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よんどころない予定まで、時間的にしんどくなってきたので、そろそろラストかな……ということで「難波神社」へ。
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「坐摩神社」のほど近く、御堂筋沿い、本町と心斎橋の間くらいにありました。
これは……どちら向きの鳥居だったかな。
拝殿。
今の社殿は、昭和49年に再建されたもののようです。
先ほどとは別の鳥居。
明治13年の建立です。
これもまた、違う鳥居だったと思います。
万延元(1860)年の建立です。
こちらも別の鳥居。
扁額がかかっているので、南の鳥居だと思います(うろ覚え)。
「御由緒
配祀 素戔嗚尊
第十八代反正天皇が河内の国丹比(大阪府松原市)に遷都されたとき父帝の仁徳天皇を御祭神として創建されたと伝えられる
天慶六年(九四三年)朱雀天皇のご命令により大江の坂平野(天王寺区上本町あたり)に遷座
昭和二十年三月十四日(一九四五年)第二次世界大戦大阪空襲により全焼 その後仮宮によっていたものを昭和四十九年(一九七四年)再建され現在に至る」
……神社でいただいた「難波神社案内記」によれば、
当社は、西暦四〇六年、反正天皇が河内国丹比柴籬宮(現在の河内松原市上田)に都をうつされた時、同地に父帝の仁徳天皇をしのんでお建てになったのがはじまりといわれています。
その後、九四三年、朱雀天皇の御代に天皇のご命令で大江の坂平野郷(現在の天王寺区)にうつり、摂津国の総社(参拝の便宜のため、数社の祭神を一個所に総合してお祭りした神社)として「難波大宮」又は「平野神社」と呼ばれていました。
一〇七一年延久三年の正月、後三条天皇が住吉に行幸される途中の夢のお告げにより、万民の病疫をすくわれる素戔嗚尊と五穀豊穣を誓われる倉稲魂尊をご一緒にお祭りするようお命じになったと伝えられています。
いまの地にうつされたのは、一五八三年、豊臣秀吉が大坂城をたてた時で、当地は上難波村と称しておりましたが、一八七五年(明治八年)「難波神社」と改めました。
当社の建物は、一六六六年(寛文六年)十二月八日火災にあい、神宝、みこし等多数が消失しました。
その後再建された建物は、御堂筋の開通に伴い、一九三五年(昭和十年)から五ヶ年計画をもって神域の拡張、改築の工事を行ない、一九三九年(昭和十四年)二月に完成し、壮麗な四方鳥居を建造して旧観をしのびえるに至りました。しかしながら、第二次世界大戦の空襲により、一九四五年(昭和二十年)三月十四日、鳥居と玉垣を残して全焼、一九四八年(昭和二十三年)竣工の仮宮によっていたものを、氏子、崇敬者の熱意と多額の浄財の寄進により、一九七四年(昭和四十九年)七月、大阪の中心地、御堂筋に面する由緒ある神社にふさわしい立派な姿となって再建されたのです。」
とあります。
「反正天皇」の時代が西暦でいつ頃か、というのは諸説あって定かではありません。
熊本県の船山古墳から出土した鉄剣の銘文により、5世紀末に実在していたと考えられていたようですが、いまではその銘文は別の天皇(「ワカタケル」≒「雄略天皇」)を指しているというのが通説です。
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記紀では即位してからの記述が抜群に短いことで有名な方です。
もし、↑の銘文で実在すると考えていたとしたら、記紀の記述が短いことにはどう納得されていたんでしょうか(まぁ、実際には即位前、兄である「履中天皇」の時代に割と活躍しているのですが)。
境内には他に、
「博労(ばくろ)稲荷神社」があります。
こちら、先ほどの「案内記」によると、
本社の西側にある。浪速の町が栄えるに従って、船場の商家の中心となり、いなりへの信仰があつく、古い記録にも、当神社のことを「稲荷社」「稲荷宮」としてあるものもあります。
近年においても、一般には「博労町(ばくろまち)のおいなりさん」「博労いなり」として有名で、親しまれてきました。」
とあります。
「古い記録にも、当神社のことを「稲荷社」「稲荷宮」としてある」……ここでいう「当神社」は、「難波神社」のことです。
それはまぁ、「仁徳天皇」なんてお方よりも「おいなりさん」の方が、庶民にはわかりやすい神様でしょうから。
また、
「金刀比羅神社」や、
「十四柱相殿神社」があります。
こちらは、
「御祭神 天照皇大神・豊受姫大神・応神天皇・春日四柱大神・猿田彦大神・罔象女神・迦具土神・菅原道真公・楠木正成公・豊臣秀吉公・徳川家康公
境内の東南隅にある。以前は数社に分れてお祭りしてあったようですが、火災、模様替え等により、本社の移転、併合が行なわれたようで、一八八八年(明治二十一年)に鉾蔭神社安邦神社の祭神を六柱相殿神社へ合祀、十四柱相殿神社と改称しました。」
と「案内記」に書かれています。
「難波神社と文楽
植村文楽軒が当社境内に人形浄るりの小屋を開いたのは、文化8年(1811年)のことでその後一時移転、安政3年(1856年)再び当地に復帰した頃から「文楽軒の芝居」と呼ばれるようになった。
明治5年三世文楽軒の時に新開地の九条に移ったが、17年に三味線の二代目豊沢団平を擁する「彦六座」が当社北門に開場して人気を集めたため、文楽軒も近くの御霊神社境内に小屋を移して対抗した。
「彦六座」は明治31年団平が舞台で倒れたため解散、小屋は「稲荷座」としていろいろな興行に利用されたが、同45年取りこわされた。」
……「文楽」って、人の名前が起源だったんですか……(汗)。
そんな人、知りもしませんでした……(汗汗)。
それにしても、やはり大阪では(というより、当時の日本では、か)、神社仏閣と興行は密接に関係しているのですね。
人を集めやすい、ということなんでしょうか。
さて。
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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第5編摂津名所図会
を見てみましょう(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
265コマです。
「上難波仁徳天皇宮 上難波町にあり。[社説]に云く、世人博労稲荷と称するは訛なり。鳥居の額、仁徳天皇宮。
祭神鷦鷯聖帝 拝殿の額、摂津惣社難波皇太神宮と書す。[社説]に曰く、肇は反正天皇元年冬十月勅によつて、大江坂平野郷に鎮座あり、後世天正年中金城御造建の時、神領地によつて此上難波に移す。むかし旧社の時、後三条院の帝住吉行幸に当社へ詣し給ふ、其時は延久五年二月なり。又将軍頼朝卿及び足利将軍家社参ありて、神領寄附し給ふ、これを上難波・下難波といふなり。
勲一等若宮 本社の左にあり。菟道稚郎子命を鎮め祭る。
博労神祠 本社の右にあり。稲荷神を祭る。
天照太神宮 博労祠の隣る。
末社 武内祠・猿田彦祠・其外二前。
神楽殿・神輿舎・神馬舎・絵馬殿、倶に社頭にあり。
薬師堂 薬師・観音を安置す。
当社の例祭は六月二十一日、橘通二丁目下宮御旅所へ神輿を渡す。祭礼厳重にして、楽倫参勤ありて道路音楽あり、此辺市中及び新町形成廓等本居にして、賑しき御祓なり。又秋祭は九月二十一日にて、神馬の渡あり。抑此社頭は、大阪市中の繁華の地なれば、常に詣人多く、芝居・観物・軍書読・小買の市店連りて囂し。都て辺鄙の人も、大阪一覧の時はまづここに詣するなるべし。」
「上難波仁徳天皇宮」とは、なかなか直球な呼び方です。
そうか、上方ですから、京都に近い分、天皇(天子様)のことを、庶民もわりと知っていたのかもしれないですね(江戸時代、江戸の人は、天皇のことをよく知らなかったそうですので)。
「勲一等若宮 本社の左にあり。菟道稚郎子命を鎮め祭る。」……「菟道稚郎子命」は「仁徳天皇」の弟で、「応神天皇」の皇太子だった方ですね。
しかし、「仁徳天皇」に皇位を譲るために、最終的に自害した、と。
現代は、どこかに行ってしまったようで。
266コマには図絵もありますので、現代と比べていただけると面白いかと。
当時に比べて、境内がかなり狭くなっているような印象を受けます。
他に面白い文献がないかなと思ったんですが、よく考えれば「難波神社」なんて新しい名前で検索してちゃ引っかかるものも引っかからないですよね。
でも、「平野神社」や「仁徳天皇宮」でもやはりひっかからず……。
○こちら===>>>
↑21コマより。
「難波神社
難波神社では祭神仁徳天皇の氷室の故事を強調して、同社の夏祭に特長づけた。
その由緒は祭神仁徳天皇の御即位六十二年の夏、御兄の額田大中彦皇子が狩鞍の途次野中に廬のやうなものを発見され、調べられると地下一丈餘り茅荻の類を敷いて冬の氷を保存してゐた、つまり天然氷の貯蔵倉だつたのだ。皇子はこれをとつて天皇に献上され、それが毎年の例となつたといふ。それに因んで昭和五年の夏祭から市内の氷問屋から献納する大氷塊を渡御列の中に加へることになつてゐる。
また渡御の列中に「菖蒲台」の加はるのも他の祭礼には見当らないもので、これも難波神社が正親町天皇の御代に平野郷から上難波(現在の博労町)に遷座してから、堀江の河岸にゐた嫗が毎年五月五日の朝花菖蒲を献じた故事によるものだといふ。
また八乙女も、他社のやうな芸妓ではなく氏子の娘の中から選出し別な清趣を添へた。同八年明治獅子講を結成し、これも氏子中から四五才乃至十七八才の男女を募って「弥栄勢獅子」の名で獅子舞を舞はし、同十年には美しい飾獅子を新調した。なほ同社は目下社殿改築中であるから、竣工の上はさらに一層の飛躍をみせるであらう。」
「祭神仁徳天皇の御即位六十二年の夏、御兄の額田大中彦皇子が狩鞍の途次野中に廬のやうなものを発見され、調べられると地下一丈餘り茅荻の類を敷いて冬の氷を保存してゐた、つまり天然氷の貯蔵倉だつたのだ。皇子はこれをとつて天皇に献上され、それが毎年の例となつたといふ。それに因んで昭和五年の夏祭から市内の氷問屋から献納する大氷塊を渡御列の中に加へることになつてゐる。」……これは、「氷室祭」のことです。
「昭和五年」とは、結構新しいんですね。
○こちら===>>>
「氷室神社」〜奈良めぐり - べにーのGinger Booker Club
↑「氷室神社」といえば、奈良のこちらです。
『延喜式』に、朝廷に献上するための氷を置いていた氷室は、「山城に6つ、大和・河内・近江・丹波に1つずつ」あったとされています。
もちろん「難波神社」の「氷室祭」は、御祭神の「仁徳天皇」と関係しているから行われているわけで、こちらに氷室があったわけではない、と思います。
最後に、
○こちら===>>>
↑から、「難波神社」を探してみましょう。
……。
…………。
どこだろう。
図のほぼ中心に「平野社」があるのですが、そのやや左下あたりにも、「上之宮」の下あたりに「平野社」があります。
どっちなんでしょうね……船場に近いから、後者かな。
なかなか興味深い神社なのですが、今ひとつ資料が見つけられず。
消化不良試合となりました。
大阪のイメージというと、やはり江戸時代〜現代を引きずってしまって、かつては都も置かれた日本の中心ということを忘れてしまいます。
掘り下げてみれば、出てくる出てくる面白さ。
幸いにして、京都、奈良と同じく、名古屋からはそれほど遠くもないので、何かの機会に足を運んだときには、少しずつめぐってみようと思います。
というわけで、「奈良めぐり〜大阪めぐり」と、2日間でかなり強引にめぐった小旅行記でした。
しばらくは、神社仏閣の参拝ペースも落ちますので、ブログものんびり進めようと思います。