読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「穴師坐兵主神社」「相撲神社」(考々)

さてさて。

 

 「兵主神」は「蚩尤」なのか?

 

というところで前回は終わっておきましたが。

「蚩尤」というと、今では、

 

 

↑に登場する一族を想起する方も多いのかもしれません。

「蚩尤」の話をしよう、と思いながら、ぱっと文献が出てきませんでしたので、

 

百鬼解読 (講談社文庫)

百鬼解読 (講談社文庫)

 

 

↑なぜかこちらから引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

水木先生……(涙)……。

 

京極夏彦氏の<百鬼夜行>シリーズでおなじみ多々良先生のモデルとも言われる多田克己氏による、博覧強記の妖怪解説書です。

実は、著名な妖怪の中に「ひょうすべ」というのがいまして。

 

鳥山石燕の『画図百鬼夜行』に、「ひょうすべ」という妖怪が描かれている。その石燕の絵を見ると、坊主頭をして耳まで口が裂けた、猿のような化け物である。両手の臂を脇腹にピッタリとつけ、両手先をブラブラとさせて、戯けるかのごとくヒョコヒョコと横歩きし、庭先をうろついているらしい。」(p191)

 

というような外見をしているのですが、猿のようで、水かきがあって、いろいろとあるのですが、本来は「猨(えんこう)」という東南アジアの「テナガザル」が妖怪として認識されて、「河童」の一種として捉えられたのではないか、ということです。

 

「九州地方で言う河童の方言に、ヒョウスベというものがあり、「兵揃(ひょうぞろえ)」もしくは「兵主部(ひょうすべ)」などと書かれる。菊岡沾涼の『諸国里人談』(一七四三年刊)には、

「ひやうすへは兵揃にて所の名なり。この村に天満宮のやしろあり。よつてすがはらといふなるべし」とある。」(p194)

 

「兵主部(ひょうすべ)」……はい、出てきましたね「兵主」。

この後で、「菅原道真」と「河童」との関係が書かれていますが、興味深いながらもとりあえず割愛しまして、

 

「ところがこの柳田の説に対して、異を唱える国学民俗学者折口信夫は、ヒョウスベは「兵主神」であろうとする説を立てた。日本神話にも登場せず、聞きなれない名の兵主神であるが、平安時代中期に編集された『延喜式神名帳には、式内社としてこの神を祀る神社が十九社ほど載っている。」(p198)

 

折口信夫は、「九州南部で聞かれるヒョウスベは、大和(奈良県)の穴師坐兵主神の末であろう。この信仰は播州兵庫県南部)、江州(滋賀県)に大きな足だまりをもち、かつては北は奥州(東北地方)から、西は九州までにわたっていたものだが、今ではすたれてわけもわからぬ物になって了うた」と論じているが、なぜ兵主神がヒョウスベなのか(になったか)、はっきりとその論拠が示されていない。」(p199)

 

というわけで、折口信夫御大が、「九州南部で聞かれるヒョウスベは、大和(奈良県)の穴師坐兵主神の末であろう。」と言い出したようです。

このあと、「菅原道真」と「河童」の関係も書かれているのですが、ここはまた今度で。

 

「そもそも兵主神社に祀られる兵主神とはいかなるものか? この兵主と呼ばれる神は、中国神話に語られている蚩尤という神だという。神話によれば古代の偉大なる帝王である黄帝と、天下を二分して戦争した神であったという。炎帝神農氏の子孫である蚩尤は、銅の牛角と頭をもち、鉄の額に、目が四つあり、人のような体と牛の蹄、手足が六本ずつあったという怪物である。この神はとくに相撲が好きで、砂鉄や石を食物にしていたという。軍神であり武器の発明者で、世界で最初に剣、矛、戟、戈、弩、鎧を作ったとされる。

この神は、鉄をもって武器を製造することができた人々、すなわち、漢民族より早く青銅からヒッタイト起源の鉄器文化を導入した南方の古代越人などの恐ろしさを表現したものと考えられる。

この兵主(蚩尤)が日本に伝えられたのは古墳時代の頃で、朝鮮半島南東部の新羅から渡来豪族である秦氏によると考えられている。兵主神が製鉄、武器製造の軍神であったことを裏づけるかのように、この社が鎮座する「穴師」という地名は金属採掘された場所を示しているという。」(p200)

 

ここでの端的な説明で、ほとんど加えるものはないくらいなので困ってしまうのですが。

とにかく、古代中国(というか、中原の漢民族的に)最強の「黄帝」と戦った軍神を「蚩尤」というのです。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 神道叢話. 第2刊

 

↑の22コマから、「兵主神」についての記事がありますので、ちょっと長いですができるだけ引用してみようと思います。

 

兵主神

兵主神とは、主として大己貴神即ち大国主神の御事であります。また素戔嗚尊及びその他の神を兵主神と申し上げてゐるのもあります。谷川士清は、

ひゃうず。神名式に兵主と称する神社多し、前漢郊祀志には、神一曰天主、二曰地主、三曰兵主と見えたり。近江国野洲兵主神社大己貴命也、尾張名護屋の城内兵主神社は三女神を祭る、源敬公の命ずる所也といふ。多くは素戔嗚尊なり。(谷川士清著「倭訓栞」)


と。即ちこれは素戔嗚尊兵主神として祭れるものが多いとする説ですが、しかし今日では、兵主神といへば、大己貴命とするものが多いのであります。
なほ谷川士清は、ヒヤウズと記してゐますが、これはヒヤウスと、スの字は清音とする方がよいやうであります。
そこで、現今の兵主と称する府県社と郷社の祭神を調べて見ますと、愛知県西加茂郡猿投村の郷社兵主神社は大物主命、大阪府泉南郡南掃守村の郷社兵主神社は八千鉾大神、兵庫県多可郡黒田庄村の県社兵主神社大己貴命兵庫県氷上郡黒井町の県社兵主神社は大名持神、奈良県磯城郡纒向村の県社穴師坐兵主神社兵主神大己貴命滋賀県野洲郡兵主村の県社兵主(つわものぬし)神社は國作大己貴命兵庫県姫路市の県社射楯兵主神社兵主神大己貴命であります。右の中、大物主命といひ、八千鉾大神といひ、大名持神といひ、みな大己貴命のことであります。かくの如く以上の諸社は、みな大己貴命兵主神としてお祭りせるものであります。
次ぎに素戔嗚尊須佐之男命)を祭れるものは、兵庫県出石郡高橋村の県社大生部兵主神社で、また名古屋市の県社那古野神社の祭神たる兵主神は、同社誌によれば、須佐之男命の荒魂であるとされてゐます。以上の如く須佐之男命を祭れるものは二社であります。これによつて見ても、兵主神とは主として大己貴命の御事であると云つてよろしい。山川鵜一氏は曰く、
(ヒヤウスノカミ)(兵主神)。
大己貴神を云ふ。この神、一に八千矛神と称し、弓矢を司る故にこの名あり。諸国にある兵主社は皆この神を祀る。一説には素戔嗚尊とも、天照大神とも、また御食津神を云ふとも云へり。兵主の名は史記の封禅書に見ゆ。けだし、武を司る神を称する何して、雨師、河伯等と同じ漢語に出でしなるべし(諸社根元記・神名帳考證)。この社号の社にて、延喜式に見えたる者次の如し。
大和國城上郡穴師坐兵主神社(現今郷社)・穴師大兵主神社・和泉國和泉郡兵主神社(現今郷社)・三河賀茂郡兵主神社(現今郷社)・近江國野洲兵主神社(現今県社)・同伊香郡兵主神社丹波國氷上郡兵主神社・但馬國朝来郡兵主神社・同養父郡兵主神社・同更抒村大兵主神社・同出石郡大生部兵主神社・同氣多郡久刀村兵主神社・同城崎郡兵主神社(二社)・因幡國巨濃郡佐彌乃兵主神社・許野乃兵主神社(現今郷社)・播磨國飾磨郡射楯兵主神社(現今県社)・同多可郡兵主神社(現今郷社)・壱岐島壱岐郡兵主神社(山川鵜市氏著「神祇辞典」)


と。さて兵主神素戔嗚尊であるといへる説を廃して、姫路の「射楯兵主神社考」(明治三年)を著はしたる上月爲彦は曰く、


神名帳考證に、射楯兵主神社二座、今廣嶺歟、素戔嗚尊命、五十猛命、射楯五十猛神、兵主素戔嗚尊也、倭名抄に印達、伊多知 陸奥國色麻郡伊達神社といへり。此考證に今廣嶺歟と云るは違へり。其は廣峯は祭神素戔嗚尊相殿神は三大神八王子也と諸書にもいひ、彼の社も然傳へて、五十猛命を祭れる事なし。(又地理も風土記に合はず)又兵主神社(是も考證には素戔嗚尊といへり)近江國野洲兵主神社等、諸書に祭神大己貴命といへり。兵主神社は諸国に有りて、何れも大己貴命也、素戔嗚尊といへるは誤なり。(「神祇全書」第五輯収録。上月爲彦「射楯兵主神社考」)


と。兵主神社は諸国に有りて、何れも大己貴命なり、素戔嗚尊といへるは誤りなりと云へるは誤りで、兵主神とは、主として大己貴命であつて、あるいは素戔嗚尊であることもあるといふべきであります。
元来、兵主神という語は、支那に起源があるので、この兵主神といふ神名を借りて、今日では主として大己貴命のことをさすやうになつたのであります。これについて橋川正氏は次ぎの如く説いてゐられます。曰く、


兵主神社についての卓説は、既に湖南内藤博士によつて出されてゐるが(京阪文化史論所収・近畿地方の神社第五四頁以下、日本文化史研究第五四頁以下)、現在その祭神の多くは大己貴命大国主命)或ひは素戔嗚尊であるにしても、祭神の如何に拘らず、その神名が史記封禅書に見える八神の一に由来することは疑を容れぬ所である。その八神とは天主、地主、兵主、陽主、陰主、月主、四時主を指し(略 ※ブログ筆者注:「七曰日主」が抜けているという指摘)その中、兵主は東平陸監郷即ち齊の西境の地に祀られたといふ。この蕃神(外国の神)たる兵主が、日本に渡来した年時は、もとより明確にはいひ現はし難く、内藤博士もただ『是は又百済の神よりかずつと前に日本のまだ何も記録の無い時分に来て居る神』であるといはれ、応神天皇の十四年、百済国から来帰した秦氏弓月君に関係をつけ、大体の年代を指示せられて居る。(「歴史と地理」昭和二年十一月号所載。橋川正氏「兵主神社の分布と投馬国」)


と。そして氏は、延喜式所載の兵主神社十六社を挙げ、


その分布を地方的に見ると、畿内に於ては大和二社、和泉一社、畿内以東では三河に一社と近江に二社あり、以西に於ては播磨の二社、遥かに飛んで壱岐の一社を除けば、山陰道に於て七社の多きに達し、総数の約二分の一を占めてゐる。即ち丹波に於て一社、但馬に於て四社、因幡に於て二社である。播磨が帰化人に関係の深いことは播磨風土記によつても明かで、ここに二社を見出すことは相照応して肯かれるが、意外にも但馬に四社あることは看過し難い点である。(同上)


といひ、そして、なぜ但馬国に多いかといふことを説くのに、光明を与へるものは、魏志倭人伝に見える投馬国であるとし、投馬国とは果して何処であるか、それに関する諸家の説を列記して、それより帰納して、投馬国の所在説を大別して二となる、一は九州内に求める説と、一は九州外に求める説である、そして九州外説は、山陰説と山陽説に分れ、更に山陰説は、出雲説と但馬説とに分れる。そしてこの但馬説こそは採るべき説であるとして曰く。


但馬と海外交通との関係を考へるには、先ず新羅王子天日槍の帰化を挙げねばならぬ。(中略)日槍に次いでは田道間守を数へることが出来るが、近年、出石郡神美村大字森尾の一古墳から発見された一面の古鏡の如き、田道間守の常世国往訪を考察するについて、最も興味ある史料とするに足るであらう。発見された古鏡のすべては三面であるが、その中の神獣鏡一面は、晋の泰始元年(西紀二六五年)のものである。(中略)西紀二六五年の頃は宛も垂仁天皇の御代に当り、垂仁紀九十年の條に見える田道間守の常世国往訪の時代に一致することになる。前記の古墳を去る西北十餘町の地点に(大字三宅)田道間守を祀つた式内中島神社(現在郷社)があるが、この古墳と関係あるものと認めるならば、更に想像の翼を拡げて、景行天皇の元年に田道間守が常世国から帰つた時に齋した鏡ではなからうかと思はれる。田道間守の名は、但馬に因んだ名と見做し得るが但馬と海外との交通は早くから開け、従つて大陸文化の伝播影響は著しかつたに違ひない。泰始元年鏡の出土は、確かに但馬国を以て倭人伝の投馬に比定する有力な一理由とするに足ると思ふ。

のみならず、前記の兵主神社の分布が、但馬国に格別濃厚であることは、この地方に於ける外来文化の繁栄を物語るものとして、前来記して来た但馬国を顧る時、私は投馬国に比定する屈強な根拠を得たやうに感ずるのである。(同上)


と。要するに、兵主神といふ神名の起りは支那にあつて、この支那の神名を借りて、わが国の神、即ち大己貴命及びその他の神を祭つたのであります。そして兵主神社が、兵庫県但馬国に多いのは、昔、この国が、大陸との交通に開け、外来文化を吸収することが多かつたからでありませう。」

 

昭和16年刊行の本ですので、説には多少の古さを感じますが(そして途中から、但馬国の正体に話が移っていきますが)、とりあえず「兵主神社」を名乗る神社が『延喜式』の時代から現代にまで残されており、それが主として尾張〜中国地方(壱岐)までに広がっていたことが書かれています。

延喜式』に掲載されることだけが、神社としての格や古さを表すものではない、とはいいながらも、東側が尾張だったということは、その辺りまで分布していた氏族の影響下で「兵主神社」が展開していった、と考えるべきでしょう。

中心が但馬だったことと合わせると、「兵主神」の信仰は、

 

1)東国(関東以北)が未だ大和朝廷の支配下になかった時代に広まったか(多田先生のいう古墳時代も、実際には朝廷の影響力は及んでいるので、半島や大陸から渡ってきた人たちが東国にあまり住んでいない古い時代、ということでしょうか)

2)新羅百済高句麗から人々が流れ込んできた時代に持ち込まれたのか(百済王氏とか、関東に住んでいますので、その時代に半島にはすでに「兵主神」の信仰はなかったのか)、

 

どちらかでしょう。

蕃神(あだしくにのかみ)としては古いものだった、と考えられます。

「天日槍」とかの話をし始めるとまた長いので……もやもやしますが、とりあえず「穴師坐兵主神社」に祀られているのは、「大己貴神」か「大国主神」か「素戔嗚尊」かはともかく、製鉄(と当然武力)に関係した神だったようです。

 

ところで、大陸の明の時代にまとめられたという『漢魏叢書』の中に『述異記』というものがありまして(『述異記』自体は、南朝の梁(502-557)に書かれたと思われます)。

「志怪小説」だそうなので、民間伝承を採録したもの、とおおまかに考えていいと思うのですが。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 述異記2卷

 

↑こちらの4コマに「蚩尤」が登場します。

 

「軒轅之初立也有蚩尤氏兄弟七十二人銅頭鉄額食鉄右軒轅誅之於涿鹿之野蚩尤能作雲霧涿鹿今在冀州有蚩尤神俗云人身牛蹄四目六手今冀州人堀地得髑髏如銅鉄者即蚩尤之骨也今有蚩尤歯長二寸堅不可砕秦漢間説蚩尤氏耳鬢如劔戟頭有角輿軒轅闘以角觝人人不能向今冀州有楽名蚩尤戯其民兩兩三三頭戴牛角而相觝漢造角觝戯蓋其遺製也」

 

白文なので適当に訳してみますと、

 

「軒轅(※黄帝)の治世のはじめの頃に、蚩尤氏があった。兄弟は七十二人おり、頭は銅、額は鉄で、鉄を食べていた。軒轅は、涿鹿の野という場所で、これを倒した。蚩尤は雲や霧を呼んだ。涿鹿は今冀州(※現代の山西省か)にあり、そこには蚩尤の神がある。俗に人の体、牛の蹄、四つの目、六つの手を持つという。今冀州の人が地面を掘ると鋼鉄の髑髏を得るが、これは蚩尤の骨だという。蚩尤には長さ二寸の歯があり、砕くことはできないという。秦漢の間に伝わった話では、蚩尤氏の鬢は剣や戟のようで、頭には角があり、軒轅とは角觝(※力くらべ。ここでは角を付き合わせたということか)で戦ったという。人々は立ち向かうことができなかった。今冀州の楽(※音楽。ここでは音楽に合わせての舞踏か)に蚩尤戯という名前のものがある。それは人々が頭に牛の角をいただいて、角付き合わせるものである。漢で作られた角觝戯は、その遺されたものである。」

 

くらいの意味でしょうか(適当でも、このくらい平易な漢文なら読めてしまう、という日本の基礎教育ってすごいですねぇ……私は漢文は超苦手でした)。

「角觝」は「力くらべ」というような意味があるそうです。

「すもう」と入力すると、「角力」と変換されるのは、この「角觝戯」からきているのではないかと思われ、その「角觝戯」ももともとは「蚩尤戯」で、ということは「相撲」の元祖は「蚩尤戯」だった、と妄想することができます。

大陸の古代皇帝の一人である「炎帝」、つまり「神農氏」ですが、こちらは「牛頭人身」だったという伝説があります。

「蚩尤」はその末裔なので、やはり「牛の角」を持っていたばかりか、目は四つ、手は6本、兄弟72人で「黄帝」とガチンコ勝負です。

なお、このときに「黄帝」が「魃(ばつ)」という娘を呼んで、「蚩尤」の眷属である「雨師」「風伯」という風雨の神を追い払ったことになっています。

「魃」というのは「ひでり」を意味しています。

兵主神」、「蚩尤」、「相撲」……と、「穴師坐兵主神社」に関係ありそうなものがそろってきましたが、ここから何を妄想するのかというと……まだ考えていません。

というわけで、続きます〜。