さて。
いろいろと引き延ばし工作をしてきましたが、結局何が書きたかったのかを忘れつつありますので、引用引用(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
○こちら===>>>
119コマから、「石上神宮」の記事です。
「石上布留神宮(略)
祭神并創立
古は布都御魂 一に韴霊に作る ・天璽瑞宝・天津羽々斬の三霊を祭る。抑々布都御魂は一に佐士布都(さじふつ)又建布都・甕布都と称し、太古建甕槌神中洲平定の際帯ぶる所の霊剣にしていわゆる十握剣是なり。
神武天皇御東征し給ふに当り熊野の高倉下(たかくらじ)の手を経て献進せしが、戡定の後、天璽瑞宝と共に帝室の鎮護として宮中に奉斎せるを、宇麻志麻治命 饒速日の子即ち物部氏の祖 の忠誠を嘉みし之を托し、爾後物部氏をして其の祀典を掌らしめしものなり。石上神宮旧記 旧神官森氏所蔵 に曰く「韴霊横刀者武甕槌神平国之十握剣也称其神気曰建布都神」と是なり。」
この辺りは、今までも見てきた話なので、ざっと読んでおいてください。
ただ、「石上神宮旧記」という神社所蔵の社記があり、これをどの程度まで信用するのか、という話になってくるのかと思います。
「而して此布都御魂と布留御魂とは神武天皇より崇神天皇まで御十代の間は宮中に安置し、物部氏之を奉斎せしが、天皇の世に至り神威を涜さんことを恐れ、物部の伊香色雄命に詔して別にこれを移し祭らしめ、之を石上振神宮と称す。「いそのかみ」は其昔(そのかみ) 伊は發語 にて「ふる」 古の義に取る の冠辞なり。是当社の創始にして即ち崇神天皇即位七年十二月に係れり。所謂高庭とは地を深く穿り石窟を作り二種の霊宝を奉蔵し、其の上に高く土を盛れるを以て名づけたるものにして、古はこれに杉を栽え以て神木となし剣を倒植するに象れり。有名なる振之神椙は実に之を謂へるものなり。此地古来禁足と称し今尚一小畤を社殿の後に存せり。石上神宮旧記に
畝傍橿原宮御宇天皇御世元年以洎乎磯城瑞籬宮御宇天皇御世七年凡五百七十歳之間、布都御魂横刀、天璽瑞宝十種、並祭天皇大殿之内也七年季冬辛巳丁卯物部連祖伊香色雄命奉勅奉遷于石上邑其蔵斎号曰石上神社 布瑠御魂神鎮坐于此處爾来号其地曰石上布留高庭之地故因名之曰石上振神宮又曰石上神宮 石上邑之地底以磐石爲境作地石窟以布都御魂横刀 左坐爲東方 天璽瑞宝十種 右坐爲西方 同共蔵焉其上高築地謂諸於高庭之地高庭之地当神器之上設磐座立神籬並祭建布都大神布留御魂神也以建布都大神奉斎東座爲第一焉布留御魂神奉斎西座爲第二謂之霊畤而無神殿 布都御魂横刀之鋒向天而頭 俗云都加 植地所謂十拳剣倒植於地是也高庭之地栽椙爲神木似剣倒植之象矣所謂石上振神椙是也
と即ち是なり。」
「布都御魂」は「韴霊」、「武甕雷神」の剣。
「布留御魂」は「饒速日命」から「宇麻志麻治命」に伝わり、「神武天皇」に献上されたと『先代旧事本紀』が伝えるもの、「十種神宝」です。
「「いそのかみ」は其昔(そのかみ) 伊は發語 にて「ふる」 古の義に取る の冠辞なり。」と、「石上」が「其昔(そのかみ)」でその昔、「布留」が「古い」、という意味で付けられていると書いてありますが、どうでしょうね……「ソノカミ」だとしたら「園神」かもしれませんし、「蘇の神」かもしれませんし。
ただ、「布留」はともかく「石上」って、珍しくなさそうな言葉ですよね……そういったキラキラネームみたいな基準で地名は決まらないですけれど。
面白い発想ですが、眉に唾して考えておきましょう。
「所謂高庭とは地を深く穿り石窟を作り二種の霊宝を奉蔵し、其の上に高く土を盛れるを以て名づけたるものにして、古はこれに杉を栽え以て神木となし剣を倒植するに象れり。有名なる振之神椙は実に之を謂へるものなり。此地古来禁足と称し今尚一小畤を社殿の後に存せり。」
……「韴霊」と「十種神宝」は、地面を深く掘った底の石窟に安置されて、その上には高く土が盛られていた、と。
さらに昔はこれに杉を植えて、「剣を倒植する」つまり剣を逆さまに植えた形にした、剣先が上向きになって植わっている様子をかたどった、ということですね。
「有名なる振之神椙は実に之を謂へるものなり。」というのは怪しいですが。
そしてこの地は、古来「禁足地」として、社殿の後ろにあった、と。
これらは「石上神宮旧記」に書かれているとして、引用してあります。
○こちら===>>>
↑には「上代史に於ける石上神宮」という論文が掲載されており(23コマ)、
「神庫がかやうな廃頽的状態にまで導かれたのはまだしも、御正体たる韴霊神剣さへも、いつの頃からか本社背後の岩根深く安鎮せられて、地上から影を隠し給ふこととなつたといはれる。その理由や年代に関する細かな詮議は姑く之を措き、近くまで拝殿の奥に接して禁足地と呼び習はした二百五十六坪余の平地があつて、正中に高さ二尺八寸長径三間半の封土の築かれてゐたのが即ちその箇所であつた。然るに明治七年八月大宮司菅政友が官許を得て之を発掘したところ、数数の霊剣その他武器や曲玉類を見出したが、次いで久しく宝庫内に格護せられ来つた霊剣も発見せられて、神威も亦往昔に復することが出来た。」
とあります(この前段には、「神庫」のことが詳しく書かれています)。
どうやらかつては「神庫」に納められていただろう御祭神、いつのまにか社殿背後の岩の下深く安置されたらしい、というのが↑の言い分です。
で、すごいのが、「然るに明治七年八月大宮司菅政友が官許を得て之を発掘したところ、数数の霊剣その他武器や曲玉類を見出したが、次いで久しく宝庫内に格護せられ来つた霊剣も発見」……社殿背後の磐座を掘り返したら、本当に武器に勾玉が出てきちゃったのです。
○こちら===>>>
↑には、その発掘のときの様子、発掘されたもの、さらには貴重な写真や古図も掲載されていて、是非とも手元にほしい、と思わせる逸品です。
で、全部読み込む時間はなかったので、とりあえず引用を(16コマ)。
「次で延喜の制、神庫に対して厳重な規定が設けられた事は、延喜式神祇巻臨時祭の條に
凡石上社、門鑰一勾、匙二口納官庫、臨祭在前遣官人神部卜部各一人、開門掃除供祭、自餘正殿并伴佐伯二殿各一口、同納庫不得輙開
とある記事によつて窺ひ得られる。」
「延喜式」で、「石上神宮」の「神庫」がかなり厳重に守られていた(封印されていた)、とあります。
また、19コマでは、
「因にいふ、神庫は往古の制を詳にしないが、前述書紀の記事によつて高床の建物であつた事を知る。現在の物は四注造本瓦葺方二間二尺の校倉で、扉を二前とした特殊な構造を有し、周囲に剣形の石玉垣を繞らす。」
「神庫」の現在(戦前)の状況を伝えています。
現代では「禁足地」の周囲に剣形の石製瑞牆が巡っており、その内側に「本殿」と「神庫」があります。
↑参照。
またまた、
「元禄二年の奥書を有する「石上大明神縁起」にも、「本社ノ後ニ禁足ト名付ル處アリ廻ラスニ石籬ヲ以テス社氏ノ説ニ神劔韴霊祟アルニヨツテ石櫃ニ安置シ此處ニ斎埋ス」と見え、徳川末期の古図と思はるる「和州山邊郡布留社頭竝山内絵図」には、「石上御本地」と記し(図版第二)、それと余り年代を隔てぬ二古図には「神籬」と呼び(図版第三)、維新前後より現在迄は禁足地と称してゐる。」
とあり、江戸時代の古図には、「禁足地」が「石上御本地」や「神籬」と書かれていたことがわかります。
個人的にはそれよりも、「社氏ノ説ニ神劔韴霊祟アルニヨツテ石櫃ニ安置シ此處ニ斎埋ス」……このほうが気になりますけどね。
やっぱ祟るんですね。
「禁足地」は、「石上布留高庭」であり、「石上御本地」であり、「神籬(ひもろぎ)」でもある、つまり「神降る場所」だと考えられていたにもかかわらず、いやだからこそなのか、「韴霊」は祟るからといって「地中深く穴を掘って、その中の石窟に埋め、さらに土を持って磐座を立て、最終的には逆さの剣の形になるように杉を植えたのが、いつの間にか剣の形の石製瑞牆になって封印していた」と。
うーん……かなり根深い何か、を感じます。
『大和志料』に戻りまして、
「是より先、素戔嗚尊の彼の八岐大蛇を斬りしてふ十握剣(略)は備前国赤坂郡に奉斎せしられしが、仁徳天皇五十六年十月に至り布都氏の祖市川臣に詔してこれを高庭の地に移し祭らしむ。是に至て神宮は中央に布留御魂、右に天羽々斬、左に十種神宝を祭る事となりぬ。石上神宮旧記曰く
素戔嗚尊斬蛇之十握剣名曰天羽々斬又曰蛇之麁正称其神気曰布都斯魂神 天羽々斬自神代之昔至于難波高津宮御宇五十六年在吉備神戸許 今備前之国石上地是也 焉五十六年孟冬己巳朔己酉物部首市川臣 布留達祖 奉勅遷加布都斯魂神社於石上振神宮高庭之地高庭之地底石窟之内以天羽々斬加蔵于布都御魂横刀左坐 爲東方 是布都御魂横刀爲中央之故当其神器之上設霊畤并祭布都斯魂神爲加祭之神
と是なり。」
おっと、
↑の垂仁紀三十九年条の、
「其の一千口の大刀をば、忍坂邑に蔵む。然して後に、忍坂より移して、石上神宮に蔵む。是の時に、神、乞して言はく、「春日臣の族、名は市河をして治めしめよ」とのたまふ。因りて市河に命せて治めしむ。是、今の物部首が始祖なり。」
に出てきた「市河」さんの名前が見えますね。
「春日臣」で、「物部首の始祖」、『大和志料』によれば「布都氏の祖」で、「石上神宮旧記」では「布留氏の祖」であると……なんのことやら。
引き続き『大和志料』より、
「石上神宮縁起曰 本社の後ろに禁足と名付る處あり廻らすに石籬を以てす社氏説に神剣韴霊霊々祟あるに仍て石櫃に安鎮し此處に斎埋す其御影を新に鋳造して錦袋に納め本殿に斎ひ奉る今祭祀の日奉渡神剣是也
夫高庭地即ち禁足の域内には布都御魂・天羽々斬・十種神宝の三種の齋蔵して之を布留神宮の正体となし、別に宝殿の設けなかりしことは以上引く所の古記録に據りて自ら瞭焉たり。」
先ほども出てきた「祟りある」云々の部分ですね。
本体は埋めてしまい、その代わりのものを新たに作って普段は奉斎していたと。
うーん、ここまで見てきて、『先代旧事本紀』や「石上神宮縁起」などがどこまで正しいかはおいておいて、「大和の祟り神」のパターンが見えますね。
「倭大国玉大神」や「天照大神」が、天皇と同床していたら段々と祟るようになっていったのですが、「韴霊」や「十種神宝」もどうやら天皇に祟っていたようです。
だから宮中から出して、「石上神宮」に遷した。
しかも念入りに「石窟」に入れて、「埋めて」、上に「磐座」を置いて、「逆さ剣」で封印。
祟ってますよね、完璧に……。
そうすると、「物部氏」(たくさんの氏族が集まっていたとされているので、ある意味では「物部の国」かもしれません)は、「祟る「石上神宮」」の力を背景に朝廷の中で勢力を伸ばしていった、ということになるのかもしれません。
その大勢力を、一旦は断ち切ったのが「蘇我馬子」の時代の蘇我氏だった、と。
そろそろキャパシティをオーバーしそうです。
が、めげずにもう少しだけ続けます(『DB』風に)。