べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「渋川神社」(尾張旭市)

4/29。

 「真清田神社」の参拝をすませて、さてふらふらしてみようか、それとも帰宅しようか……そういえば常々気になっていた神社があるのを思い出し、尾張旭市へ。

「渋川神社」です。

 

○こちら===>>>

澁川神社公式サイト

 

神社の前の道が細くて、一方通行かと思うほどで、そこに突っ込んだらすぐ左手が境内で、しかも駐車場の入り口だと気付かずぐるっと回ってくる羽目になったので、みなさんご注意を。

 

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駐車場から撮影。

 

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正面。

 

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正面右手の鳥居。

 

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「渋川神社の由緒

この神社は景行天皇の御代に高皇産霊大社(タカミムスビノオオカミ)を創祀したと伝えられ白鳳五年天武天皇御即位の大典に際し大嘗祭の悠紀斎田を当地に定められるに当り、

 

大年大神 御食津大神

庭高日大神 阿須波大神

波比伎大神 大宮売大神

八重事代大神

 

の、七柱を合祀申し上げ、醍醐天皇の御代延喜式の制定により、神名帳に列せられた式内社であります。当社創建の地は、ここから西南方数百米渋河(そぶこ)と、考えられるが、祭神七柱合祀を機に今の地に御遷座のものであります。

往昔は山田郡の総社として広く尊崇せられ、織田信長が神社を改修し、後に徳川光友が神殿を再建、それぞれ幣帛を奉じている。

この鎮守の杜には檜、松、欅等が鬱蒼と生い茂り、旧瀬戸街道を旅行く人々、馬が緑陰に憩ひ神苑に滾々と湧く真清水を掬したが、昭和三十四年の伊勢湾台風によって一夜にして樹木が薙ぎ倒され、樹齢三百数十年を数える檜の大樹数十本が損失した。

氏子総出で倒木を整理の上、檜と杉を交植し年毎に昔日の姿に近づきつつあるが、湧水は遂に涸れ果ててしまった。」

 

創建が「景行天皇」の時代、というのは「日本武尊」伝説の匂いを感じさせますが、「天武天皇」の頃から存在し、『延喜式』にも掲載されているということで、由緒ある古社だということがわかります。

 

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案内板が新しくも見やすい、素晴らしい。

 

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拝殿を向かって左手から。

現代日本人の美的感覚が導入されていますね(?)。

 

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「忌明社」と竣工記念碑。

なるほど、真新しいはずです。

 

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「八幡社」、「熊野社」。

 

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神明社」と「八剣社」。

 

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拝殿正面。

二重になった垂木が、視線のリズムにアクセントをつけています。

 

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鳩胸の狛犬さん。

 

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「遺跡のご案内

旧本殿跡

この場所から、およそ600メートル南に鳥居塚と呼ばれるところがあったといわれ、そこに昔鳥居が立っていたと伝えられています。

中世のころ、その場所から現在の地に祭神を移し社を建てたのが始まりといわれています。

江戸時代貞享5年(1688年)に三間社流造りの本殿(13.22平方メートル)が建てられ、平成14年5月まで現存していました。

 

潮干塚の伝説

旧本殿跡の北側のところ、塚の上に甕があり、海の潮の満ち引きに従い甕の中の水が増減したと伝えられています。

(略)」

 

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碑いろいろ。

「征清」とか「清国台湾凱旋」とか。

 

「鳥居の古塚について

渋川神社の正中約六百米、広がる田圃の中四季折々に風情を添える木立の古塚が在り天武天皇の悠紀斎田の入口として鳥居の敬称で里人に親しまれ聖地としてきたが、此度区画整理の為、取崩す運びとなり、此の由緒の地の滅失を惜み、初老の同志相謀り、塚に建っていた、石碑を神苑に移し、後世の諸人に伝えんとする。

(略)」

 

なるほど、現在の神社正面に、南北に伸びる道はありませんが、かつては600メートルほど先を入り口とした参道だったということですね。

今はもうなくなってしまいましたか……残念。

 

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東に向かうと、各町内の「天神社」です。

 

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「渋川稲荷社」。

 

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その東側、「山神社」です。

 

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ちょっと境内からはみ出ていますが、こちらにも碑がいろいろ。

読めやしませんが、どうも「棒の手」に関係しているようです。

「棒の手」というのは、尾張東部に伝わる、棒を使った、かつては格闘技、今は主に神社への奉納に演舞が行われる、民俗芸能(といってもいいでしょうか)です。

碑にある「東軍流」はその一流派(だと思います)です。

 

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「旧瀬戸街道」について。

尾張東部には「馬の塔」という、飾り馬を奉納する神事もあるのですが、これは瀬戸街道や中山道の影響で、馬が重要な意味を持っていたからでしょうか。

神社に馬を奉納する、というのは決して珍しいことでもないのですけれど。

あ、そういえば、

 

○こちら===>>>

尾張旭市/スカイワードあさひ

 

尾張旭市にはこういった施設があるのですが、ここに民俗資料が展示されています。

無料ですので、興味のあるかたはお立ち寄りを〜(私は、昔の職場で何度となく行ったことがあるのですが、結局ちゃんとは見なかったなぁ……)。

 

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旧本殿跡の正面。

 

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全景。

緑萌えておりますね、いい姿だと思います。

 

御朱印はですね、あるのですけれど、最近本当に御朱印運が悪いので、神職さんがいらっしゃらなかった……近いうちにリベンジ(?)しますよ。

 

さて。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第10編尾張名所図会

 

↑『尾張名所図会』から引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

延喜式』の時代には山田郡でしたが、江戸時代には無くなってしまって、春日郡に沛っているようです。

100コマより。

 

「渋川神社 印場村にあり。[延喜神名式]に渋川神社、[本國帳]に従三位渋川天神とある官社にて、往古は今の地よりも十餘町北に渋川といふ所あり、そこに鎮座なりしを、後今の地に移せりといふ。もと大嘗會の斎場に祀りし社にて、村名もそれによれり。[日本書紀]に、天渟中原瀛眞人天皇五年九月丙戌。神祇官奏曰。爲新嘗卜國郡也。斎忌 (略) 則尾張國山田郡。次(略)。則丹波國訶沙郡。並食卜。 丹波の上の則字、印行本日本紀になし。今古写本によりてしるす。 としるしたる斎忌の斎場よりつけし村名なり。されば御歳神・大食津神・大宮賣神等の御膳・御酒などに關り給へる数神を配享せり。往古は殊に境地廣く、五六町を隔てたる所に鳥居の跡ありて、今は田となる。又本社の後の方に古塚あり。もと其上に古甕ありて、海潮のさし引に随ひ、水の盈涸する事ありしとぞ。今は絶えたり。又直会殿の跡は、今小祠を存して南の方庄中村にあり。近年なほらへと称し、諸人崇敬し、病気を祈るに必ず霊験ありて、平癒せずといふ事なし。近郷はいふに及ばず、遠路他国よりも参詣して、甚繁昌なり。天正十二年九月二十四日、本多豊後守廣孝の制札をたつ。
末社 天王社・白山社・諏訪社・愛宕社・多度社・山神社・八龍社・八幡社・一御前社・金神社・春日社・須原社・熱田社・熊野社・神明社・紅梅社・老松社。
例祭 九月二十五日。馬の頭。」

 

うーん、神社の由緒とあまり変わりません。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 6 春日郡

 

↑『尾張志』ではどうでしょう。

55コマです。

 

「渋川神社
印場村にありて今天神の社と申す 天武天皇の御践祚の御時大嘗會の斎場に祀りし社也 (略)此神社往古は今の地より南西の方四町あまりに渋河といふありそこに祭れりしを後に今の地に移せるなりとそ 紅梅殿老松殿等経済にあり今廃絶したる末社も多し 例祭九月廿九日 (略)もと境地広く近江に亘れり五六町を隔ちたる所に鳥居の跡ありて今は田となれり 又本社の後の方に古塚あり もと其上に甕ありて海潮のさし引に随ひ水の盈涸する事有しとそ 今は絶たり 直会殿の跡は南の方枝郷庄中にあり 今猶小社ありて ナウライ或はニヨライと訛る (略)」

 

やはり『尾張名所図会』とあまり変わりませんね。

潮の干満で水が増減したという甕のことも、どちらでも言及されていますので、ある時期までは存在していたように思われます。

が、それがどの時代までなのかが不明で……「尾張古図」を見ると、かつては瀬戸のあたりまで海が迫っていたと描いてありますから、「ひょっとして」と思わないでもないですが、実際には大雨などで地下水が増減したのが、塚の近くの湧出口でも見られた、といった話かと。

 

ロマンはないですが。

 

「直会殿」とよばれているのは、神社配布のパンフレットによれば、現在「直會神社」としてお祀りされているそうです(そこまで追いかけられませんでした……)。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

↑こちらも見ておきましょうか。

403コマです。

 

「渋川神社 (略) ○祭神詳ならず ○田中庄印場村に在す(略)
張州府志云、印場或作斎場、今俗云、蘇父川方言以渋爲蘇父、蓋指地洩也、祀御歳神、高御魂神、底高津日神、大食津神、大宮賣神、事代主神阿須波神波比岐神、傳云ふ、当社天武天皇御宇鎮座、中世罹兵燹爲烏有、故不可■考、 速胤 按るに、斎場八神を祭れるが実ならば、和泉國和泉郡積川神社に坐摩巫祭神五座を祀れるの類か、

(略)」

 

↑『張州府志』から引いて、印場或作斎場」(いんば/いみば)が地名の由来だ、と言っています(「斎庭」は(ゆにわ)とも読むのですが)。

「渋川」の由来は、俗伝としながらも蘇父川方言以渋爲蘇父」(「そぶ」が訛って「しぶ」になった)としています(神社のパンフレットにも、同じような記述があります……まぁ『張州府志』とかを参考にしているのだと思いますが)。

「当社天武天皇御宇鎮座、中世罹兵燹爲烏有、故不可■考」……どうも、中世には兵火にあって焼失したようですので、かつての御祭神なんかはよくわからない、としておくのがいいのかもしれません。

 

日本書紀〈5〉 (岩波文庫)

日本書紀〈5〉 (岩波文庫)

 

 

↑『日本書紀』(5巻/岩波文庫版)の天武紀五年九月条によれば、

 

「……丙戌に、神官奏して曰さく、「新嘗の為に国郡を卜はしむ。斎忌(ゆき) (略) は尾張国の山田郡、次(すき) (略) は丹波国の訶沙郡、並に卜に食へり」とまうす。」

 

とあります。

簡単に書けば、「占った結果、斎忌は尾張国の山田郡に、次は丹波国の訶沙郡に決〜めた」ということなんですが、補注より(P349)、

 

「斎忌(ゆき)・次(すき)

斎忌・次は、ここでは新嘗祭に用いる稲・栗・酒料を出す郡。後世の例では、即位後はじめて行なう大嘗祭には諸国の中から悠紀・主基両国郡を卜定し、毎年行なう新嘗祭には畿内の官田を卜定して、その稲・栗を用いることになっている(延喜践祚大嘗祭式・同宮内式)。しかし天武天皇の即位後の大嘗祭は二年(一一六頁)に行なわれているから、この斎忌・次両国郡の卜定は恒例の新嘗祭のためのものとなり、後世の例とは異なる。

ユキのユは、ユユシ・ユニハ(斎庭)などのユと同じく、タブーとされたるもの、触れるべからざすもの、神聖なるものの意。キは酒の古語(キ乙類の語)。従って、新嘗の祭に捧げる神聖な酒を作って政府に納める地方を卜って定め、その地方をユキの国、又はユキの郡とする。スキは次の意。第一のユキの国についで、第二にユキを捧げる国郡をいう。」

 

と解説されています。

ではここで、天武紀二年十二月の条を見てみますと、

 

「十二月の壬午の朔丙戌に、大嘗(おほにへ)に侍奉れる中臣・忌部及び神官の人等、幷てて播磨・丹波、二つの国の郡司、亦以下の人夫等に、悉に禄賜ふ。因りて郡司等に各爵一級賜ふ。」

 

とあります。

これが、「天武天皇」が即位してはじめての新嘗祭すなわち「大嘗祭」の記事で、P117の「大嘗」の注には、

 

天皇が即位後初めて新穀をもって神祇を祭る儀式で神祇令に規定がある。毎年の新嘗祭と区別されるのは天武朝以後とされる。即位が七月以前であれば当年、八月以後なら翌年の、十一月の下の卯の日から行なわれ、官人等に対する叙位賜禄は末の日に行なわれるのが例であった。」

 

と書かれていて、「大嘗祭」そのものの記事ではなく、その「叙位賜禄」に関する記事だとわかります。

また、P119の「二つの国の郡司」の注には、

 

「大嘗に際しては、悠紀(ゆき)・主基(すき)二つの国郡を卜定し、抜穂使が派遣されて、その郡の稲を用いて供御の飯・黒酒(くろき)・白酒(しろき)を作った。この記事は国郡卜定の初出。ここでは播磨が悠紀、丹波が主基の国か。(略)」

 

と、「悠紀」「主基」の解説が書かれています。

本来、「大嘗祭」ではないただの「新嘗祭」である天武五年の「斎忌」「次」が、国名だけでなく郡名まで上げて『日本書紀』に取り上げられているのは何故なのでしょう(「大嘗祭」のときは国名だけしか上がっていないので、特別な扱いだとわかります)。

といっても、天武五年の記事を読んでいけばわかるのですが、まず、

 

「是の夏に、大きに旱(ひでり)す。使を四方に遣して、幣帛を捧げて、諸の神祇に祈らしむ。亦諸の僧尼を請せて、三宝に祈らしむ。然れども雨ふらず。是に由りて、五穀登らず。百姓飢ゑす。」

 

とあり、大干ばつがあったことがわかります。

神祇どころか三宝(仏)にも祈ったのに、雨が降らなかったのです。

ついで「秋の七月」の条には、

 

「是の月に……(略)……星有りて東に出でたり。長さ七八尺。九月に至りて、天に竟れり。」

 

とあって、彗星の到来が書かれています。

古来、ほうき星は凶兆と考えられてきました。

さらに「八月」の条に、

 

「……辛亥に、詔して曰はく、「四方に大解除(おほはらへ)せむ。……」とのたまふ。壬子に、詔して曰はく、「死刑・没官・三流は、並に一等降せ。徒罪より以下は、已発覚、未発覚、悉に赦せ。唯し既に配流されたるのみは、赦す例に在らず」とのたまふ。是の日に、諸国に詔して、放生たしむ。」

 

「大祓」を行い、恩赦を出して、さらには「放生」(捕まえてある生き物を放して、仏教的な功徳を得ること)まで行います。

これでやっと、

 

「九月の丙寅の朔に、雨ふりて告朔せず。」

 

雨が降ったので、「告朔」という毎月朔日に行なわれる公務を取りやめています。

旧暦九月に雨が降ったからといって、その年の収穫に大きな影響があるとは思えません(二期作とかしていたら別ですが)。

ということは、その年の「新嘗祭」で「斎忌」「次」に選ばれたのは、「大干ばつでも実りがあった」というめでたい国郡であり(畿内も不作で、「斎忌」「次」に選べるようなところがなかったのかもしれないです)、それを言祝ぐためにもあえて記録に残したのではないかと思われます。

さらに、「天武天皇」は大陸風の帝王を目指していたところがあり、「天命」を意識していたでしょう。

壬申の乱皇位についたものの、それから数年で干ばつ、彗星と凶兆を目の当たりにし、かなり追い込まれたのではないかと思います(神祇や仏に祈り、恩赦をして、放生まで行っている……つまり、考えられるあらゆる手段をとっているのです)。

これで雨が降らなければ「天命に背いた」、皇位失格の烙印を押されかねません(当時の朝廷で、そこまで大陸風の帝王に精通していた人がたくさんいたかはわかりませんが、「天武天皇」と『日本書紀』の記述者はそれを意識していたと思われます)。

何とか雨は降りました。

 

「よっしゃー!!!俺やっぱ帝王だし、もってるし〜!!!!!」

 

と「天武天皇」がガッツポーズしたかはわかりませんが、そんな心境だったとすると、「大嘗祭」ではない、毎年の「新嘗祭」も特別なものにしたくなる、というものです。

 

 

 

というわけで、今回はこの辺りで。

あんまり「渋川神社」に関する記事じゃないな……いずれリベンジしたときに、もうちょっと書ければと思います〜。