べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「善光寺」(3)

さて。

今回、文章(引用)しかないので、退屈かと思いますが、テキスト派の人は悦んでいただけるのかも。

 

◯こちら===>>>

信州デジくら | 善光寺道名所図会 巻之3

 

まずは↑から、気になる部分を引用(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■で置き換える/『善光寺道名所図会』よりの引用は紫色にて)。

相変わらず活字ではないので、読めない部分が多いかもしれません。

また、間違いも多いことと思いますので、何卒活字での出版を祈願してください。

4コマより、

 

「定額山善光寺 水内郡■原の庄芋井郷長野村の霊場なり

天智天皇三年甲子草創也むかしは天台宗にて三井寺持なり其後真言宗と成て高野山に属しまた寛永年中東叡山に属して再び天台宗の帰■」

 

起源について、公式HPでは、

 

「『善光寺縁起』によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。この仏像は、仏教の受容を巡っての崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642年)現在の地に遷座いたしました。皇極天皇三年(644年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。創建以来十数回の火災に遭いましたが、その度ごとに、民衆の如来様をお慕いする心によって復興され、護持されてまいりました。」

 

となっています。

手元に『日本書紀』の皇極記の部分がないのですが、天智記の「天智天皇三年」の記事には、『善光寺道名所図会』の記述を裏付けるものはありません。

 

「本尊閻浮壇金阿弥陀如来を本堂西庇の間に安置して御厨子四方に戸帳あり応安二年申三月三日と記■て其外を綾錦金襴等にて七重に包むといふ秘仏ありて毎朝の開扉といふ■戸帳扉一重開くのことなり中の間より東■か■■■■善光(よしみつ)善祐(よりすけ)弥生の前を安置しては■■ば善光を中央に■■事故ある■■■」

 

全然読めていません。 

お寺でいただいたしおりによれば、

 

「御開山本田善光卿

内陣右側の焼香台より内々陣奥を拝すると、善光寺を開かれた本田善光卿とそのご家族、奥方の弥生の前、ご子息の善佐(よしすけ)をお祀りする御三卿の間があります。

善光寺の寺号は、善光卿に由来するといわれています。七年に一度の前立本尊御開帳では、御本尊の分身である前立御本尊が宝庫より御三卿の間左寄りしつらえられた御仮屋へと遷座されます。」

 

とありました。

なるほど、人の名前でしたか「善光寺」。

5コマ目からは図会が掲載されています。

この図会の主役ですので、扱いももちろん大きいです。

その後は由来が詳しく書かれておりますが、ちょっとしんどいので略。

28コマ目から、建物等の記事になります。

 

「◯外陣に畳九百畳程ど敷き参詣の貴賎この一所にて礼拝■毎夜通夜の人夥し

◯向拝の前に中左右と賽銭箱三つ有

◯外陣に定香乃台あり其脇の花瓶に松を差すこれ親鸞上人御手生の松といふ」

 

よく観察していなかったのですが、参拝のしおりによれば、

 

「……妻戸第とびんずる尊者の間には親鸞上人お花松があります。鎌倉時代に親鸞上人が参詣の折、御本尊に松を捧げられたのにちなみ、現在でも生けられているものです。」

 

とあります。

 

「◯戒壇廻りといふもの有須弥壇乃東脇に入口あり梯子にて下り内陣の下を三度巡りて元の口へ出る実に闇夜の如し俗間に相伝ふ放辟邪■なる人々■■■■■■と為り又怪異ありといふ未詳」

 

内々陣の「お戒壇めぐり」は、江戸の頃にももちろんあったようです。

建物自体が変わっているので、「お戒壇めぐり」の様子も変わっています。

昔は、内陣の下を三度巡ったようです。

 

「◯経蔵 本堂の西に有 高さ四丈六寸二分横六間三尺二分四方なり」

 

現存の「経蔵」と同じものだと思います。

 

「◯山王塚 諸神塚 本堂前左右に立石是なり」

 

今は「山王塚」「護法塚」と呼ばれています。

特に、大工道具を埋めたわけではなさそうですが……。

 

「◯忠信次信の五輪二つ並び立 三門の■■側にあり古代の姿にて文字も斑に■■■■■」

 

「佐藤兄弟」の塚も、もちろんあったようです。

 

「◯三門高さ六丈六尺七分桁行十一間一尺三寸梁間四間二尺四寸文殊四天王を安■」

 

「山門」も当時のまま、現存しています。

 

「◯大勧進 西側にあり 別当所なり 東叡山比叡山より住職■■」

 

「大勧進」は、かつては「寛永寺」からも住職がきていたのですね。

 

「◯駒返り橋」

 

記述はこれだけ。

 

「◯地蔵菩薩 金仏なり西側にあり昔の本堂此處■とぞ」

 

帰り際に見たお地蔵様も、今と同じ位置にあったようです。

 

「◯摂待所 同町にあり 是より上壹町■り左右小店連りて数珠屋町と云 東都浅草雷神門の内なる小間物店の如し」

 

参道の賑わいは「浅草雷門の仲見世のようだ」ということのようです。

今もお土産屋さんなどは軒を連ねています。

 

「◯二王門 高さ三丈九尺二寸桁行六間四尺六寸梁間四間一尺二寸南に二王あり 北■三宝荒神三面大黒天 ■■■仏なり」

 

「仁王門」も、「三宝荒神」も「三面大黒天」もあったわけです。

 

「◯大本願 紫衣の尼寺■ 住職は堂上方の姫君にして善光寺上人と称す日本三上人の其一なり 日本三上人は善光寺上人尾州勢田の誓願寺上人伊勢宇治慶光院上人」 

 

当然「大本願」もあります。

うーん……思っていたより解説が少なくて残念。

 

続いて、

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 信濃史蹟. 下

 

↑の20コマから「善光寺」の記事があります。

 

「(略)蔵する所の本尊仏は、一光三尊の阿弥陀如来にして、紫■金の尊容身長一■手半、印度より支那三韓を経て、欽明天皇十三年我国に伝来し、本邦浮屠の祖先となりたるもの。之あるが故に善光寺の地、或は国家鎮護の道場となり、或は往生菩提の極楽境となり、朝野の崇敬を一堂に集めて、法灯千三百餘年、仏都の名をして夙に海内に喧伝せしめたり。(略)

抑も、一光三尊の阿弥陀如来とは如何なる者■。之を縁起の伝ふる所に聴く。釈迦在世の昔天竺の国毘舎梨城に悪疫流行し、人民多く横死す。名医耆婆も施すに術なく、手を束ねて唯長大息するのみ。死屍道に横はりて、酸鼻の状云はむ方なし。時に毘舎梨国に五百人の長者あり。其の中第一の長者を月蓋と名づく。月蓋一女あり、其の名を如是姫と云ふ。天生の■質玉の如く、美貌一国に冠たり。長者夫婦は渾身の愛を注ぎて、深窓の中、塵にも据えじと慈しみ、言ふ所皆聴かざる無し。而も五障の雲厚くして三身の月光を隠くし、三従の塵積りて一如の鏡影を失ふ。前世の因縁如何ありけむ、如是姫も亦悪疫の呪ふ所となりて、医薬効なく、花顔漸く色褪せて、生命将に旦夕にも迫らむとす。月蓋長者夫婦は、男女につけて唯一人の愛児なり。露の玉の緒一度絶えなば、桃■露に綻びたる姿、柳髪風にけづられし装ひ、再び見るべきに非ざれば、悲歎の余り、祈柄一切の衆生を済度せむと、大慈大悲の法幢を掲げたる釈迦の草庵を訪れ、

『願はくは仏世尊、無辺の慈悲を垂れて、我が愛児の病を助け給へ。

と嘆願す。其の時釈迦長者に告げて曰く、

『善哉々々。我れ汝に敢へむ。之より西方に仏あり、無量寿と名づく、又二菩薩あり観音と得大勢と之れなり。大悲の御手を以て一切を憐■し給ふ。功徳限りなし。汝速やかに西方に向つて継体し、以て尊影を招じ奉るべし。当に加被を蒙むる所あらむ。ゆめゆめ疑ふ勿れ。

月蓋乃ち其の言に従ひ、西方に向ひて合掌し、専念僻る所なし。忽ち信心幽冥に通じ、天の一方■■たる紫雲の前に、三尊赫灼として光明を放ち、長者の門前に近づく。仏徳顕然さしも危篤に陥りし如是姫の病痾忽ち癒え、加之、城中の疫疾亦去りて跡なく、■死の老若男女、病■悉く去りて蘇生の思ひあり。是に於て、長者は随喜の涙に咽び、三尊の影像を■して永く之に奉仕せむと欲し、之を釈迦に乞う。釈迦乃ち高弟阿難を呼び、龍宮より閻浮壇金を齋らし来らしめて長者に■ふ。一■手半一光三尊の仏体是に始めて成る。」

 

ここまでが、御本尊の出現譚。

やや和様すぎる文章ですが、致し方ないかと。

 

「一光三尊の阿弥陀如来が、支那を経て朝鮮半島に入りし経路の如き今之を詳らかにするを得ざれども、百済聖明王の信ずる所と為り、我が紀元千二百十二年即ち欽明天皇十三年十月、幡■経論を添へて之を我が朝廷に献じ、 盛に仏法の功徳を賛したる事は歴史の夙に記載する寺の霊宝の目録に推古天皇の時三尊仏を法興寺に安置したる由を明記しある事等を證左として、始め蘇我氏が之を水中より取出して自家に密造し、物部中臣等の反対■滅びて、推古天皇法興寺を造営するに当りて、遷して此處に安置したるに外ならず。而も、物部氏等滅びて猶久しからず、其の餘■の恢復を企図するもの無きを保せず、聖徳太子並びに稲目の子馬子等乃ち、後世復尊像をして水火の災に遭遇せしめむことを虞れ、密かに若麻績東人に命じて、之を信州伊奈に奉遷せしめたるものならむと云へる。蓋し卓説なり。果して然らば、伊奈は猶当時交通の要路に当たりて、人の耳目稠く、安全を保つに便ならず、更に地を相して水内郡芋井の郷に遷したるものか。

現今の長野は即ち当時の芋井の郷の一部にして、地勢を按ずるに、往古は南方一帯裾花川の磧原にして、東方には千曲の大河ありて、交通不便を極むるが故、一般の通路は、水内郡の山中、水内村条路の橋より戸隠村の辺に通じたるものの如し。仏若し衆生済度の為のみならむか。何ぞ交通至便にして、従つて人口稠密なりし伊奈の地を去つて、選むに僻遠の地、人口稀少の芋井の郷を以てせむや。」

 

ここまでが、インド→大陸→半島と渡ってきた御本尊が、今の地に安置されたいきさつ、とその考察です。

欽明天皇十三年十月」の部分は、『日本書紀』によれば、

 

「冬十月に、百済聖明王更の名は聖王。 西部姫氏達率怒唎斯致契等を遣して、釈迦仏の金銅像一軀・幡蓋若干・経論若干巻を献る。」

 

 

とある部分です。 

歴史書上の仏像伝来、いわゆる「崇仏・排仏論争」の引き金となった仏像、ということです。

天皇が、「隣の国で祀られているこの仏像、超イケててウチの国じゃ見たことないんだけど、これ拝んだ方がいいの?どうなの?」(意訳)とお尋ねになりまして。

蘇我稲目は、「隣の国々じゃみんな拝んでますんで、ウチの国だけそうしないのはどうなんすかね?」(意訳)と言いました。

一方、物部尾輿中臣鎌子は、「ウチの国で天皇天皇なのは、天神地祇を年中お祭りしているからですぜ。ここで、他の国の神様を祀るってのは、八百万の神々の怒りをかうことになりますぜ」(意訳)と言いました。

 『日本書紀』では、仏(というか、仏像)は、「蕃神(あたしくにのかみ)」と書かれています。

意味は、「他の国の神」程度で、「蕃」には見下しているような意味もありますが、そこまでではないでしょう。

何せ八百万の神々の国ですから、仏教がきちんと伝わっていない状態では、仏様といえども「神様の一柱」にすぎなかったわけです(そのことは、日本の精神風土の根底に流れ続けているように思います)。

 このあと仏像は蘇我稲目に預けられるのですが、その後国中に疫病が流行り、それみたことかと物部・中臣の排仏側から、「言ったこっちゃないっす。とっとと捨てちまいましょう」(意訳)という進言があり、「難波の堀江」に捨てられ、安置されていた寺に火がつけられました。

 『日本書紀』は外国を意識して書かれている歴史書ですが、登場する外国のほとんどは半島です。

お隣だから当たり前です。

特に、新羅百済高句麗が成立して半島が三国時代になると、その国際紛争に、当時の日本も巻き込まれるわけで、畢竟半島の国々との関係を記した記事が多くなります。

それはともかく。

善光寺」の縁起として伝わっている本尊の由来では、インドで「疫病を退散させた」ありがたい仏なんですが、それが日本に来たら「疫病の原因」になっちゃった、というのがなかなか面白いと思います。

物部・中臣というのは、比較的古くからの豪族で、神祇祭祀にも強い影響力を持っていましたから、新しい神様にやってきてもらうのは都合が悪い、という一面があったと思います(その他の政治力学ももちろんあったでしょうが、ここでは言及しません)。

ちなみに、仏像を捨てたあと、天皇の宮殿が燃えてます。

 

 

結局、祟ったんじゃん。

 

 

蘇我馬子はその後、仏法を尊ぶようになりますが、病を得たときに占ったら、「父が祀った神(仏)の祟りです」と言われたので、「こりゃ父が祀った神を祀らねば」と言ったそうです(蘇我稲目の祀った仏像は捨てられていますので、ここでは別の仏像です)。

で、ここから、聖徳太子も巻き込んだ、物部守屋勢との一大紛争に発展するわけですが、書くまでもなく有名なお話なので割愛。

しかし、日本の神様ならともかく、悟りを得た仏が祟るなよ、と思いますね(「仏罰」ということなんでしょうが)。

日本書紀』には、蘇我氏が、「善光寺」の御本尊を海から引き上げて密かに信州に運んだ、とは書いていないので、まぁ伝説なのかと思います。

 

善光寺堂舎の建立は、其の起原未だ詳らかならず。伊奈より水内に移りたる当時にありては、規模狭小にして膝を容るるに過ぎず。史家は之に名づくるに、芋井の草堂を以てしたり。蓋し、此の時にありては崇仏の風未だ上下に浸潤せず、芋井草堂の如き、蘇我氏若くは若麻績氏一族の私寺のみ。三国伝来の仏威も亦施すに處なかりき。而して、伽藍最初の建立は、縁起之を皇極天皇の即位二年となる。善光寺史略に曰く、

命長四年癸卯(即位二年)。天皇瞑目。三日而蘇。善佐亦死。善光夫妻祈請千仏。始得蘇矣。善佐言。拝■顔千冥府。天皇亦有冥府之威。乃召善光父子。並授以冠位。許昇殿。且以大檀越善佐。拝信濃国司。前大檀越善光拝甲斐国司。勅建寺。安我仏。当此時。弥勒菩薩化爲工匠。因創立金堂。即亦安弥勒菩薩。其有守屋柱。或據天王寺故事。初我仏在麻績。不聴別建精舎。其移芋井。又復如故。至是金堂一模善光旧宅。蓋従仏意也。四門一塔。五百仏舎。八百神社。以鎮護伽藍。四門或擬大内者。奉勅旨也。

現今、瑠璃壇の乾の柱を守屋柱と云ふ。縁起に之を四天王寺に模したりと云ふもの根據あるに似たり。四天王寺は、崇峻帝の朝、厩戸皇子の建立する處にして、物部守屋の田宅奴婢を収めて寄附し、■で百済より寺工を貢するに及び、命じて伽藍を造らしむ。即ち官寺の嚆矢なり。善光寺の建築の一部が、多少之に模する所ありと云ふもの、蓋し此の時を以て官寺の列に加はりしを意味するに非ざる無きか。

若夫れ、金堂の建築に至りては、一見、尋常の仏寺に比して甚だ其の制を異にせるものあり。名づけて金堂と云ふと雖も、寧ろ平安初期に於て貴族の住居たりし寝殿作りに類するものの観あり。寝殿作りは唐制を模したるものにして、皇居の宮殿より転化し来る。最初にありては、宮■の制にして、臣下の紊りに之に模するもの非ざりしと云ふは、事実たるに似たり。若麻績東人等、如何に寵遇を辱うしたりと雖も、一地方官にして家屋を宮室の制に擬するが如き事あるべき理なし。是に於てか口碑に所謂、善光寺の金堂は紫宸殿の用材を賜ひて建立せられたるものなりと云ふ俗説、亦容易に拾つべからざるに似たり。」

 

善光寺」が巨大な伽藍を備えるにいたった経緯が書かれています。

著者の私見もまじっていますので、注意が必要です。

命長四年癸卯(即位二年)。天皇瞑目。三日而蘇。〜」という話は、『日本書紀』にはありませんので、俗説の類いかと。

何か、こうしたきちんとした由来がなければいけないほど、「善光寺」が繁栄した(しすぎていた)、ということなんでしょうか。

 

「伽藍草創の年月の詳らかならざる事は前述の如くなれども、金堂の四門に勅額を賜ひ、東門に善光寺、南門に無量寿寺、西門に浄土寺、北門に雲上寺の号を得、定額寺の列に加はりたるは、思ふに平安朝の初期頃ならむか。其は当時の正門たりし東門に、定額山の山号あるに由りて推知し得べし。定額の制、元、人民の濫りに寺院を建立して田圃を寄附し、却て脱税を図り私利を営む者あるに鑑み、堂舎の建築を制限したるに初まる。即ち定数の官寺と云ふ意味にして、起因を桓武天皇の時代に発す。而して、寺院に必ず山号を用ふるは、桓武帝以後の慣習にして、山上に建造せられしに非ざる善光寺に、上世山号のあるべき理由なしとは、芋井三宝記の著者が説破する所、然らば即ち、寺号が山号に先立ちたるは云ふまでもなく、定額に列したる当時も猶未だ山号を有せず、後世流俗に昵みて之を付するに及び、定額の二字を取りて直ちに善光寺の上に冠すせしものか。」

 

定額寺」とは、wikipediaを参照にしていただくといいかと思いますが、

 

◯こちら===>>>

定額寺 - Wikipedia

 

↑いろいろ説はあるものの、「官寺」だったのは確かなようです。

著者(と『芋井三宝記』)の見解ですので、現在の説はよくわかりませんが、山号はともかく昔から「善光寺」と呼ばれていたようです。

この後、幾たびかの火災があったりしながら、平安末〜鎌倉時代に入ると、「善光寺」も荒廃したようですが、

 

「応永七年(1400)、信濃の守護小笠原長秀が入国の際、南朝の残党大文字一揆の党興と、更級郡布施の郷に戦ひたる事を叙説せる大塔軍記には、当時善光寺の繁華なりし有様を述べ、遊女が路傍に出でて長秀の行列を見物したる事などを記せるのを見れば、其の頃は法灯更に明らかなりし者たらむか。」

 

というような状態だったようです。

一気に江戸時代に飛びますが、

元禄(1689)二年に別当大勧進の住職となった本孝法印が、

 

「是より先、法印思へらく、金堂の位置市を隔つる事遠からず且つ、附属の院坊と相迫る。之を以て縷々祝融(※古代の大陸の帝王。火の神)の災あり。当に、金堂を北に距る事若干の地、箱清水の村に移転するに如かずと。乃ち東叡山大明院法親王に依りて幕府に請ひ、其の認可する所となる。」

 

というわけで、本堂が移転することになったようです。

 

 

……それまで誰も気づかなかったのか?

 

 

火災が原因の移転とは何とも現実的ですが、江戸時代っぽいです(?)。

 

「現今の善光寺伽藍は、上述の如く、本孝法印の設計によりて、宝永四年慶雲僧正の重建する所たり。(略)

金堂の内部は、大体之を四室に分つ。即ち、入口に当る最南部の一室を妻戸と云ひ、次を礼堂或は弥勒の間、次を中陣或は外陣、最奥の一室を内陣と称し、内陣の内亦瑠璃壇及び善光の間あり。

瑠璃壇は又内々陣とも云ひ、本尊を安置する所にして、其の左方にある善光の間には、若麻績東人(即ち本田善光)、其の妻弥生、其の子佐留(本田善佐)等親子三人の木像を安置せり。此の瑠璃壇及び善光の間の直下を戒壇と云ひ床下の闇中を模索して之を巡るを戒壇巡りと云ふ。信徒の随喜して為す所たり。堯恵法印が寛正六年善光寺に詣でて内陣に通夜し、本尊の瑠璃壇を廻る、まことに多劫の宿縁浅からず覚えて、歓喜の涙せきあへずとて、

てらせなほ濁りにしまぬ難波江の

あしまに見えしありあけの月

と詠じたる事、其の善光寺記行に見えたり。

弥勒の間は諸人礼拝の室にして、神社の拝殿に等し。妻戸には御花松と云ふものあり。往昔、證阿上人が如来の来迎を拝みたる松にして、親鸞が立てかへたるものなりと云ふと雖も、元より確説あるにはあらず。唯、これが堂内の一名物となり居るは事実なり。

現今の山門は、金堂の建築に後るる事約四十年、別当受徳院香厳大僧都の時、延享元年十二月工を起し、七年を経て寛延三年に至りて成りしもの、其の題額善光寺の三大字は享和中、歓喜心院宮の御筆にして、別当に賜はりしを、天保の始めに至りて掲げたるものなりと云ふ。

仁王門は、往昔、金堂東面の時、三輪村の辺にありしと云ふ。宝永改築の後、三門の建築成りたる頃より着手し、三年を経て竣功せるもの、明治に至りて火災の厄に遭ひ、今は唯、其の礎石を残すのみ。」 

 

「お戒壇めぐり」のことなどが書かれています。

相変わらず、「お戒壇めぐり」の起原はわからず、です。

 

「縁起の伝ふる所によれば、三国伝来の黄金像は、白雉五年(※654)、奉遷の際、若麻績諸身之を■龕の奥深く籠め奉り、同時に、諸身の祖父は、別に其の像を模作して、之を龕前に安置す。前立本尊と云ふもの是なり。後世、金堂に開帳し、若しくは巡国、若しくは三都に開帳する等、皆此の前立本尊なるが故に、一名之を開帳仏とも云ふ。即ち、善光寺の開帳(回向とも云ふ)は、或は三十年に一回、或は七年に一回、或は臨時に執行する事多々ありと雖も、所謂三国伝来の本尊仏は、深く深く秘蔵して、如何なる時、如何なる人も、之を窺知するを得ず。唯、前立本尊によりて、其の真影を推察するのみ。

是に於て、或る人は説をなして曰く、善光寺の本尊は、即ち前立本尊にして、前立以外別に本尊と云ふもの有る可からず。若麻績諸身が、本尊を■龕の内深く籠め、別に本尊を模造したりとの説は、蓋し、当時猶、仏教上下に普及せず、殊に、都を離れたる山間に在りては、三国伝来の仏威も、動もすれば土民の軽視する所たるを免れず、加ふるに、物部氏等の餘族、地方に潜伏せるもの、起ちて危害を仏体に加ふる無きを保せず、爲に全を図りたるものなり云々と。此の説亦捨つべからざるに似たり。現今国宝として、国家の保護を受くるものが、又前立本尊にして、別に三国伝来の本尊と云ふものあるを聞かず。

斯くて、仏体は芋井郷に或る事九百餘年、弘治元年に至り、武田信玄これを甲州に遷し、為に一宇を甲府の東方に建立し、新善光寺と名づく。即ち、現今の西山梨郡里垣村の地にして堂舎猶存せり。蓋し、敬神崇仏の風、戦国時代に於て特に甚だしきものあり。一向一揆の如き、信仰の力は動もすれば愚民を駆つて、縷々一国の強敵たらしmてあり。信玄の此の挙、能く時代の傾向を察し、信仰の中心を移して、以て民心を統一せむことを企てたものか。

後二十八年を経て、天正十年、武田氏の滅ぶるに及び、織田信長三尊仏を信濃国岐阜に遷せしが、更に織田信雄の勧進によりて尾張国甚目寺に遷り、次いで徳川家康之を遠江国浜松の鴨江寺に遷す。而も家康は、天正十一年、再び甲州善光寺に遷し、安置する事十五年、慶長二年七月に至り、豊臣秀吉沿道の諸侯に命じて、之を京都方広寺の大仏殿に迎へしむ。(略)

同年七月十八日入洛、大仏殿の本尊として安置せられしが、居る事僅かに一ヶ月、翌八月十七日、秀吉の病■るに及び、命じて信州善光寺に送還せしむ。十八日秀吉薨す。爾来、今日に至るまで復其所在を変ずる事無かりき。」

 

善光寺の本尊は、即ち前立本尊にして、前立以外別に本尊と云ふもの有る可からず。」とは、昔から奇妙な説を唱える物好きはいるものですね。

しかも、わりと利に適っているのが厄介ですね。

「見て確かめればいいじゃないか」という話ですが、「見てはいけない」のですから、誰もそんなことはできません。

現在の宮内庁指定の天皇陵や、「三種の神器」も同じような扱いです。

ただ、どうやら江戸時代に、「本尊」の偽物説が出回ったらしく(wikipediaより)、実寸採録しているようなので、「本尊」は存在すると考えていいのではないでしょうか。

そして、あちこちに遷されるほどの人気でしたか。

 

◯こちら===>>>

「鳳凰山甚目寺」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑愛知県の「甚目寺」にも来たことがあるようです。

「新善光寺」もありますが、

 

◯こちら===>>>

http://www.motozenkouji.or.jp/2index.htm

 

↑「元善光寺」もあります。

 

 

 

 

 

……ちゃんと調べておけば……。

 

 

 

 

ちょっとがっかりしてきたので、続きは次回に〜。