べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「大稲荷神社」(小田原)〜関東巡り〜

8/21。

盆休みを消化せよ、という職場からの命令と、よんどころない事情のために関東に向かうことにしました。

こだまを小田原駅で降りたのは、「大山阿夫利神社」に行くつもりだったからなのですが……なんとケーブルカーが運休。

事前に調査していなかった私が悪いのです。

はあ……学生時代は厚木に住んでいたこともあり、「大山阿夫利神社」もいくらでも行く機会はあったのですが、なかなか巡り合わせが悪いことです。

というわけで、目先を変えて、小田原駅周辺を探っていて、発見しました、「大稲荷神社(だいいなりじんじゃ)」

 

○こちら===>>>

www.kanagawa-jinja.or.jp

 

駅から徒歩で15分もかからない、山を背にしたところにあります。

 

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この細いところが入り口。

 

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「当社は往古は田中稲荷と称していたが、宝永3年(1706)5月、小田原城主大久保加賀守忠増によって現在地に勧請され、谷津村、竹の花町、須藤町、大工町の鎮守として大稲荷神社と称した。田中稲荷の起源について、大久保家記別集並びに旧田中稲荷祠の紋章が仏教修験者の紋章であるところから北條氏時代に修験者に依って建立せられた仏堂によれば、武田氏の臣曲淵庄左衛門吉景の屋敷神であったものを、武田家滅亡後に土着してここに合祀しその後、大久保氏の祖宇津左衛門五郎忠茂が信崇していた社を、大久保七郎左衛門忠世が小田原城主となった時、この地に勧請したといわれる。その後加賀守忠増が城主の宝永2年(1705)2月、忠増の家臣清水左衛門の妹に田中稲荷が神がかりして「今年の内に城主に吉事あり」と託宣があった。

果してその年の12月、忠増は若年寄から老中に任ぜられた。そこで忠増は、谷津の田中稲荷をこの地に勧請して大の字を冠し、大稲荷神社と称したと言う。」

 

むむむ、近世の日本史に爆裂に疎いんですが、北條氏の後に小田原城に入ったのが大久保氏だったのです、かね。

 

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鳥居。

こんもりした山が右手に伺えます。

ええ、もちろん登るのです。

 

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狛犬さん。

ひっそりお狐さまもいらっしゃいます。

 

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結構急ですが、高さはそれほどでなくてほっとします。

 

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階段途中の、これは……お狐さまでしょうか。

 

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夏の午前中、天気はいいですが仄暗い。

 

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拝殿。

 

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拝殿左手に摂社が並んでいます。

「山神社」と「官位稲荷神社」。

 

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「田中稲荷神社」。

こちらの元宮です。

 

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ずらっと稲荷の祠に、手前は道祖神猿田彦)。

 

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まだまだ続く、稲荷に馬頭観音碑、そして小さなリンガも道祖神でしょう。

 

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拝殿を左手から。

 

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全然読めませんが、富士塚かな、と思います。

なんにせよ、お山の信仰だと。

 

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まだまだ稲荷。

 

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まだまだまだ稲荷。

よく集まったものです……近在の稲荷の祠はとりあえずこちらに集めろ、てな感じでしょうか。

 

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左手奥にも、稲荷。

 

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本殿。

いい具合にみられます、素晴らしい。

 

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 ちょっと雲行きが怪しくなってきました。

本殿欄間の彫刻なども見どころなのですが、いまひとつはっきり写真に写らず……。

 

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さて、こちら境内社の「錦織神社」。

 

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「「新編相模風土記」によれば錦織明神社、古験者火定しを祀り西郡明神と唱ふ。慶安年中、領主の名により、今の字に改しと云ふ。例祭十一月十七日。身体は修験者の形なり。町内持。とあり、もとは須藤町の「かどや」の所にあったものを大正三年に境内に遷座した。

寛永十年(西暦1633年)正月二十一日の大地震により小田原城は大破寮内の足柄上下は特に被害甚大であった。小田原藩主稲葉美濃守は庄内の復興のため過酷な年貢を取り立てた。

農民は塗炭の苦しみに喘ぎ暴動を起しかねない状態になった。この時に上郡関本村名主下田隼人は一家の全滅を覚悟の上で年貢の軽減を藩主に直訴し万治三年(西暦1660)十二月二十三日処刑されたが隼人の一念は見事に達成された。

生前隼人は城下に出向いた時には須藤町の郷宿を定宿としていた為須藤町の人々と自然親密な関係にあった。そこで町内の人々は共に西郡の為に身を投じた隼人の義侠を徳として此の社に秘に併せ祀ってきたものである。

祭神 錦織大神

下田隼人命

例祭 十一月十七日」

 

わざわざ『新編相模風土記』から引用してくださっているとはありがたい話です。

 

○こちら===>>>

kotobank.jp

 

↑によれば、「火定」とは、

 

「1 仏道修行者が、火中に身を投じて死ぬこと。」

 

ということですので、「錦織大神」は修験者を生き仏……いや死んでいるので生き仏ではないですが、とにかくありがたいとして祀ったものと思われます。

仏なのに神になる、というのが、なんとも切ない神仏混淆の時代の話ですが(仏教的には、仏陀以降明確に悟っていない人を仏とするわけにはいかないのでしょうから)。

 

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扁額。

 

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「錦織神社」は、本殿向かって右手にあるのですが、そこから本殿裏手にまわることができます。

で、この暗がりの中に「布袋」様がいらっしゃるのですが、見えますかね……急に暗くなったもので。

 

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本殿を左手から。

逆光でもなく、よく見えるのではないかと。

 

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あ、忘れてた。

拝殿正面の鳥居です。

青銅製……銅板を貼ってあるのかな。

 

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こちら、もうひとつの境内社愛宕神社」。

旧谷津村の氏神様です。

 

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「「新編相模風土記」によれば旧谷津村の守護神であった。天平宝字年間(西暦757年)、夢中道人の双剣愛宕山小田原駅西口にある山)の山上にあった。本地勝軍地蔵は夢中道人の自作と云われている。元暦中、堅雅再建。暦応二年(西暦1339年)足利尊氏建立。現在の社殿は本殿のみが大正末期に遷座されているが江戸に幕府が開かれた時に、拝・幣殿を江戸の愛宕山に移築してしまい本殿のみが残されたものであると伝えられている。御手洗石には講中江戸赤坂田町五丁目と刻まれている。(略)」

 

なるほど、東京の「愛宕神社」は、こちらから移築したもの、と伝えられているのですね。

これは行ってみないと……(メモメモ)。

 

御朱印をお願いすると、神職さんが、彫刻が立派なので是非、とおっしゃいまして、改めて。

 

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こちらは「大稲荷神社」の拝殿。

 

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こちらは本殿。

馬に乗っているのは……誰なんでしょう、大陸の方っぽいです。

 

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こちら右手奥。

龍を捕まえています……登竜門かな。

 

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こちらは「愛宕神社」。

箒を持った老人でしょうか……こういう意匠も勉強しないとな……。

 

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こちらも「愛宕神社」。

下は明らかに鯉ですから、これが登竜門でしょうか。

 

さらに、元トラック運転手だった(!)というダンディな神職さんから、鳥居のところのお狐様は、自然岩からの彫り出しだと聞きまして、帰りしなに撮影。

 

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尻尾のところが基部の岩とつながっているのですが、子狐さんがなんとも可愛らしい。

 

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ああいかんいかん忘れていた。

ひっそり庚申塔

青面金剛」と三猿です。

どこにあるかは、参拝して探してみてください。

 

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小田原を都会と呼ぶのはちょっと違うような気がしますが、街中にあっても静謐とした空気で満ちていて、大変有り難いところでした。

 

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境内図はこんな感じです。

神職さんは「憩殿」にいらっしゃいました。

 

さて。

御朱印をお願いしたところ、現社殿遷座三百年祭の際に発行された由緒をいただきました。

これが非常に豪華で、写真や古地図まで載っている、という素敵なものです。

平成18年が三百年祭だったので、参拝された方はまだゲットできるチャンスが残されている、と思います。

そちらから引用を。

 

「大稲荷神社の由来伝記によれば小田原城北条時代に修験者が旧竹ノ花地区内に修験堂を建立した。

武田家の臣曲淵氏が主家滅亡後徳川家に随身この地を采地として賜り、修験堂に稲荷大明神をおまつりしたことに始まり、その後天正十八年(西暦1590年)初代大久保忠世小田原城主となり、京都伏見稲荷大社の最北座田中大神を合祀し信仰ことに篤かったが、子忠隣公の時に幕府の忌諱に触れ改易となり、それ以来長年に亘り祭祀するものも無く荒廃にまかせた。

貞享三年(西暦1686年)忠朝公小田原帰藩が許され、その子忠増公の時に家臣清水氏の妹並びに側近内芝氏に御神託あり、その御告げに従い小田原城の鬼門除稲荷として再興したため、忠増公には老中執政職に昇進その御神徳の崇高広大にしてそのあらたかさに恐懼感激し、宝永三年五月(西暦1706年)現在地の谷津山に御社殿を造営せられたものである。

※宝永八年(西暦1711年)四月 正一位神位宣命正一位稲荷大明神と奉称

※同八年五月 忠増公は社領七十石寄進

(略)

※元宮の神紋は行者輪宝で当地方唯一の春日造で屋根は檜皮葺である。その覆屋根は昭和62年に銅板葺にしました。」

 

この由緒書きには、神社の年表まで掲載されており、創建以来幾多の大地震と富士山噴火も潜り抜けた、それを守っていかねば、と神職さんがおっしゃっておりました。

貴重な情報満載の由緒書きですが、ひとまず脇に置きまして、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 新編相模風土記. 巻1至38

 

↑こちらから……といっても案内板で引用されていますので、今更な感じですが。

355コマです。

 

「大稲荷社  駄伊韋奈利也志呂。  

古は村東田間にあり。

田中稲荷と唱へしが宝永三年五月今の社地、福泉寺後の山上に転じ此の社号に改めしと伝ふ。 

大久保家記別集に據るに、当社昔は武田氏の臣曲淵左衛門吉景の屋敷中に鎮座せしが、勝頼滅亡の後、曲淵の一族当所に土着せし頃、彼の社を爰に移ししとぞ。

或は宇津左衛門五郎忠茂信崇ありし社なれば、大久保七郎右衛門忠世当城を賜はりし後、此の地に勧請ありしとも伝ふ。

其の後加賀守忠増城主たりし頃、宝永二年二月、忠増の家士清水清左衛門の妹に神託あり。当年の内城主吉事あらんことを告げしに、果して其の年十二月、忠増老職に補せらる。

爰に於て彌々信崇あり。

福泉寺をして別棟たらしめ、且つ其の神威大なるを以て大の字を冠し、今の如く神号を唱へしを云ふ。

曲淵家譜を閲するに武田氏滅亡の後、吉景、東照宮に奉仕、関東御打入の後、相州西郡にて采地を賜ふ。

文禄三年十一月、采地にて病みて死と見ゆ。

吉景終を取りし地は采地の内足柄上郡雑色村なり。

今も彼の地に菩提寺あり。

玄張寺と云ふ。

当村より行程■に三里を隔つ。

故に其の一族等此の辺に散住せしなるべし。

宇津左衛門五郎忠茂は道甫君道幹君御二代に奉仕す。

則ち七郎右衛門忠世の祖父なり。

然れば二説何れも據所なしとせず。

大久保氏新願所天台宗安祥院の寺記を見れば、忠増江戸の邸中にも当社を勧請あり。

鬼門鎮護の社に祀れりとあり。

当村及び城下町の内竹花須藤、大工三町の鎮守なり。

神体及び本地仏馬頭観音を安置す。

祭礼六月十五日、隔年に神輿巡行の儀あり。

宝永六年より始まりしと云へり。

家記別集に忠増信崇の餘、領内にも稀なる神事祭礼を執行ありしと見ゆ。

又初午及び六月十六日の二度に湯立の式あり。

社内に稲荷十五座、板札にて木本、兵虎、山本、熊谷、官位、烏森、丸女、杉木、五祖子、白山、宝珠、姫宮、若姫、山中、三社等の神号を記す。

第六天 是も板札に神号を記せり。を勧請す。

幣殿、拝殿あり。

別当は福泉寺今も兼帯せり。」

 

読みづらいので、改行しました。

案内板の表記や、由緒書きとほぼ同じですね。

「社内に稲荷十五座、板札にて木本、兵虎、山本、熊谷、官位、烏森、丸女、杉木、五祖子、白山、宝珠、姫宮、若姫、山中、三社等の神号を記す。」

とありますので、あの膨大なお稲荷様は、「新編相模風土記」が書かれた頃からあったようです。

 

他にも、356コマに、

 

「田中稲荷社
田間にあり。大稲荷の元宮なり。同寺持。」

 

359コマに、

 

愛宕社 山上にあり。幣殿拝殿あり。天平宝字年間、夢中道人の■建なり。本地勝軍地蔵は乗馬の像。長さ一尺餘。道人の自作と云ふ。元暦中、堅雅再建。暦応二年尊氏建立す。内陣欄間の障子、須弥壇の丸柱二本は尊氏建立の儘なりと云ふ。末社稲荷社。摩利支天社 愛宕社の後山にあり奥院と称す。五尊安置。中尊一尺五寸。左右各一尺。役小角作。秘仏。当村の氏神とす。祭礼九月十九日。」

 

とあります。

 

ううむ、「大山阿夫利神社」にいけなかったのは残念ですが、思わぬワンダーランドを発見した気分です。

何より、ダンディな神職さんにお話を伺えたのがよかったです。

 

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御朱印は四つ。

「錦織神社」は金、「愛宕神社」は緑、と見目も鮮やかなものでございます。

なんか、いいスタートな気がします。