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GWとはいえ、あまり遠出はできないもので、ひとまず近場で。
試しに一宮市の式内社を攻めてみようか……ということで、「石刀(いわと)神社」へ。
○こちら===>>>
↑神社のHPではないですが。
天気はいいですが、ひどく風が強かったと思います。
境内に入ると、微妙に右に曲がる参道。
神橋、鳥居、そして蕃塀一直線。
ううむ、美しい。
神馬。
もう逆光逆光で……。
蕃塀から参道が続いていますが、その両側に狛犬さんたちが。
ぱっとみ、四対。
……そんなにも?
よほどやばいものから守っているんでしょうか。
様式もそれぞれ違っています。
社殿(拝殿?)。
逆光……の中、繁る緑と綾なす緑青の銅葺屋根はいいですねぇ。
……くっ、読みづらい。
「石刀神社
(略)
御祭神 手力雄命■四柱
例祭日 四月十九日
本社は延喜式内の古社で
社殿によれば人皇第十代
崇神天皇の御宇御鎮座を
伝えられています
当地馬寄は往古今寄の庄と
云い天慶年■平将門■■
後伊勢神宮に神戸を■■■貢献せ
られた処で郷内に伊勢両宮を
斎祀したが戦火に遇い石刀神社
に遷座後に享保三年宗源宣旨
により三明神と尊称し正一位の
神階にお■みになられました
御祭神は力の神■■■御神徳
高く古くから事業の成就を
祈願する武門豪族氏子■■
者■尊崇されてきました」
かろうじて、こんな感じかと……。
「宗源宣旨」が何かわからなかったので検索してみると、
○こちら===>>>
「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
宗源宣旨
そうげんせんじ
中世末から近世にわたり京都吉田家から各神社に位階神号、神職に免許状を授与するときの辞令。古来、朝廷から神社に位階献上の際は白川家が執行していたが、吉田神道(しんとう)(元本(げんぽん)宗源神道)の大成者吉田兼倶(かねとも)はこの白川家に対抗し、朝廷の宣旨に擬した免許状を神社・神職に発行した。これが宗源宣旨である。以後、これによって吉田家は全国の神職のほとんどを傘下に収め、絶大な勢力をもった。これに対して、近世には批判も出ていたが、明治維新に至り廃止された。[小笠原春夫]」
↑なるほど、吉田神道がらみの話でしたか。
中世以降の神道については全然勉強が足りておりません……本地垂跡と、それを逆手に取った神道教説の混交具合は面白いのですが、複雑すぎて……いずれ勉強しようと思います。
ともかく、この宣旨で、「三明神」の神号を得たと。
「正一位」の神階も得たということですが、吉田神道との関わりから考えればいいのか、「石刀神社」の勢力を評価すればいいのか、難しいところです。
社殿に一番近いところの狛犬さん。
「石刀祭」の案内では、
「(略)
明治時代まで、頭人は十五歳で元服するまでの子ども(稚児)がなり、頭元となる家は必ず大聖瀬古から選ばれ、順番も決まっていた。新しく大聖へきた家は十五年目に頭元を務め、そこから順番の中へ参入することが許された。例祭当日、頭人は手に息杖を持ち、二人の堅護に守られ頭元から神社へと出発し、神事を終えると頭元へと再び戻る。
山車・献馬奉納当日は、大聖車・中屋敷車・山之小路車の三輌がからくり・お囃子を奉納し、大聖・更屋敷・呑光寺・山之小路・六地蔵・吉田の六瀬古が馬を奉納する。
石刀祭は、山車奉納の祭礼が盛んな愛知県内にあって、頭人行事が伝承されている、尾張でも貴重な祭礼と言える。これは、地域社会の中で神社が求心力として非常に重要な役割を果たし、それを地域が支えるという、江戸時代から続く村の姿が今なお息づいているからである。さらに、新しい住民も瀬古の組織に入り参加する仕組みがあり、今でも活気のある祭礼となっている。」
なる描写が。
特定地域の稚児が、頭人と呼ばれる祭主を務める、という構図は、もし歴史が古ければ「一年神主」とみなされて、
「こりゃ人柱ぜよ!」(なぜ土佐弁?)
という妄想もできるのですが、江戸時代なので、村落共同体を維持するための工夫だったのでしょう(多分、頭人をやると、結構なお金がかかったんだと思いますが、他の地域も「献馬」しなければならず、どっこいどっこいなのかな……)。
↑先ほどの、一宮市のHPによれば、
「関ヶ原の合戦の際、徳川氏が今伊勢町馬寄の石刀神社境内に陣を敷いたため、社殿等が壊され石刀神社は一時荒廃しましたが、合戦の後、徳川氏の命により修復造営がなされました。石刀祭はその奉祝として山車・献馬を奉納したのが始まりとされています。
現在、例祭の神事は毎年4月19日に行われ、これ以後の最初の日曜日に山車からくりと献馬が奉納されています。かつて山車は5両ありましたが、戦災によって2両が消失し、現在はいずれも市指定有形民俗文化財となっている大聖車、中屋敷車、山之小路車の3両がからくり奉納を行っています。」
↑とのことですので、江戸時代に入ってからのお祭りのようです。
家康っさんのおかげで荒廃してしまったようなので、昔のことはよくわかりませんね。
さて、ここからは、社殿の向かって左側から、ぐるっと巡ってみようと思います。
右手の建物が拝殿で、本殿がちらっと見えているような気がします。
と思ったら、拝殿と本殿の間に続間(?)がありました。
なぜそこに狛犬さん?
……ええと、どうも尋常な作りではないようで……一段上がってますね。
そこから後方へ続く塀……どういう作りなんだ。
社殿の左手奥に「稲荷社」。
後方から。
流造っぽい本殿ですね。
社殿向かって右手から。
緑が力強いです。
正面に戻って、社殿から数えて二番目の狛犬さん。
三番目の狛犬さん。
一番外側の狛犬さん。
逆光で……。
何かいろいろ撮影し忘れている気がします。
そして、御朱印は……いただけると思うのですが、今回もいただけておりません。
御朱印運はあまりないようで……しくしく。
さて。
○こちら===>>>
↑式内社なので、まずはこちらから引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
386コマです。
「石刀神社
石刀は伊波止と訓べし ○祭神詳ならず ○門間庄黒岩村に在す、 集説、府志、 今天王と称す、今葉栗郡に属す、
考證云、今在石刀村、 速胤 按るに、張州府志中島葉栗の両郡に此村名見えず、然ていはく、今按、葉栗郡黒岩村天王、以黒石爲神躰不建祠、林中草樹採之爲祟、村民懼不敢伐、其怪石也、恐即是也、○考證、集説共に、石門別神とするものは、例の推當なるべし」
……あら、黒岩村にあるんだそうで。
しかも「天王」ですか……「三明神」じゃなかったでしたっけ。
「葉栗郡黒岩村天王、以黒石爲神躰不建祠、林中草樹採之爲祟、村民懼不敢伐、其怪石也、恐即是也」……こんな面白そうな祟り話も案内されていませんし。
うーん。
○こちら===>>>
↑こちらはどうでしょう。
157コマです。
「石刀神社 称三明神
祭神 手力雄命 亦石門別命
今按本社の内陣に二つの箱ありて一は国常立尊国狭槌尊豊斟渟尊を祭る御霊代なりと云古き神像三躯ます今一つには石門別命を祭ると云奇しき石の御霊代なりとぞこの三明神の祭神はもと石門別命なるをのちに巫祝輩の国常立尊など云ひ僻めしものなるべし故今国内帳集説によりて之を訂せり
祭日 九月二十九日
社格 村社
所在 馬寄字石刀今按一説に今葉栗郡黒岩村天王社是なり其境内に大石二つ土中より立り之を御霊代と斎奉る木立いと古りたる社なりとぞ又美濃国中島郡石田村の隣村八神村八幡宮と云説あれど石田と石刀と音近きによりて云る説なれば據がたく黒岩村なるは石刀に由ありけなれど今寄庄村の三四町未申の方に石刀と云地もありそこより今地に移せりと云り據とすべきことなる故今に従ふ」
おっと、こちらは「三明神」と書かれていますので、現在の「石刀神社」のことのようです。
御祭神も一致しています(ただ、祭日に誤解があるように思いますが)。
こうなったら、
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 8 中島郡
↑も見ちゃいましょう。
38コマです。
「石刀(イハト)神社
神名式に中島郡石刀神社となるし本国帳に従三位石刀天神と見えたり今其處定かならす 美濃に属たる中島郡石田村其旧地なるへし 本国帳集説又府志に葉栗郡黒岩村の天王社之とするはよりかたきにや其地中島郡とはいたく隔たり」
……こっちは場所がわからない、『特選神名牒』で否定されている美濃国中島郡の石田村を持ち出していますし……あ、いや、美濃国中島郡は「石刀神社」の旧地だった、と書いてあります。
いっそ、
○こちら===>>>
↑を見てみたらですね、「石刀神社」、「石刀神社」(葉栗郡黒岩の天王社)、「八剣神社」(美濃国中島郡……今の岐阜県羽島市)、の三つが論社として上がっているようです。
む〜……。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第9編尾張名所図会
↑の213コマによれば、
「三明神社 同村の産神にして、鎮座の年暦詳ならず。境内末社子守社・若宮八幡社・稲荷社・白山社・天神社・西宮社等あり。又神宮寺堂境内にあり。神宝のうち兜・鎧・鞍は、當村の住武藤氏寄附といふ。例祭は八月十九日。車楽二輌、また馬の塔を出す。社僧剣福寺、祠官木全氏。」
……「三明神社」だとしても、一宮市のHPによる、
「かつて山車は5両ありましたが、戦災によって2両が消失」
と話が食い違っております。
まあ、普通に考えれば、一宮市のHPの記述が、最新の研究に基づいているはずですから、『尾張名所図会』に何らかの誤解があるのだと思います。
もともと、「イワト」という地名が先にあったのだと思います。
「イワト」というくらいだから、磐座となり得るような石があったのかと(それが羽島市の「八剣神社」にあるのかもです)。
その後「イワト」から連想される「天手力雄命」(「天岩戸」を開いたお方)、また「天石門別神(あめのいわとわけのかみ)」(門の守護神)を御祭神としたんじゃないでしょうか。
今ではどっちがどっちかよくわかりませんが、『延喜式神名帳』掲載ですから、9〜10世紀には成立していた古社には違いなく、とすると「天手力雄命」も「天石門別神」も、天孫降臨にくっついてきた伝承がありますので、どちらでもまぁおかしくはないのかな、と。
次の不思議は、「イワト」が「岩戸」でも「石門」でもなく「石刀」になった理由。
うーん……当て字ですから、あまり考えてもしかたないんですが、何かしら「剣、刀」に関係ある伝承が残っていたのに、燃えちゃったのかな……でも土地の伝承であれば、形を変えても伝わっているように思います。
……うん、郷土史家のかたにお任せしよう。
ともかく「石刀神社」、狛犬さんワンダーランドでした。
なかなかこれだけ揃っているのも珍しいのではないかと。
今後も増えていくかもしれませんね。
それはそれで、いい名所になるような気がします。