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べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「大樹寺」(補)

(※20161115追記)

 

さて。

文字だらけですみません。

岡崎のことは『岡崎市史』に聞け、とばかりに頼っておりましたが、7巻の神社仏閣の部分をいくら読んでも「大樹寺」が探せません。

まさか、岡崎でも一、二を争い、松平・徳川の菩提寺である「大樹寺」に言及がないなんてことはなかろうと思うのですが……最後の方に「8巻に載せます〜」と書かれていました。

よかったよかった。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 岡崎市史. 第8巻

 

↑8巻は名勝旧跡風俗を紹介していますので、興味がある方はどうぞ〜。

それでは引用します(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える/カタカナをひらがなにあらためた箇所あり)。

318コマです。

 

大樹寺
京都知恩院末 寺領合計六百拾六石四斗三升

大樹寺は云ふまでも無く松平氏(後の徳川氏)の菩提寺であるから、大樹寺の盛衰はやがて松平氏の盛衰を語るものであり、大樹寺の沿革は実に松平氏の歴史の小縮図といふべきものである、次にその大要を記述する。
伝に云ふ、応仁元年癸丑八月二十三日( 大樹寺旧記には八月二十三日とあり、草創略記、宝永五年の書上には廿二日とある、暫く二十三日説に従ふ )尾張の品野、参河伊保の多数の兵( 二万餘騎としるせるもある )井田野に打つて出づ、松平四代親忠、僅に五百餘騎を以て、伊賀村の東覆盆子(いちご)縄手迄馳向ひ、一夜半日の戦に敵潰敗す、松平勢勝に乗つて細川大澤迄も追撃し、あまたの首級を獲た、此時戦場に遺棄したる敵味方の死屍を埋めて塚を築く、世に首塚または千人塚と呼ぶ、しかるに其後、この千人塚頻に鳴動して鯨波を挙げ、剣戟相打つ音の絶ゆる時なく、近里驚倒往来を絶つに至つた、仍てこの亡霊を弔はんため、塚のほとりに念仏堂を建て、宇禰部福林寺の勢誉愚底を請じて解脱の念仏を唱へしめた、其後親忠更に成道山松安院大樹寺を建てて菩提寺とし、勢誉を以て開山とした、時に文明七年二月二十二日であつた。
大樹寺記録には、戦死者の亡魂脱苦の爲め大樹寺を建て、一七日別時念仏を修めたる由にしるす、されど恐く戦死者の霊を弔はんための(伝ふるが如き異変はともかく)念仏堂であり、松平家菩提寺としての大樹寺であらう、武徳大成記には、

 

親忠君、当家再興の祈祷又は先祖菩提の爲と思召て、額田郡鴨田と云所に一宇を建立し給ひ、寺領を寄附して大樹寺と名付け給ふ、大樹は将軍の別号なり、後に御子孫の大将軍となり給ひ、天下を治め給ふても明に知り給ひてかくは名付けたまふかと世の人いひあへり。

 

としるす、これが当れる説であらう。 大樹の寺号に就いて、大樹寺記には、親忠が、大樹は、将軍の唐名である、菩提所の寺号としてはどうであらうかと云ひしに、勢誉は君が子孫に城軍を出し、その菩提寺たらしめん念願より付したる号であると答へたとしるす、恐く此文の如く、勢誉が松平家の将来を祝うて付したるものであらう。

別本大樹寺旧記に

 

三州額田郡鴨田郷成道山大樹寺者、往昔建長康元正嘉年中の頃、浄土宗道心者、西三河経回而鴨田郷往生、其弟子結草庵号大寿寺。

 

とある、この記の如くならんには、鎌倉時代の頃ここに庵院があり、しかも大寿寺と称へたる事になるが、此の事の真否はもとより知り難い。」

 

ひとまず。

 

「此時戦場に遺棄したる敵味方の死屍を埋めて塚を築く、世に首塚または千人塚と呼ぶ、しかるに其後、この千人塚頻に鳴動して鯨波を挙げ、剣戟相打つ音の絶ゆる時なく、近里驚倒往来を絶つに至つた、仍てこの亡霊を弔はんため、塚のほとりに念仏堂を建て、宇禰部福林寺の勢誉愚底を請じて解脱の念仏を唱へしめた、其後親忠更に成道山松安院大樹寺を建てて菩提寺とし、勢誉を以て開山とした、時に文明七年二月二十二日であつた。」

 

「伊賀八幡宮」でも言及されている戦いが壮絶だったようで、亡霊が出たそうです。

その弔いのために念仏堂を、そして「大樹寺」を建立した、と。

 

「大樹の寺号に就いて、大樹寺記には、親忠が、大樹は、将軍の唐名である、菩提所の寺号としてはどうであらうかと云ひしに、勢誉は君が子孫に城軍を出し、その菩提寺たらしめん念願より付したる号であると答へたとしるす、」

 

「黄門」も確か、何かの官職の唐名でしたっけ(うろ覚え)。

 

「三州額田郡鴨田郷成道山大樹寺者、往昔建長康元正嘉年中の頃、浄土宗道心者、西三河経回而鴨田郷往生、其弟子結草庵号大寿寺。」

 

↑という具合に、建長年間に建立された「大寿寺」が起源だ、という説も伝わっているようです。

真偽は不明、ですが徳川時代に入ってしまえば、「大樹=将軍」という説を捨ててまで「大寿寺」を主張することもないと思います(松平の菩提寺になったのは確かですし、日本最大のパトロンにおもねらないのも妙な話です)。

さてさて、いかがだったのか。

 

「さて勢誉は、当寺に在る事三十年の後、本山知恩院の住職に転じ、八年の間在勤した、その間に大樹寺が大破に及んだので、第三世の雲誉愚廓が、松平五代長親、同六代信忠と力を合せて修造した、かかる内に勢誉は知恩院を退いて大樹寺に還り、愚卜舎を建てて閑居したるが、此時大樹寺永代式定書を作りて、勢誉、雲誉、道閲(長親)道忠(信忠)の四人が加判して居る、長文であるから略するが、日附に永正十年癸酉孟秋十日とある、其後松平七代清康の時に及んで、三河を一定したる勢を以て、当寺の再興を企て、七堂伽藍荘厳の堂宇、並に多宝塔の造営に着手した。
(略)
天文四年の末に、清康は守山に死歿し、織田氏の軍が大樹寺表に打つて出たのであるが、幸に戦塵に汚れずして、なほ生存せる道閲(長親)並に住持玉誉等によりて歿餘の事業は継続せられたるものと思はるる。然しながら、何分大檀那なる松平氏の勢力が次第に衰へ、漸く今川氏の援助に依りて岡崎城を保つに過ぎぬやうの次第であつたから、殿堂修復等については、大なる苦心があつたものと推測せらるる。されば此儘に過ぎ行かんには、可惜勅願寺たる著名の寺院も衰廃すべきは明瞭の事であつたから、「勅願寺として他に異なる大樹寺の維持に就いて、別儀なきやう今川(義元)が取斗ふならば、御喜び遊ばす山の御事を、太げん(大原)即ち雪斎によくよく伝ふるやうに」との女房奉書が出で、並に籔大納言季遠の雪斎宛添状も発せられたものであらう。
(略)
無論、広忠在世の間は我が菩提寺の事であるから、及ぶ限りはその維持修理等に力を盡したに相違なく、天文十二年三月七日天文十六年十二月五日の寄進状も遣つて居るのである。その他松平一門の寄進状の多き事は、その文書目録によつても知らるる。
(略)
広忠の歿後、即ち天文十八年以後は、岡崎の上下一切今川氏の節度を受けた」

 

今川氏の支配を受けていた松平氏でしたが、「大樹寺」に関しては今川氏も気にかけていたようです。

 

「(略)
永禄に入つては、家康の寄進状、掟書、法式が甚だ多い、
(略)
時代は移つて、永禄より、元亀となり、天正となり、徳川氏の勢力は次第に拡大して、浜松より駿府駿府より江戸と、その居城を移して、遂に慶長五年の関原の一戦に覇権を握るに至り、同七年六月二日に、この祖先以来の菩提寺に寺領六百十六石四斗三升の朱印状を下した。
(略)
元和三年に、先祖八代の墓碑、並に大樹寺寮舎の建立があり、家康の一周忌法要をも営んだ、此法事料三千俵三千貫であつた(略)
寛永十三年、家光将軍、家康秀忠両御霊殿を造営、その他殿宇寮舎を新に建立すべき命を下し、寛永十五年二月二十二日より普請始、寛永十八年十一月十二日に成就した、其後家綱将軍の時、延宝四年に修復を施し、更に綱吉将軍の時、元禄十年並びに宝永五年に修復があつた、竹尾次春(善筑)の「千世の松根」に「此節御修復にて江戸より凡百五十人程来、凡九千七百両程之御見積之由と云」とある、此書の年代が明白で無いが、大樹寺の現住を宣誉存廣上人としるしてあるから、天保初年のものである事は間違なきやうである、此際もまた修復を行つて居たのである。
(略)
かくて安政二年正月二十六日に火災に遭ひ、山門(三門)南門、鐘楼、裏門、多宝塔を除く外、悉く焼失した、依て直に再建に着手し、安政四年五月に竣功した、然し規模は炎上前よりも小さくなつて居る、本堂、書院の壁画、襖、杉戸、すべて冷泉為恭の画く所である。」

 

安政の頃にもなると、いかに徳川の菩提寺といえども、修復も派手にはいかなかったようです。

ここでは引用していませんが、焼失前には「狩野探幽」の画などがあったそうで。

 

「(略)

關貫木神
所謂東照公大樹寺御陣を、永禄元年となすものと、永禄三年の桶狭間戦の時と為すものとがある、大樹寺記録には、十三世登誉上人の條に、永禄元年、尾州、三州と境目一戦の時、家康は(当時元康)本多平八郎等主従八騎帰城の際、山路を経て上野村に出る、然るに矢作川満水故、大門の渡を越し兼ぬる時、鹿一疋渡り来る、本多平八郎云ふ、伊賀八幡鹿渡し給ふ、これ神瑞なりと、真先に乗込み、主従何なく向の岸に上り、後を顧れば、上野表に旗あまた見え、敵大勢追掛来る、仍て大樹寺に遁れ入りしが、敵また攻寄せ、鉄砲を打ち、塔の九輪の二つ目に当つて破る、登誉衆徒を呼び集めて防戦したるが、やがて家康は切つて出でんとして、鎖せる門を早く開けよと、二刀まで關貫木に切り附けた、この時、七十人力ある祖洞坊と云ふ者、厭離穢土欣求浄土の旗(登誉上人の白き木綿の旗にしるしたるものと)を掲げ、真先かけて奮闘し、敵あまた討取つたとしるす。参河見聞雑記にも、また永禄元年の事とし、主従十七人とある、然るに松平開運録には、これを永禄三年五月の大高城より軍を撤して大樹寺に入れる時の事としてある、天文年記録(参河聴視録所引)にも、永禄三年五月二十二日、信長多勢を以て大樹寺に押寄せ、急に攻めたので、住持登誉上人、厭離穢土欣求浄土の旗を挙げて衆僧を励まし、祖洞坊が關貫木を振つて敵を打靡けたとしるしてある、三河雀には、永禄三年寺部筋の合戦帰陣の時としてある、いづれの年代にしても正史に合はぬやうである。
これよりして、開運の奇瑞があつたと云ふので、關貫木を神として祀つたのである。」

 

いろいろと表記に揺れがあり、年代も確実ではないようですが、「貫木神」の由来についてです。

話としては、「桶狭間の戦い」と結びつけたほうがドラマチックでしょうから、さもありなんかと。

 

 

 

↑こちらにも、この「貫木神」のエピソード(というよりは、「厭離穢土欣求浄土」のエピソードでしょうか)が登場するそうですので、読んでみてはいかがでしょうか(私、横山光輝の歴史漫画って『水滸伝』しかまともに読んでないんですよね……しかも歴史じゃないし)。

「伊賀八幡宮」のところで紹介した神鹿も登場しています。

どうも、松平・徳川にとって、「伊賀八幡宮」と「大樹寺」は、岡崎(三河)支配にかなり重要な役割を果たしたようです。

おそらく松平家の飼っていた忍びが……いえ、やめておきましょう。

 

さてさて、「大樹寺」の位牌殿で頒布(有料)されている、「松平八代年譜」「徳川歴代将軍年譜」がかなり素敵なので、みなさん忘れずに。

こちらからちょっと引用させてもらいたいと思います。

松平八代の没年齢なのですが、

 

初代親氏:63歳

二代泰親:75歳

三代信光:85際

四代親忠:63歳

五代長親:72歳

六代信忠:46歳

七代清康:25歳

八代広忠:24歳

 

七代「松平清康」と八代「松平広忠」は、天寿をまっとうしたわけではない(暗殺)ので除きますと、この時代としては長命に思えます。

徳川家康」も、十五代将軍の中では長命でした(一番長いのは「徳川慶喜」)。

松平の血筋なのでしょうか。

初代「松平親氏」は、徳阿弥と称して時宗の僧として上野国より三河に流浪して来た人」だそうです。

そんな怪しい人をよくもまぁ……と今なら思うのですが、当時はそうでもなかったのでしょうか。

うーん、なんといいますか、「六部殺し」的なものがすぐに頭に浮かんでしまうのが、ミステリ好きの悪い癖です(「松平親氏」は、成功したために殺されなかった、と考えればいいのでしょうか)。

続いて、徳川歴代将軍の位牌の高さをみてみましょう。

これらの位牌は、将軍の等身大、と伝えられています。

 

初代家康:159センチ

二代秀忠:160センチ

三代家光:157センチ

四代家綱:158センチ

五代綱吉:124センチ

六代家宣:156センチ

七代家継:135センチ

八代吉宗:155.5センチ

九代家重:151.4センチ

十代家治:153.5センチ

十一代家斉:156.6センチ

十二代家慶:153.5センチ

十三代家定:149.9センチ

十四代家茂:151.6センチ

 

見事に、160センチ以下です。

漫画などでは、三代「徳川家光」なんかは、ひょろりつるりとしたもやしっ子なイメージで描かれることが多かったりしますが、157センチですから、将軍家としては全然そんな感じではありません。 

ところで、位牌が等身大、というのが本当なのかどうかはよくわかりませんが、異様な数字が二つあるのに昔から気づいている人たちがおり、たくさんの陰謀論その他が語られたりしています。

 

「五代綱吉:124センチ」

「七代家継:135センチ」

 

↑この二人です。

このうち、七代「徳川家継」は、没したのが8歳だったため、「でかすぎるんじゃないか?」という疑いが持たれているようです。

対して五代「徳川綱吉」は、還暦まで生きていましたが、「低すぎる」、と。

この人の様々な新政策が、この小さすぎる身長に起因しているのではないか、と考える人たちがいらっしゃるようです……多分(誰が、と言われると困ります)。

さて、どうなのでしょう?

 

松平のお膝元として、尾張とはまた違った意味での歴史の町・岡崎。

近傍の異国、ということで、これからも足を運ぶことにしましょう。

もうちょっと戦国時代を勉強しないと……ですね(頼んだぞ、『岡崎市史』!)。

 

<===20161115追記===

 

いや、大したことではないのですが、

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大樹寺圖繪

 

↑写本とはいえ、カラーで図絵が残っているので、興味のある方は是非に。

 

===20161115追記===>