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べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「富部神社」(南区)

愛知県内 神社

7/2。

鹽竈神社」をあとに、ふらふらと南の方へ。

あらかじめ検索していた「富部(とべ)神社」を目指しました。

 

○こちら===>>>

tobe-shrine.opal.ne.jp

 

↑駐車場があるかどうかは検索せずにふらふらしたので、ちょっと離れたコインパーキングに駐車しました。

そこから坂道を上っていった記憶があります。

 

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鳥居に向かってきた道が、その前で右に折れています。

住宅街の中にあるので、離れたところから歩くのが安心です(もし車が止められないと、結局うろうろすることになるので)。

 

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「富部神社

祭神は須佐之男命田心姫命湍津姫命市杵島姫命、菊理姫命である。

当社はもと「戸部天王」ともいわれ、松平忠吉徳川家康の四男)が病気平癒を祈願・快復した報恩のため、慶長十一年(一六〇六)本殿、祭文殿、回廊、拝殿を建てたと伝えられる。

本殿は慶長当時の形態を今に伝え、とくに正面の蟇股、屋根の懸魚・桁隠などによく桃山時代の特徴をそなえており、国の重要文化財に指定されている。祭文殿と回廊は、市指定の文化財となっている。」

 

なるほど、「牛頭天王社」でしたか。

 

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明治天皇がお立ち寄りになったようです。

京都から東京に行幸されたときでしょうか。

 

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「よし祭」ということは、「津島神社」系ということですね。

 

○こちら===>>>

「津島神社」(再)(津島市) - べにーのGinger Booker Club

「津島神社」(再)2(津島市) - べにーのGinger Booker Club

 

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「富部神社

当社は慶長八年(一六〇三)津島神社牛頭天王を勧請したもので、「戸部天王」とも「蛇毒神天王」とも呼ばれていた。牛頭天王神道だけでなく、仏教陰陽道でも奉られる神で、神道では病魔を自在に操る神として、仏教では病魔を操り四季を掌る神として、陰陽道では天体と方位を掌る神として、大切に奉られている。

 

主祭神素戔嗚尊牛頭天王)で明治十一年(一八七八)になって田心姫命湍津姫命、市杵島命、菊理姫命の四神を合祀した。

 

清洲城の城主松平忠吉徳川家康の第四子)は当社の霊験あらたかなるを知り、病気平癒の祈願をしたところ、快方に向い日ならずして快復したといわれてその恩に報いるため慶長十一年(一六〇六)社領として百石を与え、本殿、祭文殿、回廊を建て、神宮寺として天福寺(真言宗智山派)を興した。(天福寺は明治政府の神仏分離令により廃寺この時、神社では牛頭天王を同一神とされる素戔嗚尊の名を借り存続される。)

 

回廊は改築あsれているが、本殿と祭文殿は造立当時のものである。本殿は一間社流造、桧皮葺で、正面の蟇股、破風、懸魚、等桃山時代の建築様式をよく伝えており、昭和三十二年(一九五七)国の重要文化財に指定された。

 

祭文殿は回脚門形式、回廊は切妻造左右四間の複廊で桧皮型銅板葺である。平成八年(一九九六)名古屋市文化財に指定される。

 

境内の山車蔵には、享保十二年(一七二七)作といわれる高砂車山車が納められている。この山車は車体が大きく三階の上に更に高くいわゆる高砂車を象徴する大きな松の木を背景にして屋形を据え、その前に尉と姥の人形が置かれている。昭和四十八年(一九七三)名古屋市文化財に指定される。江戸時代、旧暦六月十二日の例祭日には金繍の幕を巡らし、氏子が挙って曳行したが近年老朽化が激しく、十月の例祭日には蔵の中で組立られ、祭の象徴となっている。」

 

むむ……1603年に勧請し、1606年にはすでに霊験あらたかと言われていて、清洲城まで噂が届いていた、ということですね。

うーん……いや、清須からなら、「津島神社」の本社に行ったほうが近いんじゃないかと思うのですが……何かいけないわけでもあったのでしょうか(方違え?)。

 

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御神木……すみません植物のことはわかりません(何ならわかるのか)。

 

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文化年間の石灯籠。

 

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狛犬さん。

 

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遠景。

 

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山車蔵、というやつですね。

 

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拝殿(祭文殿)。

神紋は木瓜

 

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威容といってもいい風合い。

 

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境内摂社の「富部龍王社」。

 

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「八王子社」「居森社」。

この辺り、「津島神社」系とわかりますね。

 

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本殿の屋根がちらりと。

 

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社務所前辺りから。

 

鳥居をくぐった右手には、

 

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この辺りを本拠地にしていた「戸部新左衛門政直」の墓地が移転されてきているそうです。

 

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墓石と石碑。

墓石には「戸部新左衛門政直 霊位」と掘られています。

 

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「戸部新左衛門政直公

悲運の武将

尾張織田氏駿河の今川氏が敵対していた戦国時代。戸部城主の戸部新左衛門は今川義元の忠実な家臣で武勇に優れ最前線で善戦していました。手をやいた織田信長は何とか新左衛門を亡き者にしようと画策し、新左衛門の筆跡を家来に真似させ、信長に内通している旨の偽書を書かせました。そして家臣(森蘭丸の父三左衛門)を商人に仕立て偽書を持たせ駿河に送り込みました。偽書を信じた義元は烈火の如く怒り、新左衛門を呼び寄せ、途中吉田(現在の豊橋)で有無を言わさず切腹を命じたのです。弘治三年(一五五七年)五月一日、新左衛門は無念にも非業の死をとげました。今川義元桶狭間の戦いに没した三年前の事でこの謀略が無ければ義元の上洛があり得たかもしれないと言われています。

 

人質交換事件

岡崎より駿河へ人質として送られる途中の松平竹千代(後の徳川家康)が略奪され尾張の織田方へ送られました。その頃、信長の兄信広が安城の戦いで今川・松平連合軍に敗れ捕虜となっていました。天文十八年(一五四九年)新左衛門の仲介によって笠寺観音境内で竹千代と信広の人質交換が円満に執り行われたと伝えられています。

 

戸部蛙

勇猛なことで知られる新左衛門は、自分の前を横切る者を「無礼者」と切り捨てることがあったそうですが、飛んで逃げる蛙は切ることが出来なかったという言い伝えがあり、これに因んで「戸部蛙」という郷土玩具が作られるようになりました。

 

戸部新左衛門政直公霊位

明治七年、子孫にあたる美濃国本巣郡軽海村の戸部新吾氏が新左衛門の霊を慰めるため戸部城跡に墓碑を建立しました。昭和四年の区画整理で戸部町三丁目に移され、金原鈴夫氏書の戸部城趾の碑が設置されました。そして有志(戸部保存会)により毎年命日に戸部家の子孫を招いて供養祭が実施されてきました。平成十八年、新左衛門政直公没後四五〇周年慰霊祭が営まれ、この霊位は平成二十八年ここ富部神社境内に移築されました。」

 

なるほど、神社境内にうつされたのは……今年じゃないですか。

ああびっくりした。

 

○こちら===>>>

「笠寺観音」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑人質交換の舞台、「笠寺観音」。

まだ引用をあんまりしていなかった頃の記事です……やり直さないとね……。

 

「勇猛なことで知られる新左衛門は、自分の前を横切る者を「無礼者」と切り捨てることがあったそうですが、飛んで逃げる蛙は切ることが出来なかった」

 

↑これだけ見ると、勇猛ではあっても優秀ではなかったような気がします……そこを信長につかれちゃったのかもしれないですね。

戦国時代のことは、本当にわかりません。

 

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鳥居から一旦外に出まして、左手にある「秋葉社」。

津島神社」の配置を模しているのでしょうか。

 

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右手にあるのは「金毘羅社」。

 

御朱印はいただけると思うのですが、神職さんに電話をして出てきていただかなくてはならず、そこまでの手間を……とためらってしまい、いただけていません(10/7現在、都合三度はご参拝しています)。

 

さて。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑『尾張名所図会』より引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

310コマです。

 

「蛇毒神天王社

戸部村にあり。祭神素戔嗚尊、戸部天王と称す。[如意蔵王陀羅尼経]に、牛頭天王十種反身の号を記せし中の其四号に、蛇毒気神とあるよし安居院の[神道集]に見えたる是なり。三位中将忠吉君御不例の時御祈祷ありしに、忽御平愈ありしかば、慶長八年本社・廻廊・拝殿等数宇を修造し給ひ、社産を寄附し、毎年六月十二日の祭礼を始め給へり。今に車楽を出し、壮麗他に異なり。
神宝 宝剣一振 (相模守藤原政常作・慶長十一年二月の御奉納)。
別当 海雲山天福寺一町ばかり西にありて、真言宗。もと華王院と号せしが、寺中廃荒せしを、慶長十一年忠吉君再興し給へり。
祠官 金原氏」

 

神社の丁寧な解説にある以上のことはないですね……。

尾張志』もほぼ同じ内容ですが、遷座(おそらく、「松平忠吉」による社殿造立時)前の旧地についての言及があります。

尾張名所図会』の311コマには図絵がありまして、そこにも旧地や摂社の「八王子社」「三十番神社」「稲荷社」「秋葉社」「金毘羅社」が描かれています。

それを見ると、「秋葉社」「金毘羅社」は、江戸末期と位置関係が同じですね。

 

 

「戸部新左衛門豊政
同村の人にして、[甲陽軍鑑]に、『信長公二十四歳にて、是非義元を討たんと心がけ給へ共、爰に妨ぐる男あり。戸部新左衛門とて、笠寺の辺を知行する者也。能書才学如形の侍にて、渠無二義元に属し、尾州を義元の國にせんと、二六時中謀るに依て、尾州聊の事をも駿州へ書送る。依之信長公、御心安き寵愛の右筆に、彼新左衛門が消息共を多く集め、一年餘り習はせらるるに、新左衛門が手跡に不違、於此時義元に逆心の状思の儘に書き認め、織田上総介殿へ戸部新左衛門と上書きし、頼母しき侍を商人に出立たせ、駿府へぞ越されける。義元運の末にや、是を実なりとおぼして彼新左衛門をめすに、駿府迄参るに及ばずとて、参州吉田に於て速に頭をぞはねられける』と見えたり。[安土創業録][和漢軍談]等に記せるも之に同じ。其外戸部四郎二郎・荒川長右衛門等皆ここの武士なり。」

 

312コマに「戸部新左衛門」に関する記事も。

こちらも、神社の解説以上のものはないですが……名前が違っていますね。

 

いつか、御朱印をいただくその日まで、ご参拝しますよ〜。

 

それにしても、南区とか中川区は、住宅街に入るとあまりコインパーキングがなくて、辛いです……。