べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「津島神社」(再)2(津島市)

さて。

 

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「津島神社」(再)(津島市) - べにーのGinger Booker Club

 

↑前回の続きで、もう少し引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 張州府志. 第5

 

↑『張州府志』という、江戸時代に書かれた尾張国の府史の第二十二巻(製本されている↑の本は、第5巻)です。

5コマより。

 

「在津島村祀素戔嗚尊。社傳曰 (略) 其餘社説甚多。不能悉録。此社延喜式神名帳亦不載此。或曰。本國帳藤島神社是也。此地古名藤浪。故若此。愚庵。延喜式正一位憶咸名神不知所在。憶咸與子上音便近通。姓氏録曰。島田臣。神八井耳命之後也。五世孫武惠賀前命孫仲臣子上。雅足彦天皇御代。尾張國島田上下二縣有悪神。遣子上平服之。復命之日。賜號島田臣。順和名類。尾張國海部郡有島田。然今海東海西並無島田邑。恐是島田則津島之地也。今津島神社境廣且古。延喜式何縁不載。憶咸巳有正一位神階。社地當有遺址。而絶不見蹤跡。則疑應是此祠。然紀傳泯絶。不可得考。今以牛頭天王四方來詣。若改爲他神。則恐是都々平丈我之類也。姑置諸。」

 

↑略した部分は、前回『尾張名所図会』や『尾陽志』から引用した社伝と同じなので割愛しました。

え〜、白文なので(返点も略しています)、いまひとつよくわからない部分もあるかと思いますが、「津島神社」はもともと「藤島神社」なのか、あるいは「憶咸名神」なのか、といったことが書かれています。

 

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「穂歳神社・憶感神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑「津島神社」の近くにあり、関係もあると思われる「穂歳神社」と「憶感神社」の記事です。

「憶咸明神」は「憶感神社」のことかと思いますから、「津島神社」とは違うと思うのですが、何しろ式内社なのに忘れられていた感じのする「憶感神社」なので、実際のところはわかりません。

 

津田正生による『尾張神社考』(原題「尾張神名帳集説本之訂考」発行所ブックショップ「マイタウン」)より、海部郡「従二位國玉神社名神」の項を引用してみます(p16/改行、括弧はブログ筆者による場合あり)。

 

「[新考]津島牛頭天王の社地地主の神にて今南御門のうちなる彌五郎殿と俗称する社をいへり (彌五郎殿とは堀田右馬殿祖先の名) 今の御本社天王は、昔日配祀の神にて実は素戔嗚尊にませりを、習合家に武答天神とも牛頭天王とも申奉る也。旧宮は伊毛里の社也と古き伝あり

[尾張地名考云]和名抄に海部郡の郷名に津積志摩(つづみしま)郷見ゆ案に津島の名は古書になし。東鑑にはじめて出たり。津島とは津積志摩の二郷相約(つづま)りて一串につしまと變し也但し天王橋 (今は橋無) より東は往昔津積にあたり。橋より西は、むかしの志摩の郷に方る (今も天王島とも向ひ島ともいふ) 正生考に古への一郷にはかならず一社神社あり。國玉は志摩の方の産神也。津積の方の神社はいまだ考得ずもしくは上に挙ていひ試たる。市神の社津積の産土歟、後の君子定めたまへ 

[又曰]牛頭天王辨にいへる津島の説はいみじき附会にて信用がたし。又旧地の説もあやまれり。」

 

とりあえず、「彌五郎殿神社」が、かつては「國玉神社」だったお、という説が出てきています。

ついでに、「和名抄に海部郡の郷名に津積志摩(つづみしま)郷見ゆ案に津島の名は古書になし。東鑑にはじめて出たり。」……ということで、津島という地名が『東鑑(吾妻鏡)』が初出で、それ以前『和名抄』には「津積」「志摩」の二つの郷名があったらしい、と。

(あ、『尾張神社考』は、もともとは尾張の博覧強記・天野信景翁の書いた『尾張神名帳集説』の考証という意味合いがありまして、その『尾張神名帳集説』は『延喜式神名帳の神社を対象にしていますので、神名帳に不掲載の「津島神社」(「牛頭天王社」)の項はありません)。

 

「○彌五郎殿の社は相伝て地主乃神也といへり

[眞野時綱曰]神形御茅(みほこ)に座せりと、されは右にいふ如くあまの郡國霊神社なること無論(うつなく)、祭神は大穴貴(おほなむち)神一座也後少彦名の神を配合て二座とす。其後素戔嗚尊を客神に祀る。以来三座と爲といへり (こは旧地にある時の事実也)

[正考謹考]國玉神社を今の柏森の地へうつし奉りてより。建内宿禰は堀田氏の祖先なるをもて相殿に祀り、遂に社号は彌五郎殿とかはりて、其実をうしなひたれど、相伝へて志摩の地主神といひ、正殿の御形代御茅といひ祭神大國霊神と申きたるも旁(かたがた)縁ありて國玉ノ神社なる事著名ものをや (集説に伊久波の神社にあてたるも、又建内宿禰一座のことくかかれたるも、いみしき誤にこそ委く附録にいふへし) 彌五郎殿神主堀田右馬太夫」

 

「彌五郎殿神社」がもともと「國玉神社」だった、という話の続きですね。

『尾陽志』では、天野信景も津田正生もばっさり切られておりますから、こんな説もあるよ、くらいのご紹介にしておこうかと。

 

「○居森三社はいま東面に建つ (社地はいまはせまし) 社人は下の宮とも呼は牛頭天王の御本社に対ていふ也。相伝て居森の社は天王の旧地也といふ。北は少彦名命也。一に疹神(いものかみ)ともいふ

[正生考]疱瘡を守るの神也。伊毛利とは痘守(いももり)の略語なるべし

[社伝には]永享以来疫行流行に就て浮屠氏素戔嗚尊を今の地へ引移して御本社と定め、次に國玉名神を南門の内柏木の本へ引移して彌五郎殿と崇奉る時に少彦名神は居然として動きたまはず、故に居森といふある説信がたし。

[正生考]扨中央は大國霊。南は客神須佐男尊也。さるを戦国の後は、中央と南との神座をあやまり且又大國霊の國を目の字にあやまる、実に此宮今は少彦名の神一社にて、中央着座との二社を空社とす。居守の社人服部勾當太夫。」

 

「津島神社」の南門を出てしばらく行ったところにある「居森社」についての説ですね。

以後は「牛頭天王」に関する考察で、前回の記事でも取り上げたような話ですので略しますが、いくつか。

 

「[正生考](略)一説に末社の蛇毒神のやしろを八股の大蛇なといふものは現しく附会にて取がたし。」

「[社僧曰]牛頭天王は、二十八宿の牛星にて仏像図絵にある三面八臂の像なりといへり 当社に牛の下といふ小団扇あり。牛頭の称に因る産物なるべし。」

「[或人曰]牛頭は新羅國 (今の朝鮮) の中にある地名也。故に牛頭天王といふ也。むかし須尊の神逐せられて新羅國に行爲へるによりて須佐男尊の事跡は朝鮮國におほしとなむ。また朝鮮國に蘇志摩利といふ高麗楽あり蓑を着て笠を持て舞といふ。全く須尊の神逐の出立なるべし。いま日本に其譜は伝はりて其舞は絶たりといへり。」

「[或人曰]津島の社も、南北朝の頃より専ら、佛氏の習合に出る處也とおほしき也。建徳元年に疫病はやりて社僧の輩時を得て、須佐男尊を佛語の牛頭天王に引付て、世俗に信仰をまさせ、祈祷に利験を得たるより、牛頭天王の称のみ申奉るとなむ。」

 

あとは、附録とされている、「海部ノ郡國玉ノ神社辨解式内」という記事です。

 

「國玉ノ神社は本書に述たるごとく、津島天王の地主神彌五郎殿と俗称する社是なる事論なけれと、猶惑ふ人の爲にくはしくわきまへてむ。まづ御形代の御矛、則、宇都志國玉大神なるよしは神代紀云、故大己貴神、則以其子之辭、白於二神曰、我恬之子、既避去矣、故吾亦当避。如吾防禦者、國内諸神、必當同禦、今我奉避誰復敢有不順者、乃以平國時所杖之廣矛、授二神曰。吾以此矛。卒有治功、天孫、若用此矛治國者、必當平安。云々 と見えたる是明徴也。又志摩は昔の一郷にて必産土の神まします理なれば、本書に述たることく、今の向島(津積にむかひたるより向島とは申也。津積よりいひ初たる号なり)の地、和名抄の時の志摩なることうつなし。さて彌五郎殿を地主神と申つたへたるも志摩の産土神なれば也。されば式に載たる國玉神社なることうごかぬ説にあらずや、これかれ正しい称呼の残れる事人智もてあらそはれぬものにこそ。さて彌五郎殿は、もと國玉ノ大神一座にましますを、はるかのち建内宿禰は、堀田氏の祖先なれはとて相殿に祀れる也。然るを天野翁集説に伊久波神社の條に上略後世紀ノ之高住中島郡堀田村、其男右衛門佐正泰始称彌五郎、移居海部郡津島。建姓祖武内宿禰祠者有故。 とかかれたるは附会にして取がかし。其故は堀田正泰の父中島郡堀田村に住したるといふ此伝ある事なし。堀田氏は宮方の従臣にして津島武士にあらず、又彌五郎殿を伊久波神社に當られたるも非言也。伊久波神社は土田村八幡宮是なるべし。そはくはしく次の條にことわるべし。

[瀧川弘美曰]天野氏浪合之記を偽作せり。随て右の説とも附会としると申されき

[正生考]天野翁の説に。南朝の尹良(ただなが)親王の子良王津島に来寓之時、堀田大橋等の数家これに従へり云云 この文いから也。堀田は既にいへる如く宮方の従臣也。大橋は旧来の津島武士也。しかること混同して一串にかかれたるも誤也。(略)」

 

「彌五郎殿神社」を「國玉神社」とみなすのは、神器として「矛」が祀られていた(らしい)からで、「宇都志國玉大神」つまり「大己貴神」が、『日本書紀』で国譲りの際に、「平國時所杖之廣矛」……自分が国を平定したときに用いた廣矛を武甕雷神、経津主神の二神に献上した、ということで「大己貴神」=矛、という発想から、だそうです(「八千戈(やちほこ)神」というのも、「大己貴神」の別称ですね)。

 

 

 

 

他にも面白いのを見つけたので、

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 芸術資料. 第三期 第二册

 

面白いというだけで信憑性はよくわかりません。

35コマです。

 

牛頭天王と牛祭

牛は佛教に極めて因縁が深い。東洋に於ける牛崇拝の如きも、もとは印度の宗教から胚胎してゐる、印度では現に佛教の儀式に牛糞を用ゐてゐる例もあり、『和訓栞』には『事林廣記』を引いて

 

西天南華羅國、西天佛教尊牛屋壁皆塗牛糞以此爲潔、各家置壇以牛糞塗壇、然後置花水爇香供佛云々、

 

また『耶舎法印傳』に

 

西國大俗以牛能耕地生出萬物、故以牛糞爲浄、梵王帝釋及牛並立神廟以祠之、佛随俗情故同爲浄。

 

といふ。
牛頭天王も、かうした牛崇拝の現はれの一つであつて、『大言海』に依れば、

 

牛頭天王、牛頭の呉音、此神の梵名はGavagrva(翟摩掲利婆)なり、翟摩は牛と譯し掲利婆は頭と譯す、圖する處の像に、頂に牛頭を戴けり、(一)天竺の神の名、忿怒鬼神の類なりといふ、天刑星秘密儀軌に『縛撃癘鬼禳除疫難』とありといふ、(二)佛家にて素戔嗚尊を牛頭天皇の垂跡とす、蘇民将来に除疫の茅輪を與へられし故事に因れるにや、京都の東山なる祇園、天王社(今八坂神社)是れなり、諸社根元記上『祇園牛頭天皇素戔嗚尊

 

とあり、天野信景の鹽尻下巻にも、牛頭の梵語の解釋を記してゐる、時に佛畫にこれを見ることがあるが餘り多くない。
牛頭人身の牛頭と馬頭人身の『牛頭馬頭』は共に地獄の獄卒で、よく現はれて來る、有名なものでは『平家物語』の『文覺被流事』の中に

 

假令十善の帝位に誇りたらうと云ふとも黄泉の旅に出でなむ後は、ごづめづの責をば免れたまはじものを


などとある、絵畫に見えた例としては、京都清浄華院蔵の『泣地獄縁起』の一齣、泣地獄が閻魔の廳に向ふ處、火焔の傍に此の牛頭がゐるのが目立つ。
牛に因む行事としては、京都太秦の牛祭が有名である、『日次紀事』に曰く

 

九月十二日、太秦廣隆寺牛祭、上宮王院の庭に於て之を修す、寺僧各々集會す、相傳ふ、慈覚大師帰朝の日、順風を魔多羅神に祈る、帰山後、此の神を叡山の麓赤山に勧請す、太秦も亦この社有り、故に寺中今夜の神事、亦魔多羅神を祭る者也、寺中行者紙衣を着、牛に乗りて上宮王院の前に出て高聲に祭文を讀誦す、悉く懺悔の詞なり、古へ寺傳交々之を勤む、然れどもその事戯に近きを以て、近世行者をして之を修せしむ、法會終りて後、門前に相撲あり。

 

と、此の祭る由来は三条天皇の長和元年恵心僧都に依つて創められたといふ、俳諧にも秋の季語に入つてゐる。

 

角文字のいざ月もよし牛祭 蕪村
空暗し月や最ひとつ牛まつり 兀董
油断して京へ連れなし牛祭 召波
此の行事有名なものとてよく畫にかかれ古く爲恭の作もある近く青龍社にも出品された。」

 

後半は太秦にある「広隆寺」の牛祭の話になっています。

広隆寺」も「八坂神社」も、じっくり回っていないので、記事が書きづらいんですよね……。

ま、それはおいておいて、「牛頭天王」関係で手に入りやすい本として、

 

 

牛頭天王と蘇民将来伝説――消された異神たち

牛頭天王と蘇民将来伝説――消された異神たち

 

 

牛頭天王と蘇民将来伝説の真相

牛頭天王と蘇民将来伝説の真相

 

 

といった本があります。

特に前者は、「牛頭天王」関係のテキストがふんだんに挿入されていますので、非常にありがたいです(『金烏玉兎集』も、『祇園牛頭天王御縁起』なんかもあります)。

前にも書いたような気がしますが、『牛頭天王蘇民将来伝説』では、

 

「「牛頭天王」はインドの神にして、仏教の聖地である祇園精舎を守護する神と伝えられていた。究極の悟りの教えを説く釈迦(釈尊)に、サヘート国の舎衛城に住む長者の須達多(スダッタ)は、その布教の場所を提供した。それが「祇樹給孤独園」、略して「祇園」である。これが仏説『阿弥陀経』が伝える「祇園」の起源である。その祇園精舎の守護神とされているのが牛頭天王で、もともとはインドにあった牛頭山(摩羅耶山、高山、摩梨山などのいい方もある)から取られた名前のようだ。牛頭山は薬としての栴檀樹(牛頭栴檀)が多く生え、「牛頭」という名前と病気を治すという医薬との結びつきが生じたといわれているのである。ただし、インドに「牛頭天王」という神仏がいたわけではなかったようだ(その形態は後に漢訳仏典において大威徳明王とされた、チベット密教のヴァジュラバイヴァラや、その他ヒンドゥー教系の多臂多面や動物の頭をした神像の影響が強い)。」(p36)

 

と説明しています。

日本の中でよくわからない神様でありながらやけに流行した筆頭が「八幡大菩薩」だとすれば、「牛頭天王」は二番手くらいに位置すると思います。

ええ、「よくわからない」のです。

ただ、個人的にはですね……「牛頭天王」が「素戔嗚尊」と習合した理由は、疫病神としての属性からなのか、『釈日本紀』を書いた「卜部兼方」がでっち上げただけなのか、よくわからないのですが、とりあえずそれはおいておいて、「疫病神」と「牛」を結びつけるものがあったんじゃないのか、と思うのです。

で、はたと思いついたのが口蹄疫でした。

家畜の伝染病、というのは何も現代のものではありません、古代からあったと考えられてます。

その家畜の中で、地域によっても違うでしょうが、ヨーロッパ〜アジアの広範囲で、農作業、食肉と様々な用途で重宝したのは、馬でも羊でも豚でもなく「牛」だったのではないでしょうか(あ、私は家畜の専門家でないので、単なる妄想です)。

特に、騎馬民族系でなく、農耕民族の間で。

長い年月をかけて家畜化された「牛」が、ある年には伝染病でばたばたと倒れていく。

古代の環境ではその原因はもちろん突き止められないでしょう。

ペストのように動物由来で人に感染する伝染病ではなくとも、「人間も襲われるのではないか」と恐れるのは必然。

そうするとですね、伝染病の被害者である「牛」は、一方で伝染病を連れてくるモノにもなります。

はい、「疫病神」の完成です(え?)。

当然、「牛の疫病神」は「素戔嗚尊」とは別物だったのでしょうが、いつの間にかこれが習合してしまったので、起源は忘れられて、「牛頭天王」という概念だけが残ったのではないでしょうか。

 

うーん、いまいち。

もし『備後国風土記逸文を信じるなら、そもそも「素戔嗚尊」と習合したのは「武塔天神」で「牛頭天王」ではないのですから、この妄想は今ひとつですね。

ああ残念。

 

あそうだ、『牛頭天王蘇民将来伝説』の中で、

 

「天王通りの名前のように、ここはもともと「天王社」であり、牛頭天王を祀った神社であったことは間違いない。ご多分に洩れず、明治の神仏分離の時に、仏教的な部分は天王山宝寿院(略)として分離し、牛頭天王蘇民将来、婆梨采姫、八王子神といった神仏混淆の「異神」たちをスサノヲ、クシナダヒメ、オオナムチといった記紀神話の登場人物と変換してみせたのである。」(p192)

 

川村湊氏は書いておられますが、宝暦年間(1751-1764)に書かれたとされる『張州府史』には、すでに「蛇毒神社」は「八岐大蛇」を祀る、などとあります。

明治まで100年近くある江戸中期には、本来持っていた「牛頭天王」系統の信仰は忘れられたのか払拭されたのか。

これを考えると、必ずしも明治の神仏分離だけが、神仏の習合を解消したわけではないように思えるのですが、いかがでしょうか。

 

それとは別に、『張州府史』の活字本ではなく写本がありましてですね、

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 張州府志 30巻. [18]

 

↑往時の津島を描いた地図や「津島神社」の境内図などが掲載されているのですが、なんと、津島には本当に「十王堂」(「閻魔王」を筆頭に地獄の十人の王様を祀ったお堂)が四方にあったようなんですね(津島駅近くには、まだ残っています)。

津島が地獄のようだったからなのではないか、とかつては思ったものですが、最近あちこちに行きますと、「十王堂」やその名残と思える地名なんかに結構ぶつかりまして。

あ〜、当時はあちこちにあっても不思議じゃないものだったのか……とがっかりしております(?)。

いえ、津島を四方の「十王堂」で封印しているとしたら、その中心である「津島神社」には、「閻魔王」を超える地獄の大王がいるわけで、それが「牛頭天王」……だったりしないかな、と思ったもので。

妄想だけに、外れが多いです。

誰か「十王堂」の研究をしている人、いないかな……どのくらいあったのか、とか。

また「牛頭天王」ゆかりの神社に行ったら、妄想してみようと思います〜。