さて。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯 第3編
↑から、省略していた「若宮」に関する部分を((引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
37コマより。
「春日若宮 は天児屋根の児天押雲命を祭ると[名法要集]に見えたり。則河内国平岡明神の若宮は、天押雲命なり。或記に曰く、吉田家の記録には瓊瓊杵尊といふ。然れども、若宮神主唯一家の秘説にして、他に知る事なし。[春日社記。]夫若宮の御鎮座は、長保五年三月三日、二三の御殿の間に現れたまひしを時風五代の孫中臣連是忠、三の御殿に移し、祝を奉る。其後百三十年を経て、長承四年四月二十七日、時風八世の孫祐房、別に神殿を造営して御鎮座し奉る。今の若宮大明神是なり。
内院小社 若宮の内院なり。二座あり。
手力雄神 南のかたに鎮座す。
通合神(つうがふのかみ) 中臣祐房朝臣の霊なり。若宮をここに移し奉りて後、仁平二年十二月二十四日卒しぬ。二十七年を経て治承二年、神託によつて通合神と崇め奉るなり。又此社に春日曼荼羅といふあり、寿永年中普賢寺殿基通公御夢想の図なり。
外院小社 若宮の外院なり。
広瀬祠 俗に鬼子母神といふ。
懸橋祠 葛城神。
佐良気祠 蛭児神。
紀伊祠 外院の南にあり。祭神四座。日前神・五十猛神・大屋姫命・抓津姫命。
辨財天社 [宝永記]に曰く、此辨天は弘法大師天河より勧請ありしなり。其東に大師護摩をたき給ふ所あり。
居石 三十八所の南にあり。解脱上人明神を礼拝ありし跡といふ。又明恵上人ともいふ。解脱上人笠置の閑居に明神を請し給ひければ、童子の像に現じ、上人にまみえたまひて御神詠あり。[沙石集]に見えたり。
我ゆかむ行きてまもらん般若台釈迦の御法のあらんかぎりは」
○こちら===>>>
「春日大社」(3)〜奈良めぐり - べにーのGinger Booker Club
↑の記事で「若宮15社めぐり」を取り上げております。
「内院小社 若宮の内院なり。二座あり。」……「若宮」の写真を撮り忘れているので、
○こちら===>>>
世界遺産 春日大社 公式ホームページ/境内のご案内/若宮15社めぐり
↑の地図を見ていただきますと、「若宮」の瑞垣の内側に二社あることがわかると思います。
よほど「天岩戸神話」での活躍を主張したいと見えます。
「広瀬祠 俗に鬼子母神といふ。」……こちら、現代では「倉稲魂神」、お稲荷さんになっております。
「鬼子母神(訶梨帝母)」≒「吒枳尼天」≒「お稲荷さん」、という構図が見えますが……「鬼子母神」≒「吒枳尼天」」が結構苦しいんじゃないかと。
「懸橋祠 葛城神。」……こちらは現代でも「葛木神社」で「一言主神」です。
佐良気祠 蛭児神。」……こちらも現代と同じ。
「紀伊祠 外院の南にあり。祭神四座。日前神・五十猛神・大屋姫命・抓津姫命。」……こちらは今の「紀伊神社」です。
が、御祭神が一つ多いですね……「日前神」といったら、和歌山の「日前神宮・国縣神宮」の「日前大神(ひのくまのおおかみ)」のことでしょうか。
↑の「天岩戸神話」の部分の一書(第一)には、
「……時に高皇産霊の息思兼神といふ者有り。思慮の智有り。乃ち思ひて白して曰さく、「彼の神の象を図し造りて、招祷き奉らむ」とまうす。故、即ち石凝姥を以て冶工として、天香山の金を採りて、日矛を作らしむ。又真名鹿の皮を全剥ぎて、天羽鞴に作る。此を用て造り奉る神は、是即ち紀伊国に所坐す日前神なり……」
とあります。
『古事記』の「天岩戸神話」の場面では、「真名鹿」のことは「真男鹿」となっており、この鹿の肩の骨を抜いて、「天児屋命」と「太刀玉命」が占いをすることになっています。
「天岩戸神話」、そして「鹿」。
うーん……何か感じますが……そもそも「日前・国縣神宮」は紀伊国一宮ですから、それを勧請しただけ、という可能性もあります。
にしては、江戸から現代の間に、「日前神」だけ消されているのも解せません……とあまり深入りせずに参ります。
うーん……「善女竜王が尾玉を納めた」という話がかすってもいないのはどうしたことでしょうねぇ……。
「辨財天社 [宝永記]に曰く、此辨天は弘法大師天河より勧請ありしなり。其東に大師護摩をたき給ふ所あり。」……これは現代の「宗像神社」と、その近くの「弘法大師の護摩壇のことですね。
「宗像神社」の案内板に「天河弁財天」とあったのも、↑この説によるものと思います。
「居石 三十八所の南にあり。解脱上人明神を礼拝ありし跡といふ。又明恵上人ともいふ。」……これも「明恵上人解脱上人春日明神遥拝所」のことですね。
ええと……あれ、いくつか抜けていますね。
うーん……これは『群書類従』の方も当たってみないと。
○こちら===>>>
303コマから、まずは『春日社記』。
「(略)
若宮殿。鹿島大明神。
(略)
卅八所。金峯山。蔵王権現。
紀伊社。」
……うーん、よくわからないので、後ろの方の詳しい部分へ。
「若宮殿御出生。 朱雀院御宇承平三年也。其後六十六代一条院之長保五年癸卯三月三日巳刻。時風五代孫中臣是忠拝見之。旧記有之。」
ありゃ、これだけでした。
では続いて、『春日大明神垂跡小社記』より。
「若宮内院。 太玉明神。太刀辛雄明神。二所。
外院。 兵主明神。次南宮明神。其次一童子明神。三所。自本社北座。
懸橋明神。 鬼子母神内在。自本社南当。
卅八所明神。 南裡左良気明神。其南一町去。所謂蔵王権現。誇社。所謂辨才天也。
紀御社。」
「太玉明神。太刀辛雄明神。」……「若宮」の内院に、「天岩戸神話」で同じく活躍した「天手力男命」はいてもいいのに、「太刀玉命」はいてはいけない、ということで、後々『大和名所図会』にある「通合神(つうがふのかみ) 中臣祐房朝臣の霊なり。」に変更したのでしょうか。
「太刀玉命」は、中臣氏とともに重用されながら次第に勢力を減じていった忌部氏の祖先とされています。
これが、中臣氏(藤原氏)の、忌部氏に対する態度だとすると、そりゃ斎部広成おじいちゃんもご立腹かもしれないです(ちょっと時代が違いますが)。
とはいえ、『大和名所図会』には出てこなかった「兵主明神。次南宮明神。其次一童子明神。」といった辺りも掲載されており、「若宮」の摂社末社は、現在まであまり異動もない、ということがわかりました。
「金峯山」とか「蔵王権現」っていうのは、今の「金龍神社」辺りでもともとお祀りされていたのかもしれませんが、『大和名所図会』の時点で触れられなくなっているので、忘れられていったのか……そうえいば『大和名所図会」では「金龍神社」も触れられていないですね(荒廃していたのでしょう)。
さて、
↑デアゴスティーニから発売されている『日本の神社』シリーズ、ご存知でしょうか。
私は通号で購入することにしています。
その中の10号が「春日大社」。
このシリーズは、冒頭に神社の空撮写真が載せられているのですが、直接うかがうことのできない本殿などがはっきり確認できます。
600円の価値はあります。
その中をさらっと探ってみますと、
「北参道の末社である「総宮神社」「一言主神社」は、もともと「興福寺」境内にあったものが、神仏分離で現在の地に祀られたもの」
とのこと。
また、
↑こちらの本では、建物の様式などが詳しく述べられており、写真も満載ですので、もしお近くで手に入るのであれば是非に。
「宮曼荼羅」や「鹿座神影図」、水谷川上流にある、月、日の文様が刻まれた「月日磐」など、なかなか見られないものがじっくり見られます。
特に「月日磐」、『大和名所図会』では、
「日月磐氷室旧地 [平城趾跡考]に曰く、水谷川上六町餘東、山の間にあり。月日磐は吉城川上春日本宮の北御手洗川の水源十町計にあり。盤面に日月星の三光の形を彫附くる。俗に其地を呼んで月日といふ。」
と書かれており、他にも石に関する記事が多いので、古い磐座信仰が偲ばれます。
というのも、
○こちら===>>>
↑から『続日本紀』の記事を引用しますが、
↑というように、「春日大社」創建(神護景雲2年(768))以前から祭祀が行われていた、と思われる記録が残っています。
↑↑に挙げた『春日大社』によれば(P100)、
「その成立は、社伝に神護景雲二年(七六八)とあるが、すでに指摘されているようにそれ以前にさかのぼることが明らかである。御蓋山を中心にして「神域」が成立したことを具体的に示すのは、正倉院にある「天平勝宝八歳東大寺山堺四至図」(七五六)である。春日大社はその古代的信仰の成立から現在までにいたる歴史的空間を継承し、祭りを包括する外部(祭祀)空間と建築の成立・変遷の過程をよく示す稀有な例である。」
と書かれています。
また、
↑では(P218)、
「ところで、春日の地は、もともと藤原氏の土地ではない。やはり古い豪族である和邇氏がこの一帯を支配し、「春日」を名のっていた。霊山と崇められる御蓋山も、この春日氏が古くから拝みつづけた自然信仰の聖地だったと思われる。」
とあります(関氏の説にはいろいろと反論があることだろうとは思いますが)。
↑こちらでは、
「春日大社の鎮座する春日野は、古くは大和国の東北部を本拠地とした春日氏が勢力を持ち、春日大社の創建以前から御蓋山を神体山とした聖域であった。創建とされる年よりも五十年ほど遡る養老元年(七一七)には「遣唐使、神祇を蓋山の南に祀る」(『続日本紀』)等とあって、あるいは社伝に記された年の以前に、平城京守護の目的で春日大社が創建されていたとも考えられる。また藤原不比等が和銅三年(七一〇)、鹿島の神を御蓋山に勧請して祀ったとの伝承もある。」
ともあります。
こうした書き方が正確かどうかはわかりませんが、要するに、
「春日氏の聖地を、藤原氏が奪った」
のです。
↑↑『神社が語る古代12氏族の正体』の中で関氏は、「藤原不比等は、平城京を見下ろす高台に位置する外京の奥に自分たちの氏神を祀り、氏寺としての興福寺ものちに建てた」と書いています。
○こちら===>>>
↑Wikipediaの「平城京」のページに地図が掲載されています。
北東にある出っ張りが「外京」です(今の奈良市全域くらいの広さらしいです)。
普通、都の北東の地に何かが祀られているとしたら、それは明らかに「鬼門封じ」です(陰陽道がどの程度輸入されていたのかが私ではわかりませんが)。
「春日大社」を「平城京」の守護神、と考えるのであればその通りで、あえて朝廷側最強の武神(「タケミカズチ」「フツヌシ」)を勧請したのもそういった意図なのでしょう。
そして、春日氏が信仰していた御蓋山は、少なくとも「春日大社」においては重要視されていなかったのだと思われます。
○こちら===>>>
世界遺産 春日大社 公式ホームページ/境内のご案内/御本殿(回廊内)
↑で見られる地図の中で、「春日造」と称される四つの本殿(妻入り)が、南面していることがわかります。
本殿の右手に、「御蓋山遥拝所」があります。
神社でいただくパンフレットによれば、
奈良時代の初め平城京守護のため、鹿島の建甕槌命様が白鹿の背にお乗りになり天降られた神蹟、御蓋山の頂上浮雲峰の遥拝所。神護景雲2年(768)に御本殿が創建される以前に、鹿島・香取・枚岡の神々様がお鎮まりになる神奈備として崇められ、現在も禁足地として入山が厳しく制限されている。」
と書かれていますが。
だったら、本殿は、神体山(神奈備)である御蓋山を背に受けていないといけないと思うんですね。
御蓋山は本殿の東にありますので、当然本殿は西面していないといけないのに、南面しています。
おかしくないですか?
いやいや、神社は南面しているのが基本だから、という説もあります。
しかし、「タケミカヅチ」の祀られている「鹿島神宮」は北面しています(これは、東北のまつろわぬ民に顔を向けているのだと考えられていますが)。
意味さえあれば、南面している必要はないのだと思います。
そして、「現在も禁足地として入山が厳しく制限されている」 の「禁足」は、前にも書きましたが(その知識は高田崇史氏の小説から得ましたが)、「入ってはいけない」ではなくて、「出てはいけない」、という意味です。
御蓋山に坐す神は封印されていたのです。
山頂に本宮があるらしいので、実際のところは、「住み分け」、なのかもしれないですけれども。
奈良盆地の東方に位置する御蓋山は、おそらく太陽信仰と結びつく神体山だったのだと思われます。
それはそれとして、藤原氏的には「外京」を押さえておきたい。
そのために「鹿島」「香取」の武神を勧請しました。
春日の地の太陽信仰と切り離して「フツヌシ」「タケミカヅチ」をお祀りするため、あえて御蓋山を背負わない形で本殿を作った、のかもしれません。
何しろ「フツヌシ」も「タケミカヅチ」も、おそらく藤原氏とはあまり関係のない神だったので、「きちん」とお祀りしないことには祟るでしょうから。
といったところで、「春日大社」は終了にしたいと思います。
「春日大社」は、大神社にしては創建年代がはっきりしているので、あまり妄想の隙がありません。
そう、比較的新しい神社、なのです。
それにしても、「壺神神社」がなんなのか、結局わからなかったなあ……。