べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「兵主大社」〜近江めぐり〜

4/30。

 「建部大社」付近に未練を残し、致し方なく車を野洲方面へ。

途中、何年かぶりにマクドナルドで腹ごしらえ。

たどり着いたのは、「兵主大社」です。

 

○こちら===>>>

www.biwako-visitors.jp

 

駐車場が発見できずおたおたしましたが、参道の脇、水田との間の道を進んでいくと無事発見。

いったん、松並木のある参道を戻りまして、

 

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鳥居。

この参道はほぼ北東に向かっており、写真はありませんがいくつもの石柱が立っています。

書いてあるのは、各町の神輿なのか、そういったものだったかと……いかん、どうして写真がないのか。

向かって左手には中学校があります。

 

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「条里の郷」案内板。

なかなか興味深いですが、郷土史家のかたにお任せしまして……。

 

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駐車場のすぐ脇に神橋と朱塗りの鳥居が。

こちらは、ほぼ東面しております。

お祭りの準備なのか、地元のかたが働かれておりました。

 

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橋のたもとに凛々しく狛犬さん。

 

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橋のすぐ右手の小さなお社。

 

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「手洗御前社」と書かれています。

いわゆる「祓戸の神」でしょうか。

あるいは、「愛宕」「秋葉」かな。

 

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サイズは小さいながら、彫刻がなかなかのものだったので、お近くから。

ちなみに、現在、手水舎はもっと先にありますので、ここでいう「手洗御前」は鳥居手前を流れる川の前、という意味で、かつてはここで手足を清めていた、ということでしょうか。

 

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境内案内図。

パンフレットによれば、「平安の庭」という庭園が広がっているとのこと。

 

「当社の本殿北側より南側にかけて、国指定名勝の庭園(約22、000㎡)が広がっています。

近年の保存整備事業に伴う発掘調査により、平安時代の州浜敷護岸が発見され、さらに中心となる園池に水を引く為の導水路・遣水や排水路、境内外の結界となる築地塀跡なども相次いで見つかり、神社の境内地に大規模な庭園が築かれていたことが分かってきました。

又、本庭園は従来の平安時代の庭園の概念である、浄土式庭園や寝殿造系庭園とは異なり、水の流れを利用して祭祀が行われていたことを裏付ける土器なども出土しており、国内でも数少ない神社庭園でありその存在の意義は大変深いものであります。」

 

興味深いですが、庭園には入らず。

結構日も傾いてきておりまして……。

 

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どん、と楼門が登場します。

バランスもよく、美しく切れ上がっています。

 

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 「正一位勲八等兵主大神宮」と書かれています。

新しいのかな。

 

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翼部分にも扁額があり、向かって左の翼の左から、「矢取神社」「浅殿神社」「二ノ宮神社」、右の翼の左から、「戸津神社」「狩上神社」……最後が読めません(残念)。

「兵主大社」の神領内の神社名なのだと思いますが、遥拝所としての機能なのか、あるいは祭りの際にそれぞれの神輿が入るのか、それぞれのお供えが入るのか。

いずれにしても、面白い作りです。

ちょっと、「諏訪大社」の遥拝所を思い出します。

 

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「兵主大社楼門

一間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺 附 翼廊 二棟

 

昭和四十五年解体修理時に地垂木から天文十九年(一五五〇)の墨書を発見し、建立年代が明らかになった。下層の亀甲紋や巴紋のついた蟇股には明和三年(一七六六)の墨書があって、この時は殆どの部材を取替える大修理で、下層隅虹梁上の板蟇股以外の絵様彫刻は江戸後期の様式に変えられている。その後も度々屋根葺替が行われ、明治二十二年には両翼廊が再び大修理を受け、屋根が桟瓦葺に改められた。後世の取替材が多数を占めているが、当初の部材も各所に残り、全国的に遺構の少ない一間一戸の楼門にして室町末期の建築様式をよく伝えている。」

 

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バックショット。

いい感じです。

 

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かくて参道は続いておりますが、掃き清められていないのはわざとなんでしょうか。

落ち葉がすごいです。

 

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「兵主(ひょうず)大社御由緒

御祭神 八千矛神大国主神

本地佛 三十番神 毎月二十八日守護 大日如来不動明王

御鎮座 奈良時代 養老二年(七一八年)

社格 延喜式内 名神大社

神紋 亀甲花菱紋・亀の甲羅に鹿の角

例祭日 兵主祭 五月三日・五日・六日

鮒寿司祭 十月下旬

特殊神事 八ケ崎神事 十二月第一日曜日

境内地 三二、四六三㎡

参道 約三百m 松約二百本

鎮守の森 楠の社叢林・紅葉

名勝庭園 二一、六八八㎡ 平安時代作庭

古建築 本殿 江戸 寛永二十年(一六四三年)

拝殿 江戸 天保十三年(一八四二年)

楼門 室町 天文十九年(一五五〇年)

文化財 白絹包腹巻・萌黄地白茶格子生絹袷小袖 木造神馬・鰐口・木造宝塔他」

 

由緒書はいくたあれど、本地仏まで掲載されているものは、今の世の中珍しいのではないでしょうか。

御祭神は「八千矛神」つまり「大国主神」だとされているようです。

 

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拝殿遠景。

 

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手水鉢には亀さんが。

 

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「兵主大社拝殿翼楼

建立年代 天保十三年(一八四二年)

改築年代 昭和十六年

 

拝殿翼楼の建物は中央の拝殿一棟と左右の翼楼二棟とが組み合った大型の建物で、県下ではたいへんめずらしい型のものです。東面して立つ楼門にもやはり左右の翼楼が付き、兵主大社独特の様式として踏襲されてきたものと考えられます。

現在は埋まっておりますが、平安時代末期には、拝殿翼楼の正面には建物に平行する形で水路が流れ、又本殿からの正中線上の川幅には橋がかかり、石敷の参道が楼門まで続いていました。

昭和十六年(一九四一年)皇紀二千六百年を記念して改築されましたが、天保十三年建立当時の部材も多く残り、天保時の大工は吉地村の長谷川若狭モ繁行、改築時の大工は比留田村の加賀爪忠左ェ門と棟札に記載されております。」

 

確かに、ちょっと独特の作りではありますが、

 

○こちら===>>>

「諏訪大社・下社春宮」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑「諏訪大社」の下社で見られた幣拝殿、に少し似ている気がします。

 

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本殿についての案内板なんですが……見えない。

いや、多少見えるか。

 

兵主神社本殿

(略)

兵主神社は、平安時代前期の「日本三代実録」や「延喜式」(名神大)に記載された、格式の高い神社である。

本殿は、正面を南東に向けた、桁行柱間が十一尺もある大型の切妻造檜皮葺の一間社で、正面に向拝をつける。建立は、棟札によると寛永二十年(一六■■)に上棟しており、大工は吉地村の谷川孫左衛門である。

江戸時代(前期)における神社建築、特に圏内で主流をしめる流造ではなく、一間社切妻造の貴重な遺構として価値の高いものです。」

 

 直接見られませんので残念。

そのほか境内には、

 

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「兵主大社旧護摩

建立年代 江戸時代後期

棟札によると寛政六年(一七九四年)十二月に、吉地村の大工、谷川若狭重道一族により上棟されて現在の形に改められたと思われる。本来は神社蔵の江戸初期絵図によると宝形造・二間四方・廻り縁付きで、兵主神本地仏不動明王)をまつる護摩堂として建立されたものである。

一部、丸柱・格天井などには中世の部材も多く残り、平成八年度の修理では、根継ぎ等による補強を加えて、歴史的な重みを加えることとなった。

又、内部には、氏子崇敬者三十六社の神々を祀り、江戸時代にはその御神徳は、現在の守山市・中主町・近江八幡市野洲町の二市二町にまたがる信仰圏を形造っていたものと思われる。」

 

護摩堂があります。

そうか、「兵主神」の本地仏は「不動明王」と考えられたのですね。

これは、どこの「兵主神」もそうなのでしょうか。

「宝形造」については、

 

○こちら===>>>

3.屋根の種類(屋根の形による分類)-切妻造とか入母屋造りとか(屋根の雑学知識)

 

↑の素敵ページでご確認を。

素敵です。

 

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こちらは……多分「伊勢神宮」遥拝所だったと思います……(うろ覚え)。

 

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右から左から。

 

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朱塗りの鳥居をくぐってすぐ右手に、「乙殿神社」と「天満宮」があります。

 

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「乙殿神社御由緒

祭神 稲背入彦神

菅原道真 天満宮(明治四十二年十一月十三日合祀)

 

縁起 養老二年(七一八年)兵主大神降臨にともない、五条小森立の地にあわせて鎮座する。兵主の神の主(氏の上)の祖神として現在に及ぶそれ以来豊積の里農地開田の神にして崇敬され、兵主祭渡し当番に際しては兵主十八郷の第一として神事を務め現在に至る。

(略)」

 

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豊臣秀吉が、天正十九年(一五九〇年)九月、京都の北野天満宮において兵主大社の大鰐口(鐘)を千利休の釜師、辻与次郎に鋳造させ奉納したとの記録が、『北野社社家日記』に記載されております。

天満宮は、その折、京都の北野天満宮より勧請したと伝えられております。

天満宮は、「天神さん」と親しまれ、特に学問の神様としてのご利益があらたかです。乙殿神社の本殿右側の社にお祀りされています。兵主大社並びに境内末社の乙殿神社の御参拝にあわせてどうぞお参りください。」

 

「乙殿神社」の御祭神とされている「稲背入彦神」は、

 

 

日本書紀〈2〉 (岩波文庫)

日本書紀〈2〉 (岩波文庫)

 

 

↑によれば、「景行天皇」の妃の一人「五十河媛」との間の子で、兄は「神櫛皇子」とされる「稲背入彦皇子」のことではないかと思われます。

神櫛皇子」は讃岐国造の始祖で、「稲背入彦皇子」は「播磨別」の始祖とされています。

補注を見ると、

 

「播磨別(略) 姓氏録、右京皇別、佐伯直の項に、景行天皇の皇子稲背入彦命の後で、男御諸別命が成務天皇のとき針間国を中分してこれを賜わり、よって針間別と号したとあり(略)」(p361)

 

とあります。

古事記』には「稲背入彦皇子」は登場しないのですが、兄の「神櫛皇子」は「神櫛王」として、「針間の伊那毘能大郎女(いなびのおほいらつめ)」と「景行天皇」の間の子として登場します。

「針間の伊那毘能大郎女」は、『日本書紀』では「播磨稲日大郎女」となっており、「大碓命」「日本武尊」の母親です。

景行天皇」は子沢山で、その子供を各地に封じており、それが「国造」「直」「稲置」といった地方領主的存在の始祖になった、ということになっています。

実際のところ、子供はたくさんいたとしまして、「景行天皇」の時代に、その軍門に下った氏族が多かった、という意味ではないかと思います。

で、「稲背入彦皇子」は、どうも「播磨」と縁が深そうなんですが、何故近江の「兵主大社」の末社に祀られているのでしょう?

「乙殿神社」という名前もなんだかよくわかりません……が、「弟殿」であれば、どうでしょう。

あまたいる「日本武尊」の異母兄弟(あるいは、同母兄弟かもしれません)なので、「弟殿」なんて呼ばれていた……というような妄想がはかどります。

「建部大社」がどの程度「日本武尊」と関係があったかはともかく、それと関係しそうな氏族がこの辺りにもいた、しかも、

 

養老二年(七一八年)兵主大神降臨にともない、五条小森立の地にあわせて鎮座する。兵主の神の主(氏の上)の祖神として」

 

ということは、「兵主神」以前からこの地にいた、いわば地主神だったのではないでしょうか。

まあ、だからなんだと言われると困りますが……。

 

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日が傾いているのがおわかりになるかと思います。

 

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ややボケてますが、荒々しい彫り方の狛犬さん。

 

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画面右手、格子の向こうに写っているのが「天満宮」でしょう。

瓦には亀甲紋があります。

 

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で、また謎なんですが、何故か屋根の上に兎さんがいるんですよね……。

うーん、「三尾神社」と関係あるのか……あるいは「大国主命」か……。

もやもやします。

 

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こちら、松並木の参道の前の道です。

広々と平野。

往時もこんな風景だったんでしょうか……。

 

 

素敵な神社だったのに、神職さんはお祭りの準備でお忙しいのか、御朱印はいただけず……。

遠くまで来て御朱印がいただけないと、ちょっときついです……。

 それだけが目的ではないので、全然いいのですが。

いつか庭園をぶらりとしてみたいものです。