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べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「日吉神社」(清須市)

※当ブログを閲覧していただいています皆様、筆の遅いせい(そして、ことえりよりお間抜けなMacOSの日本語変換ソフトのせい)もあり、また他にもほにゃらほにゃらやっていることがあったりして、最近でははてなスターをつけていただく方のブログも拝見できていません。誠に申し訳なく思います。お読みいただいた方に何らかの情報、ちょっとした楽しみの時間をお持ち帰りいただいていれば幸いですが、それほどのポリシーもなく書きなぐっているのが実態です。今後とも、お時間が許すならば覗きにきていただければ、と思います。※

 

1/9。

 平成28年の初詣、とはいえ既に松は取れていますが、申年なので申にちなんだところへ、と思いまして、清須市日吉神社へ。

 

○こちら===>>>

www.hiyoshikami.jp

 

カーナビの案内通りに行ったら、ビニルハウスと民家の中へ突っ込んでいき、「こんなところにあるのかな」と首を傾げ、ある角を曲がると、車が並んでいました。

駐車場の空き待ちのようです。

近所の人には迷惑なことでしょう……(生活圏にある神社に参拝する場合は、今後考えないとなぁ……)。

少し待っているとすぐに駐車場が空き、おじさんの案内で車を駐車(お金、払ったかどうかを覚えていません……)。

 

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天気のいい日でした。

石造りの鳥居は山王鳥居ではありませんね、そういえば。

 

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清洲山王宮 日吉神社

祭神 大己貴命

素戔嗚尊

大山咋神

例祭 十月十日

由緒 宝亀二年(七七一年)当地疫病流行のおり素戔嗚尊大己貴命二神を祀り止むと云う 織田氏清洲在城時は城下総鎮守と崇敬し天正八年近江坂本より山王二十一社を勧請した 織田豊臣徳川各氏の奉納事績多数有り 日吉丸(豊臣秀吉幼名)は母が当神社に祈願し授けられたと伝える。神紋五七の桐、二葉葵」

 

「近江坂本」といえば、「比叡山延暦寺」の総鎮守「日吉大社」のあるところですね。

天正年間は1573〜93年ですから、社伝による創建年代の800年近く後。

ということは、それまでは「日吉神社」ではなかったんでしょうね……「大山咋神」は「日吉大社」の御祭神ですから、後から加えられており、それ以前には「素戔嗚尊」「大己貴命」……「牛頭天王社」でしょうか。

大己貴命」がいらっしゃるからなぁ……出雲・熊野系とも考えられますが、疫病を鎮めたということは「牛頭天王社」っぽいですね。

 

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木の陰でよく見えませんが、石造りの太鼓橋と、その先は……中門とでもいうのでしょうか。

 

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入り口にある灯篭。

大きいな……と思っていたら「秋葉神社」とありました。

 

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太鼓橋。

すでに川もないのに、昭和になって寄贈されたようです。

 

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おっと蕃塀がありました。

新年ということで、催し物が行われていました(そのためのKeep out……だったかどうかはあんまり覚えていません)。

 

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蕃塀の左手あたりに、御嶽講の名残と思われる石碑がたくさん。

うーん、御嶽講の勉強をしたいんですが、手軽な本がないんですよね……。

 

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拝殿……かな。

参拝客が多くて、賑やかでした。

 

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妻入で、手前が銅葺き……かな?……奥が瓦葺。

手前の屋根は新しそうでした。

狛犬の代わりに、神使の猿が。

 

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なかなか拝殿に近づけなかったので、蕃塀右手あたりの神楽殿を。

チンドン屋さんがいらっしゃいました(チンドン屋なんて今の若い人はご存じないか……私もそれほどリアルタイムではありませんけれど)。

 

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別アングルで拝殿を。

お猿さんがやけにリアルで困ります(?)。

 

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拝殿右手に立てられている……絵馬?

案内があるのですが、写真に撮っていませんでした。

なかなかの迫力だと思います……左上にいるのはキンシコウっぽいけども……犬山近いからいいのかな(日本モンキーパークというのが犬山にあります)。

 

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「山王稲荷」。

 

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「山王稲荷」の御由緒が彫られていますが……さすがに読めません。

↑の公式HPより、

 

「このお社は、尾張徳川家四代の殿様の吉通公が、旧丹羽郡石枕村(今の江南市石枕)に、鎮座の稲荷の神祠を正徳三年(一七一三年)に、名古屋城の正南一里程の愛知郡古渡村(今の名古屋市中区古渡町)に、当社の山王神霊の分霊と共に、山王稲荷として移し祀られた神社の分霊を祀る、ご神威高き霊験あらたかなお社として、江戸時代の終り頃に創建されたと、伝えられております。
古来より境内西南の地にて鎮座されておりましたが古朽の為、昭和二十八年十一月五日に住民等が、山王稲荷講を組織して社殿拝殿等を境内東北の地(現在地)に新築し、その後奥宮(現 稲荷社横に鎮座)も創建されました。
平成二十年九月には、崇敬者等により覆屋などが修築され現在に至っております。」

 

……そういえばお稲荷さんは、結構「奥宮」があるという印象ですね。

どうしてなんだろう……。

 

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本殿をちらっと。

 

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屋根にもお猿様です。

 

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平成になってから修築などがなされたようです。

地元のかたの崇敬篤く何よりです。

 

ここからは、本殿右手にある摂社末社です。

祭神と社の名前が違っているようなので(札には御祭神が書かれています)、公式HPから社の名前を引用します。

 

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左から「牛尾宮(大山咋神荒魂)」「白山姫神社(白山姫神)」。

 

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「宇佐宮(田心姫命)」「樹下宮(鴨玉依姫神)」。

 

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「西本宮(大己貴神)」「東本宮(大山咋神)」……あれ、相殿じゃないの?

 

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大物忌神社(大年神)」「早尾神社(素戔嗚神)」……え?

ああそうか、「日吉大社」の二十一社を勧請したんでしたっけ。

 

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「宇佐若宮(下照姫命)」「新物忌神社(天知迦流水姫神)」。

 

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「牛御子社(山末之大主神荒魂)」「産屋神社(鴨別雷神)」。

 

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「八柱社(五男三女神)」「三宮社(鴨玉依姫神荒魂)」。

 

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神武天皇社(神武天皇)」。

 

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「樹下若宮(玉依彦神)」「竃社(奥津彦神・奥津姫神)」。

 

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氏神神社鴨建角身命・琴御館宇志麿命)」「巌滝社(市杵島姫命・湍津島姫命)」。

 

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「剣宮社(瓊々杵命)」「気比社(仲哀天皇)」。

 

ふう〜……あ、

 

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ちゃんと案内があった……(もうちょっと綺麗に作り直したほうがよろしいかと)。

日吉大社」に則った摂末社でした(「日吉大社」のことはまだよく知りませんもので……「神武天皇社」だけは、独自のもののようですが、明治に入ってからでしょうかね……)。

 

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「子産石」。

豊臣秀吉は生母(大政所)がこの石に触れ授かったという伝え」も残っているそうです。

 

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拝殿の右手奥……だったかな、出征と戦役の紀念碑。

 

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小祠とおそらく「神変大菩薩(役行者)」。

 

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屋根のお猿様と、「日吉神社」の文字(見えますか?)。

 

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神馬と神楽殿を裏から。

 

さて。

公式HPによれば、由緒は、

 

光仁天皇の御世、宝亀二年(西暦七七一年)、尾張地方に疫病が流行したので、人々が素盞鳴命を大己貴命と合わせて祀 り、病災除去の氏神としたのが発祥です。その後、大同二年(西暦八○七年)、平安時代の官人、橘逸勢(たちばなのはやなり)が社殿を建立、また、伝教大師による天台宗の布教とともに神仏習合の説が広まり、山王宮と称されるようになりました。 

一方、傀儡の人々には、当社が日本で唯一の本来の山王宮であり、「古山王」という舞が当社で舞われていたという伝承があります。

十三世紀末には当神社の興隆著しく、社殿を修築し、祠官を定め社領が奉納されたと伝えられています。尾張の国府が清洲に移されてからは、清洲氏神として信仰を集め、四千坪以上の境内地に荘厳な社殿を構えていました。
天正八年(西暦一五八〇年)、清洲城代織田信張公は、近江坂本の日吉大社より大山咋神摂社二十一社を勧請し、現在まで伝えています。

また、尾張徳川吉通公は当神社の御分霊を稲荷社とともに、現在の名古屋市古渡町に山王稲荷として奉斎し、その御分霊は現在、当神社の境内末社として祀られています。

明治以降、社名を山王宮から日吉神社と改め、旧社格制度のもとでは、県社として尊崇されました。」

 

とのことです。

尾張徳川吉通公は当神社の御分霊を稲荷社とともに、現在の名古屋市古渡町に山王稲荷として奉斎し」……とあるのは、

 

○こちら===>>>

「稲荷神社」(中区) - べにーのGinger Booker Club

 

↑の「稲荷神社」のことです。

 

 

それではそれでは、いつものように、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第10編尾張名所図会

 

↑『尾張名所図会』から引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

12コマの「清須」の記事から〜。

 

「清須
郡中西南のはてにて、当国の中央なれば、中昔より武家守護の居城の地にして、清須府とよべりしを、慶長御遷府の後は、駅舎のみとなれり。東海道より美濃路へ通ふ宿駅なれば、旅宿・休茶屋等軒をつらね、町並うるはしく、西国・中国・九州・四国の諸侯をはじめ、京都・大阪・奈良・伏見・長崎等の官人、江戸上下の輩、此地を経ざるはなく、又、勅使・院使の公卿・諸親王・御門主などの、いとも尊き御方々も、此地を過りたまひ、諸国の商人・神仏参詣の貴賎、あるは朝鮮・琉球の聘使に至るまで、足をとどめざる事なく、実に繁華の一都会といふべし。境地殊に広く、当郡及び中島・海東の三郡に亙り、十二村合して、町並も数十町あり。清須といへる号は、[神鳳抄]に清須御厨と見えたるがはじめなれど、[古今六帖]の藻の歌に、『藻かり舟今ぞなぎさにきよ須なるあしべの田鶴の聲さわぐなり』とあるきよすは、地名をいひかけたる歌なるべく、さらずば『今ぞ蘆邊に来よるなる』といへる格なれば、此清須の事と思ひけるにや、徹書記はこの清須に鶴をよみしよしいへり。(略)」

 

ということで、もともとは尾張の中心地、国府でさえあった清須は、家康のいわゆる「清須越」で現在の名古屋城下にお引越しします。

そういえば、三谷幸喜氏が監督をした『清須会議』という映画もありましたね(中世〜近世の日本史知識が全滅な私は何のことだかよくわからないのですが)。

尾張名所図会』でも項目を挙げ、清須全体の図絵も以降のコマに掲載されています。

往時の清須を偲ぶいい材料だと思います。

続いて、27コマより。

 

山王権現
清須本町の東のかたにあり。此地国府たりし時、城下の氏神として繁栄せり。宝亀二年当国疫疾流行せし折節、此地に素戔嗚尊及び大己貴命を祭りて、其災を拂ひ、又大同二年橘逸勢朝臣、此地に神皇産霊尊国狭槌尊天御中主尊・正哉吾勝尊を祭れり。是則当社二宮・八王子・下ノ八王子・正眞子四座の神と称するよし、社伝にいへり。慶長三年豊臣秀吉公御煩の時、産土神なれば清須明神へ御祈念ありし其明神とあるは、今何れとも知られねど、此山王社は所の氏神、また中島宮及び上畠神明との三社は、同等の古社にして、みな清須明神と称すべきなれば、三所にて御祈念申上げしにや、今詳ならず。[御ゆどののうへの日記]に、慶長三年六月二十七日、大かふ御わづらひ、七月十一日大かふの親子より申して参り候。神々への御願立に、勅使たてらるる。さいをんじ大納言・くわんじゆじ大なごん・こが大なごん・中山大なごん等十六人、かなたこなたへまゐらるる。尾張のきよすの明神・あつたの明神へは程遠くて、道のほどもざうさとて、あなたより人まゐらせらるるとぞ。堂上はまゐられず。御太刀・馬代、御所より出さるるとみゆ。後伏見帝の御宇、社を造営し、祠官を定め、社領をよす。また天正八年十二月、織田太郎左衛門二十一社を造立して、本社の左右に列せり。神宮寺堂は弘法大師作の本地薬師仏を安置す。天正十二年長久手合戦の兵火に、諸宇焼失し、今は頗る衰へたり。太閤の政所は当所の産なれば、殊に崇敬ありて、慶長三年三月垣墻を築かれ、又政所の母君の、天正十八年九月奉納ありし三十六歌仙の扁額ありて、今に蔵す。又、性高院君当城に居給ひし時、慶長八年八月十五日、其御家中三十餘人射禮を行ひし、其姓名を記したる板あり。
神木 桜は弘法大師当社に詣で、桜の枝を松に接がれしといひつたへたる奇木なりしが、今は枯れたり。惜むべし。又さがり松とて、本社の西北にありて大樹なりしが、むかしの大風に枝折れて、今は其跡のみ残れり。連理の椿は今も繁茂せり。
撞鐘 慶長四年霜月、花井釣二願主にて鋳たりし鐘なりしが、今は美濃国池田郡片山村正林寺といへる一向宗の寺に伝れり。
神宝 朝日殿寄附の歌仙の額。慶長八年伊藤蘭丸願主の猿の扁額・矢二手・猿古面。
例祭 八月二十一日
神主 丹羽氏。」

 

創建はHPからの引用通り宝暦二年、その後、「大同二年橘逸勢朝臣、此地に神皇産霊尊国狭槌尊天御中主尊・正哉吾勝尊を祭れり。是則当社二宮・八王子・下ノ八王子・正眞子四座の神と称するよし、社伝にいへり。」ということになったようです。 

橘逸勢」は、書の名人ですが、「八所御霊」の一柱でもありますね。

ということは「怨霊」なのですが……社伝として「橘逸勢」を持ち出したのは、このあたりに理由があるのでしょうか。

「後伏見帝の御宇」が、13世紀末です。

「織田太郎左衛門」というのは「織田信張」のことのようです。

 

○こちら===>>>

織田信張 - Wikipedia

 

wikipediaを見てみると、この人「織田信長」の比叡山焼き討ちに加わっているんですよね。

そんな人が、なんで「日吉大社」の二十一社を勧請したのでしょう……?

 

続いて、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 6 春日郡

 

↑からも引用を。

この巻の内容は「春日郡」全体なんですが、清須はここでも独立して章立てされており、往時の認識が伺えます。

109コマより。

 

「(略)尾張名所記に(略)清須の山王は往昔清須の隆盛なりし時は城下の氏神として社堂拝殿美を尽ししも程なく門戸はたふれ築地は苔むしたれども時々の神業怠らず村の老若敬ひ奉り権現の左右に廿一社立ならひておはせり山王の本地は薬師なり神宮寺堂におはす是弘法大師の御作なりと記せり (略) 昔より氏神と称し祖父ものかたりに 太閤きよすにて誕生のよしある生土神なるへけれは■後伏見天皇の御宇社を造営し祠官を定め社領を寄す天正八年庚辰十二月織田太郎左衛門末社の廿一社を造営して寺野村須賀口村を社領とせしかとも内大臣信雄公其領地を没収せらる天正十二年長久手の兵火に神宝等ことごとく焼失つただ太閤の北政所の母君のささげられし三十六枚歌仙の色紙のみ残れり秀吉公の政所とのは此里のうち朝日村のうまれなれはお湯殿上日記の分のことく当社に祈念せられ慶長三年三月垣墻を築かれしとそ是その生土神なりし (略) 源敬公の賜ひし制札はしめ天正已来の證状多し (略) 社後の竹林は織田太郎左衛門当社造営の時近江の坂本山王の境地の竹をうつし植しよしいひ伝へたり (略)
例祭 四月中ノ申ノ日粟飯を奉る昔は厳重なり■とそ 
神宮堂 織田太郎左衛門の再興慶長三年太閤の北の政所とのの修造■弘法大師の作といへる薬師如来を安置す又秀吉公白銀を寄附して銅鐘を鋳させられし其銘に慶長四年霜月の文字あり俗に此鐘をならせは蚊を避るといひ伝へしが今はうせたるよし府志にいへりこの説覚束なし太閤は慶長三年の薨去なれは翌四年の霜月の銘と附合せす且その鐘いまはなきよしなれは彼是浮説としてよかるへし」

 

すみません、ちょいちょい変態がな……あいえ変体仮名が読めませんもので……。

尾張名所図会』と内容がかなりかぶっていますので、省略しています。

 

また、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 張州府志. 第3

 

↑『張州府志』も、「清洲志」を独立して扱っています。

10コマより。

 

「山王社
清洲。祀素戔烏尊。大己貴命。謹按以山王神爲素戔烏大己貴者当社伝習也。神祇宝典曰。今按。曰日吉社大山咋神也。然世伝曰。日吉神輿三輪大神同体也・蓋以大三輪神。天照大神并祭此社。故謂之同体者亦此虚説也。菅原清人記曰。日吉地主権現者。日本国地主也。大江匡房扶桑明月集云。大比叡明神。人王三十代磯城島金刺宮  欽明天皇  即位元年庚申。降大和国城上郡大三輪。三十九代大津宮  天智天皇  即位元年壬申。大比叡大明神顕御日吉與三輪大物主神。此国地主也。  舊事地神紀曰。大山咋神。此神者坐近淡海比叡山。亦坐葛野郡松尾。用鳴鏑神者也。  当社伝説曰。光仁天皇宝亀二年辛亥。当国流疫。仍以素戔烏尊。大己貴命之霊祭於此地。按。此時無山王之号歟。平城天皇大同二年丁亥。朝臣逸勢於此地建立。祭神神皇産霊尊国狭槌尊天御中主尊。正哉吾勝尊。即当社二宮。八王子。下八王子。正眞子四座之神是也。後伏見院業造営。(略) 天正十二年長久手役兵火。神宝盡爲烏有。祠官離散。東照神君賜制札。天正十三年乙酉九月也。慶長三年戊戌三月。秀吉政所号湖月公。秀吉正妃也。生于此郷。故以当社爲本居築垣墻。同九年甲辰。左中将忠吉君重修之。
(略)」

 

相変わらず白文のみですので読みづらいです……。

前半に書かれているのは、もっぱら「日吉大明神」(比叡山の鎮守)の話ですので、とりあえずスルーします(いずれ「日吉大社」にご参拝したときに考えたいと思います)。

公式HPには、「尾張三英傑」つまり「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」との関係について、以下のように書かれています。

 

「当神社は天下を取った三英傑に御縁のある逸話が伝えられており、戦国時代の武将織田信長公は、当神社の神前にて火起請(ひきしょう)という裁判に立ち合われたと伝えています。

尾張で生まれたといわれる豊臣秀吉公は、清須市朝日の出身である生母(大政所)が日吉神社に祈願し授けれれた神の子であり、それゆえ幼名を日吉丸といい、身のこなしが当神社の神の使いである猿に似ていたと伝えられています。

そして、秀吉公の妻ねね(北の政所)は、その母とともに日吉神社を深く崇敬し三十六歌仙の歌仙額を寄進し、さらに、神 社の垣牆(えんしょう)、神宮寺の薬師堂を造営寄進しています。 天下人となった秀吉公が病を患ったおり、後陽成天皇は勅使を日吉神社に派遣し病気平癒を願われたと記録されています。

江戸幕府を開いた徳川家康公は、小牧長久手の合戦のおり、織田信雄公の軍勢とともに清洲に野営しました。その際、軍兵が当神社を焼き払ったので、当時の祀官が申し出たところ、軍兵の乱暴狼藉を禁止する制札を両将より賜りました。 

戦いの後、信雄公は神社の本殿、末社を造営されました。その後、家康公の四男松平忠吉公が清洲城主となり、日吉神社 を大々的に造営修復、社領を寄進し尊崇の誠を捧げられました。 
また、忠吉公は弓術を好み射札を度々奉納されています。 神社の西側には当時の垣牆や弓場の跡が今も残っています。」

 

尾張で生まれたといわれる豊臣秀吉公は、清須市朝日の出身である生母(大政所)が日吉神社に祈願し授けれれた神の子であり、それゆえ幼名を日吉丸といい、身のこなしが当神社の神の使いである猿に似ていたと伝えられています。」……というのは俗説というかなんというか、下層の出自だけによくわからないようです。

 

○こちら===>>>

日之宮(ひのみや) - べにーのGinger Booker Club

 

名古屋市中村区にも、こんなのがありますし。

 

○こちら===>>>

「正悦山妙行寺」「太閤山常泉寺」 - べにーのGinger Booker Club

豊国神社(とよくにじんじゃ) - べにーのGinger Booker Club

 

↑とか。

「日吉丸」という幼名ですら定かではない、というのが最近の学説のようで……地元の私としては切ない気持ちになります。

のちに「豊臣秀吉」が「日吉神社」「山王権現」を崇敬したのは間違いないようですから、俗説はこの辺りから生まれたものでしょうか。

 

さてさて、社伝などによれば、本社の推移としては、

 

(1)「素戔嗚尊」「大己貴命」を祀った創建時

(2)「橘逸勢」が祀ったと伝えられる「神皇産霊尊」「国狭槌尊」「天御中主尊」「正哉吾勝尊」四柱を合祀した時期

(3)「山王宮」と呼ばれ始めた時期

(4)社殿造営の時期(「後伏見天皇」御宇)

(5)「織田信張」による「山王二十一社」勧請の時期

 

という感じになるのでしょうか。

「山王宮」と呼ばれ始めたのがいつなのかわかりませんが、これが「織田信張」による勧請の後だとすると、「豊臣秀吉」が「日吉丸」と呼ばれたという俗説と時代が合わなくなってきます。

実際のところ、「素戔嗚尊」「大己貴命」「神皇産霊尊」「国狭槌尊」「天御中主尊」「正哉吾勝尊」という御祭神では、なかなか「山王宮」と呼ぶのは厳しいのではないか、という気がします。

しかし13世紀末には社殿造営されているので、どういう神仏習合の結果かはわかりませんが、この頃には「山王宮」と呼ばれていた、ということになりましょうか。

 

ところで、

 

○こちら===>>>

日吉大社 - Wikipedia

 

↑を参考にしてみますと、「日吉大社」にはかつて「境内108社」「境外108社」があったとかいう恐ろしいことが書かれていますが、こちらから二十一社を拾ってみます。

といっても、↑の方であげた摂社と同じなんですが。

見方は、

「現在の社名(御祭神)・神仏習合時代の宮名」

です。

 

「上七社(山王七社)


西本宮(大己貴神)・大宮(大比叡)
東本宮(大山咋神)・二宮(小比叡)
宇佐宮(田心姫神)・聖真子
牛尾神社(大山咋神荒魂)・八王子
白山姫神社(白山姫神)・客人
樹下神社(鴨玉依姫神)・十禅師
三宮神社(鴨玉依姫神荒魂)・三宮


中七社


大物忌神社(大年神)・大行事
牛御子社(山末之大主神荒魂)・牛御子
新物忌神社(天知迦流水姫神)・新行事
八柱社(五男三女神)・下八王子
早尾神社(素盞嗚神)・早尾
産屋神社(鴨別雷神)・王子
宇佐若宮(下照姫神)・聖女


下七社


樹下若宮(玉依彦神)・小禅師
竈殿社(奥津彦神・奥津姫神)・大宮竈殿
竈殿社(奥津彦神・奥津姫神)・二宮竈殿
氏神神社鴨建角身命・琴御館宇志麿)・山末
巌滝社(市杵島姫命・湍津島姫命)・岩滝
剣宮社(瓊々杵命)・剣宮
気比社(仲哀天皇)・気比」

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張名所図会. 後編巻3 春日井郡

 

↑こちらの『尾張名所図会』は活字にされたものではなく、でもって図絵の文字が読みやすいんですね。

この19コマに、「山王権現社」の図絵があり、そこに二十一社が並んでいるので、ちょっと書き出してみます。

 

「(本社向かって左手前から)

(本地堂)

(御嶽)

・大竃

・竃殿

・王子宮

・下八王子

・早尾

・大行事

・小禅師

・三ノ宮

・牛尊

・二ノ宮

○本社

(本社向かって右奥から)

・十禅師

・八王子

・客人

・聖真子

・剣宮

・悪(?)王子

・岩滝

・気比

・聖女

・真行事

(稲荷)」

 

これを、「日吉大社」と並べてみますと(赤字が『尾張名所図会』の「山王権現社」の表記)、

 

「上七社
(山王七社)
西本宮(大己貴神)・大宮(大比叡)  ==○本社
東本宮(大山咋神)・二宮(小比叡) ==・二ノ宮
宇佐宮(田心姫神)・聖真子 ==・聖真子
牛尾神社(大山咋神荒魂)・八王子 ==・八王子
白山姫神社(白山姫神)・客人 ==・客人
樹下神社(鴨玉依姫神)・十禅師 ==・十禅師
三宮神社(鴨玉依姫神荒魂)・三宮  ==・三ノ宮
中七社
大物忌神社(大年神)・大行事  ==・大行事
牛御子社(山末之大主神荒魂)・牛御子  ==・牛尊
新物忌神社(天知迦流水姫神)・新行事  ==・真行事
八柱社(五男三女神)・下八王子  ==・下八王子
早尾神社(素盞嗚神)・早尾  ==・早尾
産屋神社(鴨別雷神)・王子  ==・王子宮
宇佐若宮(下照姫神)・聖女  ==・聖女
下七社
樹下若宮(玉依彦神)・小禅師  ==・小禅師
竈殿社(奥津彦神・奥津姫神)・大宮竈殿  ==・大竃
竈殿社(奥津彦神・奥津姫神)・二宮竈殿  ==・竃殿
氏神神社鴨建角身命・琴御館宇志麿)・山末  ==・悪(?)王子
巌滝社(市杵島姫命・湍津島姫命)・岩滝  ==・岩滝
剣宮社(瓊々杵命)・剣宮  ==・剣宮
気比社(仲哀天皇)・気比 ==・気比

 

↑こんな感じに。

漢字の表記の揺れはまぁ致し方ないとして、私の目には「悪王子」としか読めない社がありまして、それが本当に「氏神神社(山末)」なのやら……ともかく、二十一社きちんとそろっていることはわかります。

で、現代の「日吉神社」ですが、

 

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見づらいですが、「神武天皇社」はおそらく、明治以後に建てられたものなのでそれを除きまして二十社。

このうち、本来は「大宮竃殿」「二宮竃殿」として二つに分かれているはずの「竃殿社」が一つにまとめられています。

なので、やっぱり二十一社がそろっているのですね。

 

 

 

 

……てことは、本殿は空っぽですか?

 

 

 

尾張名所図会』では、本社(本殿)を含めての二十一社だったので、計算は合っているのですが……。

 

 

あと、『張州府志』にもありました、

 

「橘朝臣逸勢於此地建立。祭神神皇産霊尊国狭槌尊天御中主尊。正哉吾勝尊。即当社二宮。八王子。下八王子。正眞子四座之神是也。」

 

つまり、「神皇産霊尊」を「二宮」、「国狭槌尊」を「八王子」、「天御中主尊」を「下八王子」、「正哉吾勝尊」を「正眞子(聖真子)」に当てる、というのもかなり無理がありそうですよね。

祭神の選択にも、なんか近代的な国学の匂いがするし……うーん……。

初詣に行き、なにやらもやもやするものをもらってきてしまった感じです。

とりあえず、この辺りで終了〜。

今年の狙いは「日吉大社」ですね〜(あえて「延暦寺」ではない)。

 

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お猿様が可愛い。