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神社仏閣ラブ(弛め)

「大神神社」(考々々)

さてさてさて。

 

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

 

 

記紀神話のおかしな部分の一つに、国譲りの場面で国つ神は天つ神に帰順しているはずなのに、 「神武天皇」は九州からもう一回征服に出かけなければいけない、というものです。

いろいろと理由付けはできますが、何しろ神代のことなので、それは言いっこなしで、ということにしておきましょうか。

というわけで、「大物主神」が長きにわたって八十万神とともに皇孫を守護するよう「高皇産霊尊」に約束させられたにもかかわらず、大和には皇孫に逆らう「長髄彦」や、「磯城(三輪山付近)の八十梟師」などがいたのです。

で、そのあたりの征服(平定)が済んで、何代か後の「崇神天皇」のときに、

 

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「大神神社」(続々々)〜久延彦神社・大直禰子神社〜奈良・京都めぐり〜 - べにーのGinger Booker Club

 

↑で引用した「大田田根子命」が登場します。

 

「(略)昔我が皇祖、大きに鴻基を啓きたまひき。其の後に、聖業逾高く、王風転盛なり。意はざりき、今朕が世に当りて、数災害有らむことを。恐るらくは、朝に善政無くして、咎を神祇に取らむや。盍ぞ命神亀へて、災を致す所由を極めざらむ」とのたまふ。是に、天皇、乃ち神浅茅原に幸して、八十万の神を会へて、卜問ふ。是の時に、神明倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)に憑りて曰はく、「天皇、何ぞ国の治らざることを憂ふる。若し能く我を敬ひ祭らば、必ず当に自平ぎなむ」とのたまふ。天皇問ひて曰はく、「如此教ふは誰の神ぞ」とのたまふ。答へて曰はく、「我は是倭国の域の内に所居る神、名を大物主神と為ふ」とのたまふ。時に、神の語を得て、教の随に祭祀る。然れども猶事に於て験無し。天皇、乃ち沐浴斎戒して、殿の内を潔浄りて、祈みて曰さく、「朕、神を礼ふこと尚未だ尽くならずや。何ぞ享けたまわぬことの甚しき。冀はくは亦夢の裏に教へて、神恩を畢したまへ」とまうす。是の夜の夢に、一の貴人有り。殿戸の対ひ立ちて、自ら大物主神と称りて曰はく、「天皇、復な愁へましそ。国の治らざるは、是吾が意ぞ。若し吾が児大田田根子を以て、吾を令祭りたまはば、立に平ぎなむ。亦海外の国有りて、自づからに帰伏ひなむ」とのたまふ。

秋八月の癸卯の朔己酉に、倭迹速神茅原目妙姫・穂積臣の遠祖大水口宿禰・伊勢麻績君、三人、共に夢を同じくして、奏して言さく、「昨夜夢みらく、一の貴人有りて、誨へて曰へらく、『大田田根子を以て、大物主大神を祭ふ主とし、亦、市磯長尾市を以て、倭大国魂神を祭ふ主とせば、必ず天下太平ぎなむ』といへり」とまうす。天皇、夢の辞を得て、益心に歓びたまふ。布く天下に告ひて、大田田根子を求ぐに、即茅渟県の陶邑に大田田根子を得て貢る。天皇、即ち親ら神浅茅原に臨して、諸王卿及び八十諸部を会へて、大田田根子に問ひて曰はく、「汝は其れ誰が子ぞ」とのたまふ。対へて曰さく、「父をば大物主大神と曰す。母をば活玉依媛と曰す。陶津耳の女なり」とまうす。亦云はく、「奇日方天日方武茅渟祇の女なり」といふ。天皇の曰はく、「朕、栄楽えむとするかな」とのたまふ。乃ち物部連の祖伊香色雄をして、神班物者とせむと卜ふに、吉し。又、便に他神を祭らむと卜ふに、吉からず。」

 

 

古事記 (岩波文庫)

古事記 (岩波文庫)

 

 

↑では、

 

「この天皇の御世に、役病多に起こりて、人民死にて盡きむとしき。ここに天皇愁ひ歎きたまひて神牀に坐しし夜、大物主大神、御夢に顯はれて曰りたまひしく、「こは我が御心ぞ。故、意富多多泥古(おほたたねこ)をもちて、我が御前を祭らしめたまはば、神の気起こらず、國安らかに平らきなむ。」とのりたまひき。ここをもちて驛使を四方に班ちて、意富多多泥古と謂ふ人を求めたまひし時、河内の美努にその人を見得て貢進りき。ここに天皇、「汝は誰が子ぞ。」と問ひたまへば、答へて曰ししく、「僕は大物主大神、陶津耳命の女、活玉依毘賣を娶して生める子、名は櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子、僕意富多多泥古ぞ。」と白しき。ここに天皇大く歡びて詔りたまひしく、「天の下平らぎ、人民榮えなむ。」とのりたまひて、すなはち意富多多禰子命をもちて神主として、御諸山に意富美和の大神の前を拜き祭りたまひき。また伊迦賀色許男命に仰せて、天の八十平瓮を作り、天神地祇の社を定め奉りたまひき。また宇陀の墨坂神に赤色の楯矛を祭り、また大坂神に墨色の楯矛を祭り、また坂の御尾の神また河の瀬の神に、悉に遺し忘るること無く幣帛を奉りたまひき。これによりて役の気悉に息みて、國家安らかに平らぎき。」

 

となっています。

崇神天皇」の時代に疫病が流行したので占ってみると「大物主神」の仕業だとわかりました。

そこで天皇は教えられた通りに祀ったのですが、効果なし。

ついには天皇自ら沐浴斎戒しての祀りです。

 

「是の夜の夢に、一の貴人有り。殿戸の対ひ立ちて、自ら大物主神と称りて曰はく、「天皇、復な愁へましそ。国の治らざるは、是吾が意ぞ。若し吾が児大田田根子を以て、吾を令祭りたまはば、立に平ぎなむ。亦海外の国有りて、自づからに帰伏ひなむ」とのたまふ。」

 

夢枕に「大物主神」が立ち、↑こう言いました。

いきなり「海外の国」の話が出てくるのは、以後日本が東アジア情勢に巻き込まれていくことを暗示しているとも考えられますが、それはおいておいて。

前回ご紹介しましたが、「大己貴神」は「天穂日命」によって祀られていましたが、よく考えれば「大物主神」は祀られていないのですよね(天孫の護衛を命じられています)。

そのことを「崇神天皇」が知らなかった、という設定にも無茶なところがありますが(まぁ、十世代以上隔たっているようですので、無理もないかも)、ともかく「大物主神」、すっかり激おこの祟り神になっておいでです。

 

「「昨夜夢みらく、一の貴人有りて、誨へて曰へらく、『大田田根子を以て、大物主大神を祭ふ主とし、亦、市磯長尾市を以て、倭大国魂神を祭ふ主とせば、必ず天下太平ぎなむ』といへり」」

 

ついでに「大物主神」、他の方の夢にも登場しています。

この部分では、「倭大国魂神」という神名が出てきますが、これは崇神条のもう少し前に、例の「天照大神」を宮内から追い出すときに、一緒に追い出された神です。

名前からして、「大己貴神」の持っていた神名(「大国玉神」、「顕国玉神」)に似ているのですが、どうも別のようです。

当然ですが、「倭大国魂神」は、託された「渟名城入姫命」に祟っています(「髪落ち体痩みて祭ること能はず。」)。

この時代、宮内から追放した「天照大神」、「倭大国魂神」、そして「大物主神」と、祟る神様だらけなのです。

何をやらかしたのか「崇神天皇……元々の倭の神が祟っているところから、また「ハツクニシラススメラミコト」と諡されていることから、初代「神武天皇」と「崇神天皇」は同一人物ではないか、という説もあります(「神武天皇」の征服譚と「崇神天皇」の祭祀譚に分離したのは、実質的な権力を持つ王と、祭祀の王を分けるためではないか、とかなんとかかんとか)。

 

「「父をば大物主大神と曰す。母をば活玉依媛と曰す。陶津耳の女なり」とまうす。亦云はく、「奇日方天日方武茅渟祇の女なり」といふ。」

「「僕は大物主大神、陶津耳命の女、活玉依毘賣を娶して生める子、名は櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子、僕意富多多泥古ぞ。」」

 

↑上が『日本書紀』、下が『古事記』の、「大田田根子」の自己紹介です。

系譜に違いはありますが、「奇日方天日方武茅渟祇(くしひかたあまつひかたたけちぬつみ」櫛御方命(くしみかたのみこと)」はおそらく同じ神を指しており、「倭大物主櫛?玉命(やまとのおおものぬしくしみかたまのみこと)」系譜を継いでいるだろうことが見て取れます。

ただ、『日本書紀』の書き方(「奇日方天日方武茅渟祇」)だと、どうも「大物主神」のお舅さん(『古事記』では御子神の「櫛御方命」)は「太陽神」っぽいんですよね……。

そういえば、三輪山の頂上にある「高宮神社」にいらっしゃるのは「日向御子神(ひむかいのみこのかみ)」といいまして、もろ「太陽神」です。

むむむ……。

 

崇神条で重要な部分は他にもありまして、

 

「是の後に、倭迹迹百襲姫命大物主神の妻と為る。然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来す。倭迹迹姫命、夫に語りて曰はく、「君常に昼は見えたまはねば、分明に其の尊顔を視ること得ず。願はくは暫留りたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀を覲たてまつらむと欲ふ」といふ。大神対へて曰はく、「言理灼然なり。吾明旦に汝が櫛笥に入りて居らむ。願はくは吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。爰に倭迹迹姫命、心の裏に密に異ぶ。明くるを待ちて櫛笥を見れば、遂に美麗しき小蛇有り。其の長さ太さ衣紐の如し。則ち驚きて叫啼ぶ。時に大神恥ぢて、忽に人の形と化りたまふ。其の妻に謂りて曰はく、「汝、忍びずして吾に羞せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。仍りて大虚を践みて、御諸山に登ります。爰に倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて急居(略)。則ち箸に陰を撞きて薨りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。是の墓は、日は人作り、夜は神作る。故、大坂山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまでに、人民相踵ぎて、手逓伝にして運ぶ。時人歌して曰はく、

大坂に 継ぎ登れる 石群を 手逓伝に越さば 越してかてむかも」

 

という説話です。

日本書紀』的には、「倭迹迹百襲姫命(やまとととももそひめのみこと)」は、四代前の「孝霊天皇」の皇女です。

母は「倭国香媛」で、元々の大和の勢力の姫だったと考えられます。

大物主神」が最初に神がかりしたのがこの「倭迹迹百襲姫命」で、在地の一族だったとすればそれも当然なのかもしれません。

で、『古事記』では、孝霊記のところで、

 

「また意富夜麻登玖邇阿禮比賣命(おほやまとくにあれひめのみこと)を娶して、生みませる御子、夜麻登登母母曾毘賣命(やまととももそびめのみこと)。」

 

として紹介されているんですが、『日本書紀』にあるような「箸墓伝説」の起源とはされていません。

で、崇神記ではもう少し三輪山に関するものがありまして、

 

「この意富多多泥古と謂ふ人を、神の子と知れる所以は、上に云へる活玉依毘賣、その容姿端正しくありき。ここに壮夫ありて、その形姿威儀、時に比無きが、夜半の時に儵忽到来つ。故、相感でて、共婚ひして共住る間に、未だ幾時もあらねば、その美人妊身みぬ。ここに父母その妊身みし事を恠しみて、その女に問ひて曰ひけらく、「汝は自ら妊みぬ。夫無きに何由か妊身める。」といへば、答へて曰ひけらく、「麗美しき壮夫ありて、その姓名も知らぬが、夕毎に到来て共住める間に、自然懐妊みぬ。」といひき。ここをもちてその父母、その人を知らむと欲ひて、その女に誨へて曰ひけらく、「赤土を床の前に散らし、巻子(へそ)紡麻(を)を針に貫きて、その衣の襴に刺せ。」といひき。故、教への如くして旦時に見れば、針著けし麻は、戸の鈎穴より控き通りて出でて、ただ遺れる麻は三勾(みわ)のみなりき。ここにすなはち鈎穴より出でし状を知りて、糸の従に尋ね行けば、美和山に至りて神の社に留まりき。故、その神の子とは知りぬ。故、その麻の三勾遺りしによりて、其地を名づけて美和と謂ふなり。(略)」

 

という、三輪山の語源説話です。

姫の元にやってくる相手の正体を知るために、衣の裾に麻糸を縫い付けて後をつけたらびっくり「大物主神」だった、という。

まず驚いたのは、「戸の鈎穴」です。

 

これで、古代でも「密室殺人」が可能だということが証明されました!

 

待てよ、そういえばこの話、ホームズの「○○○の○」に似ているな……ひょっとして元ネタはこれなのか!!

それに、「針」と「糸」を使っている……これはまさか、超古典の機械式「針と糸」密室トリックを示唆しているのではなかろうか!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

……といった、ミステリ好きの妄言は置いておきまして、それでも「戸の鈎穴」、結構衝撃でした。

どんな構造だったんだろうなぁ、当時の戸って(三内丸山やら吉野ヶ里やらの倉庫って、カギ、ついているんでしょうか?)。

 

 

他に気になるといえば、ここにすなはち鈎穴より出でし状を知りて、糸の従に尋ね行けば、美和山に至りて神の社に留まりき。」の部分でしょうか。

つけていったのは、「活玉依毘賣」とその父母で、父は「陶津耳」か、「奇日方天日方武茅渟祇」ですよね。

大田田根子」が発見されたのは、「茅渟県(和泉国)の陶邑」か、「河内の美努」で、「陶津耳」という呼び方を考えると、そちらに勢力があったのではないかと思われます。

……いや、そりゃ「河内」も「和泉」も、「大和」のお隣ではありますが、

 

 

いくらなんでも麻糸、長すぎませんか?

 

 

実は、何日かかって移動した、とは書かれていないので、実際にはものすごい近い場所にいたのかもしれませんし、「河内」「和泉」にいて、ものすごく長い糸を使っていて、さらに何日もかけて糸を手繰っていったのかもしれません。

それから、「神の社に留まりき。」って部分。

もちろん『古事記』が「崇神天皇」の時代よりあとに書かれていることはわかるんですが、「大神神社に社はない」という設定を無視するのはいかがなものかと。

これは拝殿のことを指している、と言われる向きもありましょうが、だったら『日本書紀』のように、「仍りて大虚を践みて、御諸山に登ります。」、と「お山にいるのだ」とわかるように書くべきです。

「神の社」と書いた以上、かつてはなんらかの建物があったのではないか、と思われます。

ああ、でも、「神社」と書いて「もり」と読ませる例もありますね。

これが「もり」であれば、時代設定を無視しているわけでもない、と思えてきます。

そもそも、「大物主神」が祟ったのは、自分が祀られていないからなので、「活玉依姫」の頃に「神の社」なんぞがあってもらっては困るわけです(祀られていることになりますので)。

 

 

「故、その麻の三勾遺りしによりて、其地を名づけて美和と謂ふなり。」……麻の糸が三勾(三巻き)残っていたので、「美和」になったのだそうです。

日本書紀』では、「大物主神」が帰って行ったのは「御諸山」でした。

この時代辺りで「ミワ」と呼ばれることになったんでしょうか。

地名の語源説話は、古ければ古いほどこじつけめいて見えます(し、我々がすでに意味を忘れてしまっているのでしょう)。

何か隠れている場合もありますので、注意は必要です。

ただし、「三巻き」を「ミマキ」と呼んで、「崇神天皇」の名前「ミマキイリヒコ」と関係があるんじゃなかろうか、というところまでいくとただの妄想ですので、ご注意を。

 

日本書紀』と『古事記』で別々の三輪山説話が採用されているのは面白いです。

続きます〜。