10/25。
尾張地方の大きな神社はけっこう行っているので、小さな神社を攻めたいのですが、交通の便などを考えるとなかなか攻められず。
○こちら===>>>
雲が秋ですねぇ。
正面鳥居。
「田縣神社
御祭神 御歳神(五穀豊穣の神) 玉姫命(子宝・安産の守護神)
世に名高い小牧長久手の合戦で豊臣秀吉が陣取ったといわれる久保山。その麓に続く俗称「縣の森」、現在の小牧市田県町に当社は鎮座します。御創建年代は弥生時代までさかのぼり「母なる大地は、父なる天の恵みにより受胎する。」との古代人の民族思想によりはじまり、五穀の豊穣・国土の発展を神に祈ったと伝えられております。
古来より当社は男茎形(おわせがた)をお供えする風習があり、「産むは生む」に通じて、子宝・安産の子孫繁栄、企業・商売の繁昌、さらには恋愛成就・縁結び・夫婦円満・厄除開運・交通安全・諸病の平癒等の守護神として全国の崇敬者に格別の尊崇を受けております。
天下の奇祭として有名な豊年祭は、毎年三月十五日に執り行われます。この祭は長さ2.5メートル程の大男茎形を御輿に担ぎ、万物育成・世界平和の願いをこめて、お旅所より御神前にお供えする神事です。
このような神事は私たち祖先が生活の中から生み出し、大切に守り続ける貴重な文化遺産ともいうべき神祭りであります。」
「御歳神」は「須佐之男命」の御子神である「大年神」の御子神。
「玉姫命」は記紀神話に登場する具体的な神名ではありませんが、「豊玉姫」「玉依姫」など、「玉」に関係のある神は多くいらっしゃいます。
「玉」は「霊」です。
また、「玉のような赤子」といった場合の「玉」かもしれません(実際、「玉」から生まれた人の神話もあります)。
公式HPでは、
「玉姫命は尾張地方開拓の祖神である大荒田命(オオアラタノミコト)の王女。尾張氏の健稲種命(タケイナダネノミコト)の妃。二男四女の子宝に恵まれましたが、夫亡き後は故郷荒田の里(現鎮座地)に帰り、父を助け開拓に励み、子女教育に勉められ、その功績を称え、後に合祀しました。」
「世に名高い小牧長久手の合戦に際し、秀吉が前線の砦を築いた久保山。その麓に続く俗称「縣(あがた)の森」に当神社は鎮座しております。その御創建年は詳らかではありませんが、醍醐天皇の延長五年(927)に編纂された『延喜式』には「尾張国 丹羽郡 田縣神社」と記されております。また貞治三年(1364)の『尾張国内神名牒』にも、「従三位上 田方天神」とあり、古くから格式の高い神社であったことがわかります。いにしえの昔、この地方を治めた豪族丹羽氏が栄華を誇った痕跡は、神社周辺の数多の古墳遺跡からも伺い知れますが、その背景に神々への真摯な祈りがあった事は疑いようもありません。当神社にまつられている「御歳神」「玉姫命」も五穀豊穣と子孫繁栄に極めて篤い御神徳がございます。」
「御歳神について『古語拾遺』には、次のような神話が記されております。あるとき土地の者が田植えの前に百姓に牛肉を食べさせました。それを知った御歳神は大変怒り、田に蝗(いなご)を放して稲を枯らしてしまいます。困った土地の者達は、御歳神に白猪・白鶏・白馬を捧げて謝罪します。御歳神はこれを許し、糸巻き・麻の葉・鳥扇等と共に男茎を用いた蝗除けのまじないを教えました。こうして稲はもとの緑色を取り戻し、田は豊作となったと言います。」
「また当神社に合祀された玉姫命は、『尾張国熱田太神宮縁記』などの史料によると、爾波縣君祖大荒田命の娘として生まれ、尾張氏の建稲種命と結婚しました。子宝にも恵まれて幸せに暮らしていた夫婦でしたが、建稲種命は日本武尊のお供として出征し、遠江で運悪く戦死してしまいます。一人残された玉姫命でしたが、故郷に戻った後は母親として立派に子供達を育てあげ、民達のお手本として懸命に働き、在地の発展と子孫繁栄を成し遂げたそうです。」
と紹介されています。
○こちら===>>>
「大縣神社」 - べにーのGinger Booker Club
↑考察が不十分な記事ですが、「爾波縣君祖大荒田命」の祀られているのが「大縣神社」だと考えられています。
しかし、こちらの神社が有名なのは、よくも悪くも「男茎形(おわせがた)」と「天下の奇祭として有名な豊年祭」のためでしょう。
で、よくある話ですが、こちらも改修の最中でした。
赤銅の屋根が鮮やかですね。
時々忘れそうになりますが、銅ってこの色なんですよね、最初は。
だんだんと、緑青をふいて、緑に染まっていく。
この、「紅葉」の逆の色彩変化が、日本人の「常若」の思想、若返りの発想につながっているのではないか、と思っています。
ええ、思っているだけですけれど。
本殿の傍から、奥宮に抜けられます。
あらためて鳥居がある辺り、結界なんでしょうか。
……さっそく。
またまた。
奥宮。
中には、様々な大きさの「男茎形」が奉納されております。
さらに奥には、「珍宝窟」が。
「珍宝窟
双玉ノ右ヲサスリ家内安全・商売繁昌・金運ノ願イ
双玉ノ左ヲサスリ恋愛成就・子宝・安産・夫婦和合
願イ事叶ウト言イ伝エラレ
遠近ヨリノ参拝者アトヲタタズ霊験イヤチコナリ」
古来より子孫繁栄は切実な問題でした。
現代人にも、まだそういった感覚は残っていますが、私のような独り者はそれに真っ向から反抗しているようなものなので、何も申し上げられません。
共同体を維持するため子宝を祈願するのは、もっとも重要なことです。
というのも、子孫を残すことが遺伝子にプログラムされているからなのですが。
ここから逸脱できたのが人間で、逸脱しきれないのもまた人間。
悩ましい話です。
私には何も言う資格はありませんが。
さて。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第10編尾張名所図会
↑の81コマから「田縣神社」の記事があります(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き換える)。
「田縣神社
久保一色村にあり。[延喜神名式]に、丹羽郡田縣神社、[本国帳]に丹羽郡従三位田方天神とあり。当郷往古は丹羽郡に属けるなるべし。今も丹羽郡境にいと遠からず。俗にあがたの宮と云ふ。扨此御神は田地の豊饒を守ります女神なるよし里人いひ伝へ、此社より三町ばかり西の方の田面の字に荒田と呼ぶ地あり。こは[旧事紀]の天孫本紀建稲種命の條に見えたる邇羽縣君の祖大荒田命の御名に負ひましし其本貫の地ならんもしるべからず。さらば此命の御女玉姫命を祭れるにもやあらん。例祭正月十五日。男茎形あらはせる人形を造り儲けて、村民いどみ笑ひ、祭祀終りて神符を此村の田毎にさし建て、五穀豊饒をいのる。」
また、『尾張神社考』(原題「尾張神名帳集説本之訂考」、編者:津田正生、発行所:ブックショップ「マイタウン」)という本があります(嘉永三年/1850)。
これは、尾張が誇る江戸時代の博覧強記の人「天野信景」の著した『尾張神名帳集説』に注釈訂正を加えたものです。
『尾張名所図会』の「丹羽郡」の項は、1880年刊行ですから、↑よりちょっと前の記事です。
[集説云]久保一色村、いまは春日井郡に属。阿賀多の森あり、蓋し此社歟 [正生考]此みやしろをいふなるべし。社僧久保禅寺司之
田阿家田を多我他とも約れば、また阿我多とも上略す類成べし [里老曰]此村いま春日井郡に属といへども、内久保の一切は爾羽郡に遺りていま、楽田の支村に附有、久保の切は旧村にて一色の方は新開の地也 [正生考]久保寺は往昔窪伝良と呼て、田縣神社の社僧ならむとおほしき也。一説に室町の末に薬師寺、清水寺といふ二ケ寺の腐たるを継て、永禄二年に久保寺を建といへるも疑ひあり。いま久保寺に檀越三十余戸あるは、右廃寺二ケの檀下を拾へる成べし [里老曰]祭礼正月十五日也。此日、久保寺において三番の富を突(世俗は福富と呼)景物に、御田扇、白米、穀桝の三品を出為といふ [正生考]祭神は御歳の神をまつる成べし。寺に多聞天の様なる仏像を神体を称するは後の事也。一説に将軍地蔵也。本地仏也ともいふ。さて富突すみて後、巳刻はかりに、窪寺より田方の杜まで三町半の路次を煉物あり、まづ初めに榊葉を持ていづ、次に神酒、神饌を持ゆく社僧これに従ふ。次に二尺あまりの藁人形に太刀を帯せて(いま上下をきせるは誤也)木造の男姓形長一尺八寸ほとある朱塗をその人形に付て、それを若者ども三五人も打懸りて潜上。大音聲て云く、「於保閉能固云々、縣の森の大男根(おほべのこ)」と喚叫ながら、或は進或は退して、笑しく煉歩て、神社まで行こと也。誠に本国無双の奇観也。扨又久保寺より村中へ祈年穀の御札を配りて田毎に水口を祭らしむといふ。有は古語拾遺に見へたる故事に当りて上古の遺意也。今俗は只戯たる様に思ひて神祭を軽むるは、太く心得違なり。委く地名考に辨たれば爰に省く。」
「有は古語拾遺に見へたる故事に当りて上古の遺意也。今俗は只戯たる様に思ひて神祭を軽むるは、太く心得違なり。」……↑の方で、公式HPからの引用でも『古語拾遺』の内容が紹介されていましたが、この祭の原型を求めるのなら、『古語拾遺』で、「大地主神」(≒「大己貴神」)が、「御歳神」の祟りで田に蔓延ったイナゴを退散させるための呪術、ということになるのでしょうか。
ふざけているわけではなく、必死なのだから、心得違いをするな、と。
もう一度、公式HPの文章を引用すると、
「御歳神について『古語拾遺』には、次のような神話が記されております。あるとき土地の者が田植えの前に百姓に牛肉を食べさせました。それを知った御歳神は大変怒り、田に蝗(いなご)を放して稲を枯らしてしまいます。困った土地の者達は、御歳神に白猪・白鶏・白馬を捧げて謝罪します。御歳神はこれを許し、糸巻き・麻の葉・鳥扇等と共に男茎を用いた蝗除けのまじないを教えました。こうして稲はもとの緑色を取り戻し、田は豊作となったと言います。」
↑これです。
これだけだと、「御歳神」が、何を怒っているのかがよくわかりません。
どうも、「田植えの前に牛肉を食べるとは何事か」、ということのようですが。
肉食を禁じているのかと思えば、自分は「白猪・白鶏・白馬」を捧げられて満足しているので、どうもそうではないらしい。
↑の引用には書かれていませんが、原文にあたると、
「(略)……牛の宍を以て溝の口に置きて、男茎形を作りて之に加へ、[是、其の心を厭魅ふ所以なり。]……(略)」
↑と、しっかり牛の肉も置くように言っていたりします。
肉を食べるかどうかではなく、牛の血や肉で田に豊穣をもたらす呪術のようなんです。
これは、「オオゲツヒメ」や「ウケモチノカミ」を殺した死骸から五穀が芽生えた、という神話が源泉にあると考えられているようです。
それが時代を経て、「蝗」を払う呪術になっている、
うーん、何か少しもやもやしますね……「猪」「鶏」「馬」を捧げて、さらに「牛」を要求するって、かなりの負担なんじゃないでしょうか。
もうちょっと何か意味がある気がしますが、何にせよ、田の豊穣を願う呪術から始まった「豊年祭」。
プリミティブで神秘的なはずのお祭りも、↑のような本では面白おかしく取り上げられています(著者の方は、純粋に奇祭を探求しておられるようなのですが)。
ええと……内容が内容だけに、引用するのは避けたいところです(興味のある方は一読を)が、最後のところだけ。
「男茎形」の神輿が、御旅所から神社の社殿に入った後、
「とことんまで男根にこだわった、高校野球のような青春の祭りは、こうして終わったのだった。」
……もちろんお祭りは終わっておらず、この後に五穀豊穣を祈って、水田に札を立てるのですが……まぁ、観光客にとっては、終わったのと同じですね。
津田正生先達の頃から、「今俗は只戯たる様に思ひて神祭を軽むるは、太く心得違なり。」だったものが、今では輪をかけてそうなっているような気がします。
ちなみに、休憩所には「豊年祭」の写真が展示されていたりします。
↓は、本日のオチ。
なかなか見ないですよね最近、「トイレット」。
なんとなく、ほっとしました(?)。