べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「三井寺」(補)その2

さてはて。

 

○前回===>>>

「三井寺」(補)

 

に引き続いて、『東海道名所図会』からの引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

 

東海道名所図会〈上〉京都・近江・伊勢編 (新訂 日本名所図会集)

東海道名所図会〈上〉京都・近江・伊勢編 (新訂 日本名所図会集)

 

 

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯 第7編

 

↑であれば55コマあたりから。

 

 

「灯幡石檀

金堂の前にあり。天智天皇潜竜(東宮)の日、逆臣入鹿を誅し、その罪根を悔いて伽藍を創し、真法供養を修するの遺跡なり。また金堂内陣の三灯は、中央仏法繁栄を擬し、左は聖朝安泰を祈り、右は国土豊饒を期す。大師鴻基を開くの日、まず道場に入って三灯を挑ぐと云々。」

 

 

↑「金堂」の前にあった灯籠です。

天智天皇潜竜(東宮)の日、逆臣入鹿を誅し、その罪根を悔いて伽藍を創し」……まだ「天智天皇」が「中大兄皇子」だったころ、「中臣鎌子鎌足)」とともに「蘇我入鹿」を討った、という日本史を習うと最初にインパクトを覚える「乙巳の変」のことですが……逆臣を誅したわりに、その罪を悔いて寺を建てる、というのがスケールが大きいのか小さいのか。

しかし、「怨霊」(呼び名はともかく)を恐れていたとしたら、理由はわかります。

厩戸皇子」が「物部守屋」を倒すのに四天王の力を借りたように、力ある最新技術を持って「蘇我入鹿」の「怨霊」を封じ込めようとした、のでしょう。

ただ、「怨霊」というのは当然恨んでいるわけです。

恨みの主体は「恨まれる方」ですから、「中大兄皇子」が本当に「逆臣を誅した」と思っているのであれば、それは皇太子として正当な行為であるとも言えますから、「恨まれる筋合いはない」ですね。

しかし、「恨まれた」と信じた……ということは、「蘇我入鹿」が「逆臣」ではなかった、と考えられるのではないでしょうか……という説は様々な歴史作家さんが提出されていますので、そちらを調べてください。

蘇我入鹿」の鎮魂のために伽藍を創建した、というものは、「三井寺」の伝承なので、そういった説もあるかもね、くらいにしておきましょうか。

 

 

「経蔵
梵鐘の側にあり。尊氏将軍一切経を蔵む。自筆の奥書あり。また慶長七年(一六〇二)に、唐本一切経毛利輝元寄付す。

(略)

正法寺
南院にあり。初めは聖願寺と号す。世俗巡礼観音、あるいは高観音とも称す。西国巡礼十四番札所なり。
本尊如意輪観音、脇士(左愛染、右毘沙門)。『寺門伝記』にいわく、「後三条院(一〇三四ー七三)御願寺なり。延久四年(一〇七二)の春、後三条帝不与(病)、月を累ねて平癒せず。時に大僧都禎範、詔を奉けて一寺を建てて、金色等身如意輪観音像を安置して祈るに、たちまち日を経ずして御悩平癒す」。ある人いわく、正法寺は初め南院山上にあり。文明九年(一四七七)三月一日、大衆の瑞夢(演技のよい夢)によって今の地に移す。男女の詣人結縁のためなりとぞ。
福神石
正法寺奥院にあり。石塔婆・角石・俵石の三石をいう。由縁詳らかならず。
大悲閣
正法寺本堂、艮(東北)の方にあり。方三間半。慶長十年(一六〇五)、これを建つる。近江の八景眼下に見わたし、晴天には沖の島・竹生島など遥かに見ゆる。また中秋の月を賞するの佳景なり。灩々たる銀潢、碧空を貫くの高閣なり。


(略)

尾蔵寺
近松寺の北にあり。三井五別所のその一なり。開基智証大師、中興慶祚阿闍梨。いにしえは尾蔵寺谷に八十坊あり。今わずかに五房存す。本尊十一面観音を安図。頭は弁天、胴体は毘沙門、足は大黒天なり。故に三福観音とも称す。また笠脱観音ともいう。むかし詣人群をなし、思わずも笠ぬげしより異名となる。また西の方一町ばかりに慶祚阿闍梨入定の地あり。伝えいう、寛仁三年(一〇一九)十二月二十二日入定、年六十五。寺門灌頂修行の始祖なり。

(略)

微妙寺
関山の北、尾蔵寺の西にあり。三井五別所のその一なり。開基慶祚阿闍梨。むかしは九十六房あり。今わずかに五房存す。本尊十一面観音。また薬師仏を安ず。これはむかし志賀寺の霊仏なりとぞ。志賀寺は崇福寺をいう。また如意寺の本尊観音をここに移す。また北向不動尊境内に安ず。これは智証大師七度加持(加護祈念)の尊容にて、園城寺四方にこの尊体を安置するその中の一体なり。

 

水観
寺門惣門の下、路の北にあり。三井五別所のその一なり。本尊薬師仏を安ず。『寺門伝記』には十一面観音と記す。開基大僧正明尊(九七一ー一〇六三)。」

 

三井寺」の別所と呼ばれた寺院です。

 

 

「村雲橋

寺門の前にあり。伝えいう、智証大師北嶺より寺門へ帰りたまう時、この橋上を過ぐるに、西の天に火気あり。大師疾く曉していわく、今唐の青竜寺に火炎の難ありとて、橋下の流水を汲んで、西の方へちらしたまえば、たちまち雲霧のごとくなって、西天に行くこと風のごとし。ややしばらくして火気みな消ず。大師これを見て、火害穏やかなりとて安堵したまう体なり。弟子等不思議に思えども、問うことなし。果たして翌年青竜寺より書翰(手紙)を贈る。その辞にいわく、去んぬる火災の節、東方より車輪のごとく膏雨(草木をうるおす雨)降り来たって、速やかに火害消じ、伽藍院宇回禄(火事)を免る。これひとえに尊師の厚恩なりと慶謝す。弟子等これを見て、凡身ならざることを知れり。故に村雲橋となづく。」

 

「唐院」の前にあった、「村雲橋」です。

 

 

大友皇子
懐風藻』に出ず。この書は天平勝宝三年(七五一)、淡海三船撰するところなり。三船は大友皇子の曾孫。葛野王の孫。池辺王の子なり。

「淡海朝大友皇子(六四八ー七二)詩二首
皇太子は、淡海帝の長子なり。魁岸奇偉(偉丈夫)。風範弘深。眼中精耀。顧盼煒燁(振返りみる時の輝かしさ)。唐の使劉徳高、見て異なりとしていわく、この皇子、風骨、世間の人に似ず、実にこの国の分にあらずと。
嘗て夜夢みる。天中洞啓し、朱衣の老翁、日を捧げて至り、擎げて皇子に授く。たちまちに人あり、腋底(小門の辺り)より出で来て、すなわち奪い将ち去ると。覚めて驚き異しみ、つぶさに藤原内大臣に語る。歎じていわく、恐らくは聖朝万歳(崩御)の後に、巨猾の間■(天位をねらう)有らん。しかれども臣平生いわく、あにかくのごときごとあらんや。臣聞く、天道親なし、ただ善をのみこれ輔くと。願わくは大王勤めて徳を修めば、災異憂うるにたらざるなり。臣に息女あり。願わくは後庭に納れて、もって箕帚の妾(妻)に充てんと。ついに姻戚を結んで、もってこれを親愛す。
年莆めて弱冠(二十歳)、太政大臣を拝す。百揆(数多の事)を総べてもってこれを試む。皇子博学多通、文武の材幹あり。始めて万機に親しむに、群下畏れて粛然たらざるなし。年二十三、立ちて皇太子となる。広く学士(学者)沙宅紹明、塔本春初、吉太尚、許率母、木素貴子等を延きて、もって賓客となす。太子天性明悟(悟りが早い)。雅より博古を愛す。筆を下ろせば章となる、言を出だせば論となる。時に議者その洪学(博学)を歎ず。未だ幾ばくならずに文藻(文才)日に新たなり。壬申の年(六七二)の乱に会いて、天命遂げず。時に年二十五。

(略)

大友皇子の詩藻ここに戴することは、園城この皇子の古跡によってなり。『日本紀』に、大津皇子(六六三ー八六)詩賦(漢詩文)を作る初めと書す。すでにもって大友、大津に魁んじて風藻(騒)あり。予按ずるに、大津皇子より本朝詩賦の規則定まるによって、初めと記せしものならんか。」

 

天智天皇」は、「大海人皇子天武天皇)」を皇太弟としていましたが、本音では息子である「大友皇子」に皇位を譲りたかった、それを察した「大海人皇子」は出家するといって吉野に逃れます。

そこから古代最大の内乱といわれる「壬申の乱」が勃発します。

大友皇子」は、「近江(淡海)朝」といわれた「天智天皇」の朝堂を受け継ぐ皇太子であり、通常天皇薨去して次代が即位しないことが不自然であることから、今では「「天智天皇」亡き後、「大友皇子」が皇位についていた」とする説が優勢です。

大友皇子」に「弘文天皇」という諡をしたことも影響しているかもしれません。

三井寺」は「大友皇子」(の子)の領地に建てられた、というのが伝承ですので、必然的に「大友皇子」関係の話も多くなっているのでしょう。

淡海三船」は、

 

○こちら===>>>

淡海三船 - Wikipedia

 

↑でざっと見ていただけるとわかりますが、「大友皇子」の子孫で、歴代天皇に漢風諡号をつけることに関係していたと思われます。

この人(だけではありませんが)がいなければ、我々は歴代天皇を記憶するのが大変だったかもしれません(受験生には非常にありがたい方、でしょうか)。

和風諡号もちゃんと教えるべきだと思いますが……私も覚えてはいません(残念)。

 

さて、別のものも眺めてみましょう。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 古事類苑. 宗教部25

 

↑の31コマから。

 

園城寺
園城寺は、一に三井寺と云ふ、近江国滋賀郡長等山に在り、弘文天皇の皇子與多王、父帝の遺詔に由りて創建する所なり、中世延暦寺の僧円珍の之を再興するに及び、其徒叡山に於て、円仁の徒と相争ひ遂に、相率ゐて此寺に移り住す、是より寺運漸く熾盛なりしと雖も、延暦寺と相鬩ぐこと幾度水火の如く、天台宗中、別に寺門の一派を立て、此寺乃ち其総本山となるに至れり。
崇福寺は、又志賀寺と云ふ、天智天皇御願寺にして、其旧跡今尚ほ園城寺の傍に存す
(略)


[近江国與地志 十 志賀郡]
(略)
園城寺
天武天皇御即位ありて後、與多、遺命のことを奏す、天皇叡感ましまして、累朝崇重の光明全身の弥勒如来を此地の本尊として、乃額を園城と賜ふ、これ與多が荘園を寺とする所以なり、或曰、此寺志賀の都の御園に隣れり、故に園城寺と号す、しかれども與多が荘園を寺とするなればの説是なるよし、三井の記録にしるせり、又天竺の祇園精舎をうつすの説あれど、煩しければ不載、與多も亦兵器を摧折し、金銅を銷鑠し、弥勒仏を造立して、堂内に奉納す。」

 

↑この辺りを読みますと、「天智天皇」が近江に、「蘇我入鹿」鎮魂のために伽藍を建てた話となんとなく似ているように思います。

伝承ではありますが、「天武天皇」が勅額を下して、「天智天皇」の孫で「大友皇子」の息子の「大友與多王」の建てた寺院を認めたわけです。

天智天皇」が「蘇我入鹿」の「怨霊」を恐れたように、「天武天皇」も「大友皇子」の「怨霊」を恐れ、俗な言い方をすればその子孫を「買収した」のかもしれないです(「大友皇子」の子孫だって、生き残らなければいけませんから、口をつぐんだのかもしれないです)。

 

 

「[今昔物語 十一]智證大師初門徒三井寺語第廿八
(略)大師斯く聞て、彼の有つる僧房に行て見れば人気も无し、但し荒たる一の房有り、年極て老たる僧一人居たり、委く見れば鱗骨などを食ひ散たり、其香■き事无限し、是を見て僧の房に有る僧に、大師問て云く、此の老僧は何なる僧ぞと、僧答て云く、此の老僧は年来、此の江の鮒を取り食ふを役とせる者也、其外に便に爲る事无しと、大師此の事を聞き給ふと云へども、猶僧の體を見るに貴く見ゆる、定て様有らむと思て、老僧を呼出て語ひ給ふ、老僧大師に語て云く、我れ此の所に住して、既に百六十年を経たり、此寺は造て後、■歳に成ぬ、弥勒の出世に至まで可持き寺也、然るに此寺可持き人无かりつるに、今日幸に大師来り給へり、然れば此寺を永く大師に譲り奉る、大師より外に可持き人无し、我れ年老て心細く思つる間、かく伝へ奉つる事、喜ばしきかなやと云て泣々く帰ぬ、其時に見れば、唐車に乗たる止事无き人出来れり、大師を見て喜て告て云く、我れは此寺の仏法を守らむと誓へる身也、而すに今聖人に此寺を伝へ得て、仏法を弘め可給ければ、今よりは深く大師を頼むと契て返ぬ、此人を誰とも不知らず、然れば共に有る■大師是は誰人の御するぞと問ふに、是は三尾の明神の御ます也と答ふ、然ればこそ只人には非ずと見つる人也、此の老僧の有様、猶ほ委く見■思て、其房に返り至るに、初めは臭かりつるに此の度は極て馥し、然ればこそと思て入て見れば、鮒鱗骨と見つるは、蓮華の萎鮮なるを、鍋に入て煎食ひ散したり、驚て隣なる房に行て、此の事を問ふに、僧有て云く、此の老僧をば教代和尚となむ申す、人の夢には、弥勒にてなむ見え給ふなると、大師是を聞て彌よ敬ひ貴て、深き契を成して返ぬ、(略)」

 

↑こちらは『今昔物語』からの引用で、「智証大師」が初めて「三井寺」に来たときのお話です(後半のみ引用しています)。

概略しますと、

 

「「智証大師」が荒れた僧坊に入ると、年老いた僧侶が一人いた。(魚の)鱗や骨を食い散らかしている。ある僧に「この老僧はいったいどのような方なのか」と尋ねると、「この川の鮒をつかまえて食べるのがお役目で、他には何の役にも立たない」といった。しかし大師には尊い姿の見えたので話しかけると、老僧は「私はがここにきてから160年が経っている。この寺は、弥勒降臨までも永らえる寺であるが、その役目に足る人がいなかった。今日幸いにも大師がお見えになり、寺を譲り渡すことができる。大師の他にその役を担える方はいない。長年の役目で心細くなっていたが、こうして伝えられてとても喜ばしい」と泣きながら帰ろうとするその時に、唐車に乗った貴人が現れて、大師を見て喜んで、「私はこの寺の仏法を守るものである」と言った。老僧は「今、聖人に寺を譲り渡し、仏法を広めてくださるので、これからは大師を頼む」と言って帰った。大師は「この貴人はどなたか」と尋ねると、「これなるは三尾明神におわします」と言った。なるほど、やはり老僧はただの僧侶ではない、と思って僧坊を見ると、魚の骨や鱗だと思っていたものは、蓮華の茎や花びらだった。驚いて、隣の房の僧侶に尋ねると、「その老僧は教代和尚とおっしゃって、人の夢には弥勒菩薩のように見えるということだ」と言った。大師は驚き敬って、契りを約束した。」

 

という感じでしょうか(今ひとつ主語がわかっていないので、老僧と「三尾明神」の関係性がわかりづらいです)。

「三尾明神」というのは、「三井寺」のすぐ麓にある「三尾神社」の神のことです。

おそらく元々の地主神で、それが様々な勢力に支配ながらも、地主神としての力を保っていた、という寓話なのかもしれません。

地主神を信奉する勢力が、「三井寺」とある程度友好関係にあったのか、「三井寺」に敗北したけれども全てが吸収されなかったのか。

地主神、護法神、と寺院の関係は、いつも複雑です。

 

 

「[近江国與地志略 十一 志賀郡]
園城寺金堂 是天智、天武、持統三代聖主の御願、内陣には、常恒不断の三燈を置く、本尊弥勒長三寸二分、南岳大師造之、本是陳の南岳慧思大師禅室の本尊なり、南岳大師入寂の後、此尊伝へて百済国に至る、我朝用明帝始てこれを百済より得て、尊重甚欣べり、厥後伝々相承して、天智帝に至る、天武帝これを受に及て、既に九朝を歴たり、朱鳥元年に至て、件の真容を以て、当寺に移し安じて本尊とす、或記曰、大友の與多、丈六弥勒の像を造立し、被金の小像を大像の中心に納むと云々、右本尊の外、累世の君臣奉納の弥勒仏六躯、皆是霊像なり、左のごとし、弥勒一體黄金長一尺二寸、推古天皇の御本尊、同一體黄金四寸八分、聖武天皇の御本尊、同一體黄金七寸二分、陽成天皇の御本尊、同一體黄金一尺八寸五分、大織冠鎌子本尊、同一體白銀七寸、関白道長奉納、同一體赤銅長五寸六分、大僧正行基奉納、」

 

↑「金堂」内の厨子には、「天智天皇」が奉安したものだけでなく、合計で七躰の「弥勒菩薩」像があるのだそうです(当然秘仏なので見られません)。

 

 

「[太平記十五]三井寺合戦并当寺撞鐘事附俵藤太事
東国の勢、既坂本に著ければ、顕家卿、義貞朝臣、其外宗との人々、聖女の彼岸所に会合して、合戦の評定あり、何様、一両日は、馬の足を休てこそ、京都へは寄候はめと、顕家卿宣けるを、大館左馬助被申けるは、長途に疲れたる馬を、一日も休候はば、中々血下て、四五日は物の用に不可立、其上、此勢坂本へ著たりと、敵縦聞及共、頓可寄とはよも思寄候はじ、軍は起不意必敵を拉習也、只今夜の中に志賀、唐崎の辺迄打寄て、未明に三井寺へ押寄せ、四方より時を作て責入程ならば、御方治定の勝軍とこそ存候へと被申ければ、義貞朝臣も、楠判官正成も、此義誠に可然候と被同て、頓て諸対象へぞ被触ける ○中略 三井寺の大将、細川卿律師定禅、高大和守が方より、京都へ使を馳て、東国の勢坂本に著て、明日可寄由其聞へ候、急御勢を被添候へと、三度迄被申たりけれ共 ○中略 新田の三万余騎の勢、城の中へ縣入て、先合図の火をぞ揚たりける、是を見て、山門の大衆二万余人、如意越より落合て、則院々谷々へ乱入り、堂舎仏閣に火を縣て、呼き叫てぞ責たりける、猛火東西より吹縣て、敵南北に充満たれば、今は叶じとや思ひけん、三井寺の衆徒共、或は金堂に走入て、猛火の中に腹を切て臥、或は聖教を抱て、幽谷に倒れ転ぶ、多年止住の案内者だにも、時に取ては行方を失ふ、況乎四国西国の兵共、方角もしらす煙の中に、目をも不見上迷ひければ、只此彼この木の下、岩の陰に疲れて、自害をするより外の事は無りけり、されば半日計の合戦に、大津、松本、三井寺内に被討たる敵を数るに、七千三百余人也、抑金堂の本尊は、生身の弥勒にて渡せ給へば、角ては如何とて、或衆徒、御首計を取て、藪の中に隠し置たりけるが、多被討たる兵の首共の中に交りて、切目に血の付たりけるを見て、山法師や仕たりけん、大札を立て、一首の歌に、事書を副たりける、建武二年の春の比、何とやらん事の騒しき様に聞へ侍りしかば、早三会の暁に成ぬるやらん、いでさらば、八相成道して、説法利生せんと思ひて、金堂の方へ立出たれば、業火盛に燃て、修羅の闘諍四方に聞ゆ、こは何事かと思ひ分く方も無て居たるに、仏地坊の某とやらん、堂内へ走入り、所以もなく、鋸を以て、我が首を切し間、阿逸多といへ共不叶堪兼たりし悲みの中に、思ひつづけ侍りし、山を我敵とはいかで思ひけん寺法師にぞ首を切るる、」

 

↑『太平記』からの引用です(すみません、どっちがどっちの勢力なのかがよくわかりません)。

平家物語』の中にも、「三井寺炎上」の章がありまして、

 

 

平家物語〈2〉 (岩波文庫)

平家物語〈2〉 (岩波文庫)

 

 

「日ごろは山門の大衆こそ、みだりがはしきうッたへつかまつるに、今度は穏便を存じて、おともせず。南都・三井寺、或は宮うけとり奉り、或は宮の御迎へに参る、これもッて朝敵なり。されば三井寺をも南都をも攻めらるべしとて、同五月廿七日、大将軍には入道の四男頭中将重衡、副将軍には薩摩守忠度、都合其勢一万余騎で、園城寺へ発向す。寺にも堀ほりかいだてかき、さかも木めいて待かけたり。卯剋に矢合して、一日戦ひ暮らす。ふせくところ大衆以下の法師原三百余人まで討たれにけり。夜いくさになッてくらさはくらし、官軍寺に攻め入ッて火をはなつ。やくるところ、本覚院・成喜院・真如院・花園院・普賢堂・大宝院・清滝院・教大和尚本坊、ならびに本尊等、八間四面の大講堂・鐘楼・経蔵・灌頂堂・護法善神の社壇・新熊野の御宝殿、惣て堂舎・塔廟六百三十七宇、大津の在家一千八百五十三宇、智証のわたし給へる一切経七千余巻、仏像二千余体、忽に煙となることかなしけれ。諸天五妙のたのしみも、此時ながくつき、竜神三熱のくるしみも、いよいよさかんなるらんとぞ見えし。

それ三井寺は、近江の義大領が私の寺たりしを、天武天皇によせ奉て御願となす。本仏もかの御門の御本尊、しかるを生身弥勒と聞え給し教大和尚、百六十年おこなうて、大師に附属し給へり。都士多天上摩尼宝殿よりあまくだり、はるかに竜花下生の暁をまたせ給ふとこそ聞きつるに、こはいかにしつる事どもぞや。大師此ところを伝法灌頂野の霊跡として、ゐけすいの水をむすび給しゆゑにこそ三井寺とは名づけたれ。かかるめでたき聖跡なれども、今はなにならず。顕密須臾にほろびて、伽藍さらに跡もなし。三密道場もなければ、鈴の声も聞えず。一夏の花もなければ、阿伽のおともせざりけり。宿老磧徳の名前は、行学におこたり、受法相承の弟子は又、経教にわかれんだり。寺の長吏円慶法親王天王寺別当をとどめらる。其外僧綱十三人闕官せぜられて、みな検非違使にあづけらる。悪僧は、筒井の浄妙明秀にいたるまで卅余人流されけり。「かかる天下のみだれ、国土のさわぎ、ただ事ともおぼえず。平家の世末になりぬる先表やらん」とぞ人申ける。」(p127)

 

↑特に後段は、『今昔物語』と同様の話を引きながら(つまり、「弥勒菩薩」来臨の頃まで続くであろう寺院だ、と言われながら)、結局は灰燼に帰したではないか、というまさに『平家物語という感じですね。

ご存知の方もいらっしゃると思いますが、「弥勒菩薩」が忉利天で修行を終えて降臨するのは、「釈迦」入滅後56億3千万年後、とされています(象徴的な数字です)。

そのときまで伽藍を保ち続けることなど、「智証大師」にも「教大(代)和尚」にも「三尾明神」にもできなかったのです。

 

 

 

しかし、その度に復活するのが、まさに「不死鳥の寺 三井寺」なのでしょうね……。

 

 

「[園城寺伝記 一]金堂 常燈三燈事
(略)
天智天皇左右切無明指、左被埋内陣、右被焼正面燈、爲滅罪生善爲慈尊結縁云々、此火有滅者、浄妙寺常燈火可取之由、西山之松月聖人被申云々
古記云、天王寺常燈火可取之也、其謂、後白河法皇移三井唐院建立五智光院、汲金堂水加亀井水、被遂灌頂之時、取金堂御火被焼天王寺故也、」

 

↑例の灯篭の伝説ですね。

天智天皇」が左右の「無明指(※多分「無名指」で、くすり指のこと)」を切って、左を内陣に埋め、右を正面の灯篭で燃やし、罪業を滅し仏との結縁を祈願したらしいです。

くすり指を両方とも切った……どのくらいかによりますが、燃やしたり埋めたりするくらいなので、根元から切ったとしたならば、『日本書紀』に記録が残っていそうなものですけども。

ということは、仮にこれが実際にあった出来事だとしても、『日本書紀』の編纂に携わった人たちは、隠蔽しておきたかった、と。

うーん、でも『日本書紀』は、基本的に「天武天皇」と「持統天皇」を正統とした歴史書になるはずですから、「天智天皇」の悪いことは書き放題なんですけれどね……。

あ、いえ、「天智天皇」から「天武天皇」への皇位継承を正当なものとし、「大友皇子」の存在は反逆者ということにしておきたい編纂者にとって、そもそも「天智天皇」の正当性がゆらぐような記述を載せるはずがない。

ということは裏を返せば、「天智天皇」の「蘇我入鹿」誅殺は正当ではなかったし、「大友皇子」は反逆者ではなく正当な皇位継承者だった、と。

 

 

 

 

 

うん、よくある話にまとまってしまいました。

やはりお寺は、神社と比べると起源がわりとはっきりしているので、妄想しづらいですね。

結論とか特にありませんが、この辺りで〜。

 

 

あ、最後に、絵葉書を買ったので。

 

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「尊星王」像です。

 

○こちら===>>>

miidera1200.jp

 

↑ではより神秘的な写真が。

「尊星王」は、「妙見菩薩」のこととされるようで、日本には珍しい「星の神様」です。

しかも、インド経由で入ってきたものが、中国の思想をがっつりまとっています。

で、よく見ると、トラとかゾウはわかるんですけれど、なぜか鹿がいるんですよねぇ……図像だと、「尊星王」の頭上に鹿(「馬頭観音」の馬みたいだと思っていただければ)の頭……。

なんで鹿なんでしょうね……今の所わかりません。

 

というわけで、一旦「三井寺」は終了です〜。

それほど遠くないので、また行ってみたいと思います〜。