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べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「亀戸香取神社」(東京都江東区)

11/21。

「亀戸天神」をあとに、駅に向かっていると、スマートフォンのナビで神社を発見。

「亀戸香取神社でした。

 

○こちら===>>>

スポーツ振興の神 亀戸 香取神社で必勝・合格祈願!

 

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住宅街にひっそり包まれるように佇んでお出ででした。

 

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色あせた案内板が、これはこれで味があるというのか。

 

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香取神社御由緒

(略)

一、御祭神

経津主神 相殿に武甕槌神大己貴神

香取神社の御祭神経津主神は千早振る神代の昔天照大神のご命令により、鹿島大神と共に豊葦原瑞穂国(日本の国)の平定に手柄を立てられた威霊優れた国家鎮護の神として仰がれる我国武将の祖神であります。然も御本宮が神武天皇の御代に東国下総に鎮座されましたことは非常に意義のあることで、日本国の守護を固めた事になり、更に農業に深い関係があり、国土開発に多大の功績のあった産業の祖神でもあります。

故に大和朝廷におかれても殊に崇敬が篤く、中臣氏(後の藤原氏)は香取・鹿島両宮を氏神として忠誠を捧げ崇敬を尽くされたのであります。

一、御由緒

当社の創立は天智天皇四年(六六五)、藤原鎌足公が東国下向の際、この亀の島に船を寄せられ、香取大神を勧請され太刀一振を納め、旅の安泰を祈り神徳を仰ぎ奉りましたのが創立の起因であります。

天慶の昔平将門が乱を起した時、追討使俵藤太秀郷が当社に参籠し戦勝を祈願して戦いに臨んだところ、目出度く乱を平げたので神恩感謝の奉賽として弓矢を奉納、勝矢と命名されました。現在でもこの故事により勝矢祭が五月五日(武者行列)に執り行なわれております。

以来益々土民の崇敬が篤く郷土の守護神というばかりでなく、御神徳が四方に及びましたので、葛飾神社香取太神宮と称え奉るに至りました。

元禄十年検地の節は改めて社寺の下附があり、徳川家の社寺帳にも載せられ古都古跡十二社の中にも数えられております。

(略)」

 

日本書紀』には、「中臣鎌足」が天智天皇四年に東国に赴いた、という記録はありません。

記録がない、というだけなので、実際のところはよくわかりません。

「古都古跡十二社」ってなんだろうと検索したら、「江戸古跡十二社」とも言われているようです。

さくっと検索して一覧が出てこなかったのでちょっと絶望(息)。

 

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「御鎮座1350年」。

本当であればすごいです。

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細かなディテールの狛犬さん。

 

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「紙本淡彩道祖神祭図 歌川広重筆 一幅

(略)

香取神社道祖神祭は、毎年正月十四日、氏子の子供たちが宝船をかつぎ、亀戸から両国の辺りまで練り歩いたもので、享保のころから始まり、明治初期まで続きました。

その光景は、『江戸名所図会』の挿し絵に載せられ、『東都歳事記』にも記載されています。本図は人物や宝船を墨で描き、朱、青で淡彩を施しています。作者は浮世絵師・歌川広重(一七九七ー一八五八)で、嘉永五年(一八五二)以降、広重の円熟期に描かれた作品とみられます。

(略)」

 

写真に撮影したものの、全く読んでいませんでした。

道祖神祭」なのに、「宝船」で練り歩く、というのがよくわからないお祭りですね。

古くからの祭事ではないので、あるいは現代の「村おこし」的なものなのかもしれません。

 

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「亀戸大根」。

有名なようです。

清々しい造形です。

 

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境内一望。

下の写真は、東側の鳥居です。

 

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「恵比寿」「大国」像。

妙につるっとしていて、しかも若いのに違和感がありまくりです。

左の石碑は、

 

「亀の井の由来

亀戸を代表する香取神社は壱千参百余年の歴史を誇り、古くは藤原鎌足公を初め多くの武将や土着の人々の篤い崇敬を受け郷土の守護神として今日に至っております。

この度、亀戸の地名の起りとされている亀が井戸を再興し、併せて恵比寿様・大国様の石像を祀り、この井戸の聖水を掛けながら参詣する人々が御神徳を戴き明るく健康で楽しい生活が出来ますようにと願い、氏子・崇敬社を初め多くの皆様方のご協賛により建立いたしました。

(略)」

 

と刻まれていますが、肝心の「亀が井戸」の由来はない、と……あ、地元のみなさんには常識なんでしょうか。

 

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拝殿。

 

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末社

 

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天祖神社(入神明宮)

(略)

一、御由緒

昭和六十三年の香取神社改築に伴い移転され境内神社として祀られるようになった。

当神社の創立は江東区内では最も古く口伝によるとこの地が四方海に囲まれていた頃漁船がしばしば風浪の危難に会う毎に伊勢の大神を祈念すると災害を免れたという事で太平榎塚に小祠を営み鎮祭されたという。江戸名所図会に書かれている神明宮は当社である。

尚境内から多量の■(※石篇に垂)が出土(明治四十年)し考古学的にも有益な資料とみることができる。現在香取神社にて保管。」

 

万能無窮な「伊勢神宮」ですが、風浪除けにも力を発揮されていたようで。

 

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「稲足神社

一、御祭神

面足神(おもだるのかみ)・惶根神(かしこねのかみ)・相殿に金山毘神・宇賀御魂神

(略)

一、御由緒

寛文九年(一六七〇)創立

明治以前は普門院の主管であったが明治元年香取神社神職の奉仕となる。明治三十五年香取神社隣接地に所在していたが境内に移転。

琴平神社は宝暦年間香取十二代神職香取政幸の鎮祭する処で稲荷神社は元渡辺稲荷神社と称え明治十二年当社に合祀

(略)」

 

「面足神」「惶根神」は、記紀神話の造化七神の第六番目なので、「他化自在天第六天魔王)」と習合する、という信仰が流行りました。

お近くに「第六天神社」があったらおそらくそれです(浅草にあったかな)。

琴平神社」には、この案内板によれば「金山毘古神」が祀られていたようですね(ちょっと珍しいかも)。

 

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「福神社

一、御祭神

事代主神恵比須神)・大国主神(大国神)

(略)

一、御由緒

元々御本社の相殿に奉斎されていた大国主神と併せて明治年間に至り七福神の内の恵比須大国神として境内に鎮祭した。

事代主神は大國主神の御子神である。正月ともなると亀戸七福神の内恵比須大国様として多くの参詣を得ている。

(略)」

 

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「水神社

一、御祭神

水波能女神

(略)

一、御由緒

天明六年(一七八七)香取神社十三代神職香取正武がその年の洪水を記念し災害防止氏子住民の安体を祈願し石祠をもって建設した。江戸名所絵図にもみえる。

 

三峯神社

一、御祭神 

国常立命伊弉諾尊伊弉冉尊日本武尊

(略)

一、御由緒

享保年間(一七一六〜一七三五)の創立 有名な亀戸梅屋敷園主安藤喜右エ門が園内にお祀りしていたのを明治の末当、香取神社に移した。

火防・盗難除の御利益あらたかで梅屋敷講を受継いだ亀戸三峯講の多くの崇敬者もふえ近年本社参詣も盛んである。

 

熊野神社

一、御祭神

家津御子大神ほか天神地祇十三社

(略)

一、御由緒

熊野の神の総本社で曾ては「蟻の熊野詣で」の諺通り貴賎老若男女をとわず全国から参詣者があつまり信仰絶大にして盛況を極めた。

当社は元梅屋敷隣りの北の方に位し、熊野入りと称して亀戸村の水利を司っていた。

大正十三年北十間川通りが拡張されるに伴い香取神社の境内に移転鎮祭した。」

 

移転のことがわりと詳しく案内されていて、素敵ですね。

「梅屋敷」のことは、『江戸名所図会』にもあったはずですが、こんなに関係しているとは思っていませんでしたよ……。

 

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末社後ろの石祠。

案内通りなら「水神社」でしょうか。

 

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東の鳥居。

この右手辺りに休憩スペースがあり、ちょっと一服しまして、よいしょっとパーティー会場へ。

 

さて。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第2輯第6編 江戸名所図会 第4巻

 

↑から引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

161コマです。

 

「香取大神宮
同所二町許乾の方にあり。此地も昔は大平塚に等しく海にして、一つの離島なり。亀の浮べるに似たりとて、旧名を亀津島と唱へたりといふ。
本社 祭神経津主神命。 下総一宮の神同体。 相殿 建甕槌命・鹿島大神宮・猿田彦命・大杉大明神三座。
当社は亀戸村草創よりの勧請にして、此辺第一の古蹟なりといへり。或説に、当社は大職冠鎌足公の勧請なりといふ。例祭は毎年六月十四日・十五日に修行す。旅所は吾妻森より二三十歩東の方、田の中にあり。往古祭礼を行はんとせし頃は、此辺なべて海面なりしかば、舂(うす)を流し、其止る地を以て旅所に定むべしと誓ひたりしに、其舂かしこに止りしとなり。故に今も昔の例により、僅の間ながらも十間川に至りて、神輿を船に移し、旅所へ神幸なしまゐらす。」

 

「本社 祭神経津主神命。 下総一宮の神同体。 相殿 建甕槌命・鹿島大神宮・猿田彦命・大杉大明神三座。」……御祭神が現在とはちょっと違っておりますね。

164コマの図絵を見ると、「水神社」と「金ぴら」さんが確認できます。

160コマには「道祖神祭」の図絵も見られます。

また同じ161コマに「神明宮」の記事もあります。

 

「神明宮

同所にあり。宮居は一堆の塚上にあり。相伝ふ。上古此地は一つの小島にして、其繞は海面なりしと。其頃渡海の船、風浪の難に逢ひけるに、伊勢両皇太神宮の加護により、命を全うせし報賽のため、此地に此御神を勧請なし奉り、宮居を営みしといふ。往古は此地船多く泊る所なる故に、入と唱へしをもて、今も古きを失はずして、此地字に呼ぶといふ。

網干榎と云ふは、社の傍にありて、神木とす。

昔此邊ひとつづきの海なりし頃、漁者の網を懸け干したる故にしか号くるといふ。今も此あたりの地を穿てば、土中より漁網に具する所の■(石篇に垂)と名くるもの出づるとなり。依て海邊なりし證とするよし土人云ひならはせり。此榎の一名を太平榎と号く。社地も太平塚と称せり。」

 

将軍家による江戸大改造の以前の江戸の地のことを伝えている、というところでしょうか。

「塚」はなんの塚だったんでしょうね……海の真ん中に古墳、というのも考えづらいですけれども。

貝塚?

うーん、これだけではなんともです。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸叢書 : 12巻. 巻の九

 

↑の『砂子の残月』にも記事がありました。

113コマです。

 

「香取明神
香取は下総の一宮なれば、当所勧請と見えたり、(葛西考)当山棟札曰、故下総國葛飾郡八島郷亀津島、今改武蔵國葛飾郡西葛西領本所亀戸云云、」

 

なるほど、葛飾は以前は下総国だったのですね。

武蔵国に編入される際に、「亀津島」が「亀戸」になった、と。

うーん、どういうことでしょう……土地改良したら、真水が出たのかな。

これ以上は、郷土史家の方にお任せいたします(本当は区史なんかを参照したいのですが、デジタルコレクションでも揃ってなかったりしますので……残念)。

 

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家庭円満を祈念しておきました。

この後のパーティーでは、風邪だったのですがとりあえず酒を飲み、日帰りしたのでした〜。

滞在時間は7時間くらいだったかな。

近年稀に見る、短時間上京でございました。