8/22。
二泊三日の旅程を立てての関東巡り。
「曹源寺」です。
○こちら===>>>
http://www.geocities.jp/ootashisazaedou/sou.htm
↑……今HPをみたら、「平成27年9月から29年まで、補修工事のため拝観できない」って書いてある……よかった、大山のケーブルカーは止まっていましたが、こちらはいいタイミングで拝観できたようです。
駅からはタクシーを使いました(しょうがない)。
ばばーん!
そう、こちらのお寺は「さざえ堂」があるのです!!
○こちら===>>>
補遺補遺・「五百羅漢堂」 - べにーのGinger Booker Club
↑で、東京の「五百羅漢寺」にあった「さざえ堂」のイメージ図を描いてみましたが、どうもこれは、
○こちら===>>>
「大正大学すがも鴨台観音堂」 - べにーのGinger Booker Club
↑のようなタイプで、「五百羅漢寺」のものとは大違いのようでした(不勉強)。
「五百羅漢寺」のものに近いものが、「曹源寺」には残っているとのことだったので、この機会にやってきたわけでございます。
うふふ。
「百観音」。
左右、十二支を組み込んだ石柱。
太田にも七福神巡りがあるようです。
「さざえ堂
「日本三大さざえ堂」で最大規模
新田義重公が養姫・祥寿姫の菩提をとむらうために文治三年(1187)創建。曹洞宗「祥寿山曹源寺」。本尊は阿弥陀如来。新田氏、横瀬(由良)氏に崇拝されたが江戸初めに消失。寛政五年(1793)町田栄清の手で観音堂が造営された。木造三層作りで間口、奥行きとも十四m、高さ十m。百体の観音像を巡拝できる。仏教の「右繞三匝(うにょうさんそう)」(右回り三回)を建築に表現していて貴重。日本三さざえ堂のうち規模は最大。県重文。
布袋尊を祀る
七福神中唯一の実在の人物。中国の唐代末期に出た四明山の禅僧で、名は契此(かいし)、号を長汀子(ちょうていし)といい、常に日用品を入れた布の大袋を背負っていたところから布袋の名が出た。福々しく、大きな腹を出しているので、布袋腹という言葉が使われる。団扇を手にして、喜捨を求めて全国を歩いた。世人は弥勒の化身と尊び、洒脱楽天的な和尚として親しんだ。福徳円満、家内安全のご利益がある。」
「さざえ堂」自体が「五百羅漢寺」起源とされているので、比較的新しいです。
仁王門。
西国・坂東・秩父のあわせて百観音霊場のお砂が、踏み石の下に納まっているそうです。
ををこれが……ちょうど落ち葉が写ってますが意図してません……外観は二階建てのように見えて、実は三層からできています。
なるほど、「五百羅漢寺」の「さざえ堂」の正面絵図とそっくりです。
「日本三堂さざえ堂」。
埼玉県と福島県の「さざえ堂」があわせて書かれています。
「上州型」が、外観は二層で内部は三層のもの、「会津型」は、外観から螺旋を描いているようなもの(大正大学のものな感じ)。
何はともあれまず、正面で御本尊にご参拝。
拝観料をお支払いして、いよいよ「さざえ堂」へ。
案内音声が流れる中、巡っていきます。
これは、御本尊のある中央区画の裏側です(写真撮影は自由と言われたのですが、さすがに御本尊は収められなかったです……)。
向かって右側の壁に観音が安置されており、「百観音巡り」がスタートしています。
「たいこ橋」の先に階段。
屋内に橋があるのが妙な構造ですが、長い階段が作れなかったのでしょうか。
それとも、ここが三途の川だとでも……。
階段はけっこう急です。
二層目、階段を上がってすぐに右を向いたところです。
こんな具合に、柵で巡拝路が規定されています(一層めも、基本的に同じ作りです)。
井桁組みの天井がいいですね。
中央部の参拝を終えると、順路はその外側に続きます。
左手にあるのは、三層めから降りてきたところにある下りスロープです。
これが、中央部の裏側。
下りスロープから降りてきた通路とは、やはり柵で区分けされています。
曲がり角。
このまま右手に曲がって、三層めへ。
下りスロープからの通路は、下り階段につながっています。
ここも、一層めと同じように、長い階段にするのではなく、二段階になっています。
壁にかかっていた図絵。
そう、「五百羅漢寺」もこんな感じだったんでしょうね……。
三層め。
かなり歪んでいますが、外に向かっての扉があります。
北斎の浮世絵で見る「五百羅漢寺」の「さざえ堂」は、最上部の周囲ぐるりと張り出したテラスのようになっていて、そこから遠方を拝むことができたようです。
その高さが当時としては非常に高く、名所と謳われていて、(不謹慎というべきか)見物人も多かったようです。
三層めも、やはり同じような作りです。
左手に「布袋尊」。
禅寺に「布袋尊」があるのは、「黄檗山萬福寺」の影響でしょうか。
なんだか、梁の複雑な構造に目がいってしまいまして。
当時はもうあまり太い木材が手に入らなかったのか、製材せずに使っているのが、野趣溢れる感じです。
本尊はこんな感じです。
すごいな……でも、傷んでいることもわかります。
けっこう繊細な細さの材も使われているようですし、補修が必要なのもうなずけます。
一層、二層と同じように右回りに巡っていきます。
「さざえ堂」は観音堂ですので、本来は本堂ではないはずなのですが、こちらに書かれているように「さざえ堂」以外が消失してしまったため、今は本堂として使っているとのことです。
往時の「五百羅漢寺」もそんな感じだったのでしょうね……。
ここを突き当たれば、三層の正面に出ます。
窓から仁王門を。
今となっては、それほどの高さではありませんが、それでも16メートル以上ありますから、周囲の住宅より頭一つ高く、見晴らしはいいです。
こちらは、三層に上がってくる階段。
今、柵の外側を歩いています。
左手奥に見えるのが、下り階段です。
再び、窓からの景色を。
ところどころに住職のものと思われる書き物が貼ってあります。
二層に降りてきました。
スロープです。
二層の柵の外側を巡って、下り階段へ。
また途中からスロープになっています。
右に見えているのが、一層のたいこ橋です。
スロープを降り切ると、一層めの中央向かって右手に出てきて、「百観音」巡り終了。
いやぁ、堪能した。
素敵なものが残っていてくれてありがとう、という感謝の気持ちでいっぱいです。
そうか、こういう作りか……最初に考えたのは、「五百羅漢寺」の象先禅師と思われますが、よく思いついたなぁ……。
もう10回くらいはぐるぐるしたい気分でした。
よく見れば正面の梁の彫刻も見事で、鰐口も大きい。
いい造形だ……。
「さざえ堂
さざえ堂は、新田氏の始祖新田義重が京都からの養姫である祥寿姫の菩提を弔うために建立したと伝えられる祥寿山曹源寺の本堂である。寛政五年四月(1793年)当時の火災のあとに再建されたものである。
構造は、江戸本所五ツ目の名刹天恩山羅漢寺の「三匝堂」の構造を継承しており、大工棟梁は、京都吉田家門下で龍舞の出身町田兵部栄清である。構造上の特徴としては、本尊魚籃観音にお詣りするとき、本尊を中心としてその周りを右回りで三回巡ると、自然と元の位置にもどって礼拝できるように造られている。しかも、参詣人が多くても途中で入り交ることのない一方通行の形式になっており、これは古いインドの礼拝の形式で「右繞三匝」と言われ、仏陀礼拝の最高の型である。インドをはじめ世界のどこの建築物にもその例をみない極めて貴重な遺構である。
お詣りをしながら、知らないうちに三階まで上り、いつかまた初めの本尊の前にもどるというちょうど栄螺の殻の中を歩くようなところから、いつしか「さざえ堂」と呼ぶようになったという。
現在、埼玉県児玉町の成身院、福島県会津若松市の正宗寺のさざえ堂と合わせて、日本三さざえ堂と言われているが、曹源寺さざえ堂が最大である。
文化財を大切に保存するようご協力ください。」
大切に。
さて、文献引用は今回はなしで、「さざえ堂」の構造をまたも無理やり図解してみたので、そちらを。
お堂の横幅とかは無視して、こんな感じか、と思っていただければ結構です。
何かを描いて表現する、という才能にまったく恵まれていないので、いろいろとおかしなところはありますが、これを見て「ぜひ、参拝したい!」と思われた方は、残念ながら平成29年までお預けなのです……。
参拝を終えて、太田市での目的は果たしたので、帰りは駅まで歩こうかと思っていたら、一緒に参拝していらっしゃったご夫婦に声をかけていただき、駅まで車で送っていただけることに。
何と有難い……。
行きすがら、高校の教員を退職されたというご主人から、地元の人がようやく「さざえ堂」の魅力に気づき始めて、補修も含めて盛り上げていこうという機運になっている、と聞かされました。
よかった。
こんな面白い、といってはいけないかもしれませんが、独創的な建物を朽ちるに任せていてはもったいない、といってはいけないかもしれませんが。
個人的には、世界遺産級のものだと思います。
群馬県のみなさん、誇っていいです。
補修されたら、また訪れます!
そしてできれば、目黒の「五百羅漢寺」の「羅漢堂」も再現されないかな……と思ったりしてしまいます。
いい旅でした(終わってない)。