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べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「根津神社」

9/14。

湯島を後にして、地図と神社紹介系サイトをぽちぽち検索。

近くにあることを発見したので行ってきました根津神社

 

◯こちら===>>>

根津神社

 

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いい雰囲気の入口。

かなり大きな神社ですが、全然存じ上げませんでした。

 

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参道を進むと、橋と楼門が。

 

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朱塗りの門は青空に映えますね。

 

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「閽神(かどもりのかみ)」、「看督長(かどのおさ)」などと呼ばれている神様ですが、てっきり私、「どちらかが閽神でどちらかが看督長」だと思っていました。

よく考えれば、同じような意味ですので、二柱ともそう呼ぶのでしょう……か(?)。

それぞれに名前がある場合もあるようなので、何とも一概には……。

 

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手水鉢は、一枚岩の切り出しのようです。

紋が「卍」なのがいいですね。

 

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思いもかけず、国宝……あ、戦前ですね。

今の文化財保護法は戦後にできていますから。

 

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拝殿。

豪奢な権現造で、保存状態も良好。

国宝(戦前)もうなずけます。

 

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賽銭箱と天水桶……じゃないですね、なんだっけこれ……。

紋が気になって写真を撮影したのですが、「卍」の向きが、賽銭箱と逆になっています。

何か意味があるのか……。

 

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狛犬

 

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「神輿三基・付獅子二頭

根津神社根津権現)は五代将軍綱吉により、世継ぎの家宣(六代将軍)の産土神として宝永三年(1706)千駄木にあった社を移し建てられた。

造営記念の祭礼が、正徳四年(1714)に、いわゆる天下祭、宝永祭として盛んに行われた。この時、神輿三基が奉納されて御神幸に用いられた。

神輿は、漆塗や金具などに後補があるが、本体部は初めのもので、制作年代の明らかな江戸神輿として貴重なものである。

獅子は、頭、尾、および背布からなる二頭である。『江戸根津大権現神前額面之縮図』によれば、宝永祭の神輿行列を先導する獅子二頭が描かれている。神輿と同時の制作と考えられ、天下祭を偲ぶ重要な遺品である。

神輿と獅子を一対として指定した。」

 

……はてなダイアリーから8年近く使用していますが、「引用」機能があることを昨日初めて知りました……。

 

社殿に向って右手に丘のようなところがありまして、そちらに、

 

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「乙女稲荷神社」があります。

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その参道(?)から、

 

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社殿を臨めます。

あ、この下には池があります。

 

さらにそのまま奥に進みますと、「駒込稲荷神社」があるのですが、その手前に、

 

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庚申塔が。

ズームしたので写真がぼけています。

 

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案内板もあるのですが、これもズームしたのでいまいち読めず……。

 

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駒込稲荷神社」の入口。

 

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「塞の大神碑

この塞の大神碑は、もと通称駒込の追分(向丘1−1)にあった。ここは現在の東京大学農学部前で、旧中山道と旧岩槻街道(旧日光将軍御成道)との分岐点で追分といわれた。

この追分は、日本橋から一里(約4キロメートル)で江戸時代一里塚のあった所である。今も角店は江戸時代から続く老舗の高崎屋である。この高崎屋よりに一里塚があり、榎が植えられていたが、明和三年(1766)に焼け、その跡に庚申塔がおかれたが、これも文政七年(1824)の火災で欠損した。

その跡地に、この塞の大神碑が、明治六年(1873)建てられた。同四十三年、道路の拡幅のため、碑は根津神社に移され、現在に至っている。礎石に移転の事情が刻まれている。

塞の神は邪霊の侵入を防ぐ神であり、道行く人を災難から守る神で、みちのかみとも道祖神ともいわれる。」

 

結構新しいものでした。

「塞大神」は、「猿田彦命」のことでしょう。 

 

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もう少し近くから見ることができました庚申塔

下は「青面金剛」でしょうね。

何か踏んでますが……「四天王」なんかは邪鬼を踏んでいるものなんですが、これはなんでしょう。

うーむ。

 

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本殿に比べると、それほど手入れされている感じはしませんが、その寂びた感じがいい味わいになっているかと。

 

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自然岩から削り出した(っぽく見える)のが、野趣に富んでいると思うお狐様達。

 

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駒込稲荷神社」の正面階段を下りて左手に行けば、裏門です。

 

「根津裏門坂

根津神社の裏門前を、根津谷から本郷通りに上る坂道である。

根津神社根津権現)の現在の社殿は、宝永3年(1706)五代将軍綱吉によって、世継ぎの綱豊(六代家宣)の産土神として創建された。形式は権現造、規模も大きく華麗で、国の重要文化財である。

坂上の日本医科大学の西横を曲がった同大学同窓会館の地に、夏目漱石の住んだ家(”猫の家”)があった。『吾輩は猫である』を書き、一躍文壇に出た記念すべき所である。

家は現在「明治村」に移築)」

 

「家は現在「明治村」に移築」され、何度も観に行きました。

明治村」は「明治村」で、いろいろと批判される部分もあるかもしれません(集めればいいのか、と)。

ただ、建物だけを集めて博物館にしているところはなかなかないと思いますので、建築物・構造物嗜好の方は、一度訪れてみてはいかがか、と(あ、ステマじゃないですよ)。

 

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裏門側から境内を。

 

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「乙女稲荷神社」の外観です。

展望台のようになっていて、本殿を窺える、というのが新鮮でした(こういう造りを、他の神社もしていただけないものか……)。

「乙女稲荷神社」の参道に戻り、鳥居をくぐって行きますと、

 

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徳川家宣胞衣塚」があります。

 

「六代将軍家宣の胞衣を埋めたところと伝えられ、十数箇の割り石が雑然と積み重ねてある。

この根津神社の境内は、もと五代将軍綱吉の兄綱重(家光の第二子)の山手屋敷(別邸)で、綱重の長子家宣は寛文二年(1662)四月五日ここで生まれた。

胞衣とは、胎児(母体の中の子)を包んだ膜と胎盤をいう。われわれの祖先が、胞衣を大切に扱ったことは、各地の民間伝承にある。例えば、熊野では大石の下に納めたと伝えられる。関東では、家の床下や入口の敷居の下に埋めたといわれ、また屋敷の方角をみて埋めるという所もあった。

一方上流の階層では、胞衣塚を築くことが早くから行われた。愛知県の岡崎には、徳川家康の胞衣塚がある。

この胞衣は誕生の敷地内に納められた。徳川家の他のものとくらべ、形式が素朴であるなど、将軍の胞衣塚ながら庶民の民族の理解の上で貴重なものである。

塚正面には、明治十四年に建てられた『胞衣塚碑』がある。また家宣の産湯の井戸と伝えられるものが、社務所の庭にある。

家宣が綱吉将軍の後継ぎとなり江戸城に入ると、屋敷跡に家宣の産土神氏神)である根津神社を移し、華麗な社殿が綱吉によって建てられた。」

 

なるほど、元々徳川家の屋敷でしたか。

道理で広大な敷地が残っているはずです。

「われわれの祖先が、胞衣を大切に扱ったことは、各地の民間伝承にある。 」とありますが、多分汎世界的なものだと思います。

ヨーロッパの伝承では、胞衣を体に巻き付けて生まれてきた子どもはベナンダンディ(シャツを着て生まれた人)」と呼ばれ、特別な力があると信じられていたそうです(資料がなくてうろ覚えですが……)。

 

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こちらつつじ苑。

「2000坪の土地に、100種3000株のつつじ」があるそうです(公式HPより)。

見事に咲いていませんが(当たり前)、花のないツツジもこれだけ寄れば、なかなか壮観だと思います。

 

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「乙女稲荷神社」の参道。

 

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社殿遠景(楼門の傍から)。

……あ、また拝殿をきちんと遠くから撮影していない……なかなか参拝の方も多かったので、アングルなんかを遠慮していたらこのざまです。

 

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根津神社略記

祭神 素戔嗚尊 大山咋神 誉田別命 大国主神 菅原道真

(略)」

 ……さすがに読めません。

 

さて、

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸名所図会. 第3

 

↑の145コマに、「根津権現社」の記事があります(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き換える)。

 

根津権現社 上野より五町ばかりを隔て、乾の方にあり。

祭神 素戔嗚尊[御産土神] 相殿[左 山王権現 御處の鎮守神 右 八幡宮 源家の祖神]

当社境内、始めは甲府公御館の地なりしが、根津権現は、大樹[文昭公]の御産土神にして、御宮参までありける故、後に右の御館の地を賜り、宝永年中、新たに当社を御造営ありて、結構備る。随身門に掛くる根津大権現の額は、大明院宮公辨法親王の真蹟mなり。旧地は千駄木坂の上、元根津といへるところにあり。[祭礼は隔年九月廿一日なり。]

観音堂[本社の左、岡山のうへにあり。洛陽清水寺の模にして本尊千手大悲の像は、慈覚大師の作といへり。]

当社境内は、假山泉水等をかまへ、草木の花、四季を逐うて絶えず、実に遊観の地なり。殊に門前には、貨食店簷をならべて詣人を憩はしめ、酣歌の声間断なし。」

 

次のコマには図絵があり、当時の境内が広く描かれています。

今に残っているものも多いです(稲荷二つは、今と同じような場所に描かれています)。

楼門の向って右手には池がありますが、かつてそこには割と大きな弁天堂があったようです。

「観音堂」は失われてしまった模様(廃仏毀釈の影響でしょうか)。 

また、149コマには、「根津権現旧地」の図絵があります。

活字になっていませんので、あんまり読めないんですが、

 

根津権現旧地

千駄木坂のうへ■■■■の地をさしていへり 此近辺藝花屋多く庭中四時草木の花■す

千駄木坂 旧名を潮見坂ともいひ 又七面の宮あ■■■七面坂とも號■■■」

 

といった感じです。

こちらの図絵には、「根津権現」の旧地と、「駒込稲荷」が描かれています。

千駄木というのは、「根津神社」から見て北の町で、Googleマップで見てみると、「駒込稲荷坂下」という交差点があります。

公式HPによれば、

 

根津神社は今から千九百年余の昔、日本武尊千駄木の地に創祀したと伝えられる古社で、文明年間には太田道灌が社殿を奉建している。 
江戸時代五代将軍徳川綱吉は世継が定まった際に現在の社殿を奉建、千駄木の旧社地より御遷座した。」

 

駒込稲荷神社

祭神伊弉諾命・伊弉冊命・倉稲魂命級長津彦命級長戸辺命。もとは綱重公の邸内社。手水舎の屋根に、三葉葵の紋が残っている。」 

 

とのことです。

ということは、今の「根津神社」にある「駒込稲荷神社」と、「根津権現旧地」にあった「駒込稲荷」は違うものなんでしょうか。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 翁草 : 校訂. 1

 

↑神沢貞幹という人が書いた随筆『翁草』(1776?)という随筆には、「根津権現由来の事」という記事があります(62コマ)。

 

根津権現由来の事

甲府宰相綱重卿、近習の士に根津何某[一本に字右衛門]と云ふ者あり。然るに綱重卿、大酒を好せ給ふを、根津気の毒に思ひ、数度御諌申上げる處に御酒の上にて大に忿らせ玉ひ、根津は其の座にて御手前になる。其の後御酒の席へ、是非とも根津上下を着し顕れ出で君を守護す。何つとても斯の如くなれば、是が為に御酒興もさめ果て、綱重卿も倩々思ひ玉ひけるは、渠が一命をとられし恨こそ有べきに、左は無くして、常に仮初にも目に遮らず、酒をだに飲ば、忽ち顕れ出で我を守護する志、寔に希世の忠士なり。斯る志の者を誅せし浅猿さよと、悔ませ玉ひ、是より酒を禁じ給ひ、其の上、渠を一社の神に勧請し玉ひ、根津権現と號せらる、御子綱豊卿の御崇敬有て、其の宮、辺土にて悪しとて、甲府御下屋敷の跡へ引せられ、社を造営有て、今に例祭不怠なり。」

 

要約すると、「酒の呑み過ぎを諌められた綱重卿は、根津何某をお手打ちにした(斬った)が、それからというもの、酒を飲むたびに裃を着て(正装して)化けて出る。恨みごとを言うわけでもなく、酒を飲んだときにだけ出てくるのは、本当の忠義のあるものだった、それを殺してしまった自分の浅薄さを悔やみ、権現として祀った」ということです。

うーん、まさかの

 

幽霊話

 

でした。

しかも、これが本当だとすると、1900年の歴史ある「根津神社」はどこ行っちゃうんでしょうか。

しかしですね、よく考えますと、一介の武士を祀った神社を、「権現」呼ばわりすることはないと思うのですよね。 

「権現」号というのは、「仮に現われる」という意味で、基本的には仏が何らかの神様の形を取って現世に現われた、ということを現します。

神仏習合で生み出された神号ですね。

で、江戸では「権現」といいますと、「山王日枝権現」比叡山延暦寺」の土地神です)か、東照大権現(「徳川家康」公)なわけです。

甲府宰相」と呼ばれた「徳川綱重」公は、三代将軍「徳川家光」の実子で、人望篤かったようですが、かなりの若さで亡くなっているようです(35歳)。

wikipediaによると、

 

「死因は酒害であるとされるが、不明」

 

 だそうです。

 

◯こちら===>>>

徳川綱重 - Wikipedia

 

この、酒害 」って辺りから作られた都市伝説じゃないでしょうか。

いえ、同じような逸話はあったとしてもですね、名前も伝わっていない、手打ちにされた武士の名前をとって「権現」号を授けるなんてこと、ないと思うんですよね。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 寺社書上. [72] 根津権現社書上 全

 

↑という、江戸後期に「根津権現」の由来等をまとめた文書があるのですが、手書きの文献なので私のような素人にはなかなか読めません (読んでみたい……活字化されてないですかね、どこかで)。

ただ、wikipediaの「根津権現」の項目に、ここから引用したと思われるものがありましたので、そちらを載せますと、

 

「抑根津大権現往古勧請の年歴を知らず。駒込惣鎮守ニて千駄木村に鎮座し給ふ。神躰は素盞烏尊本地十一面観世音菩薩、 相殿二社山王大権現本地薬師如来八幡宮本地阿弥陀如来、是を根津三所大権現と申奉る。中頃太田道灌入道持資の再興ともいふ。」

 

 とのことです。

 

◯こちら===>>>

根津権現 - Wikipedia

 

 ええと……「日本武尊」もどっかいっちゃった。

結局、何がどの程度正しいのかわかりませんが、明治の廃仏毀釈のときに、「日本武尊」が無理矢理結びつけられたんじゃないか、と思ったりします。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸叢書 : 12巻. 卷の貳

 

↑こちらには『江戸名所記』が掲載されており、その22コマに、

 

駒込村富士社並不寝権現

(略)

不寝権現はその来歴知りがたし、少き社あり祇園牛頭天王の御託宣に、我は眠を好みて五月五日に目をさまし天にあふぎて息をはくその気雲となり霞となり雨となり霧となる、人間の身にふれて果報にしたがひて毒ともなり薬ともなるとの賜へり、一年のうち五月五日、只一日御ねふりをさまし賜ふ牛頭天王には引かへて、常に不寝権現は諸神の中の番衆にてやおはすらん納豆麹にはさし合なるべし、この社は樗(おうち)の木ばやしのうちにあり、太田の道灌の植られし林なり、世にせんだんの木はやしといふ、社もそのころよりありけむ、太田備中の太守あらたに社をつくられしとなり、別当は同じく昌泉院よりおこなはる(略)」

 

という記事があります。

『江戸名所記』自体は寛文二年(1662)に書かれたものらしく、当時は四代将軍「徳川家綱」の治世でした。

ということは、これまで上げた文献の中では一番古く、もちろん「根津権現」が今の地に移る前に書かれています。

とはいえ「少き社あ」るだけで、あとは牛頭天王「寝起きの息が臭くて大変(※嘘)という話が書かれていて、そもそも「不寝権現」の本地仏が何かも書いていないです。

庚申信仰の変形みたいな話ですが、何でしょうねこれは。

「根津」というのが、地名でもなければ、人名でもないので、いっそのこと「不寝(ねず)」にしてしまえ、みたいな話なんでしょうか。

うーん……謎。

 

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そうそう、「元准勅祭社」だったんです。

東京十社」とも言いますが。

 

◯こちら===>>>

東京十社 - Wikipedia

 

神田明神」、「品川神社」に続き、三社目ということになりますね。

そうか、次の目標は「東京十社」制覇にしよう。