べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「石上神宮」(補々々)

さてさて。

 

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

 

 

↑の神武天皇即位前紀、勢い勇んでヤマト地方に乗り込んだ「神武天皇」の軍が手酷くやられて一旦退き、再度紀伊半島を回って熊野に入って行くぜ〜と思っている場面で、

 

「時に神、毒気を吐きて、人物咸に瘁えぬ。是に由りて、皇軍復振ること能はず。時に、彼処に人有り。号を熊野の高倉下と曰ふ。忽に夜夢みらく、天照大神武甕雷神に謂りて曰はく、「夫れ葦原中国は猶喧擾之響焉。(略)汝更往きて征て」とのたまふ。武甕雷神対へて曰さく、「予行らずと雖も、予が国を平けし剣を下さば、国自づからに平けなむ」とまうす。天照大神の曰はく、「諾なり。(略)」とのたまふ。時に武甕雷神、登ち高倉に謂りて曰はく、「予が剣、号を韴霊(ふつのみたま)と曰ふ。(略)今当に汝が庫の裏に置かむ。取りて天孫に献れ」とのたまふ。」

 

ということで、「熊野の高倉下」という人が、「武甕雷神」に与えられた剣を「韴霊(ふつのみたま)」といったのでした。

 この後、「八咫烏」も与えられた「神武天皇」軍は勝ち進み(とはいえ苦戦しているのですけれど)、さらに「金鵄」の力も借りて「長髄彦」の軍を追い詰めます。

ここで有名な、

 

「お前の他に天神の子孫を知っている。俺の義理の弟で名前は「櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)」、子供の名前は「可美真手命(うましまでのみこと)」だ」(長髄彦

「天神の子孫はいっぱいいるんだよ。お前の仕える奴が本当に天神の子孫なら証があるはずだ」(神武天皇

 

というやりとりがありまして、結局「饒速日命」は天孫の証(「天羽羽矢」と「歩靫」)を持っていたのですが、「長髄彦」を殺して「其の衆を帥ゐて帰ふ」(p234)たのでした。

この「饒速日命」を、物部氏の遠祖」(p234)としています。

 

同じ場面を『古事記』で見ますと、

 

古事記 (岩波文庫)

古事記 (岩波文庫)

 

 

「故、神倭伊波禮毘古命、其地より廻り幸でまして、熊野村に到りましし時、大熊髪かに出て入りてすなはち失せき。ここに神倭伊波禮毘古命、■(※「攸」+「火」っぽい字)忽かに惑えまし、また御軍も皆惑えて伏しき。この時熊野の高倉下、一ふりの横刀を■(も)ちて、天つ神の御子の伏したまへる地に到りて獻りし時、天つ神の御子、すなはち寤め起きて、「長く寝つるかも。」と詔たまひき。故、その横刀を受け取りたまひし時、その熊野の山の荒ぶる神、自ら皆切り仆さえき。ここにその惑え伏せる御軍、悉に寤め起きき。故、天つ神の御子、その横刀を獲し所由を問ひたまへば、高倉下答へ曰ししく、「己が夢に、天照大神、高木神、二柱の神の命もちて、建御雷神を召びて詔りたまひけらく、『葦原中國はいたく騒ぎてありなり。我が御子等不平みますらし。その葦原中國は、専ら汝が言向けし國なり。故、汝建御雷神降るべし。』とのりたまひき。ここに答へ曰ししく、『僕は降らずとも、専らその國を平けし横刀あれば、この刀を降すべし。 この刀の名は、佐士布都神と云ひ、亦の名は甕布都神と云ひ、亦の名は布都御魂と云ふ。この刀は石上神宮に坐す。(以下略)」

 

……ちょっと、すぐに探せない漢字があったもので読みづらいかと思いますが。

日本書紀』と似ていますが、「大熊」が出たのでみんな倒れ伏したところに、「高倉下」が「横刀」を持ってきたら回復した、「神武天皇(かんやまといわれひこのみこと)」が由来を尋ねると、天照大神「高木神(「高御産巣日神」とされています))「建御雷神」に命令したところ、「この刀の名は、佐士布都神と云ひ、亦の名は甕布都神と云ひ、亦の名は布都御魂と云ふ。この刀は石上神宮に坐す。」という剣が授けられたのだ、という話です。

その後は、「登美毘古」(『日本書紀』の「長髄彦」だが、同一人物か?)はあっさりやられてしまって、

 

邇藝速日命参赴きて、天つ神の御子に白ししく、「天つ神の御子天降りましつと聞けり。故、追ひて参降り来つ。」とまをして、すなはち天津瑞(あまつしるし)を獻りて仕へ奉りき。故、邇藝速日命、登美毘古が妹、登美毘賣を娶して生める子、 宇麻志麻遅命(うましまぢのみこと)。 こは物部連、穂積臣、采女(※「女」編に「采」)臣の祖なり。」(p86)

 

となっています。

「登美毘賣」と結婚して子供もいて、それが物部連等の祖先ではあるけれども、「天神の子」とは書かれていないのですね。

 

古語拾遺 (岩波文庫 黄 35-1)

古語拾遺 (岩波文庫 黄 35-1)

 

 

↑ではいたって簡潔、剣の名前も出てこず、

 

物部氏が遠祖饒速日命、虜を殺し衆を帥て、官軍に帰順ふ。忠誠しき効、殊に褒寵を蒙る。」

 

だけでした。

それでは、

 

先代旧事本紀 現代語訳

先代旧事本紀 現代語訳

 

 

↑『先代旧事本紀』の登場です。

まず「天神本紀」に、「饒速日命」のことが書かれています。

 

「正哉吾勝々速日天の忍穂耳の尊に、天照太神は仰せられた。

「豊葦原の千秋長五百秋長の瑞穂の国(略)は、私の子の正哉吾勝々速日天の忍穂耳の尊が治めるべき国です」と命じて天から下らせようとなされた。その時に、高皇産霊の尊の子で、思兼の神の妹である万幡豊秋津師姫栲幡千々姫の命を妃として、天照国照彦天の火明櫛玉饒速日の尊がお生まれになった。

正哉吾勝々速日天の忍穂耳の尊は「私が下ろうとして準備している間に子供が生まれました。この子を下らせましょう」と申し上げると、天照太神はこれをお許しになった。

天つ神のご先祖(天照太神、または天照太神と高皇産霊の尊)は、天璽(あまつしるし)の瑞の宝物(略)を十種お授けになった。嬴津鏡(おきつかがみ/奥の鏡)一つ、辺津鏡(へつのかがみ/手元の鏡)一つ、八握の剣(略)一つ、生玉(略)一つ、死反玉(よみかえしのたま/霊魂を蘇生させる玉)一つ、足玉(略)一つ、道反玉(みちかえしのたま/略)一つ、蛇比礼(略)一つ、蜂比礼(略)一つ、品物比礼(くさぐさのもののひれ/さまざまな用途の薄布)一つ・これらがすべてである。

天つ神のご先祖は、次のように教え諭された。

「もし苦しみがおとずれたならば、この十種の宝を、一・二・三・四・五・六・七・八・九・十(ひふみよいつむつななやここのたり)と言って振りなさい。ゆらゆらと振りなさい。このようにすれば、死んだ者も必ず蘇生します」。すなわちこれが「フル(布留)」ということのもとである。」

 

饒速日命」が「天孫」として天下ることが決まった場面と、与えられたいわゆる「十種神宝(とくさのかんだから)」についての伝承です。

現代語訳がわかりやすいのかわかりづらいのか……。

「死反玉」は「まかるがえしのたま」、「道反玉」は「ちがえしのたま」、という読み方もあります。

日本書紀』では、この天孫についていくつか説を載せており、

 

(本文)天照大神の子正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊が、高皇産霊尊の女𣑥幡千千姫を娶り、天津彦彦火瓊瓊杵尊が生まれた。高皇産霊尊が特に大事に育てた。天下りするのは瓊瓊杵尊となった。

 

(一書第一)天照大神は、思兼神の妹万幡豊秋津媛命を正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊と結婚させていた。天忍穂耳尊は中つ国に降りようとしたが、天浮橋で、「この国はまだ平定されていない」と言って戻ってきた。(※この後国譲りがある※)その間に(天照大神から見ての)孫が生まれてしまったので、代わりに孫である天津彦彦火瓊瓊杵尊天下りさせることになった。天照大神は、瓊瓊杵尊に三種の神器と、五部神(アメノコヤネ・フトタマ・アメノウズメ・イシコリドメ・タマヤ)を副えた。

 

(一書第二)天照大神天忍穂耳尊に鏡を授け、「この鏡を見るのは私を見るようにしなさい。床・宮殿を共にしなさい」(※同与共殿)と言った。高皇産霊尊は、アメノコヤネ・フトタマの二柱を副え、また女の万幡姫を天忍穂耳尊の妃として天下りさせた。「虚天(おほぞら)にいるときに、天津彦火瓊瓊杵尊が生まれた。天忍穂耳尊は、瓊瓊杵尊を代わりに天下りさせた。

 

(一書第四)高皇産霊尊は、天津彦国光彦火瓊瓊杵尊天下りさせた。アメノオシヒ、アメクシツノオホクメをを副えた。

 

(一書第五)天忍穂根尊、高皇産霊尊の女子𣑥幡千千姫万幡姫命(あるいは娘である火之戸幡姫の娘千千姫命)を娶った。まず天火明命が生まれた。次に天津彦根火瓊瓊杵根尊が生まれた。天火明命の子の天香山命尾張連の遠祖である。高皇産霊尊は、天津彦根火瓊瓊杵根尊を天下りさせた。天国饒石彦火瓊瓊杵命尊(あめくににぎしひこほのににぎのみこと)と呼ばれた。

 

(一書第六)高皇産霊尊の女天万𣑥幡千幡姫(あるいは、高皇産霊尊の娘万幡姫の娘玉依姫命)、天忍骨命の妃となり、御子天之杵火火置瀬尊(あまのぎほほおきせのみこと)を生む。また、勝速日命の御子天大耳尊(あめのおほしみみのみこと)、丹■(※「潟」のさんずいがない字)姫(にくつひめ)を娶って、御子火瓊瓊杵尊を生んだとも言う。また、神皇産霊尊の女𣑥幡千幡姫が御子火瓊瓊杵尊を産んだとも言う。また、

 

(一書第七)正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊が、高皇産霊尊の女天万𣑥幡千幡姫を娶り、御子天照国照彦火明命を産んだ。これは尾張連等の遠祖である。次に、天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊を産んだ。

 

形としては、「天照大神」の御子である「天忍穂耳尊」(「素戔嗚尊」との誓約で生まれた神の一柱)が、「高皇産霊尊」の娘「𣑥幡千千姫」と結婚して、「瓊瓊杵尊」が生まれ、この方が天孫として天下りなさった、というものです。

で、異伝の中には「瓊瓊杵尊」の兄弟のことがあって、それが兄の「天火明命」で、その血統は「尾張連」につながっている、と。

この記事の最初の方で書きましたが、『日本書紀』では、

 

「天神の子孫はいっぱいいるんだよ。お前の仕える奴が本当に天神の子孫なら証があるはずだ」

 

↑という証言を、他ならぬ「神武天皇」にさせています。

正統性を誇るのであれば、それではまずいはずなんですよね。

瓊瓊杵尊」直系である「神武天皇」(とその兄弟)以外は、「偽の天神の子孫」であってもらわないといけないんですが。

かなり権力を持っていたら、そうした方が簡単です。

そうではないと「神武天皇」が言っているのは、『日本書紀』が書かれた時代(「天武天皇」の頃)には、すでにこの辺りの伝承が曖昧になっていたか、実際に「天神の子孫」を自称している氏族がいっぱいいて朝廷を支えていたのでさすがに配慮せざるを得なかったか。

それでもある程度の整理はしちゃったんでしょう、「天神の子孫」として古い、つまり「天照大神」の御子神「天忍穂耳尊」の直系は「瓊瓊杵尊」という天皇家の祖先と、「天火明命」という尾張連の祖先、そして「神武天皇」のところで出てきた「饒速日命」という物部系氏族の祖先、だけが『日本書紀』に残っています(ただし、「饒速日命」が、天神から数えて何世なのかはよくわかりません)。

先代旧事本紀』では、この構図を、

 

「兄は天照国照彦(あまてるくにてるひこ)天の火明櫛玉饒速日の尊、弟は天饒国饒(あまにぎしくににぎし)天津彦彦火瓊瓊杵の尊と申し上げる」(p160/天神本紀)

 

としています。

ということは、『先代旧事本紀』的には、天火明命」と「饒速日命」は同一人物な〜のだ〜、と言ってしまいたかったのですね。

 

 

 

 

 

さあ、だんだん混乱してきました。

 

 

 

 あ、『古事記』のことを書いてないですが、やっぱり「天忍穂耳尊」の御子は「天火明命」と「瓊瓊杵尊」になっています。

 

古事記』   :「天忍穂耳尊」の御子は、「天火明命」と「瓊瓊杵尊

日本書紀』  :「天忍穂耳尊」の御子は、「天火明命」と「瓊瓊杵尊」、御子あるいはその子孫に「饒速日命

先代旧事本紀』:「天忍穂耳尊」の御子は、「饒速日尊(=天火明命)」と「瓊瓊杵尊

 

といった感じですね。

 とりあえずこの記事は「石上神宮」の話ですので、次回からは、『先代旧事本紀』を中心にお送りしたいと思います〜(短く終わるんじゃなかったのか……)。