べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「大神神社」(考々々々々々々)

さて×7。

そろそろ飽きてきたと思われますので(誰が?)。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯 第3編

 

↑『大和名所図会』から引用します(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

196コマです。

 

「玄賓庵の舊趾 は三輪山の北、檜原谷にあり一名玄賓谷といふ。本社より十町ばかりにして、日原社より一町東にあり。庵の跡下樋の水ここにあり。山空うして常に松子落ち、谷幽にして人跡稀なり。嘗て玄賓僧都ここに隠れて、白雲を枕にし、風は月と共に清うして、世に塵埃に染る事をさけ、解脱の空門にいましけり。抑此僧都は姓は弓削氏河内国の人なり。[釋書]。山階寺の止事なき智者なりけれど、世を厭ふ心ふかくして、更に寺院のまじはりを好まず。三輪川のほとりに僅なる庵をむすびて住みけり。桓武帝の御時此事きこしめして、強にめしければ、遁るべきかたなくて、なまじひにまゐりにけり。されども本意ならずおもひけるにや、其後越路のかたなる大なる河に渡守していませしを、弟子なる人ほのみて、帰りのぼるをりにこそよくみとどめて、対面せんとおもひて、帰りけるをりたづねければ、かの月日にいづちともなく身を隠されしとかたりし。[発心集]。」

 

「玄賓庵」についての部分です。

 

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「大神神社」(続々)〜「山の辺の道」〜「檜原神社」〜奈良・京都めぐり - べにーのGinger Booker Club

 

↑「山の辺の道」を行って戻るのに急いでいて、ろくに参拝もしておりませんが……。

謡曲『三輪』というものがあり、そちらが「玄賓僧都」と「三輪明神」の物語なのだそうです。

謡曲というのは、能における脚本のようなものです。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 謡曲全集. 中巻

 

↑の85コマに『三輪』が掲載されています。

引用してみます(※ワキ、シテなどの記載や注は省略。改行はブログ筆者による)

 

「これは和州三輪の山陰に住まひする玄賓と申す者にて候。さても此程樒閼伽の水を汲みて此僧に與ふる者の候。今日も来りて候はば。いかなる者とぞ名を尋ねばやと思ひ候。
「三輪の山もと道もなし。三輪の山もと道もなし。檜原の奥を尋ねん。げにや老少不定とで。世のなかなかに身は残り。幾春秋をか送りけん。浅ましやなす事なくて徒に・うき年月を三輪の里に。住まひする女にて候。又此山陰に玄賓僧都とて。貴き人の御入り候ほどに。いつも樒閼伽の水を汲みてまゐらせ候。今日も又参らばやと思ひ候。
「山頭には夜孤輪の月を戴き。洞口には朝一片の雲を吐く。山田守るそほづの身こそ悲しけれ。秋はてぬれば訪ふ人もなし。
「いかに此庵室の内へ案内申し候はん。
「案内申さんとはいつも樒閼伽の水もちて来たれる人か。
「山影門に入つて推せども出でず。
「月光地に舗いて掃へどもくしも尋ね、切樒。罪を助けてたび給へ。秋寒き窓の内。秋寒き窓の内。軒の松風うちしぐれ。木の葉かきしく庭の面。門は葎や閉ぢつらん。下樋の水音も。苔に聞えて静なる此山住ぞ寂しき。
「いかに上人の申すべき事の候。秋も夜寒になり候へば。御衣を一重賜はり候へ。
「易きあひだの事此衣を進らせ候べし。
「さてさて御身はいづくに住む人ぞ。
「わらはが栖は三輪の里。山もと近き所なり。其上我が庵は。三輪の山もと戀しくはとは詠みたれども。何しにわれをば訪ひ給ふべき。なほも不審に思し召さば。とむらひ来ませ。
「杉立てる門をしるしにて。尋ね給へと云ひ捨てて。かき消す如くに失せにけり。
「此草庵を立ち出でて。此草庵を立ち出でて。行けば程なく三輪の里。近きあたりか山陰の。松はしるしもなかりけり。杉村ばかり立つなる神垣は何處なるらん。神垣は何處なるらん。ふしぎやなこれなる。杉の二本を見れば、ありつる女人に與へつる衣の懸りたるぞや。寄りて見れば衣の褄に。金色の文字すわれり。讀みて見れば歌なり。三つの輪は清く清きぞ唐衣。くると思ふな取ると思はじ。
「ちはやぶる。神も願のあるゆゑに。人の知遇に逢ふぞ嬉しき。
「ふしぎやなこれなる杉の木蔭より。妙なる御聲の聞えさせ給ふぞや。願はくば末世の衆生の願をかなへ。御姿をまみえおはしませと。念願深き感涙に。墨の衣を濡すぞや。
「恥かしながら我が姿。上人にまみえ申すべし。罪を助けてたび給へ。
「いや罪科は人間にあり。これは妙なる神道の。
「衆生済度の方便なるを。
「しばし迷の。
「人心や。
「女姿と三輪の神。女姿と三輪の神。ちはや掛帯ひきかへて。唯祝子が著すなる。烏帽子狩衣。裳裾の上に掛け。御影あらたに見え給ふ。かたじけなの御事や。それ神代の昔物語は末代の衆生のため。済度方便の事業品品以つて世の爲なり。
「中にも此敷島は。人敬つて神力ます。
「五濁の塵に交り。しばし心は足曳の大和の國に年久しき夫婦の者あり。八千代をこめし玉椿。變らぬ色を頼みけるに。されども此人。夜は来れども晝見えず。或夜の睦言に。御身如何なる故により。かく年月を送る身の。晝をば何とむば玉の。夜ならで通ひ給はぬは。いと不審多き事なり。唯同じくはとこしなへに。契をこむべしとありしかば。かの人答へ云うやう。げにも姿は恥かしの。もりて餘所にや知られなん。今より後は通ふまじ。契も今宵ばかりなりと。ねんごろに語れば。さすが別の悲しさに。帰る所を知らんとて。苧環に針をつけ。裳裾にこれを綴ぢつけて。後を控へて慕ひ行く。
「まだ青柳の糸長く。
「結ぶや早玉の。己が力にささがにの。糸くり返し行く程に。此山もその神垣や。杉の下枝に止りたり。こはそも浅ましや。契りし人の姿が其糸の三わけ残りしより。三輪のしるしの過ぎし夜を。語るにつけて恥かしや。
「げにありがたき御相好。聞くにつけても法の道。なほしも頼む心かな。
「とても神代の物語。くはしくいざや現し。かの上人を慰めん。
「まづは岩戸の其始。隠れし神を出ださんとて。八百萬の神遊。これぞ神楽の始なる。
「ちはやぶる。天の岩戸を引き立てて。
「神は跡なく入り給へば。常闇の世とはやなりぬ。
「八百萬の神たち。岩戸の前にてこれを歎き。神楽を奏して舞ひ給へば。天照大神其時に。岩戸を少し開き給へば。又常闇の雲晴れて。日月光り耀けば。人の面しろじろと見ゆる。
「面白やと神の御聲の。
「妙なる始の物語。思へば伊勢と三輪の神。思へば伊勢と三輪の神。一體分身の御事。今更何と岩倉や。その関の戸の夜もあけ。かくありがたき夢の告。覚むるや名残なるらん。覚むるや名残なるらん。」

 

超省略してまとめますと、「玄賓僧都のところに女人が閼伽水を持ってやってきて、仏道での救済を求める。衣を貸してやると、それが掛かっている杉が自分の住んでいるあたりだという。僧都が尋ねてみると、女人は三輪明神だった」、そのあとは三輪山の説話と天岩戸の話、最後に、「思へば伊勢と三輪の神。思へば伊勢と三輪の神。一體分身の御事。今更何と岩倉や。」と三輪の神と伊勢の神が一体であると言って夢が覚める、といったところです。

 

違ったらごめんなさい。

 

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 三輪叢書

 

↑こちら『三輪叢書』の中に、「玄賓庵畧記」が収められています。

成立は江戸時代半ば〜後期ではないか、と考えられているようです。

(※こちら参照===>>>

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/630/630PDF/harada.pdf

 

362コマです。

 

「和州式上郡三輪山檜原谷玄賓庵は、そのかみかの僧都山居の地なるかゆへ、永く其名を伝ふ。僧都姓は弓削、河州の産にて、山階寺に入てより 是福興寺の旧号也 三輪宗の碩徳とあふかれ、瑜伽唯識の幽頥に通じ、其芳聲都鄙に震ふ。然とも浮世を深く厭ひかつ僧官を篤くうれひ、跡を伯耆の国に遠く隠せり。時に人皇五十代桓武帝御不豫の事ありて、勅使くたりて加持あらむとの仰あり。其時呪力神験有て玉体たちまち常のことくならせ給ふ。叡感ななめならず、給賞他にことなるを拜辞し、すみやかに居をさけ此檜原の奥に膝をいるるの草廬を結ひ、朝夕怠なくたた苦修練行としをつみ給ふ。そののち五十一代平城天皇の勅有て宮中に招請し給ふ時、


みは河の清き流にすすきてし衣の袖をまたやけかさむ

 

との高詠叡信ますます浅からず、大僧都に任しらるべきとありければ

 

 

とつ國は、水原きよし事しけき都のうちはすまぬまされり

 

如此朗吟して此檜原をもすみ捨、越路のかたにのかれくたりて、一河のわたし守となりて月日を送り晦跡をあまなひまふとき、一人の徒弟はからすこの物色をひそかに見とめけるをとみに察し他郷にけすかことく身をかくさる、さきに檜原の幽居をしめ給ふ時神女来りてあかつきことに下樋の水をくみて閼伽に供す。有ときかの女僧都の故衣を乞ふ。求めに応じ一領施與あるとてかく


三の輪の清き渡にから衣とるとおもふなやるとおもはし


此とき神女よろこび眉宇にみつ。僧都すみところをとふに


恋しくは訪ひ来ませ我宿はみわの山もと杉たてる門

 

かくこたへおはりて所在を失す。翌日明神へ詣せらるるとき社前の老杉にかの衣かかりて僧都の一詠金字あざやかに書せり。奇なるかな、明神師の徳をしたひ給ひて現形有けるなるべし。

此一株に今に枯朽せすして衣掛の杉と号す、又有時僧都社参のあした路邊の田中にて菜をつむ美婦あり試に正路をとひ給ふとて、


うつせみのもぬけのからに物とへばしらぬ山地もおしへざりけり


と吟唱したまへばかの婦人


をしゆへとも眞の道はよもゆかし我をみてたにまよふその身は


かく返詠を呈して後の在所をみず・神のかりに現し出で僧都と法縁をむすひたまへるものならむか。玄菜をつみけるところは則一の鳥居の右のかたの茶店の旧地なりとぞ。僧都のちには備中國沼多郡の山中に一廬を営み、道體をやしなふ秋にいたれば、里人やま田のあれなむをうれひ僧都を労して猿鳥をおどろかしむ。


山田もるそうつの身こそ悲しけれ秋はてぬればとふ人もなし


此一首はかの山中にて歎詠なりとぞ。この歌続古今集にいれり。五十二代弘仁帝篤く師の道風を貴み給ひ、毎歳恭くも宸翰を染させ給ひて法資たくひあらず。そののち弘仁九年六月己巳の日寿算八十有餘にして庵前の地に檜木の枝を倒にさし入。一笠をがけ■鞋一双を脱きその住所をしらずといふ。思ふに此現身都率に生天し給ふなるべしと諸人拜信の頭をかたむけるとなり。その後貴賎遺跡を仰き故庵を失はず。一寺を締構し号して湯川寺といふ。僧都の行状彼の寺の縁起にも委く記せるとそ。彼倒にしられたる枝、今にゑた葉繁茂して一千年の星霜をへぬる迄、天地とともに永く存せり。此地衣かけの老杉山海西来千里地こと■といへども、信へし、其妙瑞符節を合せたることきをや。行賀僧都も師の旧蹤をしたひて、此地に棲遲し給へりとなむ。人寰たたりかかる岑寂の深谷たりといへども、有信探勝の道俗時々尋来りて、僧都の来緒をとひけるゆへ、旧記にのこれることとも、かつ日ころ聞およぶ説々、やや心に記せる所ばかりそこはかとなく此略記一篇をかひつけ侍る。文義のつたなきは我よくすべきにあらず。ひとへに後人の添削をまつのみ」

 

姓が「弓削」ということから、「弓削道鏡」との関わりから論じられる方でもあるようですが。

「山田もるそうつの身こそ悲しけれ秋はてぬればとふ人もなし」という歌が伝わっているところから、

 

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添水(ソウズ)とは - コトバンク

 

「《「僧都(そうず)」からとも「案山子(そおず)」の音変化からともいう。また、歴史的仮名遣いは「そふづ」とも》田畑を荒らす鳥獣を音で脅す仕掛け。流水を竹筒に導き、水がたまるとその重みで筒が傾いて水が流れ出し、軽くなって跳ね返るときに石を打って音を出すようにしたもの。のちに庭園などに設けられ、その音を楽しむようになった。ししおどし。《季 秋》「風雨やむ寺山裏の―かな/蛇笏」」

 

↑いわゆる「ししおどし」の由来ではないかとも言われているようです。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 偉僧玄賓僧都

 

↑こちらは大正時代のものですが、伝記風に書かれています(「道鏡」云々も出てきますが、いかんせん大正時代なので、いろいろ割り引いて読む必要があるのかと思います。あと、書いているのがお坊さんですし)。

22コマです。

 

「五 三輪山閑居

桓武天皇は僧侶の腐敗を慨し給ひ、之を矯正せられんとして、先づ寺院僧侶の精度を厳しくせられました。 即ち寺院の数を制限して猥りに新寺を建設することを禁じられ、又、人臣の田園を寺院に寄附し、また人民より田園を買収することをきんじられました。 僧侶に対しては特に学問を奨励せられ、僧侶として資格の無い者は得度を許さず、 或は僧侶の徳行ある者に対しては、之れを書き出さしめられ、 善く師に事へ、 又はまじめに苦修練行する者には、官稲を賜ると云ふ規則を制定せられたのである。 人の機根に優劣ある限り之を済度するに当り仏教も当然各宗各派あるべきものとなし、諸宗各々其教理に従つて使命を全ふする様に努められたのであります。 其頃法相宗門下から名僧が多く出て、法相宗の盛力は最も盛んであつた。 天皇が僧侶の徳行者に対して賞典を賜ると云ふ制を敷かれまして、 玄賓僧都は其の第一に書き出されたのであつた。 此時僧都三輪山麓の草庵清居中の事である、「桓武」「平城」「嵯峨」天皇が学問を御奨励になりました事は史実に於いて明らかでありますが、 従来有つた所の大学国学の外に私立大学を建設せしめられ、 文学の研究を盛んに進められました。 勧学院、学館院、淳和院、奨学院等の学校は皆私立大学にして、 官立大学と共に意を学術振興に盡されたのである。 桓武天皇延暦十三年に都を平安京に遷された時、 天皇僧都の高徳を聞召され、 勅命によつて律師に任じられました。 しかし僧都は此の栄誉を進んで受け奉る勇気はなかつた。 それは、道教が多年官武の諸臣に親近して、 藤原家一門の爲めに嫌まれたこと、 今一つは当時仏教の堕落を憂ひ且つ官武の眩惑を慄れ、 道教法師のあはれな末路を目のあたり見て愁辛禁じ得なかつたのであります。 幾度か御辞退の旨を奏上しましたけれども、 勅命いかんともしがたく、 遂に律師の職に就きました。 学術振興の爲めに盡し以て、天皇の御意に添ふべく努力したのであつた。 智において、徳において申分なき彼れの人格に接した学徒の中には、 官界の子弟が多かった。 之によつて断たれてゐた 官武の関係も又つながれることになり、 僧都を僧官に任すべく其の運動さへも起つた。 天皇は彼れに対して僧都大僧都の尊号を下したまひしに僧都元より此れを欲せず、毎に固辞したものである。 強いて大僧都の任命あるをきき深く之れを憂ひ御辞退を奏上せしに、勅命とあつて遁れがたく僧都の尊号のみ戴きしなり。 しかして遂に職を辞し悠々我なつかしき三輪山の草庵に帰り給ふ。 職を辞して都を去らんとせし時天皇に一言の和歌を奉れり。


とつくには山水清し事多き
君が都はすますまされる


王位憑りて、平城天皇の御代に至り、 天皇御自ら臣民のやすらけきをの御心より五穀成就国家安全の大祈祷會を発願遊ばされた。 三輪山の草庵に隠れた僧都は再び都に呼よせられ、 然してこの大祈願會を修行せられた。 天皇の臣民に垂れさせられた御心と僧都の清き信念によつて、 四民其の恩徳に浴し、霊験あらたかに、 民やすらけきといふ。 祈願了りてまた草庵に帰り専ら菩薩修を行じて居られました。 或時三輪山の明神が一女の姿に現はれ、 僧都を訪ねて法を開かれた。 そして衣と袈裟を授け給ひしに、 女人の姿は変じて、 三輪明神となりぬ、 と伝説に言ふを聞いて居ります。 猶頻りに僧官の詔勅あるをきき永年の理想茲に至りて臻りて奮然衣を決する處があつた。紀元一四七六大同二年五月、平城天皇に和歌を奉り三輪山の草庵を後にして飄然姿を晦まし、行脚の旅に出られたのである。


三輪山の清き流れにあらひし
ころもの袖はさらにけかかし


三輪山の草庵生活は彼れ僧都に取つてはまことに意義のあつたものであらう。 けれども官武一統の眩惑を愧れ、 且つ又其の裏面に潜む怖ろしい空虚があつたからであります。 しかして一層人生の無情を感じたのである。 そして切実に大死一番かの清朗なる菩薩の境界にと思ひを焦したのである。 玄賓僧都が、 あらゆる艱難辛苦を冒して、 山川を跋■し、寒暑と抗しつつ、 長年の間一所不住の雲水生活を続けしことが僧都に取つては何よりも、 生きた人世の学問であつたのである。 一体宗教其のものは、功智や才器では道そのものの真髄は到底判る筈のものではありません、道そのものの真の体験は生きた人生に接して凡ゆる人間苦の洗礼を受け得てこそ始めて宗教の妙味其の機微が把持し支配し得られるものである。 先天的に敏感なる僧都は、 苦労の多い雲水生活によつて余程それが円満に調和されたのである。 一見愚の如く魯の如くに展開されながらも、而も其の内面には電光石火の如く鋭鋒が暗然の内に蔵されつつあつた。
永年の漂白生活中には世間に伝へられてゐない行状があつたと信じますが、 資料を得るに余程困難である。 僧都御自身にも何か書き遺されたものがあらうと思ふが、 研究日浅き爲め其の幸運に接せず、予の住職地には、古来異物が宝蔵してあつたといふが、 無檀無住の儘が永年持続し、寺財等も他に転じた位だから、 現在異物として何物もない、 只本書表面に出した僧都の木像のみ現存して居る。」

 

とりあえず、河内国から山階寺へ、そこで出世したけれども世を捨てて、三輪山に隠棲したのに勅命がくるので嫌がって逃げて、越の国のどこかの川の渡し守りをしていたら弟子に見つかってまた逃げて、最終的に備中国へ、というのがこの方の移動ルートのようです。

……なんとなく、ですけれど、

 

「捕まったらやばい」

 

という必死さを感じます。

本当に、世俗から離れたかっただけなんでしょうか……陰謀論がむくむくと頭をもたげてきますのでやめておきましょう。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 新輯岡山県伝説読本

 

「玄賓」で検索すると、↑こちらが引っかかりました(もっとたくさん引っかかると思ったんですがね国会図書館デジタルコレクション……)。

29コマです。

 

「玄賓谷
玄賓谷は川上郡落合村字近似にある。
玄賓僧都が庵室をむすびし所故玄賓谷と云ひ、ここに棲む雉子は口を封じられてゐるので鳴かない。なほ此地には僧都が地に突立てられた杖が根を生じて大木となつたと云ふ白檀がある。」

 

現地のことはよくわかりませんが、後半は高僧によくある「杖立伝説」ですね。

前段の「雉子が鳴かない」というのが何やら不気味で面白そうですが、これは↑で引用した「添水」(ししおどし)からくる連想なのかもしれないですね。

 

○こちら===>>>

CiNii 論文 -  岡山県新見市の玄賓僧都伝説

 

↑と思ったら、どうやら僧都が、山で鳴いた雉子が猟師に撃たれたので、不憫になって声を封じた、という極めて仏教的なお話が原型のようでした。

 

というわけで、「玄賓僧都」についてのご紹介でした〜。

 

次あたりで終わります〜。