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神社仏閣ラブ(弛め)

「猿投神社」(妄)その2

さてさて。

以前から何度か書いていますが、推理小説では、

 

双子が出てきたら入れ替わりトリックを疑うのが定石

 

です。

現代においてももちろん、古代においても双子は珍しい存在だったことでしょう。

日本書紀』では双子と書かれている大碓命小碓命日本武尊)」です(『古事記』でははっきりとは書かれておらず、兄弟となっています)。

ひょっとすると、どこかで入れ替わったのではないか、と考えてみてもいいのではないでしょうか。

もともと「日本武尊」というのは、当時の朝廷にあって最も勇敢なものに送られた「称号」で、個人を指すわけではない、という話があります。

大碓命」「小碓命」の父である「景行天皇」は子だくさん。

その皇子たちが各地に派遣されて功を成した、それを一人の英雄の業績として語り伝えたのではないか、と。

さすがにそこまで風呂敷を広げるとなんともかんともなのですが、例えば「日本武尊」の業績を、「大碓命」「小碓命」で分けてみる、というのはどうでしょうか。

というのも、「日本武尊」の業績として知られる「西征」と「東征」の描写がどうにも違っていまして。

 

よく知られる通り、「小碓命」はまず西方の「熊襲」を討っています。

「川上梟師」(『古事記』では「熊襲建」)を討ったときには、少女の姿に化けて宴に潜り込んで、隙をついて倒しています。

また『古事記』によれば、出雲の「出雲建」を討つ際には、一旦友誼を深めておいてから、自分の木剣と「出雲建」の剣を交換し、その上で対決を申し出て倒しました。

どちらも騙し討ち、です。

もちろん、若かった(らしい)「小碓命」が、寡兵で功を成すのであれば、騙し討ちもやむなし、という見方もできますが。

また一面では、優れた策略家としての顔を覗かせているとも解釈できます。

 

一方の「東征」ではどうかといいますと、具体的な描写があまりないのですが。

駿河ではいきなり、地元の賊に「このあたりには鹿が多いので狩りをしてはどうでしょうか」と草むらにまんまと誘い込まれ、火攻めにあっています。

このときは、叔母である「倭姫命」の授けた火打ち石と草薙剣で窮地を脱しました。

相模から上総に渡る際には、大嵐に遭遇して后である「弟橘媛」を失っています。

行く末を心配させますが、そこからの蝦夷討伐は実に順調で、というのもほとんど戦わずして相手を降伏させているのです(『日本書紀』)。

恭順していないのは越と信濃だけと見定めた「日本武尊」は、越を「吉備武彦」に任せ、みずからは信濃に入ります。

ここでも戦いの描写はありませんが、どうやら古い神(白い鹿)と遭遇し、なんとか難を逃れて美濃に至りました(『古事記』では、足柄山でのこととなっています)。

「西征」と「東征」の間に、「日本武尊」の成長はあったとはいえ、策略家として「川上梟師」「出雲建」を討った知力はどこかへ消え失せています。

しかも、『古事記』では、「東征」に出る前に、伊勢にいる「倭姫命」を赴いて、「父上は、西の熊襲を討ったばかりだというのに、すぐに東の蝦夷を討てという。私が死んだほうがいいと思っているのだろうか」と嘆いています(『日本書紀』ではやる気満々ですが)。

さらに、「西征」のときにはまったく出てこなかったのに、「東征」以降出てくるものに「歌」があります。

酒折宮で詠んだ歌に返歌をした人物に東国造の称号を与えたり、尾張の「宮簀姫」と歌を交わしたり。

そういえば、「東征」になってからは、女性関係の記事(「弟橘媛」「宮簀姫」)も出てきていますね。

成長したというか、

 

もはや別人?

 

と疑った先人たちも多かったようです。

で、ですね。

この、「西征」を「小碓命」の業績「東征」を「大碓命」の業績、と考えてみるのはどうでしょうか?

あ、『古事記』では「大碓命」は、「小碓命」が「西征」に出る前に殺されちゃってますが、とりあえずそこは目をつぶりまして(妄想ですから)。

大碓命」と「小碓命」は、おそらく「景行天皇」の皇子の中でも傑出していたのでしょう。

しかも双子だった。

ところが、性格には少々差があった。

小碓命」はどちらかといえば知謀に溢れる策略家、「大碓命」は武というよりは文に秀でた人物だったのではないか、と思うのです。

 

で、「景行天皇」的にはですね、どちらの皇子に後を継いでほしかったかというと、実はどちらでもなかったんですね。

古代の英雄「日本武尊」は、天皇位につかずして亡くなっています。

景行天皇」の後に天皇位についたのは、腹違いの弟の「成務天皇」です。

大碓命」「小碓命」の母は「播磨稲日大郎女」、「若帯日子命(わかたらしひこのみこと)=成務天皇」の母は「八坂入媛」です。

日本書紀』では、この「八坂入媛」との出会いを詳しく書いています。

後の「成務天皇」の母との出会いを詳述するのはわかります。

それと同時に、英雄「日本武尊」の母のことだって書いてもいいんじゃないかな〜、と思うんです。

でも、全然書かれていない。

歴史というのは後から書かれるものですから、「成務天皇」の正統性を明確にするために「八坂入媛」との挿話は必要だったのでしょう。

ですので、これだけをもって「景行天皇」が、「日本武尊」ではなく「成務天皇」を後継者にしたかったかどうかはわかりません。

それに、「成務天皇」は『古事記』でも『日本書紀』でも目立った記事のないお方です。

実在も疑われる、というやつですね。

ひとまず妄想として、「景行天皇」は「成務天皇」を後継者にしたかった、と考えることにしましょう。

じゃなかったら、「日本武尊だけをあんなにあちこちに派遣したりしなかったでしょう(死地に追いやっているようなものです)。

景行天皇」は、「日本武尊」が嘆いたように、彼を排除したかったのです。

 

それでは、「景行天皇」は、「小碓命」と「大碓命」のどちらをより排除したかったのでしょうか。

多分、大碓命だったんです。

前回の記事でも紹介しましたが、

 

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「猿投神社」(妄) - べにーのGinger Booker Club

 

↑「大碓命」は、「景行天皇」の命令に背いて、美濃国の美しい姉妹を自分のものとしています。

このことを「景行天皇」は恨んでいた、ということなんですが、おそらくそれだけではありません。

名前こそ違いますが、「大碓命」がめとったのは「美濃国造」の娘となっています。

当時はまだ国造の制度はないでしょうから、美濃国の王とか、そういった認識でしょう。

その娘が「大碓命」の妻になった、ということは、美濃国が彼の勢力下に入ったことを意味しています。

なかなかの人心掌握力だったのでしょう。

しかも、「成務天皇」の母である「八坂入媛」は美濃出身ですが、格としては「大碓命」のめとった姉妹よりも下でした(そりゃ相手は王の娘ですから)。

つまり「成務天皇」は、天皇位につくにあたって、美濃国の支援を受けられないということです。

これが、「景行天皇」が「大碓命」を恐れた所以です。

それだけ徳の高い皇子だったのかもしれません。

 

大碓命」に皇位継承の野心があったかどうかはわかりませんが、双子の「小碓命」にはそれでしょう。

彼もまた、「大碓命」を邪魔だと思っていました。

戦に強い「小碓命」でしたが、人徳は「大碓命」のほうがあったのではないでしょうか。

しかも『日本書紀』では、「西征」に旅立つ際の軍勢を求める際に、ある人に「美濃国に弓の名手で弟彦というものがいる」と推薦され、軍勢(のおそらく筆頭)に加えています。

この「ある人」は、おそらく美濃国を勢力下においていた大碓命でしょう。

大碓命」としては、「小碓命」に助力したつもりだったのでしょうが、さて「小碓命」側としてはどうだったのでしょう。

「余計なお節介」に映っても不思議ではありません。

そして、従軍した「弟彦」は、「小碓命」の策略家としての姿、残虐な面を目撃しています。

ひょっとすると彼は、いずれ後継者争いが起きたとき、「小碓命」を推すのか「大碓命」につくのか、を見極めるために美濃の王より遣わされたのかもしれません。

そこで出した答えは、「大碓命」だった、としたら。

小碓命」にとっては、「大碓命」は脅威のライバルになったのです。

 

さて、「小碓命」は「西征」を終えましたが、今度は「東征」が唱えられます。

自身の勢力ばかりを戦に使いたくない「小碓命」はもちろん、今度は「大碓命」の番だと「景行天皇」に告げます。

これに「景行天皇」も乗っかります。

裏で通じていたのか、たまたま利害が一致しただけなのか、「小碓命」と「景行天皇」は、ともに「大碓命」排除のために「東征」に向かわせます。

崇神天皇」の頃に四道将軍が派遣されたとはいえ、東国はまだまだ王化に叛くものたちのいる危険地帯です。

おそらく天皇たちの故地であり、ある程度の情報のある西国とは違っていたのです(『日本書紀』によれば、「景行天皇」は自ら九州の熊襲を討つため軍を率いていますが、東国には親征していません)。

大碓命」はそれに怖気付いて草むらに隠れた、と『日本書紀』に書かれていますが、「小碓命」の双子の兄ですから、そこまで無責任ではないでしょう。

ですが、やはり死地に赴く不安はあり、それを伊勢神宮の「倭姫命」に打ち明けています(そこで、火打ち石と草薙剣を託されました)。

 

「東征」に出発した「大碓命」ですが、尾張国で援軍を得ます。

尾張の王である「建稲種命」です。

彼の妹である「宮簀姫」を妃としたことで、「大碓命」の勢力範囲は美濃、尾張と拡大したことになります。

大碓命」は女性にもてたんですね、きっと。

その後は、何度か危機があるものの、東国の蝦夷たちと戦うというよりは、降伏させて、その首領を捕虜として都に連れて帰るほどの大活躍。

越の国と信濃を恭順させることは難しかったようですが、それでも信濃から美濃に抜けてしまえば、自分の妃の勢力下ですから、安心です。

「東征」は成功といえるでしょう。

 

ここで、入れ替わりトリックです。

 

この最後の、信濃から美濃に抜けるどこかで、待ち伏せした「小碓命」一派が「大碓命」との入れ替わりを試みたとしたらどうでしょう。

おそらく「小碓命」一派は、従前から「大碓命」の勢力を削ぐことを考えていたのでしょう。

東国まで出向くのは困難でも、尾張や美濃あたりであれば入り込むことができた。

そして、「大碓命」一行が安堵するであろう美濃入り直前で入れ替わったのです。

「東征」の手柄と、「大碓命」勢力を全て自分のものとするための、双子ならではの策略です。

 

ところで私、何度か「宮簀姫による日本武尊殺人事件」というのを妄想しておりまして。

 

○こちら===>>>

「氷上姉子神社」 - べにーのGinger Booker Club

「内々神社」+「妙見寺」 - べにーのGinger Booker Club

 

その動機を探っていたのですが、今回の「大碓命」→「小碓命」の入れ替わりトリックで、主要な動機を探り当てたような気がします。

 

大碓命」の仇討です。

 

「東征」の後、尾張の「建稲種命」は東海道尾張に戻ったようなのですが、その途中で亡くなっています。

↑の「内々神社」の記事で詳しく書いていますが、この「建稲種命」を殺したのは「小碓命」の一派だったのではないか、と。

そして、「久米八腹」という人物が、内津峠の「日本武尊」の元に報告に行ったわけですが、このときの「日本武尊」は「小碓命」です。

「久米八腹」が「建稲種命」の部下であれば、その入れ替わりを見抜いたのかもしれません。

そして、「宮簀姫」にその事実を伝える。

当然、「宮簀姫」は信じられませんが、尾張に戻ってきた「日本武尊」を出会って、そのことに気づいたのではないでしょうか。

大碓命」を愛していたということもあったでしょうが、彼が次の天皇位を継ぐだけの人物だと思っていたからこその尾張の恭順だった。

しかし、兄である「建稲種命」も「大碓命」も失ったことで、尾張の立場は非常に危うくなります。

もし「小碓命」が天皇位を継げば尾張がどうなってしまうのかわかりません。

大碓命」の妻としても、尾張の姫としても、「宮簀姫」は「小碓命」を生かしておくわけにはいかなかったのでしょう。

さらに、「小碓命」の殺害は、もう一つの利益を生みます。

それは、景行天皇」に貸しを作ることができる、ということです。

美濃と尾張は隣国で、ともに「大碓命」の勢力下ですから、情報の交換があったものと思います。

そして、「景行天皇」が「八坂入姫」の御子を後継者にしたいと考えている、という情報が入っていたとしたらどうでしょう。

「宮簀姫」が「小碓命」を殺すことは、「景行天皇」にとっては願ってもないことです。

本来なら、尾張の姫が天皇の御子を殺した、という口実で尾張に攻め込んでもいいくらいですが、ここでなんらかの密約が成立したのではないでしょうか。

大碓命」の佩剣である草薙剣が宮中や伊勢神宮に戻らず、尾張に置かれたままになったのは、「宮簀姫」と「景行天皇」との密約の証拠だったのでは。

もちろん、「宮簀姫」にとっては、「大碓命」の大切な形見でもあります。

だからこそ、「日本武尊」は、伊吹山には剣を持っていかなかったのです。

これが「宮簀姫」の荒魂の部分であり、草薙剣が祟るといわれる理由です。

後世、何物かが「大碓命」と「小碓命」の業績を「日本武尊」のものとしてまとめてしまい、その過程で系譜上不要となりながら、東国で強い影響力を持っていた「大碓命」の存在を消しきれず、『古事記』では「小碓命」に殺されたことを暗示し、『日本書紀』では勢力地の美濃に追いやられたことにした、と。

 

 

 

 

 

信じるか信じないかは……。

 

 

 

 

 

ま、妄想ですから。

あ、それでですね、信濃から美濃に入るところで「小碓命」に襲われた「大碓命」は、そこでは命を落とさず、何とか尾張まで逃げ延びようとした。

しかし、その途中で倒れてしまった。

その場所が、ひょっとすると「猿投神社」のあたりだったのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

ただですね、策略家の「小碓命」が、双子の入れ替わりトリックなんかに手を出すのかなぁと思うんですよね。

そう考えると、最初から黒幕は「景行天皇」で、「小碓命」は踊らされていただけなのかもしれないな、と思います。

ちなみに、『日本書紀』によれば、景行天皇52年の夏(「小碓命」はすでに死亡しています)、「大碓命」「小碓命」の母である「播磨稲日大郎女」は薨去され、同年秋「八坂入姫命」が立后されています。

後世の歴史家が、「成務天皇」の正統性のためにあえて挿入した記事にも思えますが。

何か、タイミング的に「待ってました」ですよね、これ。

 

 

 

 

 

妄想はともかく、「大碓命」が美濃に移されて、その地で生涯を終えた、という可能性ももちろんあると思います。

ここで「左鎌」ですが。

「左利き」だから「左鎌」って、いかにもこじつけめいているな、と思ってじっと字面を見ていたんですが。

もっとこじつけめいたことが浮かんできました。

何か、「左鎌」って文字、

 

「左遷」

 

に似てません?

いや、似てませんけどね。

やっぱり、有能だった「大碓命」は、「景行天皇」や「小碓命」に疎まれて、美濃に追いやられた、つまり「左遷」されたんじゃないかなぁ、と。

それが「左利き」とか「左鎌」とかの伝承になって残ったのではないか、なんて思ったりしました。

 

 

 

御朱印は、なぜかいただいておりません。

社務所が開いてなかったのかな……。