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べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「弘文天皇陵」「新羅善神堂」〜近江めぐり〜

4/30。

 「三尾神社」から「長等神社」に行こうと思ったのですが、案外距離があったのでちょっと躊躇う。

他にも目的地がありますもので……というわけで、裏目的地に向かうことに。

 

○こちら===>>>

www.shiga-miidera.or.jp

 

新羅善神堂」です。

三井寺」の広大な境内を北の端まで、そこから大津商業高を左手に見ながら歩きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

遠い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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と、道の角に「弘文天皇御陵参拝道」の碑を発見。

ううむ、「弘文天皇陵」のことは全く気にしていなかった。

このまましばらく西に向かったのですが、どうもそういったものがありそうにないので、途中で戻り、細い道を南下……これで合っているのか、と思うほどに人気のない道なのですが……。

 

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合っていました。

 

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ちゃんと宮内庁管理下。

 

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丁寧に整備されていました。

それにしても驚くほど人がいないこと……。

 

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西側から。

 

さて、「新羅善神堂」はどこだろう……とちょっとうろうろしてみると、

 

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鳥居を発見。

 

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この右手に、

 

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進んでいくと、ありました。

 

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新羅善神堂

堂は三間四方の流れ造り、屋根は桧皮葺きの美しい建物で、国宝に指定されている。暦応3年(1339)足利尊氏が再建した。

新羅明神園城寺開祖智証大師の守護神で、木造新羅明神坐像も国宝。源頼義の子義光がここで元服新羅三郎義光となのつたのは有名である。」

 

国宝……なのに人は一人くらいしかいませんでした。

三井寺」は賑わっていたのになぁ……。

塀が高いので、美しい流造の社殿はなかなか見られませんが、

 

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門の合間から失礼いたします。

うーん……本当に人がいなくて、このまましばらくぼーっとしていたような静寂の中でした。

が、そうもいかないので。

 

さて。

 

 

東海道名所図会〈上〉京都・近江・伊勢編 (新訂 日本名所図会集)

東海道名所図会〈上〉京都・近江・伊勢編 (新訂 日本名所図会集)

 

 

↑こちらから引用してみたいと思います(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

77ページ。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯 第7編

 

国会図書館デジタルコレクションでは、50コマより。

 

新羅太神社
寺門北院北谷にあり。五社鎮守のその一なり。貞観十七年(八七五)、智証大師の勧請(招請)。貞和三年(一三四七)、足利尊氏(一三〇五ー五八)再営。祭神素戔嗚尊清和天皇(八五〇ー八〇)等身の神像を鎮す。相殿に般若童子・宿王童子を安ず。右に火御子祠あり。新羅清和源氏なり。鎮守府将軍源頼義(九八八?ー一〇七五?)の三男を、新羅三郎義光(一〇四五ー一一二七)と号す。
社伝にいわく、「文徳帝(八二七ー五八)仁寿年中(八五一ー八五四)、智証大師入唐し、天安二年(八五八)六月八日に、帰朝の海路に趣きたまう。同月十八日酉の刻、素髪の老翁忽然として海上に現われ、我は新羅明神なり。高僧の教法を護り、慈尊(弥勒菩薩)出世に到るべしと、いい終って見えず。上洛の時、この神また出現したまう。大師奏問し、勅を蒙り、初め鴻臚館にとどめ、その後三井北院に移す。また本地堂には、五字文殊を安置す。神代の時、素戔嗚尊・五十猛振命と三韓を征し、神霊かの地に止まること神秘あり」。」

 

御祭神が「素戔嗚尊」になっているのですね、『東海道名所図会』では。

「神代の時、素戔嗚尊・五十猛振命と三韓を征し、神霊かの地に止まること神秘あり」

……というのは、

 

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

 

 

↑神代紀にある、

 

「一書に曰はく、素戔嗚尊の所行無状し。故、諸の神、科するに千座置戸を以てし、遂に逐ふ。是の時に、素戔嗚尊、其の子五十猛神を帥ゐて、新羅国に降到りまして、曾尸茂梨の処に居します。乃ち興言して曰はく、「此の地は吾居らまく欲せじ」とのたまひて、遂に埴土を以て舟を作りて、乗りて東に渡りて……(略)……初め五十猛神、天降ります時に、多に樹種を将ちて下る。然れども韓地に殖ゑずして、尽に持ち帰る。遂に筑紫より始めて、凡て大八洲国の内に、播殖して青山に成さずといふこと莫し。所以に、五十猛命を称けて、有功(いさをし)の神とす。即ち紀伊国の所坐す大神是なり。

「一書に曰はく、素戔嗚尊の曰はく、「韓郷の嶋には、是金銀有り。若使吾が児の所御す国に、浮宝は有らずは、未だ佳からじ」とのたまひて、乃ち鬚髯を抜きて散つ。即ち杉に成る。又、胸の毛を抜き散つ。是、檜に成る。尻の毛は、是柀に成る。眉の毛は是櫲樟(くす)に成る。已にして其の用ゐるべきものを定む。乃ち称して曰はく、「杉及び櫲樟、此の両の樹は、以て浮宝とすべし。檜は以て瑞宮を為る材にすべし。柀は以て顕見蒼生の奥津棄戸(おきつすたへ)に将ち臥さむ具にすべし。夫の噉ふべき八十木種、皆能く播し生う」とのたまふ。時に、素戔嗚尊の子を、号けて五十猛命と曰す。妹大屋津姫命。次に柧津姫命・凡て此の三の神、亦能く木種を分布す。即ち紀伊国に渡し奉る。(略)」(p98〜102)

 

という部分、「素戔嗚尊」とその御子神五十猛命」が、半島に渡ってそこから木々の種子を持ち帰って日本に植えたという神話によります。

日本に戻ってきたはずの「素戔嗚尊」ですが、神霊は新羅に残っており、それが「智証大師」の帰朝にくっついてきた、と言いたいようです。

三井寺」で購入した図録『不死鳥の寺 三井寺』には、

 

「……やはり三井寺独自の護法神と言えば、有名なのは新羅明神(しんらみょうじん)である。

天安二年(八五八)六月、渡唐していた大師が帰途についた海上で、風雨が強まり、船が激浪にもてあぞばれていた際に、その姿を現わした。台州を離れてから十日目である。『寺門伝記補録』巻一に伝えるところによると、素髪の翁が船中に現われ、大師に告げる「我は是れ新羅国の神なり、我将に師の教法を護り慈氏大生の日至らしめん」といって姿を消したが、新羅明神の加護により船は無事九州に到着することができた。新羅明神のことについては、大師の『行歴抄』にも、三善清行の『円珍伝』にも記載のないところから、山門との確執が増大することから、寺門の護法神として強く意識されてきた神で、山門の赤山明神に対応するものであったとされている。現在北院の新羅善神堂に奉祀される秘像は、神像としては異相で、恐ろしい姿である。十一世紀頃の寺門の明神に対する期待を一身に表わした姿である。新羅明神は異国の神であるが、大師とともにわが国へ渡り、弥勒菩薩(慈氏)がこの世に出る五十六億七千万年のちまで、ここに留まって、大師の法を守ると告げている。大師が中国から請来した一千巻の経疏を保管する場所についても、山王権現比叡山上山王院が良いとしたのにたいして、新羅明神は現在の三井寺の地を主張し、結果として、貞観元年(八五九)に長等山東麓の三井寺唐坊とされたと伝えるが、この説話にも、山門寺門の争いが影を落としている。寺門護法神としての新羅明神の面目を表している。

新羅明神はまた、永承六年(一〇五一)に源頼義前九年の役の出陣に際し、kの神の前で戦勝を祈願した事から、源氏との関係が深くなる。のちに、三井寺が源氏の氏寺と称せられるようになるはじめである。頼義の子である義光が明神の神前で元服し、新羅三郎義光と名のり、その子供である覚義を出家させて北院に金光院を創建したという。頼義、義光ともに晩年をこの地で過ごしたとされるなど、新羅明神武家の棟梁とされる源頼義父子三代と関係は深く、その後も治承四年(一一八〇)、源三位頼政の平家討伐の旗揚げの折、三井寺に拠り、源頼朝は戦勝ののち領地を三井寺に施入、実朝も寺の再建に力をかしている。」(p106)

 

とあります。

 

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ちなみに、購入した絵葉書がこちら。

向かって右側の下にいるのが般若童子・宿王童子」、左の束帯姿の神が「火御子」だとされています。

何か意味があるはずなのですが、謎です……。

像のほうは、

 

○こちら===>>>

www.shiga-miidera.or.jp

 

↑に紹介されていますが、秘仏なので写真はありません。

比叡山」には、山門の赤山明神」と呼ばれる護法神があり、こちらは「智証大師(円珍)」より先に入唐していた「慈覚大師(円仁)」が持ち帰った神で、「泰山府君」のことだと言われています。

「泰山府君」は「東岳大帝」で、「閻魔大王」とも近しく、要するに生死を司ると考えられていた神、だと簡単に思っていただければいいかと。

ええと……ちょっと時間がないので、続きます〜。