なり、社司は慶徳氏といふ、此宮地は往古の山田郡片山天神にして(祭神大伴武日命)、もとは大曽根村の産神なりしに、元禄中瑞龍院公の御時、是は何の神ぞと御尋ありしに、里人しらず候と答ふ、よりて吉見氏へ御尋ありければ、傍題に八幡宮と申上しかば、御造営ありて、大曽根御屋敷(乾方)の守護神に祭り給へり、本地堂の観世音も西の方へ引て、関貞寺といふ禅刹に成、さて村民は八幡御造営の厳重を恐れて、夫より此かた同所天道宮を本居に定むとなり、其後、杉村の蔵王の社人、片山の社号を拾ひて、式内の神社とせるものは、末世の人情憎むべし」といへり。」

 

「この社を本国帳集説に山田郡なる片山神社に充おきたるは、何によるにかその的證しられず、云々、社地のさまはまことに式に見えたる片山ともいふべき形勢ありて、古社ならむかともおぼしき境内也、されど大曽根八幡社も又かの片山神社なるよしいひて、此社地とひとしき形勢ありて、古社なるべき地名の存在せるもあれば、いづれをよしとも決がたし」

 

尾張志』から、↑のように引用しています。

「片山」という名称を考えると(多分、片側が切り立った崖のようになっている山、というような意味合いでしょう)、「片山神社」も「片山八幡神社」も、どちらもそのように名付けられていても不思議ではない、ということでしょうか。

「片山神社」の境内地は、現在でもかなり広いと感じます。

昔はもっと広かったでしょうね。

ですが、それは「蔵王権現」の信仰が流行したから、ということも考えられます。

後半は、『尾張国地名考』からの引用です(「片山八幡神社」(補)のところで、私も引用しています)。

 

「祭神は安閑天皇にして、外一柱は国狭槌尊なるべしといふ。

参考本国帳集説に、「按伊豆国阿米郡加多比咩命神社、日本紀曰、大山祇女神吾田津姫、生火明命、是尾張連等始祖也、云々、片與田言通」と書し、尾張国式社考に、「片山は地名也、云云、此社国之狭土神を祀れるよし、神主森盛之言り、いかにあらむ」といひ、尾張国式社考草稿に、「祠官書上云、祀安閑天皇」といひ、尾張名陽図会に、「天神二代国狭土尊又は瓊瓊杵尊とも云ふ」といへり、金鱗九十九之塵に社伝を引きて、「第一本社国狭槌尊、第二末社木花開耶姫命、第三末社菊理媛命となし、御当社片山大明神と申は、国初第二神を奉崇處也、又神秘に所謂本社は是天津彦火瓊瓊杵尊也、神秘有て国狭槌尊と申、是則大和国三芳野の一宮也、葛城金峯高鴨大明神と同座也、是故に第二左りの末社は富士浅間大明神也、是則木花開耶姫命にして、大山積命の御女、瓊瓊杵尊の神后也、第三右の末社は白山大明神也、是則菊理姫命にして、高皇産霊尊の神妃、瓊瓊杵尊の外祖母神也、俯て惟れば、瓊瓊杵尊は神徳を上国狭槌尊より伝へ給ひて、天照皇大神宮及び高皇産霊尊の御孫、豊葦原中津国の第一主人也、蓋惟に紀伊国に三熊野宮あり、大和国三芳野あり、是神秘也、熊野宮をば国常立尊と申す、神明鎮座の始也、故に吉野宮を国狭槌尊と申す事は其故明らか也、当社と芳野と御同座也と申ものは、高鴨社と御同座なれば也、然れ共当社の御鎮座の事は既に旧記を喪て、其歳月時日を知べからず、今伝ふる所の明證は世人の風語事跡に応ずる所也、往々蔵王宮と号するものと社頭の桜と相応じて、宮司の口受する所の神秘と、嘗て背く所なし、然共当社に不限、三芳野といへ共、中古巳来蔵王と称する者は往々の誤りにして、日本の故実に非ず、方に両部習合の徒、賣佛誑惑の説に沈淪せる處、今更に難言處也、抑蔵王と号する事は、役小角の所爲也、大蔵経王の義を取て、誣て瓊瓊杵尊、高鴨の社を掠て佛説を附会し、虚誕を牽合して巧言令聞せる者也、又考るに、鴨社を平安城に遷奉て、賀茂別雷皇大神宮と崇め給ふ、是を以て惟みるに、役小角、鴨社の神徳を推量て、忿怒威烈の相とし、明王天部の像を彫刻して、蔵王と称する所也、蔵王の三体は釈迦佛、薬師佛、弥勒佛とする事世に明か也、仏法到来する事欽明天皇の御宇を始とす、然れば往古の神明を以て三佛とする事を得べけんや、浮屠氏の空言寓語なる事瞭然たるにあらずや、又云、芳野宮は安閑天皇の神席といふ尤然なり、是又三芳野の一宮也、第一神は国狭槌尊、第二神は瓊瓊杵尊、第三神は勾大江広国押武金日尊、是を三芳野宮と申、然れば当社をも安閑天皇と申べきも故ある哉、又吉野山には桜を以て神木と崇む、天下の名勝なり、当社も又桜を神木と崇て、植伝へて社頭にあり、木花と称するは桜也、是神后、木花開耶姫命の御事に據とすといへり。」

 

さて、御祭神問題ですが。

安閑天皇」については、『古事記』には、都、崩御の年、御陵のほか、後継がいなかったらしいことしか書かれておりません。

 

日本書紀〈3〉 (岩波文庫)

日本書紀〈3〉 (岩波文庫)

 

 

↑『日本書紀』にはいろいろとありますが、尾張国との関係でいきますと、母親の「目子媛(めのこひめ)」が、「尾張連草香」の娘ということになっています。

継体天皇」の妃の一人なのですが、即位する前からの妃だということで、「継体天皇」と尾張国の繋がりを示唆しているのかもしれません。

一方の「国狭槌(くにのさつち)尊」は、

 

 

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

 

 

↑『日本書紀』冒頭、神代紀に登場します。

国常立尊」の次に生まれており、一書では「国狭立(くにのさたち)尊」ともされています。

天地創造に関連していますので、幾分観念的な神なのかなとも思えます。

 

古事記 (岩波文庫)

古事記 (岩波文庫)

 

 

 ↑一方の『古事記』には、天地創造部分には登場せず。

伊邪那岐命」「伊邪那美命」の国生みに続いて、続々と生まれた自然神の中に、「大山津見神」、「野椎神(鹿屋野比賣神)」から生まれた中に、「天之狭土神」「国之狭土神」として登場しています。

国狭槌尊」と「国之狭土神」を、同じ神格とするか、別の神格とするか、いろいろと意見があるようです。

岩波文庫日本書紀(1)』の捕注では、同一の神と考えているようで、

 

「(略)土地、または、泥の神であることは推測できる。サツチのツチは、後世のツチ(土)と同じであろう。サは、サヲトメ(早乙女)・サツキ(五月)・サナヘ(早苗)などのサと同じく、神稲の意であろう(この意味のサの用例はかなり多い。例えばサナダ(稲な田)・サルメ・サルタヒコなどのサがそれである)。従ってサツチの語源は、神稲を植える大切な土の意。(略)」(p316)

 

としています。

名古屋市史』の↑の文章は、そこからいろいろと話を展開しているのですが、今ひとつよくわからず。

では、「蔵王権現」は何者なのか。

もうそれだけで本が何冊も書けるのだと思うのですが、とりあえず、

 

日本の神様読み解き事典

日本の神様読み解き事典

 

 

↑から、

 

「(略)蔵王権現の本源は、一目千本の桜の名所で名高い、大和国吉野郡にある金峯山寺蔵王堂である。

蔵王堂の本尊は、二臂忿怒形の二丈六尺の蔵王権現像で、一名、蔵王菩薩・金剛蔵王菩薩・金峯菩薩・金峯山権現など、さまざまに呼ばれている。

蔵王権現修験道(山伏)の始祖、役小角の勧請する所と伝えられている……(略)……また、『諸社一覧』第五には、「金峰社 同吉野山に有り、祭所蔵王権現と号す(中略)人皇二十八代安閑天皇なり(中略)昔、役行者吉野山に在りし時、神、釈迦の像を現ず。行者云はく、此の形にて衆生を度し難し。次に弥勒の形を現ず。行者尚云はく、未だしと。次に蔵王権現出づ。甚だ怖る可き貌なり。行者云はく、此れ我が邦の能化なり」とある。

また、『塩尻』第十一には、「亦、或書に云、金峰山の神は金剛蔵王菩薩といふ。安閑天皇を祭るという是ならず。諸社考、和爾雅に金峰山の神は少彦名命と記せり」とあるが、その垂迹については以上のように諸説あって定かではない。

(略)

中古、吉野大衆と称して、兵威を奮い、『今昔物語』などに出てくる「吉野金峯の悪僧」の名は高く、朝廷や京都、奈良の大寺を脅かしたものであった。

しかし、南朝後醍醐天皇はこの吉野大衆を頼られて、四面楚歌であった南朝方をよく維持したのである。(以下略)」(p345)

 

……おっとまさか「蔵王権現」のほうが、「安閑天皇」とつながってくるとは思っていませんでした。

ただ、どうして「安閑天皇」と「蔵王権現」がよくわからないんですよね……吉野とつながっているようですので、そっちを調べてみないといけないかな……また奥深いところに……。

ともかく、吉野つながりでの「安閑天皇」「国狭槌尊」「蔵王権現」、のようです(「蔵王権現」が神仏分離で、やむなく「安閑天皇」と「国狭槌尊」に移行した、というほうが自然かもしれないです)。

瓊瓊杵尊」とか出てきますが、もうよくわからないのでほっときます。

「浅間社」「白山社」は、「蔵王」の本源である「金峯山」も山岳信仰の一大地だった、ということから引っ張ってきたのでしょうか。

 

「(略)境内神社には富士浅間社(略)、白山社(略)、秋葉社 祭神は軻遇突智命、天香香背命、少彦名命を合祀す、例祭は十一月十七日(昔は十月十八日祭礼) 香良須社 (祭神は少彦名命)、金刀比羅社(略)、玉津島社 (祭神は衣通姫命)、 稲荷社(略) の七所あり、(略)。

当社は芳野の桜の種をうつし、むかしは祈願の人数株の桜を献ぜしゆへ、花盛の頃は見事なりしといへり、殊にむかしは社境広大にして今の片端辺、山林の内なりし由、されば今此辺の屋敷に有桜、いづれも当社の神木たる、其桜の残りしなりといふ。(尾張名陽図会)」」

 

境内社と、桜についての記事で、『名古屋市史』は終了。

式内社ならとりあえず見てみる『神社覈録』の内容は大したことなかったので、

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 特選神名牒


『特選神名牒』を見てみましょう(165コマ)。

 

「片山神社 称蔵王権現
祭神 今按社伝祭神安閑天皇とあるは此社をのちに蔵王権現と云るより云出たる説なれば信がたしさて片山神は本国春日部郡にも伊勢国鈴鹿郡近江国浅江郡にも同名の社あれど祭神詳ならず姑附て後考を俟つ。
(略)
今按大曽根村八幡社を本社なりと云説あれどこは其地の片山と云べき形勢なるによりて近き頃云出せる説にて取にたらず元禄八年の棟札に此社のこと委しく記せるにも片山神社なることはみえずさればいと近き世に云いたせる説なること明白なるを東杉村なるは天文宝永の棟札共に片山神社とみえたれば證とすべし故今之に従ふ。」

 

 『特選神名牒』では、「片山八幡神社」の方を式内社とするには、史料的に無理がある、ということのようです。

他の地域にも「片山神」がある、ということでちょっと見てみましょう。

まずは同じ尾張国内、『特選神名牒』尾張国春日井郡の「片山神社」の記事です(164コマ)。

 

「片山神社
今按牛山村古名片山村と云しことは当村麟慶寺本尊に片山村と記し又下大富村の古記に春日井郡味岡庄片山村は天正十二年長久年の戦に一村悉く兵燹にかかりし時片山村を牛山と改めたりとみゆと云ひ又村中に片山の字あり土人も本社を古来より片山神社と云来れるも由ありと云り如何あらん猶又村中村の八幡と云り或は片場村の八幡或片洞村なども云へどこは何れも片の字によりて附会せるものにて取がたしされど諸説まちまちにして決めがたければ猶よく考ふべし」

 

うーん、御祭神はよくわからず。

次は、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

↑『神社覈録』伊勢国の「片山神社」の記事です(356コマ)。

 

「片山神社
(略)◯祭神四座、瀬織津姫命、倭姫命気吹戸主命、速佐須良姫命、一説大比古命、(社伝) ◯鈴鹿山に在す、今鈴鹿御前と稱す、(俚諺) ◯弘仁元年勅使記云、鈴鹿姫坐路頭之北辺、
(略)」

 

祓戸大神」プラス「倭姫命」が御祭神と……しかも「鈴鹿御前」とか「鈴鹿姫」とか。

『特選神名牒』伊勢国の「片山神社」の記事です(137コマ)。

 

「片山神社
(略)
今按るに傍注に今鈴鹿姫社此乎とあるは弘安元年公卿勅使記に鈴鹿鈴鹿姫坐路頭之北辺也と注せる鈴鹿姫を今の坂の下なる鈴鹿権現に混して註するなるへし弘安頃の鈴鹿山路は近江国山女原より伊勢国安楽村に超え到れるなれは鈴鹿姫は其路傍の北に在たるにて今の鈴鹿権現にはあらす当今の東海道は弘治年間の新墾なれば鈴鹿の坂路も其時の鑿通ならむさる新開の路頭に在る祠を延喜の式社に牽合するは従難きを考證以下是に雷同して鈴鹿権現を本社に配せり独再考に筆捨山の麓なる熊野祠に塡たれと同し新街道の社なれは振古のものに非る事決せり是を以て探索するに古厩村の南の小山を占山と称し其麓にある産神社の兆域を田としたる地は悉く片山と字する事六段八畝二十二歩載て当村の検地帳にありされは其八王子と俗称する産神本社片山神の遺存なる事瞭然たり社域今は褊小となりぬれと古色あり以て是に制定すべし」

 

 こちらでは「鈴鹿姫」じゃないよ〜と……いや「鈴鹿御前」「鈴鹿姫」も、かなり興味を惹かれますが、おいておきましょう。

最後に、『特選神名牒』近江国の「片山神社」の記事です(237コマ)。

 

「片山神社二座
祭神
今按彦根藩上申に祭神不詳と云りされど神名式山城国愛宕郡片山御子神社とあるは賀茂神の御子なる由にて片山御子神と称ししなるべしかかれば此片山神二座も賀茂神の族類の神を祭れるならん姑附て考を俟つ。」

 

おっと、今度は「賀茂神」とつながってきました。

「片山御子神」は、「賀茂神」の御子だと。

 

 

 

 

すみません、なんの妄想も浮かびません。

 

 

 

まあ、何でもかんでもつなげてしまうのはよろしくないとは思います。

現在の「片山神社」が割と高台にあり、そこから「蔵王権現」がお祀りされていった、と。

元々の式内社「片山神社」かどうかはともかく。

 

 

 

まとめも浮かんでこない……この辺りでうっちゃっておくことにします。

蔵王権現」、吉野、「賀茂神」などを勉強しないといけませんね、はい。