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そういえば今年は、「六善光寺同時御開帳」の年ではないですか。
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といっても、本家「善光寺」には昨年行ってしまいましたので……。
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「定額山善光寺」 - べにーのGinger Booker Club
「善光寺」(2) - べにーのGinger Booker Club
「善光寺」(3) - べにーのGinger Booker Club
善光寺(4) - べにーのGinger Booker Club
名古屋近辺、ということで「善光寺東海別院」、通称「祖父江善光寺」「尾張善光寺」へ。
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思っているより人気がないですが、観光バスが何台も来たりしていて、結構な賑わいでした。
信州の「善光寺」と同様に、本尊から回向柱に向かって綱が伸びています。
回向柱をすりすりして、みなさん祈願していらっしゃいました。
背後に回ってみましたが、年神堂らしきものはなかったです……残念。
本堂は、本家「善光寺」の約2/3の大きさということで、この地方にあっては相当に大きなお堂になっています。
住所としては祖父江町になるんですが、ええ、周囲には特に高い建物があるわけでもないので(名古屋以外の、尾張の風景です)、より一層巨大に見えます。
もちろんですが、「御戒壇巡り」も行ってきました。
いただいたパンフレットによれば、
「”極楽をこの世で拝める善光寺”
善光寺へ参拝された方は誰でも、かいだんめぐりといってご本尊さまの下のくらやみをお念仏を称えながら回り善光寺如来様とご縁を結び善根を得ると必ずめぐるものです。如来様のご安置してある真下が御錠前のある所でその中には善光寺東海別院が日本一をほこる極楽の荘厳が安置されております。中央に阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩と十六観菩薩が安置され、宝樹、宮殿楼閣、宝池には五色の蓮華が咲きそれぞれの光を放っております。空には迦陵頻伽、共明鳥が舞い、華びらを散らし妙なる音楽が流れ、涼やかな風が吹く極楽浄土のありさまが立体的に拝めます。」
とのことです。
入り口で、蓄光パーツのついたブレスレット(ゴム)を受け取り、手首にはめて出発します。
本家「善光寺」の「御戒壇巡り」は、真闇の中を手探りで進み続けるものでしたが、こちらは途中まで行きますと、極楽のパノラマが眩しく再現されています。
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↑でもその一端が確認できます。
今の時代であれば、プロジェクションマッピングとかを使って、大々的に極楽を再現するところなのでしょう(罰かぶり?)。
闇の中で、ぼんやりと漏れてくるこの極楽の明かりにほっとするのは間違いないです。
自然と「有難や」という言葉が浮かんできます……けれども、妙に俗っぽい感じもしてしまうのはなぜでしょう?
アンコール・ワットのような、曼荼羅や須弥壇再現の方が幻想的になったのかもしれないですね。
それでも、なかなかない体験でした。
「極楽戒壇巡り」が完成したのは昭和九年のことだそうです。
あ、上に写り込んでいるのは指です。
忠魂碑より、手前のお地蔵さんを撮影したかったのです。
再び、パンフレットによれば、
「言い伝えによると天正十年(1582年)織田信長・信雄によって善光寺ご本尊如来さまが岐阜より尾張甚目寺へ御遷座の途中、祖父江付近に立ち寄られたとあり、その場所に明治42年・43年と蓮田であった境内地に蓮が一本の茎から二つの花が咲く(双蓮)という奇瑞を縁として、開基旭住上人が信州善光寺本坊大勧進より善光寺如来様を勧請して善光寺東海別院を創立しました。山号を双蓮山、寺号を善光寺と称します。善光寺如来さまは、現当二世(この世もあの世も)お守り下さるありがたい仏さまです。」
とあります。
本ブログの「善光寺」の記事ではほとんど触れていませんが、
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↑の引用として(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)、
「斯くて、仏体は芋井郷に或る事九百餘年、弘治元年に至り、武田信玄これを甲州に遷し、為に一宇を甲府の東方に建立し、新善光寺と名づく。即ち、現今の西山梨郡里垣村の地にして堂舎猶存せり。蓋し、敬神崇仏の風、戦国時代に於て特に甚だしきものあり。一向一揆の如き、信仰の力は動もすれば愚民を駆つて、縷々一国の強敵たらしmてあり。信玄の此の挙、能く時代の傾向を察し、信仰の中心を移して、以て民心を統一せむことを企てたものか。
後二十八年を経て、天正十年、武田氏の滅ぶるに及び、織田信長三尊仏を信濃国岐阜に遷せしが、更に織田信雄の勧進によりて尾張国甚目寺に遷り、次いで徳川家康之を遠江国浜松の鴨江寺に遷す。而も家康は、天正十一年、再び甲州新善光寺に遷し、安置する事十五年、慶長二年七月に至り、豊臣秀吉沿道の諸侯に命じて、之を京都方広寺の大仏殿に迎へしむ。(略)
同年七月十八日入洛、大仏殿の本尊として安置せられしが、居る事僅かに一ヶ月、翌八月十七日、秀吉の病■るに及び、命じて信州善光寺に送還せしむ。十八日秀吉薨す。爾来、今日に至るまで復其所在を変ずる事無かりき。」
というのを掲載しました。
「天正十年、武田氏の滅ぶるに及び、織田信長三尊仏を信濃国岐阜に遷せしが、更に織田信雄の勧進によりて尾張国甚目寺に遷り、」……この部分ですね。
織田氏は、岐阜から尾張に本尊を遷したのですが、その途中で「善光寺東海別院」のある祖父江に立ち寄った、と。
当時の寺の間の力関係が今一つわかりませんが、「甚目寺」というのは現代でも大きなお寺ですので、当時もかなりの勢力だったのだと思います。
せっかく立ち寄ってもらっても、「武田信玄」が「甲斐善光寺」を建てたような真似はできなかった、ということでしょうか(時期的にはもちろん、家康の「清洲越し」の前で、尾張の中心地は「甚目寺」や祖父江も含めたこちら側だったでしょうに)。
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↑の記事で紹介されていますが、「ご印文」を受けて、「柳之牛王」のお札もいただきました。
「六善光寺」、二つ目を踏破(踏破してどうするのか)。
なお、境内には、
「高熊山根福寺」というお寺もあります。
ざっと検索しても、はっきりとした由来がわからなかったのですが、「尾張七福神」の一つで恵比寿さまのようです。
御本尊は不動明王。
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↑のブログでは、「善光寺別院本坊として建立」された、とありました。
「善光寺東海別院」と同時期ということなら、新しいお寺なのでしょう。
その手前にあった石仏。
左側は「神変大菩薩」、つまり「役行者」だと思います。
こうして巡っていると、「役行者」像が結構多いんだな、という印象を受けます。
うーん、そんな情報が載っている本があったら教えていただきたいと思います。
「役行者」は、我々『宇宙皇子』世代には一大ヒーローですから(?)。
こちら「善光寺東海別院」の御朱印。
こちら「根福寺」の御朱印。
今回の旅から、iPhone6にジョブチェンジしております。
カメラアプリも有料のものを使っています。
ピンボケは減っているんじゃないかなぁ、と思います。