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べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「龍城神社」(補)

さて。

文字オンリーですので、お暇なら。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 岡崎市史. 第7巻

 

↑万能無類『岡崎市史』より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

21コマです。

 

「龍城神社
龍城神社は康生町五百六十一番地に鎮座、境内一千五十九坪三合七勺を有す、当社はもと東照宮映世神社合併の社にして、祭神は徳川家康本多忠勝朝臣である。
東照宮は、天文十一年十二月廿六日徳川家康岡崎城内さか谷御所に於て降誕せられし深き由緒を有するを以て、古来当城本丸内に其神霊を鎮祭し、代々の城主の尊崇が厚かつたと云ふ、されど確実にその奉斎の年代を知る事が出来ぬ、想ふに、三代将軍家光時代、彼の日光霊廟の荘厳なる造営行はれ、東照大権現の信仰が全国に及びたる頃、諸侯が幕府への忠誠の表現として各城内に東照宮を奉祀したるものが多かつたであらう、特に譜代の大名としては、更に由緒深き当城内に於ては、元より奉斎すべきが当然の事であつた。されば当城内東照宮勧請時代は、恐く寛永年代であらうと推測せらるる。明和七年本田中務大輔忠粛入城の後、本丸より三の丸に移し、仏刹歓城院を以て別当職とし、徳川将軍及び世嗣の祈願所として寺領百石を寄せ、毎年正五九月公儀安全の祈祷を行ひ、歳時参拝奉幣するを以て恒例とした。」

 

一旦休憩。

御祭神は「徳川家康」公、「本多忠勝」公なのですね。

本多忠勝」のことを、私は本当に知りませんで……勉強しないといけませんね……。

とりあえず、「東照宮」は城の本丸に祀られていたのが、明和七年に三の丸に遷された、と。

 

「(略)

安永五年の岡崎城主は本多忠粛にして、岡崎城へ移れる最初の領主である、将軍は家治、大納言様とあるは家基の事である。
寛政七年五月十八日本多忠顕百石加増都合二百石を寄せ、尊敬益々厚し、又古来より社殿の造営修理等は一切城主の寄進であつた。其後明治維新に至り、歓城院無檀無住の故を以て廃寺せしにより、東照宮を移して映世神社に合併す。映世神社は、本多忠勝朝臣を祀る、忠勝の嗣子美濃守忠政、勢州桑名より播州姫路に移封せらるるや、同城本丸内に父忠勝朝臣の霊を祭祀し、爾来封を各所に転じ、至る所城内に之を祀る、忠勝八世の孫本多中務大輔忠良、総州古河に移り、城内に宮社を建て、享保十年十月十八日京師吉田家に請うて神号を受け、映世霊神と号す、後明和七年本田忠粛に至り、石州濱田より三州岡崎に転封に及び、東照宮を三の丸に移し、当社を本丸内坂谷葭櫓の傍に建て、歓城院をして別当職とし祭事を司らしめた。而して寛政九年三月巳後、歓城院と観音寺とに、隔年毎に勤めしめたる事もあつた、文化六年吉田家より映世大明神と追号せられた。其例祭には、城主自ら軍装を整へ家臣を率ゐて祠前に謁し、行軍の式を行つた。今尚其遺風を存して居る。」

 

「本多忠粛」……「ほんだただとし」と読むようです。

「京師吉田家に請うて神号を受け、映世霊神と号す」「文化六年吉田家より映世大明神と追号せられた」……江戸の頃には、神号を授けるなどの神道関係の手続きは京都の吉田神道宗家が担っていた、というのを最近知りました。

まだきちんと勉強していないのですが、神号にも格があったのでしょう、きっと。

ああ、勉強を……そうだな、次は吉田神道か……。

 

「(略)

明治維新後、東照宮を遷して合併の上、明治九年一月龍城神社と改称し、現今の地に移転す。同年五月廿八日愛知県令参事判事より桜樹(各一本宛)献木あり、同十三年八月当神社の改築を計画し、戸長中より八名の委員を互選し、三河全国より寄附金を募つた、同年十月廿二日東照宮と復旧し、同十世年十月九日神殿玉垣神門鳥居等を建設し、明治十六年十一月更に篤志者の寄附を募りて拝殿その他の全功を図る、同廿三年十二月廿六日家康公降誕三百五十年祭を執行し、同四十五年四月廿六日社号を龍城神社と復旧す、大正元年十月忠勝十七世孫子爵本多忠敬社殿営繕費として金一万円寄附あり、同年新築工事に着手し、翌二年十二月、本殿、幣殿、拝殿、神饌所、社務所、高麗狗、石燈籠、石鳥居等の建造落成す。同年民有地五百九十六坪を境内に寄附あり、同三年四月八日県社に列せられ、同月廿二日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。同四年四月十七日(家康公三百年祭に当る)十八日両祭神三百年祭を執行(本多家に於て)す。
現今の殿宇には、本殿、幣殿、拝殿、神饌所、渡り廊下、社務所、手水舎等あり。
例祭は、四月十六日十七日である、十七日に、神輿は大名武者行列の古礼を以て岡崎市中の渡御がある。」

 

社号が何度も変わっているのも、それほど珍しくはないのですが、「龍城神社」→「東照宮」→「龍城神社」と変遷するのはなかなか面白いかと。

 

○こちら===>>>

http://home1.catvmics.ne.jp/~tatuki/jinjanitsuite_f.htm

 

↑公式HPの由緒には、

 

「往昔、三河守護代西郷弾正ェ門稠頼が此の地に築城成る日、何処ともなく柳の五ッ衣に紅の袴をつけた気高い乙女が天守に現われ、「われはこれ歳久しく此の処に住む龍神なり、汝われを鎮守の神と崇め祀らば永く此の城を守護し繁栄不易たらしめん」と、おりしも城中の井水噴き出で、高く天に沖し飛瀑の如く龍神に注ぎ、一群の黒雲舞い下りて天守を包むと見るまに龍神の姿は忽ち消えうせた。此の不思議に城主おどろき、天守楼上に龍神を祀って城地鎮守と崇め永く加護を祈り、城の名を龍ヶ城、井の名を龍の井と称えしと云う。」

 

と書かれています。

「龍城神社」にふさわしく、という感じですが、この伝説が『岡崎市史』で言及されていない理由は何かあるんでしょうか。

さてはて。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 生活教育の実践

 

↑ちょっと面白い文献を発見。

岡崎師範学校付属小学校の発行した、郷土教育に関するもののようです。

66コマ。

 

「龍城神社・龍城神社祭(尋六)

ー文化的生活単元(文化遺産)の指導実際

 

一 題材

龍城神社の祭神は、徳川家康本多忠勝の二人である。家康は岡崎に生れ、天下に覇を唱へて徳川三百年の基を築いた偉大なる人物である。忠勝も亦岡崎に生れ、家康の四天王の一人として徳川氏覇業大成に大功をたてた豪勇の士であり、代々岡崎城主として五万石を食みし本多氏の祖である。この神社は、初め東照宮と言ひ家康のみを祭神としてゐたが、明治の初年に郷土の人々相謀り忠勝を合祀し龍城神社と改めたのである。

龍城神社祭は、わが岡崎市に於ける祭典中、最も盛大なるものの一つで全市を挙げての行事である。全市小中等学校は祭典当日(四月十七日)祝祭日に準じて課業を休み、神社に参拝するを例としてゐる。なほ祭典神事としての武者行列は、往古に於ける大名行列の名残を今日にとどめるものにして、往古を回想するにもふさはしく又まことに奥床しいものである。この日市民は勿論遠近より集る者多く、ために街衢は非常な雑沓殷賑を極めるのである。(以下略)」

 

発行が昭和10年ですから、戦前の岡崎の意識、みたいなものが伺えるような気がします。

ぜひ見てみたいものです、武者行列。

 

 

江戸三〇〇藩 物語藩史 東海篇 (歴史新書)

江戸三〇〇藩 物語藩史 東海篇 (歴史新書)

 

 

雑学系新書ですが、こちらの「岡崎藩」の章からいくつか引用を。

 

矢作川と乙川が合流する三角州一帯は龍頭山と呼ばれる丘陵地になっており、十五世紀半ばに三河守護代・西郷頼嗣(清海入道)がそこに砦を築いた。これが岡崎城の興りとなる。」(p114)

 

「やがて家康の祖父にあたる松平清康がそこを奪って拠点とした。

矢作川流域、特にその西側に広がる岡崎平野(西三河平野)は農業に適した豊穣の地であり、岡崎は交通の要衝でもあるため、遠江国(静岡県西部)や尾張国(愛知県西部)という強国の争奪戦の場となった。そのために家康は幼少期から苦労を重ねることになるのだが、それもあって岡崎城と岡崎の地は、徳川(松平)家にとって父祖伝来の地として特別な場所となった。」(p100)

 

 

「(略)岡崎城主には近江国滋賀県)出身の戦国大名田中吉政を指名した。吉政は領内で検地や新田開発を進め、城下町の整備に力を注いだ。

慶長五年(一六〇〇)に関ヶ原の戦いが勃発すると、吉政は東軍方について目覚ましい活躍をみせ、筑後柳河(柳川市)に大加増のうえ転封となった。

続いて上野白井藩(渋川市)二万石の本田豊後守康重が、三万石加増のうえ岡崎に転封となった。徳川家にとって重要な岡崎を、家康の信任厚い譜代の臣に与える、という配慮であった。こうして、幕藩体制下での岡崎藩が立藩されるのである。」(p101)

 

 

「本多家には多くの支流が存在するが、康重は本多忠勝本多正信とも違う別系統の本多一族である。この系統は代々彦次郎を通称したため「彦次郎家」(または官位から豊後守家)などと呼ばれる。対して、のちに岡崎藩主となる忠勝の系統は、その通称から「平八郎家」(または中務大輔家)と呼ぶ。」(p102)

 

「初代藩主となった本田豊後守康重(彦次郎家初代)は、永禄十二年(一五六九)に徳川家康掛川城攻めで初陣を飾って以来、徳川家譜代の臣として軍功を積んだ武勇の士であった。嫡子の康紀もまた慶長十九年(一六一四)からの大坂の陣で武功を挙げている。藩政では岡崎城岡崎市)の修築、城下町の醸成、農政の確立に努めた。二台まとめて名君と呼んでよいかもしれない。

続く三代忠利で本多彦次郎家は移封となり、同じく譜代の水野家が入部する。初代忠善もまた武辺者で、その通称から「鬼監物」の異名をとり、大和郡山藩(大和郡山市)の「鬼内記」本多政勝、摂津尼ヶ崎藩(尼崎市)の「鬼大膳」青山幸利とともに「三鬼」のひとりに数えられた。

譜代の重臣としての自負心は尋常でなく、尾張藩名古屋市)を仮想敵国と想定し、尾張徳川家の者を捉えて首を刎ね、河原にさらすなどの奇行が目立った。近隣の国々にもその評判は伝わり、西隣りの西尾藩西尾市)藩主の増山正利からは「その大言は無益のみならず却って害を求むる所也」と評されている。」(p110−111)

 

藩に歴史あり。

「水野忠善」の、

 

「譜代の重臣としての自負心は尋常でなく、尾張藩名古屋市)を仮想敵国と想定し、尾張徳川家の者を捉えて首を刎ね、河原にさらすなどの奇行が目立った。」

 

↑これはなかなかすごいですね。

尾張三河の対立はこの頃からあったわけですね(……え、今もあるのかって? 知りませんよ……)。

もっと勉強しよう……。