べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「建部大社」(補)

さて。

ひたすら文章ですので、それでもいいという人だけ読み進めてください。

 

 

東海道名所図会〈上〉京都・近江・伊勢編 (新訂 日本名所図会集)

東海道名所図会〈上〉京都・近江・伊勢編 (新訂 日本名所図会集)

 

 

↑こちらから引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/カタカナをひらがなにした箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯 第7編

 

国会図書館デジタルコレクションでは117コマです。

 

「建部神社
勢田にあり。『延喜式』にいわく、名神大。当国第一の宮と称す。この地の生土神。例祭四月中午の日。
神大己貴命。相殿妃宮。天武帝白鵬四年(六七五)の鎮座なり。『三代実録』にいわく、貞観九年(八六七)七月十一日従四位下を授くと云々。」

 

……い、一の宮なのにこの扱い……。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 伊勢参宮名所図会. 巻之上

 

↑では、ということでこちら『伊勢参宮名所図会』(上)の33コマです。

 

「建部明神社 近江國一ノ宮なり 所祭大己貴命、天武帝白鳳四年の勧請、豊葦原一宮の中の其一なりと云。 【神社啓蒙】武部大社一宮大神天目一命なり云云。 【旧事紀】に見ゆ。(略)」

 

……あれ、当時はあまり人気の名所ではなかったのでしょうか。

いくつかの神社を除けば、江戸時代には仏閣が有力だとはいえ、なんとなく寂しいです。

ここまでで、祭神に幾つかの説がありそうだ、と気付きました。

現在の神社公式の御祭神は、「本殿:日本武尊、相殿:天明玉命、権殿:大己貴命です。

東海道名所図会』は、大己貴命、相殿:妃宮」、『伊勢参宮名所図会』では大己貴命、あるいは「天目一命」とあります。

神社の案内板では、

 

「由緒

当社は近江国一の宮と称えられ景行天皇四十六年(西暦三一六)四月神崎郡建部郷千草嶽に、日本武尊の御神■を建部大神としてお祀りしたのが創りである。

天武天皇白鳳四年(六七五)四月に近江国府のあった瀨田の地にお遷し此の国の守護神として仰ぎ奉られる様になった。天平勝宝七年(七五五)には孝徳天皇の詔により大和一の宮大神神社から大己貴命を勧請し権殿が奉斎せられ現在に至っている。」

 

となっており、「建部大神」というのが「日本武尊」であり、「大己貴命」は後から勧請したのに、江戸時代には「日本武尊」のことは忘れられていたのか、「大己貴命」を祭神と考えるのが主流だったようです。

ううむ。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 下編

 

↑の85コマでは、

 

「建部神社 名神大
(略)○祭神大己貴命、 一宮記 或云、天明玉命、 番神注  ○神領村に在す ○式三、 臨時祭 名神祭二百八十五座、 中略 近江國建部神社一座、 ○当國一宮也 一宮記 ○永万記、建部社、 神祇官菖蒲■
日本紀景行天皇巻に、初日本武尊娶両道入姫皇女爲妃、生稲依別王、 中略 是犬上君、武部君、凡二族之始祖也、」 又云、日本武尊、崩于能褒野、云々、欲録功名、即定武部、也」古事記、倭建命娶近淡海之安國造之祖意富多牟和氣之女、布多遅比賣、生御子稲依別王、 中略 犬上君、建部君等之祖、 旧事紀同じ 姓氏録、 右京皇別 建部公、犬上朝臣同祖、日本武尊之後也
(略)」

 

とあります。

明治時代の書物なのですが、祭神は明確に「日本武尊」とはなっていません。

後半で、『日本書紀』『古事記』の記事を引用して、「日本武尊」の子孫「建部公」のことが書かれています。

日本書紀』の、「日本武尊」の妃と子供は、

 

・両道入姫皇女(ふたぢのいりびめのひめみこ)>稲依別王仲哀天皇布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと)、稚武王(わかたけのみこ)

・吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ)>武卵王(たけかひごのみこ)、十城別王(とをきわけのみこ)

弟橘媛>稚武彦王(わかたけひこのみこ)

 

となっています。

古事記』でみると、

 

・布多遅能伊理毘賣(ふたぢのいりびめの)命>成務天皇

・弟橘比賣命>若建(わかたける)王

・布多遅比賣>稲依別王

・大吉備建比賣>建貝兒(たけかひこの)王

・玖玖麻毛理比賣(くくまもりひめ)>足鏡別(あしかがみわけの)王

・一妻>息長田別(おきながたわけの)王

 

となっています。

「布多遅能伊理毘賣命」は、「垂仁天皇」の皇女ということになっているのですが、似た名前の「布多遅比賣」という方がいるという設定が『古事記』で、『日本書紀』ではこの似た名前の姫二人を一人と考えているようです。

一方『古事記』の「布多遅比賣」は、近つ淡海の安国造の祖である「意富多牟和氣(おほたむわけ)」の娘ということになっており、「日本武尊」と近江のつながりはここにある、と言いたいようです。

しかし、「稲依別王命」が、のちに「犬上君」「建部君」の祖先となっており、それぞれが近江国に痕跡を残しているところをみると、「布多遅比賣」の父の存在が後付けなのかもしれません。

それはともかく、『神社覈録』が記紀を引用して、「建部神社」と「建部君」のつながりを示唆しながら、祭神はあくまで「大己貴命」としているのはなかなか興味深いです。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 特選神名牒

 

↑を見てみますと、

 

「建部神社 名神大
祭神 日本武尊
今按一宮記に祭神大己貴命とあり又一説に天明玉命ともあれど日本紀に初日本武尊娶両道入姫皇女爲妃生稲依別王云々是犬上君武部君凡二族之始祖也古事記に倭建命娶近淡海之安國造之祖意富多牟和氣之女布多遅比賣生御子稲依別王云々犬上君建部君等之祖とある安國造の近江に由ある又犬上君の犬上郡に由あるを思ふに建部神はきはめて建部君の祖日本武尊なるべしさるは姓氏録に建部公犬上朝臣同祖日本武尊之後也とある證とすべし故今之を訂せり(略)」

 

と、祭神が「日本武尊」になっています。

『神社覈録』の成立は1870年、『特選神名牒』は1876年と言われているようです(それぞれwikipediaによる)。

もっとも、『神社覈録』は江戸後期から編纂が進められていたようなので、情報がやや古いと考えられます。

とするとですね、明治政府は神仏分離をやったり、神祇判別をやったりして、とにかく日本中の神社の祭神を改めさせている、その動きの中で「祭神:日本武尊」が出てきた、と考えるのが妥当に思えます。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 古事類苑. 神祇部27

 

↑は、前二つよりさらに新しいものですが(56コマ)、

 

「建部神社
建部神社は近江國栗太郡神領村に在り、延喜の制、名神大社に列し、後本國の一宮と称す、現今官幣中社たり
(略)
[大日本國一宮記]建部神社 大己貴命也 三輪一体
[神祇正宗]建部大明神 是は伊弉諾尊子玉屋也、一名天明玉命
(略)
[近江國與地志略 四十栗太郡]建部大明神社 神領村にあり、往還の大路より東に入、北に折て社あり、社ある地少しく高く、後山につづく、宮山と號す、祭所の神大己貴命なり、
[神縁年録]景行天皇四十六 丙辰 年四月 庚午 日以、建部稲依別王命有神勅於同郡 ○神崎 建部郷 或一作武部 創建宮殿斎祭之依發神崎之名、蓋以稲依別王命、日本武尊之御子也、
(略)」

 

いくつもの資料からの引用が収録されており(↑はさらにその中からの抜粋ですが)、しぶとく「日本武尊」を御祭神にはしていません。

日本書紀

 

日本書紀〈2〉 (岩波文庫)

日本書紀〈2〉 (岩波文庫)

 

 

↑の景行紀によれば、

 

「因りて功名を録へむとして、即ち武部(たけるべ)を定む。是歳、天皇践祚四十三年なり」(p107)

 

とあり、「武部」の補注を見てみますと、

 

出雲風土記 出雲郡、健部郷の条に、景行天皇の武(建)部設定時のこととして郷名の由来を記す。建部は、紀に日本武尊の功名を録すために定めたとあることから、本居宣長以来、日本武尊の名代と考えられて来たが、最近では、津田左右吉をはじめとして、記紀に建部を日本武尊の後裔の如く記すのは建部の名から出た付会の説で、実際には武人であるがためにつけられた名であり、軍事的職業部の一つであるとする考え方が支配的である。

上田正明の調査によれば、古代における建部の分布は、東は常陸から西は薩摩にいたる各地域に及ぶが、ことに吉備・筑紫・出雲・美濃・近江など、大和政権にとって軍事上重要であったと思われる地域に、濃厚な分布が認められる。これらの建部は、武部君(略)によって管掌されており、孝徳天皇即位の儀に、犬上建部君が大友長徳連と並んで金の靫を帯びて壇の左に立ったとあること(孝徳即位前紀)や、宮城十二門の門号に達部門(のち待賢門)があること(略)は、建部氏が古来建部を率いて朝儀に奉仕し、宮門の警衛にあたったことを推測せしめるものといえる。」(p380)

 

という説が紹介されています。

記紀に建部を日本武尊の後裔の如く記すのは建部の名から出た付会の説で、実際には武人であるがためにつけられた名であり、軍事的職業部の一つであるとする考え方」……軍事的要素の強い人々が大和朝廷に加わっていく中で、その痕跡を残しておくために名前を「タケルベ」「タケベ」と付けた。

さらにそれを忘れないようにするために、「日本武尊」という伝説的な人物の業績に重ね合わされることとなった。

ということは、仮に「建部大社」の神を「建部大神」としますと、それが「日本武尊」のはずはない、わけですね。

そこで「大己貴命」が一般的に祭神と考えられている、と。

 

「 天平勝宝七年(七五五)には孝徳天皇の詔により大和一の宮大神神社から大己貴命を勧請」

 

↑神社の由緒書きにあるこちらは、どうも「孝謙天皇」のことではないかと思うのですが、この記事は『続日本紀』にはありませんので、神社独自の伝承かと。

ということで、「大己貴命」はあとからよっこいしょとやってきた御祭神なのか、それとも元々の御祭神を「大己貴命」に置き換えたのか、そのあたりはよくわかりません。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 近江栗太郡志. 巻4

 

↑の370コマから、「建部神社」の記事があります。

長くなりますが、しばらく引用してみたいと思います(改行はブログ筆者による場合あり)。

 

「建部神社
官幣大社建部神社は瀬田村大字神領に鎮座す、祭神日本武尊、相殿天明玉命、權殿大己貴命なり、

社伝に景行天皇四十六年四月稲依別王勅を奉じて神崎郡建部郷千草嶽に神宮を創建し日本武尊を奉斎し建部大神と号す、

天武天皇白鳳四年四月建部連安麿神と共に淡海に浮び南行し当郡瀬田郷に着せし時神勅あり、我れ永く此地に留り国家を鎮護すべしと、即ち朝廷に奏し瀬田の東、大野山上に社殿を建て祭祀したり、

天平勝宝七年三月少初位上建部伊賀麿は詔を奉じて大野山麓の広庭に遷し斎き奉る、是より近江一の宮と称す是今の社地なりと見ゆ、

社伝尊厳にして犯すべからずと雖も古来の正伝に非ずして近古に作成せし由緒縁起には往々附会の説を記せしものなしとせず、当社は京都東門の要衝に当る瀬田橋畔に在り、承久乱以来兵燹の災屢あり古来の文書記録烏有に帰し今存するもの天文末年の弓座記録を最古とす、当社唯一の由緒記たる神縁年録なるものも江戸時代のものにて記事一貫正鵠なりといふ可からず、

当社が始め神崎郡建部庄に祀られしといふもの或は建部の地名によりて附会されし説にあらざる歟、建部庄は景行天皇の四十三年に日本武尊生前の武功を紀念せん爲に勇武の名代部として定められし土地即ち武部にて、武尊の御子稲依別王は建部君、犬上君の祖たるは姓氏録に「建部公、犬上朝臣、同祖日本武尊之後也」とあり、又古事記景行記に「稲依別王者建部君等之祖也」と見へ武尊紀念の建部の名代部は諸国に置かれたり、今存するもの伊勢、美濃、出雲、美作、備前等にあり、神崎の建部も其一にして建部公犬上公は共に我近江に住し地名を留む、

当社は其子孫が奉仕せし社壇にして実に日本武尊を祭る唯一の神社なり、名代の地に神社を祭るは当然の事とは云へ他の諸国の建部の地に武尊を祭りし所無きにや、延喜式には建部神社は当社のみにて他に其社名を見ず、されば名代の地必しも社壇あらず当社も亦必ず建部庄にありたるものと断ずべからず、

建部庄は長く当社の社領たり社領建部庄によりて建部庄鎮座の説を生ぜしに非ざる歟、

次に天平勝宝七年三月少初位上建部公伊賀麿当社を大野山より現在の地に遷したりといふは日本紀に「天平神護二年七月己卯近江國志賀■大毅少初位上建部公伊賀麿賜姓朝臣」とある人にて勝宝七年より十一年後に少初位上に過ぎざる志賀軍団の大毅なり、位高からずと雖も建部公の子孫が武人として志賀団に在任したるは之によりて知らるるも、当時当社に神仕せし建部公の子孫も必ずあいたるべし、然るに十一年前にも同じ少初上位なる伊賀麿が遷宮せしといふもの日本紀の記事によりて作成せしにあらざるか、亦一点の疑なき能はず、蓋し三回の遷座ありたると否とは当社の由緒に深く甲乙する所無し、

然れども当社の如き国家の明神が此くも容易に遷座せられしといふは大理由の存せざる限りある可からず、御父景行天皇が志賀高穴穂宮に居ませしを懐へは編者は寧ろ上古より此地に斎祀ありしを信せんとす、蓋し社伝を破りて新説を主張するものに非ず、当社の尊厳を益々加へんと欲し聊考証を附するのみ、」

 

景行天皇四十六年四月稲依別王勅を奉じて神崎郡建部郷千草嶽に神宮を創建し日本武尊を奉斎し建部大神と号す、」

天武天皇白鳳四年四月建部連安麿神と共に淡海に浮び南行し当郡瀬田郷に着せし時神勅あり、我れ永く此地に留り国家を鎮護すべしと、即ち朝廷に奏し瀬田の東、大野山上に社殿を建て祭祀したり、」

天平勝宝七年三月少初位上建部伊賀麿は詔を奉じて大野山麓の広庭に遷し斎き奉る、是より近江一の宮と称す是今の社地なりと見ゆ、」

 

↑社伝を引用して、「建部大社」が三度にわたり鎮座場所をお憑りになった、と書いていますが、

 

「社伝尊厳にして犯すべからずと雖も古来の正伝に非ずして近古に作成せし由緒縁起には往々附会の説を記せしものなしとせず、」

 

として注意喚起しています。

また、各地に「建部庄」があったはずなのに、「日本武尊」が祀られた「建部神社」は、『延喜式』にはここだけしか掲載されていないことに疑問を持ち、「建部庄」と神社との関係や、『続日本紀』に登場する「建部公伊賀麿」という人物と三度目の鎮座を関連付けたりしています。

天平勝宝七年のことを書きながら、「大己貴命」を勧請したことは書かれていないようです。

 

「御父景行天皇が志賀高穴穂宮に居ませしを懐へは編者は寧ろ上古より此地に斎祀ありしを信せんとす、」

 

日本武尊」の父である「景行天皇」が「志賀高穴穂宮」(大津付近)に都を置いたことから、この辺りには昔から何らかの祭祀が行われていたのだろう、としています。

 

平治の乱に敗れし源義朝は東国に走り其子頼朝は未だ兵衛佐と称し十四歳の青年なりしが、一旦平氏の爲に捕へられ殺されんとせしに池禅尼の爲に助けられ伊豆國に流さるることとなれり、

頼朝は三月二十日京を出て近江路に入り其夜当社に参籠通夜して武運を祈りたること平治物語に見ゆ、其文巻壹平安朝時代の末章に掲げ置きたれば省く、永万元年六月神祇官より御年貢の藁二百束と菖蒲とを進納せしこと神祇伯白川家の文書に見ゆ、藁の貢進は当社と山城の松尾社、稲荷社、河内の平野社の四社に過ぎず、
(略)
寿永二年七月木曽義仲北國より来りて京に入らんとす、平知盛粟津に陣して瀬田を防ぐ、義仲の将太田倉光加賀より来りて瀬田を過ぎんとするに會し倉光は当社の森林中に陣し瀬田橋を破壊せり、

知盛の軍船に乗じて瀬田を渡り東岸に上陸して民家を焼き挑戦す、太田軍当社より出でて相戦ふこと二時に亘り互に死傷あり、知盛敗れて京に帰る、当社兵燹の事は見えざるも源平両軍が二刻、 今の四時間 に亘る激戦を演じたれば境内の狼藉名状すべからざりしならん、

翌元暦元年正月源範頼義経木曽義仲を討たんとして進軍せし時義経は宇治に進み、範頼は大手の将として瀬田に陣し三万の東国武士駐屯したれば殺気は湖畔に横溢し当社も必ず狼藉を受けたらん、

建久元年十一月七日源頼朝上洛の途次当社に参拝奉幣し神領を寄附せり、三十一年前に社頭に通夜祈願せし流人兵衛佐頼朝が今は征夷大将軍として上洛す、当社前に於ける今昔の感に堪へざるものあらん、

承久元年五月北條泰時の軍社地に入り火を放つ神宝旧記悉く灰燼せり、按ずるに此の放火は神官社僧等が夙に後鳥羽上皇の軍に応せし爲に請けたるものなるべし、当時近江國は守護佐々木広綱を始め武人より神官僧侶に至るまで多く官軍に応じて活動したれば東軍の爲に受けし狼藉は甚大なりき、社記に上皇の御祈願を見ざるも近江國中の大社寺には早く御祈願の事あり、菊の御紋所寄附の社伝は蒲生郡の沙々貴神社、坂田郡の山津照神社等に存する例によりて必ず当社に御祈願のありしは推想すべし、貞応二年将軍頼経社殿を造営し大刀神馬を奉納す是れ一昨年の兵火に報賽する所なり、」

 

↑源平の頃の記事です。

 

「彼の足利尊氏が京都嵯峨に天龍寺を建てし後ち古来当社の神領地たる神崎郡建部庄の幾部はその寺領に寄附されたり、按ずるに此の時代荘園の半租を武家に収められし所謂半済の地を天龍寺に寄せたるものならん、是に於て爾後当社禰宜天龍寺雑掌との間に訴訟起り年を重ねて権利を争ひしは永享四年十月幕府奉公人の執達状に

 

近江國、建部社禰宜天龍寺雑掌、相論、同國建部庄事、去年以来糺明之間、云々 足利時代志参照

 

と見ゆるに知らる、建部庄内当社の社領は始め七百石の広潤なる面積なりしが、武将が社寺公卿の荘園押妨を逞ふするに及び、社領はやがて佐々木氏の重臣伊庭氏に押領せられたり、

(略)

天龍寺の建立により古社領の幾部を失ひ、応仁乱による社会秩序の破壊により残余の社領を武家の爲に押領せられ、古来の祭典資無くして廃れたり、

明応七年社人等之を朝廷に愁訴す、九月後土御門天皇綸旨を下して神事の再興をせしめ給へり、忠富王記明応七年九月廿一日の條に、

 

江州勢田郷、建部明神之事、年来無神事之由、彼社人等歎申之間、内々申入候處、被聞召分、遮而被成下綸旨之由、被仰出、

 

江州勢田郷、建部明神之事、年来甲乙人等、寄事於左右、神田等、令勘落之間、神事有名無実云々尤不可然者也、早任先規、致神事之再興、可守御祈祷之由、可令下知給之旨、天気所候也、仍土啓如件
明応七年九月廿一日 左中辨守光

 

江州勢田郷建部明神之事、近年神事神田等有名無実云々、太以不可然者也、早可神事再興之由、綸旨如此、仍案文遣之 速任先規専神事可抽御祈祷精誠之旨本官所候也仍状如件、
明応七年九月廿一日 左衛門尉孝久」

 

室町幕府時代に「天龍寺」に社領を奪われ、「応仁の乱」で荒廃した神社を再興したい、という頃の記事です。

 

「鳳詔下つて神官僧侶等は神領神事の復古に奔走したり、然れども建部庄全部の復古は到底行はれざりき、

永禄元亀より天正文禄の間に於ける織田信長豊臣秀吉の庄園打破知行制度の実施の際に於ける両氏が当社に対する崇敬事跡は史料の欠乏によりて知り難し、

然れども慶長十七年の弓座記録によれば「建部御神田、初御検地より落候て以来、御供上申儀、久敷たいてん仕候處に、重阿弥、世々、馳走仕、少つつ寄進致申候事」と見へたれば、天正検地の時古来の神田は没収せられたるを知る、故に弓座人々は荒蕪を開墾して之を年番に自作して神事費に宛てたる等は社頭の振はざるを證するに足るべし、

慶長五年関ヶ原に大捷せし徳川家康は其臣戸田采女正を膳所城に封し勢多の要衝を守らしむ、采女正一西は同八年八月廿三日当社に神領拾石を寄附したり、元和三年本多縫殿佐康俊、同六年菅沼織部正定芳、同城主に転し神領元の如く安堵したり、
(略)
明治元年九月二十一日明治天皇東京行幸の際神祇判官事右近衛少将、植松雅言朝臣を奉幣使とし判事平田鐡胤を副使とし当社に参向せしめられたり、宣命文後記す、九年十月県社兼郷社に列す、十一年十月同天皇北陸御巡幸の途京都に行幸ありしが当社に幣帛料を奉納ありたり、十三年十月二十九日久邇宮朝彦親王参拝あり幣帛を奉らる、十七年三月令して以後毎年例祭に幣帛料を供進あらせらる、十八年四月二十二日官幣中社に昇格、六月十五日奉告勅使滋賀県令中居弘参向す、二十三年四月保存資金三百円下賜あり、三十二年七月十七日官幣大社に陞格」

 

↑安土桃山から江戸時代、そして明治に入っての記事です。

最終的に、官幣大社に昇格しています。

 

「祭礼古へは四月二の午なり今十五日に改む、正月十六日弓始の神事あり弓座の座人之を行ふ、八月七日納涼祭あり瀬田川供御瀬に神幸の式を行ふ、四月の大祭には古へ弓座十六人と金勝寺の武士三十人各甲冑を帯して警固せり、境内に文永七年 庚午 八月七日建つる所の石燈籠一基あり、 

(略)表門は膳所城の城門なりしが明治四年故城主本多康穣当社に寄附する所慶長年間の製作なり、境内に聖宮神社、大政所神社、藤宮神社、若宮神社四座の摂社、行事神社、弓取神社、箭取神社、蔵人頭神社等の末社あり、(略)」

 

↑この『近江栗太郡志』の発行は大正15年ですが、その頃には摂社末社が現代と同じように整えられていることがわかります。

こうしてざっと見てみると、「日本武尊」が御祭神であるにしろ、いまひとつ武功と結びついていないような気がします。

いえ、「源頼朝」や「徳川家康」は武功を挙げているのですが、あんまりそれが喧伝されていないような気がするんですよね……例えば「八幡大菩薩」、東国一の「諏訪明神」、「香取・鹿島大明神」といった武神の属性があまり濃くないような気がします、「日本武尊」ゆかりの神社にしては。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 近江の聖蹟

 

↑の15コマから。

 

日本武尊の子孫と近江 犬上君、建部君、息長田別王

西征東伐の偉勲を建て給ひし日本武尊薨去は御父景行天皇の最も御心を悩し給ふ所であつて、尊の薨後に尊の東征の跡を御追遊あり、又名代の地を建てて武尊の勲功を永久に伝へ給ふた、武部と称する地が是である、武部は建部となり諸国に地名が存してある、武尊は近江の安国造の女両道媛を娶りて御腹に稲依別王仲哀天皇外二弟を生み給ふた、書紀に「御兄稲依別王は是れ犬上君、建部君、凡そ二族の始祖也」と見へ、犬上は犬上の郡名を存し神崎郡に建部の庄名があり、官幣建部大社は始め建部の地に鎮座ありしを三遷今の瀬田河東に遷坐すと云ふ、犬上君の史に見ゆるは神功紀に仲哀天皇の庶子麛坂王の兵を挙げられし時其将軍となりし犬上君倉見別があり、推古紀に犬上君御田鋤あり、孝徳天皇の御即位の時犬上の健部君あり大伴長徳と共に金靱を帯びて大御座の左右に侍立せしこと紀に見へ、犬上の健部君とす、斉明紀に犬上君白鷹ある等犬上君の栄達せるを知ることが出来る、天武天皇の時犬上君に朝臣の姓を賜ふた、実にや新撰姓氏録左京皇別

 

犬上朝臣、出自諡景行天皇皇子日本武尊

 

と見へて犬上君は天武以後朝臣の姓を称することとなつた、即ち天平感宝元年正倉院文書に犬上朝臣真人、戸口、犬上朝臣都牙比賣、桓武紀に外従五位下、犬上朝臣望成、仁和元年七月十九日近江前検非違使犬上軍大領従七位上犬上春吉とあり平安朝には郡の大領となつて居る、序に記して置く可き事に武尊の子孫たる犬上君で無い犬上県主の一家がある、此家は姓氏録に「犬上県主、天津彦根命之後也」とありて神代に於る近江国開拓の恩神なる彦根命の子孫であると見へてあれば、坂田の息長家に二流あるが如く犬上の犬上家にも二流の貴族が住居された、犬上県主家の祖神は彦根山に祀られてあつた天津彦根神社であるべきは断定してよいが、武尊の裔なる犬上君の祭祀が隠れたのは惜むべきである、故吉田東伍博士は之を多賀の社なるべしと主張して左の意見を述て居る。

按するに多賀は犬上郡の大祀なれば犬上君の氏神なるべきは事理の当然なるに後人古事記の一本に拠りて伊邪那岐命を祭ると爲すは頗る疑はし、と。

建部君は景行天皇が武尊の薨後に生前の偉功を追賞し名代の地を定め給ふた時に「因て功名を録せんと欲し即ち武部を定むる也」と紀の文に見ゆるのがそれで、其地は近江国神崎郡の建部、出雲国出雲郡の健部、伊勢安濃郡の建部、美濃多藝郡の建部、石津郡の建部、備前津高郡の健部、美作真島郡の健部等現存の地名も少くない、然も建部の神は我近江国に鎮座ありて一の宮と尊崇されてある、続紀天平二十年正月の叙位に正六位上から従五位下に昇叙した建部君豊足があり、天平神護二年七月近江国志賀團大毅、少初位上、建部公伊賀麿に朝臣の姓を賜ふたことが続紀巻二十七に見へる、少初位上志賀團の大毅でも犬上君と同じく朝臣の賜姓ありしは此頃近江に於ける建部氏の正統であるべき歟
稲依別王の子孫なる犬上君建部君とは庶兄弟に当る息長田別王は武尊の御子でも異母であるが坂田の名代部に住し給ひて息を称せられたのであろう、田別王の子、材俣長彦王の女、息長中真若媛は応神天皇の妃となり、其御腹に稚渟毛二俣王を挙げさせられた、此の二俣王が坂田に住せられ其子孫から継体天皇が即位されて皇統は万世に一系するを得た。(略)」

 

前半は、「日本武尊」の子「稲依別王命」の後裔としての「建部氏」「犬上氏」のうち、「犬上氏」を取り上げています。

もっぱら「犬上氏」のほうが、朝廷では印象が強いようです。

ただ、その「犬上氏」には、「稲依別王」系と、別の系統の二流があるのではないか、とも書いています。

 

「其地は近江国神崎郡の建部、出雲国出雲郡の健部、伊勢安濃郡の建部、美濃多藝郡の建部、石津郡の建部、備前津高郡の健部、美作真島郡の健部等現存の地名も少くない」

 

いわゆる名代郡としての「建部」がいくつか掲載されています。

「建部氏」はあまりぱっとしませんが、「建部公伊賀麿」が最終的に「朝臣」の姓を賜っていることから、それなりに勢力を保っていた、と考えられるのかもしれません。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 官国幣社特殊神事調. 第3 (近畿地方)

 

↑では、「建部大社」の祭事について触れられています。

112コマです。

 

官幣大社 建部神社
(略)
○護国祭
祭日 二月四日
儀式 末社弓取神社・箭取神社の前庭に射場を設け、弓座の頭人二名、麻裃を著して参社、本社竝両末社に於ける祭典に参列し、祭典終つて一同弓場に著席、両頭人一人宛射場正面に進み出て各二矢を放つ。
由来 当神社旧記に「天武天皇白鳳四 乙亥 年四月 庚午 、依神勅建部連安麿等、與神共浮淡海、分波濤南行、終着栗太郡勢多之郷、神告曰、此地永爲鎮護国家之所、早可領知云々」とあり。蓋、護国祭の名称の起れる以所か。
日本紀」に「日本武尊曰吾得善射者欲與行、或者啓之曰美濃国有善射曰弟彦君 於是日本武尊喚弟彦公便奉石占横立及尾張田子之稲置乳近之稲置而来云々」とあり、弟彦公は即ち弓取神社の祭神に坐し、石占横立尾張田子之稲置・乳近之稲置は、即ち箭取神社の祭神に坐す。
又「弓座古記録」に「天武天皇白鳳四 乙亥 年四月 庚午 日、神告曰、同国栗太郡勢多郷、於大野山頂、可有創神宮由、速に蒙神験、夫より当地再建、其時建部村より平松重阿弥老神共、此地同居云々(中略)平松太田中井十六軒有、毎年正月十六日御弓始之御神事、半弓以天下泰平御武運長久悪魔化道打拂、五穀成就躬止給式例有、又二月四日大弓以右様相勤云々」とあり、又「同座記録式例定日之事」に「二月朔日は御的張の式例、朝五つ時之参会云々、五尺二寸之御的を張、星墨は御供をすり、■蕎木の灰にて色を付、是にて星を作る也、御的之ふち竹にから竹壹本、しのべ竹六本、古来より殿様御林之藪之内にて云々」ともある。
現今此の神事に奉仕する弓座は、平松太田二姓八軒ありて、弓取箭取両祭神の神裔と相伝ふ。毎年輪番を以て二名の頭人を出し、其の年の神事に関係奉仕す。慶長以来の奉仕者名簿今猶存す。」

 

「「日本紀」に「日本武尊曰吾得善射者欲與行、或者啓之曰美濃国有善射曰弟彦君 於是日本武尊喚弟彦公便奉石占横立及尾張田子之稲置乳近之稲置而来云々」」

 

↑この部分は、

 

 

日本書紀〈2〉 (岩波文庫)

日本書紀〈2〉 (岩波文庫)

 

 

↑の註によると、

 

「弟彦:未詳。記伝は大碓皇子美濃国の弟比売との間に生まれた押黒弟日子王(略)かとする。直木孝次郎は、建部・矢集に関係する人名・地名が美濃に多いことに注目し、美濃が皇室の軍隊供給基地として重要な地域であったとする。」

「石占:石占は伊勢国の地名。続紀天平十二年十一月条に「桑名郡石占頓宮」がみえる。(略)」

「田子:田子は尾張国愛智郡の地名。熱田神宮の東方、今、名古屋市瑞穂区。(略)」

「乳近(ちぢか):地名と思われるが未詳。」(p85)

 

といったことが書かれています。

境内末社のいくつかが、明らかに記紀神話の「日本武尊」の従者が祀られているところから、これらの末社がいっそ新しいものではないか、と考えてしまいたいです。

つまり、主祭神を「日本武尊」としたことから、これらの従者を末社にお祀りしたのではないかと。

「護国祭」とされるこのお祭りの起源も、それほど古くはないのではないか、と思えてきます(弓矢を使った祭事は古くからあったでしょうが、今のような形になったのは新しいのではないか、ということです)。

 

「○納涼祭
祭日
八月一日 榊立神事
同七日 納涼祭
同十六日 宵宮祭
同十七日 船幸

儀式
八月一日の儀
白木綿を垂れたる大榊二本を拝殿仮案に安置し、宮司以下祭典を執行し、後これを捧持して瀬田川北浜に至り、一本を船幸祭の神輿乗船場に挿立て、一本を榊船に移して、供奉榊職等乗船して瀬田川を下り、下田上村黒津浜(今尚供御瀬と称ふ此の處十七日船幸の際神輿御旅所となる)斎場に至り、之を立て、修祓竝祭儀を執行す。


八月七日の儀
当夕納涼祭を執行す。古例に依り素麺献備の儀あり。


八月十六日の儀
当日夕宵宮祭を執行す。


八月十七日の儀
当日早朝より神輿船竝供奉船二十餘艘を艤装し、各船の修祓を行ふ。神輿船は船首に大真榊を立て、五色絹を垂れ大鏡を懸け、四隅に忌竹を立て注連を張り高張を立つ。供奉船は凡て船首に紅白の絹を垂れたる真榊を立て、両舷に高張を立つ。
午後出御祭を行ひ、神輿北浜斎場より乗御船に奉安、供奉員各分乗、奉楽裡に供御瀬に下航す。是より先、下田上村別宮村社毛知比神社若宮・村社新茂智神社両社の神職及氏子総代等、神饌を捧持して着御を待つ。此處にて献饌、巫女神楽奉奏等ありし後、各船点火徐々に瀬田川を遡上し、北浜に着御、午後十時頃還幸。


由来 「日本紀」に日本武尊則従上総転入陸奥国、時大鏡懸於王船、従海路廻於葦浦、横渡玉浦至蝦夷境」とある御事蹟に因めるものと云ふ。「当神社旧記」に「七月七日御涼之神事、素麺献之、神輿若宮江渡御、帰座黒津御供献之、今俗云供御之瀬此所也」と云ふ。即ち往昔は七月七日神輿御船にて瀬田川を航して本部下田上村大字關津鎮座の若宮新茂智神社(日本武尊の御子稲依別王命を祀る新餅の宮と号し古来最有名なる神社なり)に神幸し、帰途南郷浜黒津にて御供を献ずるの儀あり、以て当時の盛儀を想像するに足る。然るに何れの頃よりか此儀久しく廃絶して、僅に八月七日社頭に於ける祭典のみ行はれ居たりしが、大正四年御大典記念事業の一として古式を再興す。」

 

「船幸祭」を含む「納涼祭」の様子です。

古い祭礼が復活したのは大正時代のことのようです。

日本書紀』にある、

 

日本武尊則従上総転入陸奥国、時大鏡懸於王船、従海路廻於葦浦、横渡玉浦至蝦夷境」

 

↑という部分にちなんだ祭ではないか、とのことですが、船使うようなお祭りは、「天王祭」じゃないんでしょうかね……「牛頭天王」の祭礼です。

 

とまあ、乱雑に引用だけしてみました。

こういった資料から、何か思いついたかたは、こっそり私に教えてください。

私は何にも浮かびません。

 

 

 

とはいえ、妄想しておかないわけにもいかないので……ええと……あ、そうだ。

記紀神話などには、「建・武(タケ)」という接頭辞のある神が何柱か出てきます。

タケミカヅチ」「タケミナカタ」だけでなく、「タケハヤスサノオ」だったり、いろいろです。

ところが、「タケル」という名前の神(人)が出てくることがあまりなく、その第一は「素戔嗚尊」の御子神である「五十猛(たける)命」だと思われますが、以降もあまり出てきません。

そしてある時期からは、「タケル」というのは「魁帥」とか「建」「武」となって、天孫他に従わないものたち(出雲、熊襲などのまつろわぬもの)の中に現れます。

これらを率いる首領格の名前、ですね。

で、「日本武尊」は、この「タケル」という名前を奪う呪術によって、英雄となったのです。

するとですね、後世どうなったのかはともかく、「タケルベ」と呼ばれた土地というのは、「元々まつろわぬ民の、しかも戦闘に長けた氏族」がいた地域だったのではないか、と。

いずれかの時期に大和朝廷の軍門にはくだったのでしょう、これら「タケルベ」の者たちは、使い方によっては勇敢で戦力となりますが、何かのはずみで敵に回れば「この上なく面倒くさい」存在だったのではないでしょうか。

もちろん、移住させたりすることはできたでしょうが、それよりもですね、「タケルベ」と居住地に名前をつけることで、「時が経ても、その場所に住んでいる氏族が強力で危険であること」を残せます。

日本全国に残る「タケルベ」「タケベ」という地名には、実はこういった意味があったのではないでしょうか(もちろん、「日本武尊」を始めとする朝廷側の侵略軍によって、粉砕されていったのでしょうが)。

そして、『延喜式』にも名前の掲載されている「建部大社」、実は古代において最強の「タケル」が根拠地としていた場所なのではないでしょうか。

「建部大神」と仮に呼ぶことにしましょう。

誰かはわかりませんが、朝廷とは敵対する氏族の「タケル」。

朝廷は必死になってこの「タケル」を排除した(何しろ、琵琶湖の出口瀬田川あたりを押さえていたと考えられます、飛鳥に陣取った朝廷としては、何としてもその辺りは押さえておきたいでしょう)。

一方で、「建部大神」は多分、かなりの力を持つ怨霊になったものと思われますから、「日本武尊」という古代最強の英雄によって一つ封印をし、さらに「大己貴命」というこれまたおそらく日本最強クラスの怨霊神を持ってきて、隣に置いた。

 

 

 

ううむ、考証の価値はなさそうですが、なかなかの妄想だと思います。

 

 

 

ところで、相殿のご祭神「天明玉(あめのあかるたま)命」というのは、『日本書紀』神代の一書によれば、「伊弉諾尊」の御子神で、「玉作(たますり)」の祖、とされ、「八尺瓊の勾玉」を作ったとされています。

どうして、この神が相殿なんでしょうね……。

天明玉」のは、他の一書では「羽明玉(はかるたま)」となっています。

「ハカル」は「計る・量る」だったのではないか、とも言われています。

 

 

 

この辺りを組み合わせると、もう少しいい感じで妄想ができるような気がするんですよね……。

 

 

 

というわけで、もやもやしたままで今回は終わりたいと思います〜。

また何か思いついたら、いつか書きたいで〜す。