べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「兵主大社」(補)

さて。

文字だらけですので、苦手な方は飛ばしてください。

 

 

兵主神社」については、

 

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「穴師坐兵主神社」「相撲神社」〜奈良・京都めぐり〜

「穴師坐兵主神社」「相撲神社」(考)

「穴師坐兵主神社」「相撲神社」(考々)

「穴師坐兵主神社」「相撲神社」(考々々)

「穴師坐兵主神社」「相撲神社」(考々々々)

「穴師坐兵主神社」「相撲神社」(考々々々々)

「穴師坐兵主神社」「相撲神社」(考々々々々々)

「穴師坐兵主神社」「相撲神社」(考々々々々々々)

「穴師坐兵主神社」「相撲神社」(考々々々々々々々)

「穴師坐兵主神社」「相撲神社」(考々々々々々々々々)

 

↑「穴師坐兵主神社」のところで、いろいろと引用したりしています。

やたらめったら長い上に特にまとまってもいませんので、ご注意を。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 近江輿地志略 : 校定頭註

 

↑『近江輿地志略』から引用してみます(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える/カタカナをひらがなに置き換えた部分あり)。

464コマです。

 

「[兵主大神社]五條村にあり、所祭の神大己貴命也。当社は人皇四十四代元正天皇御宇養老二戌午御草創。楼門の額は佐理が筆跡也といふ。正一位勲八等兵主大神宮の十一字を二行に書す。相伝源義朝没落の時、頼朝も随て落行くに、不帰池の邊にて馬進まず。土民云ふ不帰池へは日毎夜毎に三度づつ兵主大神宮影向あり。今其時にやと、頼朝下馬して社のある方を問ひ礼拝して武運を祈る。然して後天下一統の日、文治二年神殿及末社等まで委く造立し三千余石の神領を寄附す。今兵主郷と申すは是故なり。多くの武具を神献して武運長遠を祈る。文永の兵火に罹つて社も炎上し神領も失ひしを、足利尊氏先例に准じて社を再興し神領も本の如く寄附あり、然るに其後数度の兵火相継ぎ、殊に織田信長佐々木退治の時に至つて神領悉く没収せられ、纔に八木五石を拝領とす。慶安二年大将軍家光公(大猷院殿)より九石五斗余の御朱印を下さる。当社は上七社中七社下七社総じて二十一社と云ふ。是等定めて往古は兵主郷中の諸村に散在してありしなるべし。今は社地の何れの處といふ事を知らず。祭礼毎年四月二の酉日、五月五日なり。当神主井口宰相武藝部宿禰矩氐といふ者此趣を書送れり。神記嘗てなしといふ。(臣)按ずるに[神祇正宗]に曰く欽明天皇の御宇鎮座也といふ。此説是なるべし。社は養老二年の草創なるべし。七社といへる大己貴命の七名とされるなるべし。大己貴の七名は大国主神大物主神・国作大己貴神・葦原醜男・八千矛神・大国玉神・顕国玉神以上七名也。(略)」

 

「所祭の神大己貴命也。」

 

ご祭神は「大己貴命」となっています。

神社の案内板では「八千矛神大国主神)」でした。

 

「当社は人皇四十四代元正天皇御宇養老二戌午御草創。」

 

養老二年創建というのは、案内板でもそうなっていましたし、神社でいただいたパンフレットにも「「兵主大明神縁起」によれば、御鎮座は養老二年(七一八年)と伝えられます。」とあるので、ある時期からの共通認識だったようです(当然ですが、『続日本紀』に記事はありません)。

 

「楼門の額は佐理が筆跡也といふ。」

 

↑の「佐理」は「藤原佐理」のことのようです。

 

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藤原佐理 - Wikipedia

 

wikipediaをご参考に。

どうも真筆ではないような感じです。

 

相伝源義朝没落の時、頼朝も随て落行くに、不帰池の邊にて馬進まず。土民云ふ不帰池へは日毎夜毎に三度づつ兵主大神宮影向あり。今其時にやと、頼朝下馬して社のある方を問ひ礼拝して武運を祈る。」

 

↑この文にある「不帰池」……「かえらずのいけ」でしょうか……がどこにあるのかはよくわかりませんが、「兵主大社」からは少し離れた場所で、そこまで一日六回も「兵主大明神」がやってきた、ということらしいです。

しかも、馬が進まない(馬がその神を恐れた、ということでしょうか)。

そこで、「源頼朝」は下馬して、社のほうに礼拝した、と。

京から東国へ落ち延びる最中にそんな余裕があるのか、と思ったりします。

あるいは、「道中、たくさんの霊験あらたかな神社仏閣があるだろうに、いちいち足を止めていたら追っ手に捕まるんじゃないのか?」とか。

 

「当社は上七社中七社下七社総じて二十一社と云ふ。」

 

↑これについてはよくわかりませんが、対岸の琵琶湖西岸にある「日吉大社」を真似しているのではないかと思われます。

あちらも、主祭神の一柱は「大己貴命」ですし。

 

「按ずるに[神祇正宗]に曰く欽明天皇の御宇鎮座也といふ。此説是なるべし。社は養老二年の草創なるべし。」

 

↑『神祇正宗』という書物によれば、ご鎮座は「欽明天皇」の御宇、ということになっているようですが、養老年間の「元正天皇」からは15代近く前のことですので、鎮座年月をより古く見せよう、というものだと思います。

ということは、養老二年という年代は、案外近いのかもしれません。

 

「七社といへる大己貴命の七名とされるなるべし。大己貴の七名は大国主神大物主神・国作大己貴神・葦原醜男・八千矛神・大国玉神・顕国玉神以上七名也。」

 

↑この辺りは、こじつけにこじつけを加えている感じがしますね。

あ、今の主祭神として「八千矛神」となっているのは、一つには「兵主(ひょうす/つわものぬし)」という名前と関係しているかと思います。

他にも理由はあるでしょうが。

 

『近江輿地志略』の他の部分からの引用を。

 

462コマより。

 

「○小比江村(略)
[正一位矢取大明神社]小比江村にあり。」

 

463コマより。

 

「○西川原村(略)
[二宮大明神社]西河原村にあり。」

 

465コマより。

 

「○吉川村(略)
[箭放(やはなち)大明神社]吉川村にあり。縁起に曰く箭放大明神は兵主上七社の第一也。祭る所の神天若彦命也。神代の此葦原国は神軍ありし時、弓箭を帯して大己貴命に随順し、荒振邪神を矢放ち平げ給ふ。故に箭放大明神と申す也。(略)」

 

この三つの神社は、おそらく「兵主大社」の楼門の扁額に見られた神社だと思われます。

他の神社が見つからなかったのは、私の探し方に問題があるのか……ともかく、

 

「縁起に曰く箭放大明神は兵主上七社の第一也。」

 

↑こういう伝承が残っていたりするので、

 

「当社は上七社中七社下七社総じて二十一社と云ふ。」

 

↑のうち少なくとも「上七社」というのは残っている、と考えていいのではないでしょうか(わかりませんが)。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 下編

 

↑より88コマです。

 

兵主神社 名神大
(略)○祭神大国玉命、秘説曰、天照大神也、神祇正宗○兵主郷五條村に在す○名神祭式には載せず、疑ふべし、

金勝寺寛平九年六月廿三日官符に、野洲郡兵主明神、與地志云、正一位勲八等兵主大神宮の古額、佐理が筆跡なり、速胤按に、正一位を授るの日未考得ず、中古の伝へなるべし、此例所々に多し、又云、相伝源義朝の没落の時、頼朝も随うて落行に、不皈池迄の辺にて馬進まず、土民云、不帰池へは日毎夜毎に三度づつ、兵主太神宮影向あり、今其時にやと、頼朝下馬して社の有方を問ひ、礼拝して武運を祈る、然して後天下一統の日、文治二年神殿及末社等まで悉造立し、三千余石の神領を寄附す、今兵主郷と申は是なり、多くの武具を神献して、武運長遠を祈る、文永の兵火に罹て、社も炎上し神領も失ひしを、足利尊氏先例に准じて社を再興し、神領を本の如く寄附あり、然るに、其後数度の兵火相つづき、殊に織田信長佐々木退治の時に至て、神領悉く没収せられ、纔に八木五石を社領とすと云り、啓蒙云、今所伝者七座也、所謂表当宮七名歟、按当社者、大己貴命之鎮座勿論歟、祭祀之日以干戈弓箭乗于七社神輿、而従者又表軍旗之威儀也と云り、さてありなんか、兵主の号の事は、大和国穴師坐大兵主神社下考併すべし、兵主神社は所々多しといへども、今名高きは当社也、

(略)
鎮座
神祇正宗云、人皇卅代欽明帝御宇鎮座、
(略)」

 

↑おおよそ『近江輿地志略』と同じ内容ですので、これが流布していたものと思われます。

 

「祭祀之日以干戈弓箭乗于七社神輿、而従者又表軍旗之威儀也」

 

祭りの様子として、「矛や弓を七社の神輿に乗せて、それに軍旗をはためかせた従者が続く」というような描写がされています。

なるほど、「兵主(つわものぬし)」らしい、「八千矛神」らしいお祭りだと思います。

が、「神輿」に「矛(鉾)」とくれば、どこか「祇園祭」っぽくもありますね……。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 特選神名牒

 

↑の231コマです。

 

兵主神社 名神大
祭神 大国主命
今按神祇正宗に兵主大明神大国主命也大己貴命の霊名也人皇三十代欽明天皇御宇に鎮座とあるは当社を云りと聞ゆれば祭神之によれり
(略)」

 

え〜、まぁ軽い感じで……。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 近江

 

↑こちらからは、226コマを。

と、その前に、この引用で示されている(数)については、

 

(一)度会氏神名帳考証 

(二)伴信友神名帳考証土代 

(三)神社覈録

(四)神祇志料

(五)特選神名牒

(六)大日本史神祇志

(七)地名辞書

(八)地理志料

(九)與地志略

 

↑という引用文献を示しています。

 

兵主神社 名神大
祭神 (一)素戔嗚尊 (三)大国主命、秘説曰、天照大神也、(四)(五)大国主命


(略)

 

所在 (一)閉曾村天皇社?閉曾者兵主之訛歟、(二)清在云、今■村大寶天皇(三)(五)(六)兵主郷五條村(四)栗田郡兵主郷五條村大寶天王といふ、(七)兵主村大字五條、軍八度兵主大神宮と号し野洲郡の名祠なり、(八)五條村、(野洲郡兵主村大字五條)」

 

いろいろ誤字があったりしますが。

 

「(一)閉曾村天皇社?閉曾者兵主之訛歟、(二)清在云、今■村大寶天皇社」

 

↑という所在地に関する表記が、「兵主郷五條村」ではなかったり、

 

「(四)栗田郡兵主郷五條村大寶天王といふ、」

 

↑という郡名が「野洲郡」と違っていたりするのは、何かの勘違いか、郡の移動があったのか、そこまで私は詳しくありませんが。

「大寳天皇」「大寳天王」と「兵主神」が同じように考えられたのは、祭神が「素戔嗚尊」だったからだと思われます。

素戔嗚尊」=「牛頭天王」ですので、勢い「兵主神」も=にしちゃった、という感じでしょうか。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 近江史蹟

 

↑の88コマより。

 

兵主神社 兵主村大字五條に鎮座す、祭神大己貴命延喜式の一社なり、元正天皇養老二年の草創にして楼門の額は藤原佐理の筆なりと伝へらる、正一位勲八等兵主太神宮の十一字を二行に書す、(略)往古神領多く、守山村の北に外郭の鳥居を建つ、源頼朝之を崇敬して、祠殿を造営し、神田三千七百九石を寄附す、文永年中社殿兵火に罹り、足利尊氏之を再建す、其後神田掠奪の厄に遭ひ、大に衰頽せしか、織田氏神領五石を付し、徳川氏亦九石五斗の朱印を付す、兵主郷中の総社として神威愈々高し、」

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 新撰近江名所図会

 

↑の23コマより。

 

兵主神社
兵主村大字五條に鎮座す祭神大己貴命にして養老二年の創立延喜式内の一社たり平治元年源義朝、頼朝等京師に敗軍し東奔する途次篠原村不帰池(一名蛙不鳴池)邊に到る時乗馬進まず土人曰く此池中には毎日三度づつ兵主大神の影向あり今は其時ならんと頼朝乃ち馬より下り西方遥に兵主神社を拝礼し武運長久を祈りけり是を以て後年頼朝天下を一統するに及で兵主惣神殿及末社等に至るまで悉く造営し神領三千余貫を奉る今の兵主郷即ち是なり又文永年中社殿兵燹に罹りて焼失せるより先例により足利尊氏之を再建す其後織田信長六角氏退治の時盡く神田を没収してより社運大に衰微し又旧観を呈せざるに至れり」

 

どの記事も「源頼朝」「足利尊氏」の崇敬寄進の記事が多いのですが、中でも『新撰近江名所図会』には、

 

平治元年源義朝、頼朝等京師に敗軍し東奔する途次篠原村不帰池(一名蛙不鳴池)邊に到る時乗馬進まず土人曰く此池中には毎日三度づつ兵主大神の影向あり今は其時ならんと頼朝乃ち馬より下り西方遥に兵主神社を拝礼し武運長久を祈りけり」

 

↑というように、「不帰池」が一名「蛙不鳴池」とされていたり、「源頼朝」が祈ったのが「西方」だったとされていたり、異伝的な感じになっています(引用するときに、筆者の筆が滑った可能性もありますので、過信は禁物です)。

 

という具合に、さっと引用できる文献を当たってみましたが、御祭神のこと、「上七社」のこと、末社の「乙殿神社」のこと、と考察するヒントになるようなものが全然ありませぬ……パンフレットにある「兵主大明神縁起」を手に入れたいものです……。

 

あ、パンフレットの御由緒の部分には、

 

「「兵主」の神は、全国に五十社近くお祀りされていますが、その内延喜式神名帳に記載されている社が十九社、その中でも当社は大和国穴師坐兵主神社壱岐国兵主神社と並んで名神大社に列せられています。元来、中国の八神信仰に由来する「兵主」の神を、渡来人が奉斎し但馬国を中心に全国各地にお祀りしたと考えられます。」

 

とあります。

延喜式』記載ということ、全国に五十社近くしかないこと、などを考え合わせると、これは「古い神」で、しかも、全国に点在したにもかかわらず一大勢力にはならなかったことが伺えます(例えば、のちの「八幡神」のような大流行はしていない)。

思えば、武士がのし上がる時期にあった源平の頃は、どの神様も「武門の守護神」として勢力を保とう、という、別の次元の争いをしていたのかもしれません。

源頼朝」も、「建部大社」にもお参りし、「兵主大社」にもお参りし、しかし結局は「八幡神」がその神の戦いに勝利した、と。

いや、これは逆で、「源頼朝」が武神として「八幡神」を崇めたからこそ、どの神社も「うちにも頼朝さんが来たんやで〜」と、武士に対して宣伝したのかもしれないです。

 

「兵主祭(例大祭)ごあんない

兵主十八郷のあちこちから太鼓の響きが聞こえると、氏子中は祭りの色に染まります。五月五日に斎行される春季例大祭(兵主祭)は、末社十八社から御輿・太鼓三十数基が総氏神である兵主大社に一年に一度集う、珍しい形の祭りです。

大小様々の御輿・太鼓が「チョイトサ」の掛け声も勇ましく、約三百メートルの松並木の参道を渡御する様は壮観で、特に太鼓橋前にて各御輿が行う”鵜の島抜き”の所作は祭りの一番の見所です。続いて祭りの象徴である絹幣・御幣を先頭に威儀物や稚児の行列が参進します。

女性ばかりの担ぎ手による華やかな「あやめ太鼓」や、舞台上では「兵主太鼓」の奉納演奏などもあり、当日は氏子内外より多くの参拝者で賑わいます。」

 

↑こちらもパンフレットより。

 

 

うーん……妄想を膨らましたいところなのですが、「穴師坐兵主神社」に比べると、こちらの「兵主大社」はおそらく新しい鎮座だと思いますので、起源を探るというのもなかなか……ただ、自然発生的にここで祀られるようになったのか、穴師(倭)と同様に古墳造営/鍛冶氏族が関わっているのか、そのあたりでは妄想できそうです。

が、ちょっと材料が足りませんですね……やはり、郷土史家の方にお任せするしかないですか。

 

 

ところで、「兵主大神」が「不帰池」に、日に三度夜に三度影向する、って何か変な感じがします。

「かえらずの池」ですよ?

帰れないと思うんですけど……でも帰るんですよね。

とすると、「蛙不鳴池(かえるなかずのいけ)」のほうが正しいのか。

より一層わけがわかりません。

しかも、この「不帰池」、「兵主大社」からは離れているらしいです(神領の端っこなのでしょうか)。

主祭神が一日に六度も神社を留守にする、ってのは結構特殊な感じがします。

うーん……池、池、池……はっ、

 

 

 

河童・・・・・・

 

 

 

……これ以上何も浮かびません(はい)。

できればもうちょっと妄想したいんですが(「兵主神」と「素戔嗚尊」と「牛頭天王」とか……いかん、ネタが大きすぎて手に負えない……)。

こんなところで終わりたいと思います。