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べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「挙母(ころも)神社」

11/17。

 「猿投神社」でまったりしたので、街に降りてみました。

挙母(ころも)神社」です。

 

○こちら===>>>

挙母神社/観光スポット情報 - 豊田市観光協会公式サイト

 

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明治期の立て札です。

石です。

珍しいと思います。

 

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祭神

高皇産霊命

天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇々藝命

天萬栲幡千幡比賣命

天之水分神

國之水分神

由緒

文治、建久の頃(1189)源義経の家臣、三河鈴木重善(のちの善阿弥)は源義経の没落を聞き当地に隠れ住み、そののち大和吉野から子守社を勧請して衣上之郷にまつり奉仕した。鎌倉実記、義経勲功記に「其の頃、熊野の鈴木次郎重行と言うものあり、矢作川の上、衣の里と言う処あり、彼の里に庵室をしつらい住みける殊勝なる法師に里人も尊みしたしみけり、熊野の神を勧請云々」とあり延宝旧図に「大明神の本殿は四間に三間あり拝殿は長き三間横二間とす。社内に薬師堂あり」とある。衣記に「子守大明神は往古より挙母の鎮護たり、草創は何れの年ともいまだつまびらかならず鈴木某熊野より云々」。旧幕時代は、子守大明神といっていたが明治四年(1871)三月十四日挙母藩庁から挙母神社と改められ藩社となり、その後郷社となった。

昭和二十一年(1946)宗教法人令により届出認証登記、旧社格を廃止神社等級八等級。昭和28年(1953)宗教法人による「宗教法人挙母神社」設立認証登記。昭和五十四年九月二十八日神社等級六等級に昇格。

(以下略)」

 

「高皇産霊命」はみなさんご存知造化三神の一柱。

「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇々藝命」は、長ったらしいですが、『古事記』における天孫の正式名称で「あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと」と読みます。

「天萬栲幡千幡比賣命」は「あまよろづたくはたちはたひめ」と読みまして、「邇邇芸命」の母神の、『日本書紀』の「一書」(第七)の中での名前です。

古事記』では「万幡豊秋津師比売命」と呼ばれています。

日本書紀』では、特に神代紀において、異説を「一書(あるふみ)に曰はく」として載せている部分があり、「天孫降臨」の場面も「第八」まで採用されており、この女神の名前も幾つかの種類があります(普通は「栲幡千千媛」と表記されることが多いように思います)。

天之水分神國之水分神」は、分水嶺のことを指していると言われる神様です。

こういった祭神構成はあまりないように思えます。

高皇産霊神」→「栲幡千千媛」→「邇邇芸命」は、「高皇産霊神」を「高木神」とすれば、親子三代の神です。

「天孫」と言われる「邇邇芸命」は、父「天之忍穂耳命」が「天照大神」と「須佐之男命」の誓約から生まれたお方ですので、「天照大神」の孫です。

一方で、高天原の影の支配者とも言われている(どこで?)「高皇産霊神」の孫でもあるわけですね。

最強、といった感じです。

 

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鳥居前面には駐車場があります。

私は、ここに止められることを知らなかったので、離れたコインパーキングに入れましたが。

 

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「津島社」。

もちろん御祭神「建速須佐之男命「櫛稲田比売命です。

「津島社」「八坂社」「祇園社」は、もともとは「牛頭天王」が御祭神でしたが、明治の神仏分離令の影響で、「須佐之男命」が御祭神になっていることが多い、と覚えておきましょう。

テストに出るかもしれません(?)。

 

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参道正面の、これは拝殿、でしょうか。

おや、どこかで見たことが、と思ったら、

 

○こちら===>>>

「猿投神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑「猿投神社」と似ているんですね。

ということは、

 

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例の「四方殿」もありました。

 

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摂社なんですが……左は「金比羅社」だとわかりますが、右がわからず……。

 

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「猿投神社」にならえば「中門」でしょうか。

 

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扁額には「子守大明神」の文字が見えます。

 

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こちらは駐車場側ではない入り口です(西側かな)。

 

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そちらから見た社殿。

中門の後ろはやはり本殿ではなく、祝詞殿なのでしょうか。

 

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「子守稲荷社」。

祭神宇迦之御魂大神」「猿田彦大神」「大宮能売大神

 

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鳥居の手前の案内板には、御祭神佐田彦大神猿田彦大神の別名)」と書かれています。

案内文の後ろの方にも書かれていますが、「伏見稲荷」と合わせたのでしょう。

 

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遠景。

回廊の張り出しが、見るものに圧迫感を与えてますね。

いい押し出し、いいデザインだと思います。

 

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向かって右手の方に回ってみましたが、本殿は見えず……。

 

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こちらは中門の内側から撮影した、祝詞殿(?)。

「子守大明神」だけあって、初宮詣りの家族連れの多いこと多いこと。

何もない土日だからといって、うかつに神社に近寄ると大変なことになります。

 

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拝殿、四方殿も含めた遠景。

うーん、やはりどこか尾張造の影響を感じさせるものがあります、とか書きながら、ちゃんとした尾張造の神社なんてろくに知らないのですが。

 

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境内横にあった「子守薬師如来」の「輝雲山瑞光院」。

プレハブ……何か事情があるものと察しますが、切ないですね……。

 

さて、引用の時間です(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾三郷土史料叢書. 第6編

 

↑に収録の『参河名所図会』より(311コマ)、

 

挙母
衣とも書、当所は本国に於て、特に旧地の所也、古事記垂仁天皇の條に、次大中津日子命者 上略吉備之石无別、許呂母之別等之祖なり と、また次落別王者 小月之山ノ君、三州之衣ノ君之祖也 と見え、又和名抄に当郡挙母 古呂毛 とありて、其名旧くより見えたり、又本居の地名字音転用例 廿三丁 に云、凡て国名、郡名、郷名、皆必ニ字書べき御さだめなるに、長くて二字には約め難きをば字を省きて書たり、其例は 中略 コロモ挙呂母と書しを、二字の定めによりて、中略して挙母と書しと見えたり、則補松に云、藤川より西北の方、行程六里、岡崎より三里又三才図絵に云、江戸より八十三里、光廣卿春の曙記に云う、衣の里は矢矧の橋のかかりたる河に付て、四里半北の山中と見ゆ、従三位泰邦卿の東行話説に云、左の方に衣海道と云有衣の里へ行道とや、春は霞梅桜夏は卯花郭公名にをふ衣の里と聞伝へ侍れども、程遠ければ見にも行れず。
けふかへし衣の里や垣若葉  操舟
名寄又類字和歌集又図名所外集又松葉集又名所方角抄又秋の寝覚、国花萬葉記等当国とせり、又夫木集には、陸奥とあり 挙母の旧知あり。」

 

挙母」を「ころも」と読むのはけっこうな難読地名ですが、「其例は 中略 コロモ挙呂母と書しを、二字の定めによりて、中略して挙母と書しと見えたり」というのはあり得る話かと思います。

奈良時代に、「地名は基本的に二文字にしようぜ、それも良い字に直しちゃおうぜ」という「好字令」というものがありまして。

 

○こちら===>>>

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000151739

 

そんなおかげで、日本には漢字二文字の地名が多い、といわれています。

 

続いて317コマ。

 

子守明神
当所の産土神とす、例祭九月十九日、神主鈴木氏、挙母記に云、子守明神の事、昆森、勝手、此三明神は、往古より、挙母の鎮護たり、草創は何れの年ともいまだ詳ならず、鈴木某熊野より奥州へ、源義経を慕ひ赴とて、参河まで来れども、早奥州衣河にて討死と聞しより、参河にとどまりしと世俗の諺に云伝へたり、証據と云程の書ものいまだ見ざれども、余按ずるに、鈴木氏三河に留まりしに相違なし 後善阿弥と号す 猿投の諸堂造営せし事あり、挙母の右三社も即ち鈴木氏の勧請にして今尚三社います故に、此三社は、熊野の御神にして、近国に其類ひの神明なし、熊野より来れる人ゆゑに、三明神尊敬ありと見へたり、子守は今の社地、往古より易地なし。」

 

神社の案内でも「挙母記(衣記)」には言及されていましたが、子守明神の事、昆森、勝手、此三明神」というように、どうやら有力な神社が三つあったらしく(今でもあるようです)、それらが、鈴木氏によって熊野から勧請されたのではないか、とされています。

「此三社は、熊野の御神にして、近国に其類ひの神明なし、熊野より来れる人ゆゑに、三明神尊敬ありと見へたり」、つまり「熊野三社」のことではないか、と。

神社の見解では、吉野から勧請したということになっています。

というのも、吉野には「吉野水分神社」という古社があるからなんですね。

うーん、どうなんでしょうね……「吉野水分神社」から勧請したということなら、この場所が何かしら「水」に関わる土地でなければならないんですが……いえ、「水」の関係しない土地なんて探す方が難しいんですが。

「熊野三社」を勧請したとしても、そのまま「熊野」として祀れなかった理由がよくわかりません。

高皇産霊神」以下三代の神と、「天之水分神」「国之水分神」という分水の神にどこで変わってしまったのか……。

これは、郷土史家のみなさんに託すしかないでしょうか(なかなか妄想が湧いてこないもので)。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 西加茂郡史談

 

↑の12コマにはこんな記事があります。

 

「第十二章 挙母神社と匂桜
挙母神社は旧子守大明神と称し、高皇霊神、日子幡邇々杵尊、栲幡千幡姫尊、天水分神、国水分神を合祀す、明治四年十一月挙母藩の社に崇むるや、奏請して挙母神社と改む、毎年陰暦九月十九日祭礼を行ひ、山車八輌を引き出し、又棒の手烟火等を奉納す、当日は都鄙の別なく拝観の男女群集して、其賑合ふ様実にたとふるにものなし、
社頭に朽ちたる一株の桜樹あり、里民相伝えて、古は其花の盛りに諸人集ひ来りて見物し、或は此桜に題して詩歌を詠めりといふ、今尚側に桜樹を継植して其名を存せり、」

 

その桜の木は見つけられませんでしたが(事前に調べていなかったので)、ちょっと三河の歴史にも興味が出てきました。

なお、「挙母祭」については、

 

○こちら===>>>

拳母祭り公式サイト

 

↑をご参照ください。

 

鈴木氏が「挙母」に留まったのは、源義経一行が全滅したのが「衣河」だったから、というようなネタもないではないですが、偶然か、後世の牽強付会か、で片付けられてしまいそうですからやめておきます。

でも、三河、面白そうです(尾張だってろくに巡ってないのにな)。

 

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