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いろいろと目移りするのですが、次の目的地へ。
「坐摩神社」です。
○こちら===>>>
世の中に難読神社数あれど、十指には数えられそうな神社です。
何しろ「坐摩」で「いかすり」と読ませるのですから。
素人(?)は読めません。
お、珍しい「三輪鳥居」です。
いや……うん、「三輪鳥居」とはちょっと違うな……。
あ、Wikipediaさんによれば、「三ツ鳥居」だそうです。
○こちら===>>>
御祭神 坐摩大神(五柱の神の総称)
生井神(いくゐのかみ)・福井神(さくゐのかみ)・綱長井神(つながゐのかみ)
御由緒
神功皇后新羅より御帰還の折、淀川南岸の大江田蓑島後の渡辺の地に奉祀せられたことに始まる。
延喜式神名帳には摂津國西成郡の唯一の大社と記され往古より産土神として今日に至る。
坐摩(いかすり)の語源は 土地又は居住地そ守り給う意の居所知(いかしり)が転じたものと伝わる。
天正十年(1582)豊臣秀吉の大坂築城の際替地を命ぜられ 寛永年間現在地に遷座、現在の鎮座地名を渡辺と称するのは元の地名が移されたことによる。故に全国の渡辺・渡部等の姓の発祥の地とされる。
明治天皇御降誕に際し宮中より御安産の御祈願を仰せつかり、秋季大祭当日(旧暦九月二十二日)皇子無事御降誕あらせられる。明治元年、明治天皇大坂行幸の折当社に御親拝になり、境内での相撲を天覧遊ばされる。
昭和十一年官幣中社に列せられる。」
「御祭神 坐摩大神(五柱の神の総称) 生井神(いくゐのかみ)・福井神(さくゐのかみ)・綱長井神(つながゐのかみ) 波比岐神(はひきのかみ)・阿須波神(あすはのかみ)」……また素人(?)には馴染みのない神々が並んでいらっしゃいます。
「坐摩(いかすり)の語源は 土地又は居住地そ守り給う意の居所知(いかしり)が転じたものと伝わる。」……この話も、多数ある語源の一つなのでしょう(実際のところを探るのは難しいだろうな、と)。
拝殿。
コンクリートの社殿は、昭和34年に、戦前の姿のままに再建されたもの、だそうです。
ちらりと本殿。
境内末社は横一列です。
「大江神社」。
「繊維神社」。
「大國主神社」。
「天満宮」。
「相殿神社」。
「大江神社」は、多分「大江津」と関係があるのかなぁと思います。
「相殿神社」は、何か、テキトな感じが……。
鳥居の内側の狛犬さん。
境内にはもう一つ、「陶器神社」があります。
由緒書も陶器の皿、凝っています(が読みづらい)。
引用にあたって旧字をあらためた箇所あります/判読不能文字は■に置き替えています。
「史跡 陶器神社
祭神 大陶祇神(おおすえつみのかみ) 迦具突智神
由緒
嘉永の頃愛宕山将軍地蔵を祀ると伝えられ火除の神として崇敬厚く特に陶器商人は守護神と仰ぎ七月■■日の火祭には陶器造の人形を各戸競いて作り奉納し地蔵会と共に盛んでした。当初は靭南通一丁目に鎮座ましましたが明治四十年市内電車敷設のため坐摩神社に移転合祀されました。祭礼には瓢の水を■て火を防ぐの故事により陶製瓢と火の要鎮のお札を笹に結び付け参詣者に授ふし亦陶磁器の端物を贈呈したのが祭の起源とされ北は筋違橋から南は四ツ橋迄の両側二百数十店が軒を並べていたものです其の後昭和二十年戦災に遭い二十六年六月西横堀浜筋再建せともの祭と共に復興いたしました然し四十六年阪神高速道路敷設により再度立退きのやむなきとなりここに崇敬者の■■と名地陶芸作家諸先生の賛助により陶器神社の名にふさわしく陶器の宮として当所に御造営の上同年十一月遷宮鎮座を■りました。」
もうちょっと大きなお皿に……そうなるとうまく焼けないのか……。
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「深川神社」(瀬戸市) - べにーのGinger Booker Club
「窯神神社」(瀬戸市) - べにーのGinger Booker Club
↑「瀬戸物」といえば愛知県瀬戸市、陶器に関係した神社があります。
「深川神社」内の「陶彦社」と、その近くの「窯神神社」です。
当たり前なんですが、産業に関わる神社、というのは多いわけです。
お隣はお稲荷さん。
丹塗りと緑青のコントラストが鮮やかですね。
いい感じだと思います。
「陶器神社」だけに、焼き物の灯篭がたくさんあって、趣深いです。
境内には他にも、
↑こんなものがありました。
「上方落語寄席発祥の地
中興の祖 初代桂文治
初代桂文治は寛政年間(1789〜1800)坐摩神社境内にて大阪ではじめて寄席を建て 抜群の話芸で名人と称され上方落語の繁栄の基礎を築いた
それまで大道芸に近い芸能だった落語を室内の高座で演ずる現在につながる興行形式にあらためたのである
ために、文治は上方落語の中興と仰がれている
文治の名跡は三代目以降が江戸に移ったが 七代目文治の名が一旦大阪に戻り 初代文治を祖とする桂派の流れは大阪と江戸の両地で大きな勢力となって東西落語界の興隆を支えて今日に至っている
大阪藝能懇話会 肥田皓三
天満天神繁昌亭への継承
江戸時代後期 ここ坐摩神社において初代桂文治が開いた咄の席が上方落語の寄席興行の始まりです 以降 幕末から明治・大正にかけて多くの落語の席が誕生し上方落語は飛躍的な発展をとげました
昭和に入り 戦災等によって落語は定席を失いましたが、平成十八年九月「天満天神繁昌亭」が開場 約六十年ぶりに落語専門の寄席が復活しました
今は「桂文枝」師匠ですか。
落語の名跡はいろいろありますが、「桂」は東西にあるので不思議に思ったことがあります(西:桂文枝師匠等、東:桂歌丸師匠等)。
いや、落語にしろ歌舞伎にしろ、東西って仲が悪いんだろうなぁ、というのが私の認識だったもので(その狭間の愛知県在住者のやっかみかもしれませんが)。
コント好きなので、落語はあまり見ないんですが、古典くらいはいろいろと知っておきたいなぁと思った時期があります。
「寿限無」「時そば」「目黒のさんま」「崇徳院」……おいおい本当に基本的な咄ばかりだ。
三遊亭円朝の怪談話も、興味はあるんですけれどね……『真景累ヶ淵』をちらっと読んだか読まないか……。
↑こんな小説がありまして、面白いです。
それにしても、寺社門前というのは、当時の興行にとっては欠かせない場所だったんですね。
「生國魂神社」もそうでしたし。
関西だけの傾向なのかな、と思ったりしますが、どこでもそうだったんでしょうね。
ショバ代を寺社に払っていたんでしょうか?
時代劇の「ガマの油売り」(若い方は知らないですね)とかやっているのが、寺社の境内だったというイメージがあります。
『男はつらいよ』の寅さんは、どこでもやっていましたっけ。
「柴又帝釈天」でやっているわけではないんですよね、きっと……あ、『男はつらいよ』を見たことがないもので。
ついでに、『北の国から』も見たことがありません。
おっと、「坐摩神社」の話ですね。
それはまた次回に〜。