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べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「鎮宅霊符神社」〜奈良めぐり

10/31。

元興寺(極楽堂)」の参拝を終え、少し急ぎ気味に移動。

しかしながら、途中で外せないところがありましたもので。

「鎮宅霊符神社」です。

 

○こちら===>>>

名所 | ならまち情報サイト

 

↑こちらで紹介されております。

 

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本殿は春日造っぽいですね。

↑で紹介したサイトでは、

 

祭神は、『古事記』で最初に高天原に現れたとされる天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。国家安穏、五穀豊穣、家屋敷の安全を守るとされます。
1117年に創建されたこの神社は、陰陽師の鎮守の祭壇所でもありました。この辺りにも陰陽師が住んでいたことから、所在地は「陰陽(いんよう)町」と呼ばれています。」

 

とのことです。

 

わかる! 元興寺 ―元興寺公式ガイドブック―

わかる! 元興寺 ―元興寺公式ガイドブック―

 

 

↑のP58には、「物忌札」の項で、

 

「……物忌札の作成に関与したのは陰陽師であった。元興寺の場合も、旧境内近くに陰陽町(地元では「いんぎょまち」と呼ぶ)と呼ばれる一画があり、実際に陰陽師が住んでいたことが知られ、物忌札作成に関与したと考えられる。」

 

とあります。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 平城坊目考. 中

 

↑の21コマには((引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)、

 

「陰陽町 当町南京陰陽師等住居仍此名と号す亦里俗唱門ケ辻子と称す斯名是にあらず

(略)

古老曰当所陰陽師ハ加茂氏吉備大臣真備公之裔而古へ吉備塚邊に住す其後離散して今の地に移ると云々

元要記曰興福寺行疫神鳥羽院御宇永久五年正月社壇建立南都四箇陰陽師勤仕之云々

(以下略)」

 

↑といった説が伝えられています。

ところで、「鎮宅霊符神」については、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 妙見菩薩信仰論

 

↑こんなものがありましたので、引用してみようと思います。

20コマより、

 

「されば、其鎮宅霊符神とは何ういふ訳のものであるかと云ふに、此れは日本に始つたことではないので、琳聖太子百済国の方から伝えたのであつて、百済の方は其当時盛んに此の鎮宅霊符神を四民安楽消罪の秘法として祀ッたものである、そこで序に鎮宅霊符神の縁起を言つて見ると、昔日漢の孝文皇帝が、弘農縣の堺に御幸なさつた時に、不圖三愚の民宅を御覧遊されると其の土地に不似合の富豪が居るから、皇帝之れを非常に怪しまれて、其の故を問いたださんと富豪を呼召された、すると其の富豪、姓は劉、名は進平と云ふ者であるが、皇帝の御前に来り、お答奏するやう、私の家は往昔から災禍ばかり打続いて誠に困窮て居りましたところ、或る日何方とも知らず、二人の書生(二人の書生とは其の当時の仙人ならんか)が来て、七十二の霊符を伝授された。そこで私は之を畏敬し受けましたすると此の二人の書生は

此法を修すること十年にして大富貴となり、二十年にして子孫繁昌す三十年にして必ず白衣の天子宅舎に入る事あらん

と言つて門を立去ること約五十歩ばかりにして煙の如く消失せました、夫れから不思議にも我家は旭日の東天に昇るが如く富豪になりましたと語つた、茲に於て皇帝は之を御聞し召され、深く霊符の法を信敬し給ひ皇帝躬らも直にお祀りになり、民家のものにも布礼を出して霊符なるものを祀らせた、ところが其の利益で四海静寧、萬民安楽となつたとのことであります。

是れが鎮宅霊符神の起つた所以なのであるが、随分其の当時は百済の方では非常に流行つて居つたものらしい。」

 

「……で其の鎮宅霊符神の御尊像は何いう形相が真実であるかと云に、頭に円光の七曜星を戴き、右の手に神剣を持ち、左の手に玉を持ち、亀蛇を踏んで立つて御座る、そして右に抱卦童子、左に示卦童子、此の二人の脇童子を連れてゐる、これが百済地方で神体として崇めた形相なのであります。」

 

というような記述がありました。

「鎮宅霊符神」と「妙見菩薩」は同体だとみなされるのですが、それは、どちらも北辰信仰の本尊だからです。

「鎮宅霊符神」の姿として、「円光の七曜星」「亀蛇を踏んで立つて」とあるのが、「北斗七星」と北方の守護神「玄武」のことなので、「鎮宅霊符神」は「北極星」を表していると言ってもいいのでしょう。

琳聖太子については、我らがWikipediaによれば、

 

○こちら===>>>

琳聖太子 - Wikipedia

 

↑どうやら架空の方っぽいので、「鎮宅霊符神」の信仰がどのようにやってきたのか、実際のところはよくわからないのでしょう。

「漢の孝文皇帝」は、いわゆる「文帝」のことなので、紀元前100年代の方です。

その頃に、本当に「鎮宅霊符神」なる神がいらっしゃったかどうかはよくわかりませんが、そのくらい古いと主張したい人々がいたのでしょう。

それが陰陽師集団なのでしょうか。

奈良の「鎮宅霊符神社」の御祭神は「天之御中主神」です。

日本神話における最古の神ですが、これといった業績はなく。

いわゆる「始原の巨人」的な役割(「盤古」のような)を担うはずだったのに「伊弉諾命」に少しとられちゃったので、もうとりあえず名前だけでも残しておこう、というような匂いのプンプンするお方です。

「天の真ん中」という意味なので、不動の「北極星」に擬され、神仏習合の頃には「妙見菩薩」と習合していき、最終的に妙見菩薩=鎮宅霊符神=天之御中主神、という仏教・道教(?)・神道のトリニティの完成です。

それが神仏分離で引き離される過程で、「鎮宅霊符神」が仏教の神ではなかったので、離脱せずに残った、ということなのでしょうか。

いずれにしろ、この大陸風の怪しげな神名のついた神社は外せない、と思ってお参りした次第です。

 

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……なんと、「御霊神社」に行けばお守りが手に入ったという……しまった(遅)。

いや、そのとき気づいたんですけれどね、「御霊神社」を回っていると、とても次の目的地には間に合わないもので……。

泣く泣く……。

 

 

 

なお、『妙見菩薩信仰論』の中の、「或る日何方とも知らず、二人の書生(二人の書生とは其の当時の仙人ならんか)が来て、七十二の霊符を伝授された。」という記述を読んで、

 

 

「これはきっと、ソロモン王一族の生き残りが、「七十二柱の魔神」を使役する方法を東洋に伝えたのだな」

 

 

と妄想したことは内緒です(偽書偽書)。