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べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「善光寺安乗院」

6/13。

伊奈波神社」の麓、というのか、山裾にあります「岐阜善光寺へ。

今年は「六善光寺同時ご開帳」の年ですから、実はこちらが本命だったりします。

 

○こちら===>>>

gifu-zenkoji.jp

 

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回向柱があります。

 

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「救われ杓文字」だそうです。

手水鉢に「不動明王」もなかなか珍しいかなと。

 

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……文字が読めません。

 

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いただいたパンフレットより、

 

「本堂内中央には善光寺如来御三卿右方には弘法大師、左方には不動明王と秋葉三尺坊がお祀りしてあります。本堂は明治二四年の濃尾大震災で全焼し、大正初年に再建されたものです」

 

とあります。

火伏せの「秋葉三尺坊」と、護摩行の「不動明王」が一緒にお祀りされているのがなかなか面白いと思います。

縁起についても、

 

「戦国時代、甲斐の武田信玄公は信濃善光寺から善光寺如来様を持出し、甲府に新善光寺を建立しお祀りしました。信玄公が没すると、織田信長公によって岐阜に迎えられます。本能寺の変後は、信長公の次男織田信雄公により尾張甚目寺に、豊臣秀吉公によって京都の方広寺に、徳川家康公により遠江浜松の鴨江寺に移され、そして信濃善光寺の本所にお帰りになったのであります。

さて、信長公時代に善光寺如来がお祀りされていた岐阜伊那波の霊跡に、信長公の嫡孫織田秀信公は、稲葉善光寺堂を建立し、善光寺如来様の御分身をお祀りされました。それを安乗院と満願寺によって護持されて来たのですが、明治の廃仏毀釈神仏分離によって伊奈波神社別当であった満願寺は廃寺となり、その後は安乗院一山でお護りするようになったのです。

今でも善光寺安乗院は、岐阜伊奈波の善光寺として、宗派を超えて岐阜市民に親しまれています。」

 

 

とあります。

御開帳期間に来られない、というのが私の残念さなんですが、そんな時期に来たらきっと熱心な信徒の方と観光客でごった返すでしょうから、ひっそりと。

 

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本堂左手奥の方に、「末光稲荷神社」。

 

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遠いですが、「蔵王権現」の碑(「神変大菩薩」と、左側が読めませんが、刻まれております)。

 

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こちらは……野外で護摩を焚かれるんでしょうか。

パンフレットに、「十月二十八日の「不動明王例大祭」で、「柴灯護摩」という大護摩が修される。屋外で檜葉などを燃やし煙と炎を伴う大規模な護摩祈祷」と紹介されていました。

ちゃんと読みましょう、パンフレット(お前だ)。

 

 

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「安乗院」には「釈迦如来」坐像が伝わっているようです。

 

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大黒堂

 

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遠景。

右奥に見えるのが、「伊奈波神社」の鳥居です。

 

さて。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 岐阜市案内 : 附・長良川鵜飼記

 

名所図会的なものが見つけられなかったので、↑こちらから(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

25コマです。

 

「○善光寺
伊奈波にあり。天正年中、織田信長信濃善光寺如来を茲に移し、堂宇を建立せしが、其後、豊臣秀吉之を京都に移し大仏殿内に安置し、次で、如来は元の如く信濃に返したる其遺跡なりと云えど、明かならず。毎月十七日は、俗にお十七夜と称し、参詣人多く、附近の街は人肩相摩すの観あり。殊に夏は納涼を兼ねて賽者多し。然るに惜しい哉、これ又震害の侵す所となりて、久しく堂宇旧観に復せざりしも今や改築成りて面目頓に一新せり。」

 

濃尾大震災で全焼した後に建て直されてしばらくしてからの記述ですね。

他、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 岐阜市史

 

↑の287コマより。

 

善光寺 伊奈波通り一丁目にあつて、阿弥陀堂といふ。昔時は、稲葉社別当満願寺と、安乗院の受持で、稲葉善光寺と云つたが、満願寺廃寺となり、今は安乗院の支配となつた。この本尊は、元来弘治元年武田信玄が、信濃善光寺から甲斐府中に移し、之を新善光寺と称したものである。其後天正十年、武田氏滅亡後、織田信長が、甲斐府中の新善光寺から此處に移し、堂宇を建立したが、本能寺の変後、信雄は之を尾張甚目寺に移した。幾何もなくして、家康は更に、此本尊を浜松鴨江寺に移したが、同十一年、更さに甲斐に還した。此後慶長二年七月、豊臣秀吉之を京都に移し、大仏殿のうちに本尊として安置したが、翌三年八月十七日、俄に本国信濃善光寺に還し、尋で豊太閤の薨去となつた。  善光寺別当歴代譜  此故に、当所の善光寺の堂宇は頽敗し、其跡に小堂一宇をたて、如来堂といひ、其の地名を善光寺大門といつた。一説に、武田信玄川中島の合戦に、如来の霊験を忝うしたので、深く信仰して、甲斐の本国へ引揚げる際、本尊を甲府に遷し、新たに伽藍をたてて、新善光寺と称した。此ころ、澤彦和尚、行脚して、信玄に面接した。此時、澤彦は、善光寺如来の分身を持ち帰り、之を安置したといふ。後、秀信、正真の像を模造せしめ、堂宇竝に七堂伽藍を建立したが、戦乱のため、灰燼になつたとも伝へる。爾後、徳川時代に再建した堂宇も、明治二十四年の大震災に消失し、近時再建して、大正六年十一月、入佛式をあげた。
旧七月十七日夜は、俗にお十七夜と称し、参詣者雑踏する。其の前夜は、老若男女の区別なく、一夜中お通夜して、翌十七日の朝(朝二時より三時まで)如来の御姿を礼拝するのである。按ずるに、善光寺如来天正年中旧七月十七日に岐阜へ到着し、時人之を礼拝した。或は、此の風習が、今にも残つてゐるのではなからうか。
(参考)善光寺堂のこと。天正年間、織田信長の建立と伝へる。然るに、山科言継卿記、永禄十二年七月十九日の條に、すでに、善光寺へ参詣云々の記事があるから、後考を俟つ事とする。」

 

パンフレットの縁起とほぼ同じ内容です。

武田信玄」と「澤彦和尚」にまつわる伝説も書かれています。

 

善光寺」については、

 

○こちら===>>>

「定額山善光寺」 - べにーのGinger Booker Club

「善光寺」(2) - べにーのGinger Booker Club

「善光寺」(3) - べにーのGinger Booker Club

善光寺(4) - べにーのGinger Booker Club

「善光寺東海別院」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑こんな感じで巡っておりまして「六善光寺」三箇所目。

そういえば、「ご戒壇廻り」がありませんでしたね。

 

 

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ご開帳の年ということで、ご尊影もいただきました。