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べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「崇福山安楽寺」

実際の年月日は2015年1月3日。

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あけましておめでとうございます。

駄文をまじえてお送りしております本ブログですが、ひっそりと続けてまいります。

ネタが溜まりすぎていて、実時間に追いつくことはないと思いますが……もう少しさっくりと書ければいいのですが、文献引用なぞをしておりますと時間ばかり過ぎていきます。

遅々として進みませんが、何卒お目こぼしの程を。

私の地元名古屋には、「羊神社」があります。

できれば今年の初詣は(松がとれてからしか行きませんが)こちらに出向こうかと思っています。

 

9/23。

北向観音」の参拝を終えて、そこから徒歩で行ける距離にある、安楽寺へ。

 

◯こちら===>>>

宗教法人 曹洞宗 崇福山安楽寺

 

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その途中にある「別所の市神」様。

 

「現在の祇園祭は別所神社から牛頭天王をこの市神の上に遷座し神輿が奉納されます。次の日行われる三頭獅子舞・ささら踊りはもともと祇園祭の出し物でした。昭和初期、獅子面が大破損し、昭和九年に新調されたのを機に、岳の幟・三頭獅子舞・ささら踊りを一括して「岳の幟の祭礼」として七月十五日に近い日曜日に奉納しています。」

 

 

祇園祭」は「牛頭天王」をお祀りして、疫病を遠ざけるためのものです。

「市神」は本来「市の神」で、この場所で「市」が開かれていたことと関係するものと思われます。

「市杵島比売命」とか「恵比須」様とか、地域によってどんな「市の神」をお祀りしていたかは様々なようです。

牛頭天王」自体が複雑な神格ですので、

 

牛頭天王と蘇民将来伝説――消された異神たち

牛頭天王と蘇民将来伝説――消された異神たち

 

 

↑こんな本を読んでみると、少しわかった気になります(読みましたが、内容は覚えていません……)。

 

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「黒門」。

温泉ホテルの隣にありました。

本当にこっちでいいのか、というような裏道を歩いていくと、

 

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案内板が。

 

安楽寺は天長年間(824〜834)に開かれたと伝えられる寺で、鎌倉時代中期には鎌倉北条氏の外護により禅寺として栄え、多くの学僧を育てていた。しかし北条氏滅亡(1333)後は、寺運も傾いて正確な史料も残らないが、国宝・重要文化財等数多くの文化遺産を蔵して、信州最古の禅寺のおもかげを残している。」

 

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杉並木の向こう側に山門。

境内は緑多く。

どうやら法要が行われていたようなので、不躾な写真は遠慮しました。

 

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「塩田平四国霊場」。

お寺でいただいたパンフレットでは、

 

「今から約300年前の元禄年間、この地「塩田平」のお寺や御堂に四国八十八ヶ所霊場の仏様が迎えられ、お遍路さんで賑わいました。」

 

とあります。

 

◯こちら===>>>

塩田平札所めぐり

 

↑もご参照ください。

さて、法要が行われているものですから、まず先に国宝を拝観しておこうか、と拝観料300円を払って、行ってきました。

 

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階段途中から見上げました、国宝「八角三重塔」。

 

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末広がりな八角

組木の連続性具合。

三重塔なのに屋根は四つ。

うーん、素敵です。

 

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「国宝 八角三重塔説明

この塔は、一見四重塔に見えるが、昭和二十七年長野県最初の国宝として指定された折り、初重の屋根はひさしに相当する「裳階」であるという見解で、裳階付き八角三重塔として認定された。

建立年代については詳らかではないが、安楽寺が鎌倉北条氏の外護によって栄えた寺で、開山樵谷惟仙禅師が入宋僧、二世幼牛恵仁禅師が中国よりの帰化僧として住職していた頃、また当地に守護として信州一円に威を張った塩田北条氏が館を構えていた鎌倉時代末期(1277〜1333)以外に考えられないというのが定説になっている。塔は本来、仏舎利(釈迦の遺骨)を奉安したものだが、中世以後は特定の人物や戦死者の供養のために建てられた例が多く、恐らくこの塔も北条氏の供養塔として建てられたものと考えられる。

建築様式は当時、中国宋代の先進技術であった唐様(禅宗様)を用い、扇垂木・弓形連子・詰組など、和様の塔とは違った重厚な佇まいを見せている。八角塔は奈良・京都などに記録として残されているが、それらが失われた今日、我が国に残された唯一の八角塔であり、禅宗寺院に残る塔としても極めて貴重な遺構である。」

 

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間近で見上げると、かなりの高さに圧倒されます。

この、八角形の広がりが、視覚効果としても迫ってくるような印象を残しているのかもしれません。

 

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こちらの案内文には諸元が掲載されています。

 

「(略)

もこし柱間一辺柱真々八尺四寸七分 2.79米

もこしの軒出柱真から茅負下端まで 三尺九寸八分 1.18米

全高、相輪頂上から礎石上端まで 六十一尺九寸 18.75米

建坪 九坪八合五勺

※貞享元甲子年三月二十五日の記がある。

 

当地には、天平(729〜749年 奈良時代)年間に僧行基が建立した安楽、常楽、長楽(廃寺)があったと伝えられているが、明らかでない又この三重塔についても明徴を欠くが貞享元年(1686年 江戸時代)の修理棟札によれば天長(824〜834 貞観時代)年中に建立、北條時頼が再興、文禄十二年(1605年 桃山時代)に葺替え承応三年(1654年 江戸時代)に葺替え更に貞享元年に修理を行ったことになっている。その他に記録がないので明確ではないが形式手法から鎌倉時代(1185〜1333年)末期か又は室町時代(1334〜1502年)初期に建立されたものと認められる。

なお当寺所蔵の重要文化財、惟仙和尚及び恵仁和尚の木像には嘉暦四年(1329年 鎌倉時代)の銘があるので、あるいは、その頃の建立であるかも知れない。

この塔は、禅宗八角三重塔の初重に、もこし、をつけた珍しい形式であるうえに細部もまた禅宗様の形式よりなり類例がすくない塔の内部は、周囲を外陣とし土間床で化粧屋根裏をあらわし、八角形の内陣は、高床を張り周囲を開放し、天井は中央に天蓋を吊り、その周囲に小天井を張った、あまり見られない形式である。内陣には同時代と思われる禅宗八角の仏壇が置いてあるが、この形式もまた特殊なものである。

(略)」

 

……まぁ、とにかく珍しい、と。

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元々仏教自体、大陸経由で入ってきたものですし、その後多くの隆盛を誇るいくつかの宗派も、基本的には大陸に学びにいくものでした。

建築様式も大陸風になってしかるべきでしょう。

「珍しい」というのは、「ちょっと王道から外れている」ことなので、そもそも数が少ないですし、特殊な建築様式であればこそ、再現するのが難しいでしょう。

だからあんまり残っていないのか……普通の三重塔とか五重塔だって、建てるの大変だと思いますけども。

外国の観光客の方がいらっしゃいました。

見るに値する、と思います(何ってわけではないんですが、何ってわけではないのが「文化」ですから)。

内側は見られませんが、公式HPに写真があります。

……その写真を見てみたんですが、ご本尊は智拳印を結んでおられるようで、そうするとどう考えても大日如来」(金剛界ですよね。

とすると、曼荼羅なのかな……ううむ。

 

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登ってくる途中でも写真は撮れたんですが、「開山惟仙禅師」と「二世恵仁禅師」の座像が納められた御堂です。

座像は撮影出来ませんので、公式HPなどでご確認を。

 

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島木赤彦の歌碑。

 

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お地蔵様。

 

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登り始めにある案内図。

 

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「経蔵」。

案内が今ひとつ読めません……。

八角輪蔵」に、

 

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黄檗版鉄眼の一切経」が納められています。

 

◯こちら===>>>

補遺・「五百羅漢寺」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑の記事でも少し紹介しましたが、鉄眼禅師は、「大蔵経を印刷するための木版を作るための喜捨を募り、大成した」人物です。

 

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こちら本堂。

スケール感がよくわかりませんが、かなりの大きさです。

 

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山門への階段のわきには、「弁天堂」がありました。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 別所温泉誌

 

↑の22コマから、「安楽寺」の記事があります(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き換える)。

 

「崇福山護国院安楽寺

本堂南向、本尊は出山釈迦如来曹洞宗にして高井郡小山村興国寺の末派なり経済東西七十間南北四十六間餘

此両寺(※安楽寺常楽寺建築甚だ宏大ならざれども共に山に據り崖に臨み境内清浄世塵に遠く梵唄鳥語に和し暮■香烟を罩め頗る幽寂の境なり

両寺縁起の略に曰く聖武天皇天平年間行基菩薩此地に下り長楽、安楽、常楽三寺を創建す後年天変にて焼失し淳和天皇天長二年勅して円仁、明福両大師に三寺を再建せしめ一千貫文の地を寄附せらる清和天皇の時勅して更に諸堂舎を再建せしめ新たに観兜院、蓮華院、妙乗院、最勝院を造立し三楽寺の別院となし、九重、五重及び八角四重の浮■を経営し更に一千貫文の地を寄附せらる冷泉院安和二年当国守平維茂戸隠山の凶徒を平げて後悉く諸堂舎を建て新たにし別に六十坊を建立して支坊としければ七堂伽藍の霊場となりて三楽寺四院六十坊の堂塔繁盛謂ふべからず維茂更に一千貫文を寄附したれば塩田卿三千貫文の地悉く寺領となれり其後寿永二年五月二十一日常楽寺座主阿闍梨真海の時木曾義仲の兵■にかかり殿閣社寺悉焼失し纔かに八角塔を残すのみにして温泉も亦殆んど廃絶せんとせしを土豪七久里左衛門佐一族等之を修補し幾かに旧観の一部を保つを得たり建久二年に至り源頼朝の命により海野広道諸堂舎を再建す其後北條貞時深く禅宗を信じ其帰依する所の樵谷禅師入唐帰朝の後正応元年安楽寺を再建せしめ旧時の荘厳に復す禅師は即ち安楽寺臨済禅門の開祖なり大元の沙門幼牛恵仁禅師樵谷に従ひて帰化し其法灯をつぎ安楽寺第二祖たり(後来大永年間観曳和尚に至りて曹洞宗となれり或は元亀三年[一説天正八年或曰慶長年間]高山順京禅師を曹洞開山となす共云へり)

……(略)……

安楽寺臨済開祖樵谷禅師は著名の碩徳也禅林僧實伝に曰安楽寺樵谷禅師、名惟仙、號樵谷、未詳何許人。志趣超邁、嘗航海南遊得法於天童別山祖智和尚皈住信安楽寺為開山第一祖厥後不知所終(龍門夜話載する■亦之れに同じ)一説に弘安元年元より帰朝の後此に住す老後は当郡内村に退隠し霊泉寺に閑居すと云禅師の遺品として樵谷及び別山祖智の書、祖智の印、如意、香炉等数品安楽寺に宝蔵せり其中尤も著名なるを紅花緑葉ノ卓とす螺鈿蒔絵にて梅花と山茶花の模様あり古色掬すべし其伝来は左の記文に詳かなり

……(略)……

安楽寺八角四重塔

寺後の山腹に在り本尊大日如来、此塔高さ五丈六尺甚だ大ならずと雖も八稜四層杮葺にして形状奇古其結構また巧妙真に奇世の建物にして嘆賞に堪へたりもと漆を以て塗りたるが多くの星霜を経て大抵剥落ちたり寺伝に據れば淳和天皇の御宇に創建する所なりと雖も史伝の之を確かむ可きもの無きを憾みとす或はいふ安和二年平維茂の創立にして一旦焼失セしを正安元年北條貞時再建すと又信濃地名考には北條武蔵守義政の餘澤などにやと云へり[義政前に出づ]然れども其構造より考ふれば一千年前古のものたるは疑ひなし多年風雨に曝され今尚傾廃せざるを見れば古人の奇工真に仰ぐべし若し寺伝を以て真を得たりとすれば淳和天皇天長元年より今明治に至るまで実に一千百年に近しかかる宝塔なるが故に寺僧及び有志者大に其保存に力を盡し明治二十二年内務省より保存資金五十円を下附せられ又明治三十一年十二月内務省告示第百三十六号を以て古社寺保存法第四条に依り特別保護建造物の資格あるものと定められたり

……(略)……

同寺祖師堂

八角塔の後ろに在り木像二個を安す一は樵谷禅師の像にして幼牛の刻する所なり胎中に八句の陀羅尼をしるし嘉暦四己巳九月十二日造之を記せり[後醍醐天皇の十一年に当る]一は幼牛禅師の像なり共に奇古愛重すべし俗に大師と称し目を患ふるもの祈れば験ありとて参詣常に絶ゆず」

 

元々は臨済宗だったのが、途中で曹洞宗になったようで。

八角四重塔」……とありますので、やはり四重塔だとずっと思われていたのに、三重塔ということになりました。

 建築史上・技法上の理由があってのことなのですが、何というか、「四」が気持ち悪いんじゃないかと。

縁起が悪い、というわけではないんですが……。

8コマに写真があるのですが、残念な見辛さです。

 

他、

 

◯こちら===>>>

http://digikura.pref.nagano.lg.jp/kura/detail-jp

 

↑『信州デジくら』に掲載されている『善光寺道名所図会』巻之五の8コマ目、「北向観音」の図絵の右下の方に小さく「安楽寺」が載っています。

 

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八角三重塔」を見られただけでも良し、でした。

山を分け入った中に、突然あれが出てきたら、昔の人はさぞ驚いたことでしょう。

現代の人間の目を驚かせるにも十分な構造物でした(構造物好きには、ですが)。

次は、「常楽寺」へ詣ります〜。