べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「諏訪大社」考(10)

さテン(TEN/10)。

 

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「諏訪大社」考(9) - べにーのGinger Booker Club

 

↑前回、饒速日命」=「建御名方神というトンデモ説を書いてみました。

この構図だと、「長髄彦」は土着の神=「ミシャグチ神」という設定ですね(?)。

「ミシャグチ神」自体は人格神ではなさそうですが。

だとすると、「洩矢神」は、天神の証である「天之羽羽矢」を「洩らした(失った)」か、「守ろうとした(けど裏切られた)」神なのかもしれません。

長髄彦」が「ミシャグチ神」と「洩矢神」他諏訪の土着の神々に分解されている、という構図です。

 

ところで、ここまで避けてきたお話に、「物部守屋」の伝説があります。

 

諏訪の神: 封印された縄文の血祭り

諏訪の神: 封印された縄文の血祭り

 

 

↑こちらでは、「守屋山」には「守屋社」、通称「物部守屋神社」があると書かれています。

実物は確認できていませんので、なんとも言えませんが、地元では大事にされている様子がない、とのこと。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 信濃史蹟. 上

 

↑以前も紹介した『諏訪史跡』から(引用に際して旧字を改めた箇所あり/判読不明文字は■で置き換える)。

23コマあたりから。

 

諏訪神社上社の南に守矢山あり。頂上の小祠守宅神を祀る。山の東南麓、上伊那郡藤沢村に華表あり、題して物部守屋大神と云ひ、土人風雨の神として尊崇浅からず、毎年夏期に至れば、山麓の部落より、毎朝敷名宛交代にて山頂に至り、風雨の和順を祈りて未だ曾て怠らず。怠れば必ず暴風雨ありと云ひ伝ふ。其の物部守屋といふが如きは、たまたま訓の相似たるより混同したるに過ぎず。

 

↑もともと「洩矢神」がいた諏訪だったので、ある時期から、音が似ているので「物部守屋」大神、と混同してしまったのだろう、という説が掲載されています。

物部守屋」は、ご存知崇仏排仏論争で、「聖徳太子」「蘇我馬子」連合軍に敗北した人物です。

この争いの背後には、次期天皇をめぐる政争がありました。

それはともかく、『日本書紀』からこの崇仏排仏論争の概要を書きますと、

 

敏達天皇十三年、蘇我馬子百済からやってきた仏像を、自分の邸宅に仏殿をつくって祀らせた。病にかかったので占うと、「父(蘇我稲目)の祀った仏が祟った」と言われたので、仏像を自ら拝んだ。このときは、国に疫病が流行って多くの人が死んだ。

物部守屋と中臣勝海は天皇に、「蘇我氏が仏像を拝んだため、国に疫病が流行ったのだ」と申し上げた。「それが明らかなので、仏像を拝むことをやめよ」と天皇が命じたので、物部守屋は自ら蘇我氏の寺に赴き、仏殿と仏像を焼いた。焼けた仏像を、難波の堀江に捨てた。その後、天皇物部守屋は疱瘡を患い、「仏像を焼いた罪ではないか」と噂された。天皇は「馬子だけが仏像を拝み、他のものはやめろ」と命じた。

敏達天皇薨去されたとき、蘇我馬子物部守屋は、互いに相手を嘲笑い、恨みを深くした。

次の用明天皇が病を得たとき、「仏法に帰依しようと思う」とおっしゃった。物部守屋、中臣勝海は「我が国の神に背いて、他国の神を拝むようなことは今までにない」と言った。蘇我馬子は「命令に従って、仏を奉るべし」と言った。中臣勝海は、物部守屋に味方しようと、皇子の死を呪ったが、成就しないと悟って皇子に従った。舎人の迹見赤檮(とみのいちい)は、中臣勝海を殺した。

次の崇峻天皇の時代。蘇我馬子は、皇子達や他の臣下らと協力して、物部守屋を滅ぼそうとした。多くのものが軍勢を引き連れて、渋河(※大阪府布施市)の物部守屋の家にやってきた。物部守屋は自ら弓矢を取り、木に登って矢を降り注がせた。軍勢は三度に渡り退却した。

このとき聖徳太子厩戸皇子)は、ヌリデの木で四天王の姿を彫り、「もし我々が勝てば、四天王のために寺を立てよう」と言った。蘇我馬子は「諸天が我々を守って勝つことができれば、諸天のために寺を建てて、仏法を広めよう」と言った。迹見赤檮が、物部守屋を木から射落として、その子供たちも殺した。守屋の軍勢は散り散りに逃げ、子供達や一族は逃げて、姓名を変えるものもあり、あるいはどこに逃げたのかもわからない。人々は、「蘇我馬子の妻は、物部守屋の妹だ。馬子は、妹を計略に用いて、物部守屋を殺したのではないか」と噂した。戦が終わり、聖徳太子四天王寺を、蘇我馬子は法興寺を建てた。」

 

日本書紀〈3〉 (岩波文庫)

日本書紀〈3〉 (岩波文庫)

 

 (↑より抜粋・要約。※はブログ筆者注)。

 

こんな感じです。

古代史でも超有名なエピソードですので知らない人はいないと思いますが、あらためて『日本書紀』を読んでみると、新しい発見があります。

蘇我馬子の妻は、物部守屋の妹だ」という話。

何かに似ているな……と思ったんですが、饒速日命の妻は、長髄彦の妹だ」と同じ構図だな、と。

そして、「饒速日命」は物部氏の祖先と言われています。

神話時代に祖先がやらかしたことを、今度はやられてしまった、と。

でも、結局蘇我氏蘇我入鹿の時代には、その勢力を格段に弱めてしまったのですから、天つ神でありながら「神武天皇」の軍門に下った「饒速日命」と同じような顛末になってしまっています。

それはともかく。

守屋の軍勢は散り散りに逃げ、子供達や一族は逃げて、姓名を変えるものもあり、あるいはどこに逃げたのかもわからない。」というところから、

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 諏訪神社誌. 第1巻

 

↑に引用された『信府統記』の、

 

五官衆(此五人も宮司なり)第一長官(是を俗に長殿と云ふ、先祖は古へ守屋大臣の子孫此國に来り、諏訪明神神職となりしものにて、今に絶えず相続して、即ち守屋氏と名乗り、五官の長とす、高島城の南に当り、守屋ケ嶽とて高山あり、神宮寺山の峰なり、此峰に守屋の大臣を祀りし小社あり)

 

や、『信濃奇勝録』の、

 

守屋氏は、物部の守屋の一男、弟君と號る者、森山に忍び居て、後神長の養子となる、永禄年中より、官の一字を添て神長官と云、森山に守屋の霊を祀り、今守屋が岳といふ、

 

↑という伝説につながるわけです。

 

さて、「物部守屋」が難波江に打ち捨てた仏像がその後どうなったか、というと、

 

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「善光寺」(3) - べにーのGinger Booker Club

 

↑そうです、「善光寺」にあるんですね。

 

善光寺の謎 (祥伝社黄金文庫)

善光寺の謎 (祥伝社黄金文庫)

 

 

↑こちらの本によれば、「善光寺」は、「物部守屋」鎮魂のために建てられたのではないか、とされています。

諏訪に逃げ込んだ「物部守屋」の一族残党が作ったのではないか、と。

善光寺」の内々陣中央には「守屋柱」と呼ばれる柱が立っています。

この下に「物部守屋」の首が埋まっているとか、いないとか。

「守屋柱」は、つまり「大黒柱」のことなのですが。

 

善光寺御開帳公式ガイドブック

善光寺御開帳公式ガイドブック

 

 

↑によれば、本堂を支える108本の柱のうち、この「守屋柱」と、東西の向拝を支える柱四本だけが「角柱」で、他は「円柱」なのだそうです。

「角柱」は、木材を切り出して角を作るだけ。

「円柱」は、角を作った材を、さらに削って作ります。

手間がかかる分だけ、「円柱」の方が「格が高い」と考えられています。

「手間をかけてもいい」神社仏閣で「角柱」を用いるのは、普段見ることのできない柱だとも言われます。

格の劣る柱に「守屋柱」と名前をつけたことには何か意味があるのだろう、と考えた人がいても不思議ではありません。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 三国伝来善光寺如来絵詞伝

 

↑の108コマには、

 

「守屋が頸は天王寺金堂の柱におさめたまふゆゑその柱を守屋柱といふまた一説には石の櫃にいれおきて法隆寺の二王門に埋たまふともいふ今はかの寺の僧この門の西側をふまぬを口実とす身躯は稲村の城の西にうづむいまの勝軍寺より四町南の田のなかに守屋塚と名づけて一株の松をうゑて標木とす」

 

とあります。

また続いて110コマには、

 

「軍しづまりて後とりあへず 聖徳太子みづから難波の堀江にいたらせたまひ香を焚花を供じて四年以前守屋が水底に沈め奉りし一光三尊の如来を礼して宣はく今は仏法弘通の時いたれり願くは大悲の誓願むなしからずはやく都に還らせたまへと御祈念ありければ如来忽水の面に浮ばせたまひ現たり 太子に告てのたまはく善哉汝饒■有情のこころを以て我に懇請といへどもわれはこの水底にありて待べきもの有とて再水中に沈ませたまひければ 太子も今は詮方なく誦教念仏ましまして 王宮にかへらせたまひける」

 

とあります。

如来が待っていたのは「本田善光」ということになるわけです。

善光寺の謎』によれば(P116)、

 

「『善光寺道名所図会』によれば、伊那郡に座していた本尊は、本田善光の夢にたびたびあらわれ「我を当国水内郡に移すべし」と告げたという。しかし善光は貧しく自力でこれを行うことができなかったといわれる。

そこで、同国諏訪郡武井の社人、下諏訪の春宮の社人、同じく秋宮の社人と社家十五人が語りあい、今の地に移して創建したという。

ここに突如あらわれる諏訪大社は、長野の諏訪湖を南北に挟んで四社に分かれ、上社前宮、上社本宮、下社春宮、下社秋宮がそれそれ約一キロの間隔をおいて位置している。この中の下社春宮・秋宮が善光寺の創建にかかわったというが、上社の配下に置かれた従社といってよい。

また武井の社人というのは、善光寺三鎮守の一つ、武井神社のことを指し、諏訪大社春宮・秋宮と同じ建御名方命主祭神とする。武井とは諏訪大社本宮を管理する諏訪大祝のことで、これら三社の社人が善光寺を現在の地に配したことになる。」

 

↑とあります。

善光寺道名所図会』をざっと見てみたのですが、どうも、「同国諏訪郡武井の社人、下諏訪の春宮の社人、同じく秋宮の社人と社家十五人が語りあい、今の地に移して創建したという。」と書かれた部分が見当たりませんでした。

また、武井とは諏訪大社本宮を管理する諏訪大祝」という認識が、私とは違っています。

「上社」の大祝は「諏訪氏」、「下社」の大祝は「金刺氏」で、「武居氏」は「下社」の「武居祝」。

伝承通りだとすると、「善光寺」が今の場所で創建されたのは「皇極天皇」の時代ですが、この時代に「諏訪大社」に「上社」「下社」があったのかどうかもはっきりしません。

面白い話ではありますが、鵜呑みにはできないかな、と思います。

それはともかく、大阪の 「四天王寺」が「物部守屋」を弔うために建てられたのではないか、というのはあり得る話です(表向きは、戦に際して霊験を表した四天王のため、でしょうが)。

とするとですね、一般的には逆賊と考えられる「物部守屋」を、そんな寺まで建てて弔う必要はないわけで。

逆説的に

 

「逆賊ではなかった」→「祟られる」→「お祀りする」

 

、といういわゆる「怨霊」の論理が透けて見えてくる、そう考える人も多くいらっしゃるようです。

『三国伝来善光寺如来絵詞伝』の124コマでは、『扶桑略記』からの引用として、

 

「○扶桑略記にいはく、推古天皇の十年壬戌四月八日仏の託宣によりて忽綸言をくだしたまひ信乃國にうつしたてまつる仏像の最初にて霊験あらたなりいまの善光寺三尊仏これなり云々」

「○扶桑略記にいはく巨勢秦大夫をして如来を信乃國に送りたまふ云々」

 

とあり、難波の堀江に捨てられていた「善光寺」本尊が、勅命により信濃に運ばれたのではないか、と思わせます。

一般的には、「本田善光」が難波の堀江で拾った本尊を、自ら故郷の信濃まで運んだことになっています。

崇神天皇」の頃の四道将軍、「景行天皇」の「日本武尊」東征以降、どうも打ち捨てられていた感じのある信濃国ですが、「推古天皇」の時代になって、何故か立派な仏を安置する「善光寺」を建てる場所になった、というのはなかなかの謎です。

日本書紀』には、崇仏排仏戦争のことは書かれていますが、「善光寺」は出てきませんので、後世の創作かとは思われます。

仏教が日本に浸透していく時代ですので、その意味でも創立をこの時代に設定したのかもしれません。

さて、「四天王寺」の「守屋柱」の下に、「物部守屋」の首が埋まっているとして、同じものが「善光寺」にあるはずはないのですが。

なんらかの象徴的な意味合いがそこにあるとして。

例えば、「物部守屋」残党が諏訪にやってきて、神長官「守矢氏」になったかどうかはともかく、自分達の主人を祀るとしたら。

それは当然、「神社」になるはずです。

だって、排仏派の首魁ですから。

仏教で祀るなんてことはありえないでしょう。

それが、諏訪大社だったのかもしれない、と。

もともといた「洩矢神」氏族と同じ名前だったからなのか、「守屋山」に祀られることになったのであれば、その土地の人々にかなり優遇されたのではないでしょうか。

衰退したとはいえ「物部」の一族、朝廷では祭祀も武力も司っていた一大氏族です。

諏訪に取り込むことができれば、朝廷に対して睨みを利かせるには十分です。

建御名方神」が天つ神に敗北して諏訪に追いやられた、という神話は、「物部守屋」の一族が信濃に逃げ込んだという事実(あるいは噂)から作られたのではないか、という説も浮かんできてしまいます。

以前妄想したものを、またちょっと変更してみます。

 

(1)「ミシャグチ神」を崇拝する、「洩矢神」等土着の神々(氏族)がいた。御神体の守屋山を崇拝していた。「前宮」から「本宮」に至る辺りを中心として祭祀を行っていた。また、それぞれ「ミシャグチ神」を祀っていた。※「ミシャグチ神」への「人柱」祭祀。「御頭祭」あるいは「御柱祭」の原型?

(2)「建御名方神」(系氏族)、「前宮」周辺にやってきて、「洩矢神」を中心とした土着の神々(氏族)と軋轢が起こる(戦いが起こった可能性あり)。最終的には、「建御名方神」を「ミシャグチ神」を祀る「神」とすることで決着。※「建御名方神」(系氏族)が、現在の大祝とされる神職につく。

(3)土着の神々(氏族)は「建御名方神」(系氏族)の下で神官などを務めるが、それぞれが「ミシャグチ神」を祀っていた(「本宮」付近か?)。

(4’)「物部守屋」残党、諏訪に逃げ込む。この頃、「前宮」とは別に「本宮」が成立する。

(5’)諏訪が朝廷の影響下に入る。※「坂上田村麻呂」の東征に際して、人質をとられる?この頃、「御柱祭」の制度が成立する(諏訪の力を削ぐため)。

(6’)「下社」が成立する。※「桓武天皇」朝以降。諏訪の力を削ぐため。

 

この妄想が妥当かどうかはともかく、「ミシャグチ神」の神体山である守屋山(と古墳)を崇拝するための「前宮」とは別に「本宮」を建てたのは、「物部守屋」を祀るためだったのかもしれません。

何しろ、中央に弓引いた(ことになっている)「祟り神」ですから、独自に祀る必要があったのではないでしょうか。

そうすることで、信濃の人々は、中央と対峙する新たな力を得たことになります。

 

持統天皇」は、天候不順の折、「諏訪の神」と「水内の神」に、「竜田の神」とともに使者を派遣しています。

その頃には、信濃と中央の対立が治まりつつあったのかもしれませんが、風雨の神である「竜田の神」とともに使者を派遣するということは、これらも風雨の神であるとの認識です。

「竜田大社」の神は、悪天候とそれに伴う凶作そして悪疫を封じる神ですから、同じ霊験を持っている(天候、収穫、疫病の支配)ことになります。

つまり、「祟り神」です。

「諏訪の神」「水内の神」も、それと同じと考えられていた、というわけで「祟り神」なんですね。

『諏訪史跡』では、「物部守屋神社」は、題して物部守屋大神と云ひ、土人風雨の神として尊崇浅からず」と言っていますから、やはり「祟り神」なのです。

今でこそ本殿のある「上社前宮」ですが、その姿は古来の「自然崇拝」「祖先崇拝」の様子を残していると思います。

一方で「上社本宮」は、新たに「物部守屋」を祀るために作られました。

中央は、そこに目をつけたのかもしれません。

大分断作戦です。

坂上田村麻呂」率いる東征軍団は、諏訪の「祟り神」が「物部守屋」だということを知っていました。

何しろ、スーパーヒーロー「聖徳太子」と四天王の力を持ってしなければ打倒できなかったんです、「軍神」「武神」と考えられるのは当然でしょう。

ということで、その力を借りることにしました。

実際には、何かしら卑怯な手段を使って人質でもとって、信濃から東山道に至る勢力を従えたのではないでしょうか(「八岐大蛇」退治、「日本武尊」西征、あるいは源頼光による「酒呑童子」征伐など見ても、大抵卑怯な手段を使っています)。

これで、諏訪の勢力は、ある程度朝廷の影響下におくことができましたが、一方でさらに相手の「祟り」は増しています。

ここで、御柱祭です。

強力な「軍神」である「物部守屋」を封印するために、それに対抗する「祟り神」を人為的に作り出す、つまり「人柱」です。

それを四本建てるのは、「四天王」に擬するためです。

物部守屋」には「四天王」、なのです。

次に、諏訪の力を削ぐために、「上社」と「下社」を分断します。

「下社」の御祭神が何者だったのかはわかりませんが、「遷座祭」という仕掛けでこれまた強力な「祟り神」に仕立て上げて、「上社」と対峙させます。

「下社」が「上社」と向き合っているのは、睨みを利かせているからです。

とどめは「善光寺」です。

もともと「善光寺」の寺地は、「建御名方富命彦神別神社」で、これを「水内の神」だとすると、かなりの「祟り神」だったと考えられます(「建御名方神」の御子神だったかどうかはともかく)。

この神の土地を奪い、そこに「物部守屋」が捨てたとされる「一光三尊の如来像」を持ってきて祀る。

さらに、「四天王寺」の「守屋柱」を持ってきて、「物部守屋」の敗北を思い知らせる。

ここでは、「一光三尊の如来像」も一種の「祟り神」ですから、当然自分をないがしろにした「物部守屋」に対して祟るわけです。

 

悟りを得た如来が祟るかよ

 

、とは思いますが、当時の認識では仏も「蕃神」ですから祟っても不思議ではありませんし、そもそも由来からして「天竺で疫病が流行っていたときに、その疫病を鎮めた」仏像なのですから、日本的に見れば立派に「祟り神」なのです。

善光寺」は、「物部守屋」を鎮魂するために建っているわけではなく、「祟り神」を「祟り神」を以て制するために建っているのです。

「建御名方富命彦神別神社」のままではなく、寺でなければいけなかったのは、「物部守屋」が敗北したのが「仏教」だったからです。

 

ちなみに、「水内の神」である「建御名方富命彦神別神」は、「善光寺」に土地を奪われました。

この方には「仏教」での「祟り鎮め」は通用しませんので、別の方法で「祟り鎮め」を行っていました。

それが、

 

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善光寺(4) - べにーのGinger Booker Club

 

↑で書いた「年越の祭」です。

 

 

 

 

 

 

 

といった感じで、「QED(証明終了)」といきたいのですが、何しろいろいろな方の説を無理やりくっつけただけの妄想です。

あまり本気になさらないでいただければ、と。

他にもぽろぽろと書きたいことがあったりしますが、とりあえず「諏訪大社」はこの辺りで終わりにしたいと思います〜。

 

 

 

 

 

はぁ長かった。