さて(苦)。
「もう……いいんじゃないの? よく頑張ったと思う。でもね、誰もがゴールまでたどり着けるわけじゃないの……特に半端者はね(斬)」
モチベーションを保つためには、関係ないことを挟んでみたくなります。
真面目にお読みの方には申し訳ありません。
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「諏訪大社」考(8) - べにーのGinger Booker Club
前回までの妄想で、
(1)「ミシャグチ神」を崇拝する、「洩矢神」等土着の神々(氏族)がいた。御神体の守屋山を崇拝していた。「前宮」から「本宮」に至る辺りを中心として祭祀を行っていた。また、それぞれ「ミシャグチ神」を祀っていた。※「ミシャグチ神」への「人柱」祭祀。「御頭祭」あるいは「御柱祭」の原型?
↓
(2)「建御名方神」(系氏族)、「前宮」周辺にやってきて、「洩矢神」を中心とした土着の神々(氏族)と軋轢が起こる(戦いが起こった可能性あり)。最終的には、「建御名方神」を「ミシャグチ神」を祀る「神」とすることで決着。※「建御名方神」(系氏族)が、現在の大祝とされる神職につく。
↓
(3)土着の神々(氏族)は「建御名方神」(系氏族)の下で神官などを務めるが、それぞれが「ミシャグチ神」を祀っていた(「本宮」付近か?)。
↓
(4)何らかの事件が起こって、「前宮」とは別に「本宮」が成立する。
↓
(5)この頃、「下社」周辺に勢力を持つ人々(「青塚古墳」を祀った人々)が外からやってきて、諏訪の共同体に加わる(?)。
↓
(6)諏訪が朝廷の影響下に入る。※「坂上田村麻呂」の東征に際して、人質をとられる?この頃、「御柱祭」の制度が成立する(諏訪の力を削ぐため)。
↓
(7)「下社」が成立する。※「桓武天皇」朝以降。諏訪の力を削ぐため。
「諏訪大社」の歴史を↑のように考えてみました。
いろいろ妄想をひねって、先達の考察から「御柱」は「人柱」だったのではないか、とも書きました。
「人柱」だとすれば、誰を「人柱」にするのか。
かつては、大祝(「桓武天皇」の第五子・有員が入り込む前?)の一族でよかったのかもしれませんが。
時代が下って、仮に諏訪の力を削ぐために行われたものだとすれば、もともと「ミシャグチ神」を信仰していた土着の神々(氏族)から出されていたのではないか、と考えられます。
「御柱祭」と「御頭祭」、どちらが古いのかはわかりません。
しかし、「柱を立てて、そこに贄を掛ける」というのが、もともとは「立ち木」に対して行われていたことを考えると。
「御柱祭」「御頭祭」のどちらも「柱」が登場するのですから、似たような古さなのかもしれません。
どちらの祭りも本質は、「柱に贄を掛ける」ことだった。
それが「人柱」かどうかは、わかりません。
「御頭祭」の「御贄柱」は、大祝にあたる人々が捧げられていた。
「祝(ほうり)」という言葉は、「屠(ほふ)る」と語源を同じにします。
つまり、
「贄を屠る人」=祭事を司り、神に祝う人
であるか、
「贄として屠られる人」=人柱
であるか、どちらかだったのではないか、と。
一方、「御柱祭」の「御柱」は、土着の神々(氏族)から出されていた。
「建御名方神」を諏訪に封じ込めるために、「祟り神」になってもらうには、もともとは「建御名方神」と異なっていた氏族を持って当たるのが適当でしょう。
とすると、「御柱祭」は、当初は「上社」だけを対象にしていたのかもしれません。
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「手長神社」 - べにーのGinger Booker Club
↑「手長神社」の境内社を見ていただければわかりますが、とにかくたくさんの「御柱」が立てられています。
これが全て「人柱」だったら大変です。
「御柱祭」が制度として確立した頃、つまり「建御名方神」を封じ込めるための呪術として成功したので、強制されたのかもしれません。
とにかく「諏訪に住む神々を、そこに封じ込めておきたい」という呪い、なのではないでしょうか。
「御柱祭」と同じように、「諏訪のことは、諏訪の中だけで済ませろ」とでも言わんばかりです。
さらには、「御柱」で封印しただけでは飽き足らず、「遷座祭」で「下社」の神まで「祟り神」に仕立て上げて、「上社」を向かい合わせる。
それほど恐れられた「建御名方神」は何者なんでしょうか。
どうやら、「ミシャグチ神」そのものではないらしい(「自然崇拝」としての山の神、「祖霊崇拝」としての蛇の神)。
「ミシャグチ神」を崇めていた氏族神でもないらしい(「洩矢神」「武居大伴主神」等)。
出雲方面からやってきた、かなりの軍勢を率いた神だった可能性が高いですが、肝心の出雲には記録がなく、『日本書紀』では抹殺されており、『古事記』では負けるために登場する、本当に強かったのかどうかもよくわからない神。
と思いきや、後世には「東国一の軍神」となり、各地の武家に祀られるようになる。
うーん……とにかく、この「建御名方神」が、ある時期に諏訪に入り、諏訪に取り込まれて、諏訪の守護神となりました。
そのことが中央はいたく気に入らなかったらしく、四道将軍や「日本武尊」を派遣します。
しかし、彼らは諏訪をほとんど無視して(素通りして)います。
その頃もまだまだ、「建御名方神」の神威は強かったのでしょう。
最終的に、「桓武天皇」の時代になってようやく、諏訪は中央の軍門に下ります。
そして、様々な仕掛けで「建御名方神」を封印しながら、神階だけは上げていって、「祟り」を抑え込もうとしています。
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「諏訪大社」考(3) - べにーのGinger Booker Club
↑「下社」の祭神と考えられる中に、「下照姫」という方がいらっしゃいました。
この方、唐突に想起されたんだな、と思ったんですが、背景にはこの方の登場する神話が関係しているようです。
「下照姫」は、「大国主命」の娘で、「国譲り」以前に高天原から遣わされた「天稚彦(あめのわかひこ)」の妻となりました(その前に、「天穂日命」「大背飯三熊之大人」という神が、「大国主命」のところに派遣されましたが、懐柔されて高天原に帰りませんでした)。
「天稚彦」の様子を探りに来た雉を、「天稚彦」は矢で打ち抜いたところ、その矢が「高皇産霊神」の前まで届き、打ち返された矢で「天稚彦」は死んでしまいました。
「天稚彦」の死を嘆いた父神などが葬式をしていると、「天稚彦」の友人だった「阿遅鉏高日子根神(あぢしきたかひこねのかみ)がやってきた。その姿があまりに「天稚彦」に似ていたことから、父神達が「天稚彦」が生き返ったと思っていると、「阿遅鉏高日子根神」は死人に間違えられたことに怒って、喪屋を切り倒してしまった。
(『日本書紀』より要約)
↑日本神話では何度か見かけるパターン(天つ神が、国つ神に懐柔されちゃう)の神話ですが、この「天稚彦」を「建御名方神」と置き換えてみると、ちょっと面白いです。
派遣されてきた「天稚彦」が豊葦原中つ国にとどまった、というのが、「派遣されてきた「建御名方神」が諏訪にとどまった」という神話の書き換えではないか、と思った人がいたのでしょう。
そして、最終的に「矢」で殺されたことから、「洩矢神」のことを表しているのかもしれない、と。
この場合、「洩矢神」が密かに「建御名方神」を殺してしまったのかもしれません。
で、「建御名方神」の子孫を大祝に仕立てあげて(つまり「人柱」にする)、自分たちは神長官として実質的な権力を握った、と。
真偽は不明ですが、「建御雷神」に諏訪まで追いやられたのに「軍神」として称えられた、という話よりは面白いかと(少なくとも、「天稚彦」は「壮士」だと書かれていますし、正面切って戦って大敗を喫したわけではないです)。
しかし……「建御名方神」の話を書こうとして、まさかこの話になろうとは思っていなかったのですが……この神話、「天稚彦」とそっくりな「阿遅鉏高日子根神」という神が出てきます。
よろしいですか。
ミステリーでそっくりな人が出てきたら、即座に「入れ替わりトリック」を疑うものです。
つまり、天から返された「矢」に当たって「天稚彦」が死んだのは嘘で、実は「阿遅鉏高日子根神」という神になっていたのです。
そして、「阿遅鉏高日子根神」が「天稚彦」の葬式にやってきて(別人だと証明するためには、一つの場所に同時に存在すればいいわけですから)、正体がばれそうになったので、喪屋を壊して証拠隠滅、逃亡、というシナリオです。
「天稚彦」は、生きて豊葦原中つ国にいた、というわけですね。
ということは、「洩矢神」は、「矢を撃ち洩らした神」、「天稚彦」と協力してその死を偽装したのかもしれません(この名前は、「天稚彦」側から見たら、非常に誇らしい名前です)。
なぜそんな風に思うのか、というとですね。
まず、「天稚彦」という神の妻となった「下照姫」なんですが、この方、「阿遅鉏高日子根神」の妹らしいんですね。
で、昔の「妹」ですから、意味的には「妻」でもあったりします。
しかも、「下照姫」の父は「大国主神」ですから、当然「阿遅鉏高日子根神」は「大国主神」の御子神、ということになります。
つまり、
、だったのではないか……と考えた人がいたのでしょう。
この構図では、「祟り神」としての「建御名方神」の神威が若干薄いように思いますが、中央がこの神を恐れた理由は分かる気がします。
「国譲り」をさせようとして送り込んだ「天稚彦」なのですから、軍神としての力は相当な力だったのだと思います。
それを、そっくり諏訪に持っていかれたことになります。
言ってみれば、中央はまんまと騙されたわけで、こんなこと『日本書紀』には書けません。
なので、『日本書紀』には「建御名方神」が出てこない、というわけです。
これとは別の神話ですが。
「長髄彦」が登場する、「神武天皇」の東征最後の仕上げの部分。
「長髄彦」はもともと大和地方の土着の神なんですが、天つ神の「饒速日命」を取り込んで、自分の妹をその妻にしています。
ところが、「神武天皇」が攻めてくると、義理の弟である「饒速日命」に殺されてしまいます。
この戦いでは、天神の証である「天羽羽矢」という神器が重要な役割を果たします。
「長髄彦」は、義理の弟「饒速日命」がこの矢を持っていたことから、天つ神だと考え、「この地にはすでに天つ神がいて、自分はその親戚だ」と「神武天皇」に立ち向かいます。
しかし、「神武天皇」もやはり、この矢を持っていたのです。
「長髄彦」は、別名「登美(とみ)の長髄彦」とも言われていました(大和の「登美」というところの土着の神だからです)。
そういえば、「建御名方神」も「南方刀美神」とか「建御名方富命」とか言われていましたね。
「長髄彦」は、あくまで土着の神です。
そこに、新たにやってきた「饒速日命」という神がいて、「長髄彦」の妹を妻にした。
しかし、「饒速日命」は「長髄彦」を裏切って、「神武天皇」についた。
ここで、
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「諏訪大社」考(4) - べにーのGinger Booker Club
↑で、
「出雲建子命」=「天櫛玉命(≒饒速日命)」=「伊勢津彦」(≒「兵主神」)
だと考えたことを思い出しました。
つまり、「饒速日命」自身も、「神武天皇」に追いやられて、信濃に入り、「建御名方神」と言われるようになる。
「南方刀美神」というのは、自分の義理の兄の出身地から取った名前でしょうか。
↑だったとすると、こいつは厄介です。
何しろ、元々は天つ神の上、「伊勢」の支配者、しかも元来「太陽神」だった可能性があります。
「神風の吹く国」である「伊勢」の支配者ですから、当然「風の神」でもあるでしょう。
「祟り神」としての威力は絶大です。
とまぁ、百花繚乱の様相を呈してきます。
どうにもすっきりはしませんが、こんな感じで記紀神話などに散りばめられた断片から、何となく「建御名方神」の正体が透けてみえてくるような気がしないでもないです……。
さて、次回辺りで終わりにしたいところです。