べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「穴師坐兵主神社」「相撲神社」(考々々々々々々々)

さて。

 

「蚩尤」が「朱蒙」で「素戔嗚尊」になった、という説を概観しましたが、いろいろと難点がありまして。

 

兵主神で読み解く日本の古代史 スサノヲ朱蒙─その正体は蚩尤

兵主神で読み解く日本の古代史 スサノヲ朱蒙─その正体は蚩尤

 

 

↑では「解慕漱」は「カムス」と読みをつけていましたが、

 

古代朝鮮神話の実像

古代朝鮮神話の実像

 

 

↑では「ヘモス」と読んでいます。

そもそもこれらは『三国史記』『三国遺事』という、12世紀以降に成立した文書によっており、その読み方が現代朝鮮語と同じであるのかについて私にはなんとも言えません。

さらに、古代の朝鮮語(それが高句麗語なのか、百済語なのか、新羅語なのかはわかりませんが)に関しては、文献が残っていない以上、どうやって読んだのかがわからないのです。

断片的に、

 

「刈(カル)は朝鮮語の刀kalであり」(『兵主神で読み解く日本の古代史』p29)

 

ということはあり得たのかもしれないのですが(日本は基本的に昔から外来語大好きですから)。

朱蒙」に関しては、『隋書』に出てきますし、

 

「惟昔始祖鄒牟王之創基也出自出北不余天帝之子母河伯女郎剖卵降世生」(『古代朝鮮神話の実像』p119)

 

という文字が『広開土王碑』にあるようですし、

 

 

続日本紀(下) 全現代語訳 (講談社学術文庫)

続日本紀(下) 全現代語訳 (講談社学術文庫)

 

 

↑の桓武天皇延暦九年には、「桓武天皇」の皇太后の「高野新笠」の死亡記事で、

 

百済の遠祖の都慕王百済王の始祖で、夫余を開国したと伝える伝説上の人物)は、河伯の娘が太陽の精に感応して生まれた。皇太后はその末裔である。それで天高知日之子姫尊と諡を奉ったのである。」

 

とありますから、実在はともかくその説話の存在は知られていたものと思われます(半島の人が、「天皇家には朝鮮の血が流れている!」となぜか大騒ぎする例の部分ですなんですが、百済の話ですからねぇ……少なくとも百済は滅亡していますし、百済を滅ぼした新羅も滅亡していますし、新羅を滅ぼした高麗も滅亡していて、どのくらい現代の半島の人に関係があるのやら……)。

しかし「檀君」にしろ「解慕漱」にしろ、他の史書には見られず、言い伝えとしても残っていない以上、それを「どのように読むのか」という議論は難があります。

わからない、というのが実際ではないでしょうか。

事情は日本だって同じようなものなのですが、日本の場合、驚異の「万葉仮名」というものがあり、読めない単語が皆無ではないものの、多くの言葉は現代と同様に発音することが可能です(「を」とか「ゑ」とかはまぁおいておいて)。

↑『広開土王碑』の部分を見てもらえばわかりますが、まごうことなく「漢文」で、高句麗語と思しきは王名だけなのです。

古代の高句麗語の発音を望むべくもありませんし、『三国史記』『三国遺事』が成立した頃の発音が、古代の半島語とどの程度一致していたのかもわかりません。

というわけで、朝鮮語での読みがなんだかんだ、とでてくる本には、私は眉に唾つけて楽しむことにしています(説としては面白いんですけどね)。

ただ前にも書きましたが、大陸の歴史書に書かれているから正しいとか、文献が伝わっていないから間違っているとか、そういう話でもありませんのであしからず。

しょせんこれは妄想記事です、私に都合のいいことしか書いてません。

 

 

さてさて、話を戻しまして、では「穴師坐兵主神社」はなんなのか、ということですが。

延喜式神名帳における「兵主神社」の分布を見てみると、

 

畿内に於ては大和二社、和泉一社、畿内以東では三河に一社と近江に二社あり、以西に於ては播磨の二社、遥かに飛んで壱岐の一社を除けば、山陰道に於て七社の多きに達し、総数の約二分の一を占めてゐる。即ち丹波に於て一社、但馬に於て四社、因幡に於て二社である。播磨が帰化人に関係の深いことは播磨風土記によつても明かで、ここに二社を見出すことは相照応して肯かれるが、意外にも但馬に四社あることは看過し難い点である。」

 (国立国会図書館デジタルコレクション - 神道叢話. 第2刊 24コマより)

 

で、「大和」「和泉」「三河」「近江」「播磨」「丹波」「但馬」「因幡」「壱岐」だ、と。

「兵主」神を、仮りに出雲系の「素戔嗚尊」や「大国主神」だとすると、なぜか本拠地とされているはずの「出雲」に大きな「兵主神社」がないのですよね。

「出雲」では、「兵主神社」はどうなっちゃったのでしょう(そもそも、最初からないのか)。

 

風土記 (平凡社ライブラリー)

風土記 (平凡社ライブラリー)

 

 

↑の「播磨国風土記」宍禾(しさわ)郡には、

 

安師(あなし)の里 (もとの名は酒加(すか)の里。)土は中の上である。

大神がここで飡(スカ/飲食)しなされた。だから須加といった。後には山守の里とよんだ。そういうわけは、山部三馬が里長に任命された。だから山守[の里]といった。今それを改めて安師としているのは、安師川があることによって名としたもの。そしてその川は安師比売神によって名としている。伊和の大神は[この女神を]めとろうとして妻問いされた。。その時、この神は固く辞退して許さない。そこで大神は大いに怒って、石をもって川の源を塞きとめ、三形(御方の里)の方に流し下した。だからこの川の水は少ない。(略)」

 

とあります。

「安師(あなし)の里 (もとの名は酒加(すか)の里。)」という表現をみると、反射的に、「すか」は「素戔嗚尊」を祀った「出雲大社」の「素鵞社(そがのやしろ)」、全国の「須賀神社」を想定してしまいますね。

「スガ」の里が、「アナシ」の里になった……。

また、「伊和の大神」というのは、『風土記』の註によれば、

 

「伊和君(略)の奉斎した神。伊和は忌輪で、大きな水甕から形象埴輪までを含む祭祀関係の大型円形土器で、古墳において死者の霊魂の地上に鎮まりとどまるところとした。その忌輪を神格化した呼称。『神名帳』には「伊和ニ坐ス大穴持御魂神社(名神大)」とあり、伊和の里(略)にある。この神社名から、伊和大神を出雲の大穴持神や大国主命と同一視する人が多いが、<大穴持>は大穴ムチともいって古墳洞窟に眠る地方君主の死後に与えられた一般的尊称と見るべきであろう。忌輪をその死者の霊魂の鎮まるところとみたことから<忌輪>を<大穴ムチの御魂>といったものとすべきである。和は埴輪のワと同義で粘土を輪形として土器を成形する輪積法に由来すると考えられる。この大神が播磨では土(くに)を占める神としてあらわれるのも、古墳の地の占定と、古墳埋葬者たる大穴ムチが在地豪族であった記憶の結合によるものである。これは播磨に古墳が多いことと照応している。(略)」(p130)

 

だそうです。

 

 

 

……あれ、埴輪と古墳ですか?

 

 

どっかでみた組み合わせですが……。

 

 

えっと……ちょっと妄想し直してきます。

 

 

(続く)