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べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「橿原神宮」〜奈良・京都めぐり〜

※世の中はクリスマスイブですが、知ったこっちゃありません。※

 

10/30。

遅い盆休みを消化するよう指令が出たので、昨年は電車で出かけた奈良に車で向かうことに。

朝6時頃に家を出て、東名阪から奈良県入り。

最初の目的地は橿原神宮

 

○こちら===>>>

www.kashiharajingu.or.jp

 

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駐車場近くの案内板を見て愕然と……畝傍山周辺だけで一日楽しめるワンダーランドではないですか……ああ、大物狙いなので……。

 

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清々しく、車もさしてなく……いやここは特別な駐車場で、祭礼時には満車になるのでしょう。

 

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祭神

神武天皇

皇后 媛蹈鞴五十鈴媛命

由緒

神武天皇天孫降臨の地日向を発して大和に入られ国内を統一して畝傍山の東南橿原の地に皇居を営み即位の礼をとりおこない日本建国の基礎を築かれた

明治の時代になり神武天皇の御聖徳を景仰してこの橿原の宮跡に橿原神宮創建の請願が民間有志から起り明治天皇にはこれを御嘉納になり明治二十三年四月二日御鎮座になった

社殿

創建に際し明治天皇の思召により本殿として京都御所賢所 拝殿(現在の神楽殿)として神嘉殿の献進があり現在本殿は重要文化財となっている

昭和十五年紀元二千六百年記念事業として宮域整備拡張事業が行われ 幣殿 内拝殿 外拝殿 廻廊その他付属建物が新たに造営され現在に至った

神苑

境内地は五十万平方メートル(十五万余坪)からなり表参道北側の森林植物園その他緑苑は紀元二千六百年当時全国各地から奉献された樹木約八万本が植栽され延百二十万人の勤労奉仕隊によって造成された

(略)」

 

明治維新なり、皇居が新首都東京へ移転する、というのは京都の人たちにとってどんな気持ちだったのでしょうか。

また、古都・奈良はどう思っていたのか。

政府ばかりか皇室までも関東に……という切実な思いから、「橿原神宮」創建を望んだのかもしれないですね。

一方、「明治の時代になり神武天皇の御聖徳を景仰してこの橿原の宮跡に橿原神宮創建の請願が民間有志から起り」ということですので、それまで「神武天皇」がどのように扱われていたのか、ということがわかる気がします。

 

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表参道鳥居。

 

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 二の鳥居。

ワンダー……明治政府が威信をかけて整備しただけある、非常にゆったりとした空間の使い方の豪勢なこと。

 

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左手奥にあるのが手水舍。

参道はその前で、右手に折れます。

 

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 もう規模が……違います。

 

現在御本殿は修繕中。

修繕していなくても、見たり写真に撮ったり、ということはできません。

が、今はなんと「神武天皇二千六百年大祭」で「御本殿特別参拝」が実施されております。

 

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神職さんの解説つきで、御神域に入り、御本殿を拝観できるという素敵タイム。

残念ながら写真撮影は厳禁です(当たり前)。

御本殿修繕中、ということで御祭神は幣殿にあらせられました(なので、幣殿にある鏡が、扉の外に出されています)。

来年四月三日には大祭が営まれるということで、参列したいなぁ……いやいや、多分難しいでしょう。

朝早い、とは言い難い9時過ぎでしたが、それでも神域には静謐とした空気が漂っておりました。

ありがたい経験でした。

 

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記念品をいただきました。

 

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外拝殿から、外院斎庭と内拝殿をぱちり。

内拝殿の向こうに覗く千木が、幣殿です。

 

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こちらが外拝殿。

スケール感がすごいです……ここまで空間を贅沢に使えるというのもまた……。

特別参拝ができるからか、参拝客が多くていらっしゃいました。

 

境内には他に、「長山稲荷社」があります。

橿原神宮」御本殿から向かって左手、南西の方向です。

 

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「御祭神

宇迦能御魂神

豊宇気神

大宮能売神

橿原神宮末社長山稲荷社は古くから当地長山の地主神としてお祭りされ厄除開運・五穀豊穣・商売繁盛の霊験あらたかな御社として皆様の厚いご崇敬と

ご篤志をもって維持されてまいりました

殊に平成二十二年橿原神宮御鎮座百二十年の佳年に際しましては

格別のご奉賀を賜り社殿の結構も見事に整い

御神威の発揚愈々盛んなものがあります(略)」

 

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あ、指が写っちゃった。

 

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ゆるやかに登った先の社殿。

橿原神宮」を創建する以前からあった、ということなので、まさに地主神なのでしょう。

元々がお稲荷さんだったかどうかは疑わしいですが……。

畝傍山は大和三山の一つ、といわれる山で、尊ばれた時代があったはずですので、古代には別の神性がおられたのではないかと思います。

 

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「長山稲荷社」の前にある深田池。

 

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帰り道、手水舍から二の鳥居、一の鳥居を臨んで。

若干天気が悪いのが残念でしたが、堪能……しきってません。

本当に、畝傍山周辺を一日かけてぐるぐるしたいところでした……「懿徳天皇陵」「安寧天皇陵」とかもあったり。

 

肝心の「神武天皇陵」に伺う時間がなかったり。

 

何しに行ったよ(いえ、次の目的地で時間がかかることがわかっていたもので……)。

 

ふう……畝傍山ワンダーランド。

 

 

 

さて。

 

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

 

 

↑の「神武天皇」紀には、

 

「辛酉年の春正月の庚辰の朔に、天皇、橿原宮に即帝位す。是歳を天皇の元年とす。正妃を尊びて皇后としたまふ。皇子神八井命神渟名川耳尊を生みたまふ。故に古語に称して曰さく、「畝傍の橿原に、宮柱底磐の根に太立て、高天原に搏風峻峙りて、始馭天下之天皇を、号けたてまつりて神日本磐余彦火火出見天皇と曰す」。

 

また、

 

「明年の秋9月の乙卯の朔丙寅に、畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのみささぎ)に葬りまつる。」

 

とあり、

 

古事記 (岩波文庫)

古事記 (岩波文庫)

 

 には、

 

「故、かく荒ぶる神等を言向け平和し、伏はぬ人等を退け撥ひて、畝傍の白檮原宮に坐しまして、天の下治らしめしき。」

 

また、

 

「凡そこの神倭伊波禮毘古天皇の御年、一百三十七歳、御陵は畝傍山の北の方の白檮の尾の上にあり。」

 

とあります。

 畝傍山周辺が、大和入りした「神武天皇」の、ということはつまり原「大和朝廷」の本拠地となったわけですね。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯 第3編

 

↑『大和名所図会』にも「橿原宮」の記事があります(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

241コマです。

 

「橿原宮
柏原村にあり。[日本紀]に曰く、神武天皇畝傍山西南橿原に都す。[大和巡覧記]に曰く、畝傍山は今井・八木の南、道の四五町西にあり。山の巽にうねび村・柏原村あり。神武帝の橿原の都の地この辺なり。一説、山の東大久保と云ふ所、橿原の都のあとなりといへり。[日本紀]に、神武天皇長髄彦をうち、天下を定め給ひ、畝傍山の東南橿原の地、國のもなかなる故、都を作り給ふと見えたり。下略」

 

もちろん、それ以前から人は住んでいたわけなので、その勢力と戦ったり、手を結んだりしながら、のことでしょう。

で、この初代天皇の御陵がどうなっていたのかというと……

 

 

(※2015/12/25追記===>>>

288コマです。

 

神武天皇
四條村にあり。祠廟は大窪村にあり。[陵考]に曰く、字は塚山といふ。即畝傍山の東北なり。高さ七尺、根廻三十間、垣三十二間、[延喜諸陵式]に曰く、畝傍山東北陵。畝傍橿原宮御宇。神武天皇大和国高市郡。兆域東西一町。南北二町。守戸五烟。
(略)
[前王廟陵記]に曰く、
畝傍山は今奈良の西南六里、久米寺の北なり。俗にいふ慈明寺山是なり。東北の陵百年前これを壊つて糞田となす。土民其田を呼んで神武田と字す。暴汚となすこと痛哭すべきものか。又数畝を餘じて一封とし、農夫これに登るに恬くして怪とせず。これを観るにおよんで寒心せずといふ事なし。夫神武天皇は、神代草昧の蹤を継ぎ、東征して中州をたひらげ、四門を開いて八方を朝せしむ。王道の興、治教の美、実にここに創る。我国の君臣億兆に至るまで、尊信いたすべき廟陵なり。
(略)」

 

『大和名所図会』の「橿原宮」だけ見て、「畝傍山」のあたりを見るのをすっかり忘れていました。

 

<<<===2015/12/25追記※)

 

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 神祇史要

 

↑大正四年刊行の本ですが、概要がわかります(83コマ)。

 

「神社研究の発達と共に注意すべきことは山陵の修理である。敬神の思想と尊皇論の興起とは相俟つて、此の御歴代の山陵を修理したいと云ふ、国民の至情を動かした。鎌倉時代以後、分けても応仁の乱後は、朝廷の式微につれて、諸所の山陵は痛く荒廃し、神武天皇の御陵さへ、田夫の鋤に土を返されたのである。然るに純忠な学者、志士は漸く、ここに其眼と涙とを此方面に注ぎ、元禄の頃からして、山陵修築の聲は、年と共に高くなつて来た。
松下見林は最も早く茲に着眼して『前王廟陵記』を著し、黒川道祐も『雍州府志』に陵墓門の一章を設けている。光圀も山陵復興を志し、松江藩主松平直政(家康の孫)も後鳥羽天皇の御陵を修理したが、将軍綱吉は、幕府領の代官と他の藩主に命じて、山陵を捜索、修補して、神武天皇以後六十六所の帝陵の御所在を明にし奉つた。爾来着々として修理の功が進んだけれども、固より当時、帝室の御経済から申しても甚だ不充分であつた。寛政年間になつて蒲生君平は深く之を慨嘆して、先づ自ら憂国の士に説き、実際を調査して『山陵志』を著した。次いで京都町奉行浅野長祚、宇都宮藩主戸田忠至、水戸藩徳川斉昭、藤堂藩士北浦政定、幕士川路聖謨などが出て或は幕府に勧め、或は勤王の士と謀つて、愈々御歴代の帝陵を研究し又修理して、一面に尊皇の至誠を表してをる、これまた神社研究と密接な関係ある現象である。」

 

現世における天皇(お上、天子様)の、可視不可視にわたる威力はいつの時代もかなりのものがありましたが、その陵となると、神武天皇の御陵さへ、田夫の鋤に土を返された」というありさまだったわけです。

戦国時代が終わり、ひとまず平和が訪れると、文化的なことに目が写ったのか、江戸時代になって山陵復興の動きが出てきます。

「将軍綱吉は、幕府領の代官と他の藩主に命じて、山陵を捜索、修補して、神武天皇以後六十六所の帝陵の御所在を明にし奉つた」というわけで、現在の御陵の所在については、おそらくこのときの調査が元になっているものと思われます。

 

「寛政年間になつて蒲生君平は深く之を慨嘆して、先づ自ら憂国の士に説き、実際を調査して『山陵志』を著した。」という『山陵志』から、「神武天皇陵」に関する部分を引用してみましょう。 

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 勤王文庫. 第3編 (山陵記集)

 

62コマです。

 

「大祖を神武と爲す。(相伝ふ下鴨の祠、神武の祀を奉ず、故に号して御祖の神と爲す。御祖とは猶大祖と言ふが如し。)神武の陵は、畝傍山東北の■(スミ)に在り。(諸■式に、畝傍山東北の陵は、兆域東西一町、南北二町、凡そ陵地其の地方を指し、南北と曰ふ■類率ね諸陵式に據り、復多く他書を引きて之を證せず。蓋し延喜中議有りて定むる所なり。式以外は否なり。)白檮尾上(古事記)[按ずるに]大祖の中國を平定し、畝傍の東南を相て以て土中(クニナカ)と爲し、王宮を営みて橿原の宮とふ。蓋し其の宮橿を樹ふるを以て名づくる所か。古事記に橿を白檮に作る、白檮は即ち橿なり。又陵の在る所を称して、白檮尾山と曰ふ。是れ之れを移すに宮樹を以てせず、即ち宮名に取るなり。尾上は山■尾の如き者の上、今畝傍山東北■に、呼びて御陵山と曰ふ所、墳然として隆起す此なり。(大和志に、此を以て神八井の墳と爲す。神八井の畝傍山の北に葬る。史に於いて之れ有りと雖も、其の在る所、山■の平地今未だ何處なるかを詳にせず。今妄に認めて云爾。若し果して神八井の墳ならば、其の位巳に入臣、又何を以て伝へて之れを御陵と謂はんや。今呼んで御陵と曰ふ、是れ土人の口碑素にして偽らず、凡そ此の類■びて而して采るべし。大に彼の好事者の臆を以て、伝會するが如きに非るなり。)但其の状甚だ高荘ならず、官車に象らず、乃ち上古大■、制未だ備らざるを以てなり。(廟陵記に云ふ、畝傍山東北の陵、百年来、犁て■田と爲し、名づけて神武田と曰ふ。猶畝傍を■して一封家と爲す。其今の地を問へば、果して謂はゆる神武田有り。然れども是れ平地にして、山■を去ること東北三町許、乃ち尾ノ上の名に合はず。且つ謂はゆる畝傍を■し一封家と爲者、亦神武田に在らず。神武田を距ること、又東北三町許にして古墳の在る有り、蓋し此れを指すなり。夫れ民の無知なる惟地判を貪り、乃ち妄に天子の陵墓を犁く、然も殆んど其の石棺に及び、慄慄畏怖敢て之れを侵さず、遂に其の畝傍を餘し、一封家と爲す。是れ物の情なり。苟も之れを■し、其の上に■田す、乃ち是れの若く忽なり。尚何ぞ更に一封を三町外に営まんや。疑ふらくは、其の古墳是れ当時陪葬する所は或は神八井の類にして、決して神武陵に非るなり。神武田一名は美贊佐伊、是れ美佐佐岐の訛する所、即ち山陵を謂ふなり。山稜と廟と、俗に其の言を互にす。今神武田を謂つて、美佐佐岐と曰ふは、蓋し其の嘗て廟有るを以てなり。相伝ふ舊嘗て神武の祠陵有り、神武田の地に在り。昔年水潦、廟之が漂す所と爲る。而して後大窪村に遷す。大窪寺の趾に國源寺有り。又伝ふ、國源寺にも亦嘗て神武田旁より此に遷すと。多武峯に據れば、泰善法師有り。天延二年三月十一日、畝傍、東北に行き、一奇老人に遇ふ。泰善を顧み謂つて曰く。朕が爲めに、大乗法を講じ、國家の栄福を祷れ、朕は是れ人皇の始祖なりと。言ひ畢りて乃ち見えず、泰善此の瑞を以て、毎年三月十一日、■ち来りて法華を誦す。故に貞元二年大和守藤原國光、爲めに堂宇を創め、國源寺と号すと云ふ。夫れ其の説訝妄、個より浮屠氏の常なり。然り而して其の堂宇此れに由りて創造せしならば、則ち神武祠廟亦当に其の寺中に在るべし。即ち神武田の旁を、塔垣内(トフノカキウチ)と曰ひ、其の名に就きて考ふれば、疑ふらくは是れ当時塔廟を建つる處、因りて美佐佐岐と称せしか。)其の下を洞村と曰ふ。(今屠者の聚なり。相伝ふ其の民、故神武陵の守戸なりと。凡そ守陵戸は、皆賎種、本罪隷を以て没入する者、郷人に■せざるなり。故に以て其の守戸の子孫、遂に業を屠者に転じ、穢多と称す亦勢なり。)」

 

神武天皇陵」はもともと「ミサンザイ」と呼ばれていたそうで、『山陵志』には、「神武田一名は美贊佐伊、是れ美佐佐岐の訛する所、即ち山陵を謂ふなり。」 とあります。

蒲生君平がそう考えたのか、一般的な認識だったのか、「ミサンザイ」は「ミササギ」が訛ったものだろう、という説です。

ともかく、「神武天皇陵」は所在もわからず、耕されてしまって、「神武田」と呼ばれていたと。

後段では、「国源寺」の創立に関する伝承が書かれており、伝承通りであれば「神武天皇」の廟が「国源寺」にあったはずだ、との説が述べられています(「国の源」という寺号が「神武天皇」に由来している、ということなのでしょう)。

 

「今屠者の聚なり。相伝ふ其の民、故神武陵の守戸なりと。凡そ守陵戸は、皆賎種、本罪隷を以て没入する者、郷人に■せざるなり。故に以て其の守戸の子孫、遂に業を屠者に転じ、穢多と称す亦勢なり。」

 

この部分が少し面白くて、「陵の守戸は、もともと卑しい人たちで、罪人を用いていたために、後世には穢多と呼ばれる人々になった」というような意味です。

非人ががっちり固定されていた時代に生きた人物の言葉ですので、どこまでの信憑性があるのやらという感じですが、律令時代には「諸陵寮」という部署があり、そこの役人が管理していたのではないかと思われます。

ただ、実際に現地でそういった任に当たるのが役人だったかといえば、そうではないでしょうから、地元の、身分の高くない人がその役をになったことも想像できます。

古来、「古墳」というのは聖地の一つだったはずなのですが(実際、「古墳」の上に神社、ということがよく見られます)、それがいつからか「陵」と「神社」に分化し、「神社」の方は清浄な空間に、一方の「陵」は忘れられていく……これはどの段階から起こったことなのでしょう。

仏教流入か。

神社が恒常のものとなった頃からなのか(神社の原型は、祭りのたびに仮の設備を作っていたと考えられています)。

うーん、このあたりをもうちょっと知りたいのですが、そうすると律令時代の古墳をどのように扱っていたのか、か……何から手をつければいいのやら……。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 畝傍名所之栞

 

↑に、「橿原神宮」の記事があります。

17コマ。

 

「○橿原神宮 (略)
当神宮は昔皇祖神武天皇が底津磐根に宮柱太しく立て、高天原の千木高しりて高御座に即かせられ、天の下知召された橿原の宮趾に明治二十三年創立されたのである。祭神神武天皇並びに姫嫗蹊鞴五十鈴媛皇后の二柱で社格は官幣大社である。神殿は東に面し元京都内裏の温明殿で(略)拝殿も亦同じく神嘉殿で(略)共に神宮創建に際し明治二十二年七月二十三日下賜せられた。同二十三年三月一日工事全く竣工し、同月二十日社号を橿原神宮と賜ひ官幣大社に列せられたのである。明治三十七年二月十八日神殿並に拝殿とも特別保護建造物に編入された。大鳥居は黒木造で台湾阿里山の檜材を用ひ、高さ三十一尺一寸、幅二十八尺五寸、重量一本約二千貫、笠木は長さ四十三尺六寸重量約三千貫で大正四年四月一日落成した。
其他勅使殿、神饌所、祭器庫、社務所等がある。
当神宮は皇太神宮に次いで皇室の御崇敬特に深い。職制の如きも皇太神宮並に明治神宮と共に特別の制度を立てられてゐる賽者襟を正して御階の許清き白砂の上に額づけば、畝傍の霊峯より神韻厳かに亘りて神降りますかと神威自ら尊し、尚ほ神宮の森厳しを高め延て公衆の娯楽運動に供へむとて、奈良県では当神宮の東方大軌線を限りて約二万坪を買収し畝傍公園を設置せむとしてゐる。これが完成の暁は一入神宮の森厳を増し賽者の便利はこの上なからう。」

 

大正13年の本ですので、「橿原神宮」ができてから30年以上が過ぎています。

それでも、現代よりはもう少し、当時の様子がわかるのではないかと。

「神殿は東に面し」……神武東征神話では、「神武天皇」は「日の神」の子孫なのに太陽に向かって攻めたため敗北した、次は太陽を背負って戦うことで勝利したんですが、神話通りなら西面していたほうがよかったのではないでしょうか。

 

あと一つ気になったのは、二つある参道がどちらも、「直角に曲がっている」こと、でしょうか。

高田崇史式怨霊の見分け方では、「参道が直角に曲がっている神社にいらっしゃるのは怨霊」ということになります。

これだけ広大な土地に神社を建ててもいい、ということになったのに、社殿の正面に一直線の参道を作らなかったのはなぜでしょう。

 

参道が長い方が、参拝する人間に畏怖や期待感を持たせやすい、という効果はあるので、そっちかなぁと思いつつ、実在しなかったと思われる「神武天皇」のモデルと目される人物が、実は強大な怨霊だったのではないかという疑惑が……あったりなかったり。

 

ともかく、「奈良・京都めぐり」一泊二日の旅、スタートです〜。

 

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