べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「上野東照宮」

8/4。

「お化け燈籠」のすぐ近くに、「上野東照宮」があります。

 

◯こちら===>>>


上野東照宮公式ホームページ

 

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鳥居には「酒井忠世」とあります。

wikipediaによれば、江戸初期の大名で、酒井家はもともと三河の出身のようです。

酒井氏は、松平家が「葵の御紋」を使うきっかけになったそうです。

 

◯こちら===>>>

酒井氏 - Wikipedia

 

私は、ずっと「雅楽」というのが読めなくて、「がらく」と読んでいました。

「中村雅楽」という歌舞伎役者が活躍する推理小説がありまして、

 

團十郎切腹事件―中村雅楽探偵全集〈1〉 (創元推理文庫)

團十郎切腹事件―中村雅楽探偵全集〈1〉 (創元推理文庫)

 

 

↑この人は「なかむらがらく」と読むものですから。

まさか「雅楽頭」と書いて「うたのかみ」と読むとは……。

いただいたパンフレットによれば、「関東大震災でも少しも傾かなかった」そうです。

 

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水舎門。

壁の色、かつては朱色だったのでしょうか(「日光東照宮」のように)。

個人的には、この褪せた様子が好ましいです。

 

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藤堂高虎(1556〜1630)は上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、家康を祭神とする宮祠を造った。これが上野東照宮の創建といわれている。あるいは寛永四年(1627)、宮祠を造営したのが創建ともいう。もとは「東照社」と称していたが、正保二年(1645)に宮号宣下があり、それ以後家康を祭る神社を東照宮と呼ぶようになった。

現在の社殿は、慶安四年(1651)、三代将軍家光が大規模に造り替えたもので、数度の修理を経ているが、ほぼ当初の姿を今に伝える。社殿の構造は、手前より拝殿、惣殿、本殿からなり、その様式を権現造りという。社殿は都内でも代表的な江戸時代初期の権現造りで、華麗荘厳を極めている。

唐門、透塀は社殿とともに構造、様式が優れており貴重であることから、参道入口の石造明神鳥居、唐門前に並ぶ銅燈籠四十八基と合わせて国の重要文化財に指定されている。」

 

宮号宣下」……「宮」という號は、「社」「神社」の號よりも格が高い、と考えられているようで、朝廷の許可が必要でした。

「神宮」といえば「伊勢神宮」のこと「のみ」を指し、「◯◯神宮」、「◯◯宮」という號は天皇家にまつわる神、朝廷に功績の大きい(影響力の大きい)氏族の神を祀る神社にしか許されませんでした(基本的には)。

出雲大社」は「宮」ではないのです(多分、宮号宣下とかそんな単純な理由だけではないですが)。

家の近くに「八幡宮」「天満宮」があるけどあれはいいのか、という方がいらっしゃるかと思いますが、「宇佐八幡宮」「太宰府天満宮」と、そもそもの神社が宮号を使用しているので、かまわないのでしょう。

江戸時代になったところで、表面的にしろ、許可が必要だったことに変わりはなく。

驚くことにこの国は、文字の歴史を残し始めて以降、紆余曲折はありながらも、朝廷(天皇)の隠然たる影響力の下にあるのです。

 

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これは、火消しなのでしょうか。

氏子の番割でしょうか。

 

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祭神 徳川家康 徳川吉宗 徳川慶喜

縁起 元和二年二月見舞いのため駿府城にいた藤堂高虎天海僧正は危篤の家康公の病床に招かれ三人一処に末永く魂鎮まるところを造って欲しいと遺言された そこで高虎の家敷地であるこの上野の山に寛永四年(1627年)んい本宮を造営した その後将軍家光はこの建物に満足出来ず慶安四年現在の社殿を造営替えし、江戸の象徴とした(以下略)」

 

「三人一処に末永く魂鎮まる」って、家康、藤堂高虎南光坊天海、の三人なんでしょうか?

wikipediaの「藤堂高虎」の項には、

 

◯こちら===>>>

藤堂高虎 - Wikipedia

 

「元和2年(1616年)、死に際した家康は高虎を枕頭に招き、「そなたとも長い付き合いであり、そなたの働きを感謝している。心残りは、宗派の違うそなたとは来世では会うことができぬことだ」と言った。その家康の言葉に高虎は、「なにを申されます。それがしは来世も変わらず大御所様にご奉公する所存でございます」と言うと、高虎はその場を下がり、別室にいた天海を訪ね、即座に日蓮宗から天台宗へと改宗の儀を取り行い「寒松院」の法名を得た。再度、家康の枕頭に戻り、「これで来世も大御所様にご奉公することがかないまする」と言上し涙を流した」

 

 

↑という逸話が掲載されていました。

この話が真実であれば、あり得ることかと思いますが、そこに天海僧正を入れないといけなかったのか……ま、その場に天海僧正がいたとしたら、仕方がないことかもしれません(?)。

 

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参道。

庭師さんの手入れがいいのでしょうか、何となく中空にも道があるように見えます。

 

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水舎門を振り返ってみます。

燈籠だらけ。

 

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神楽殿。

 

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噂の銅燈籠。

それぞれ細かく見てみたいものですが、そこまでの時間はなく……。

 

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噂の「唐門」……。

、ですね。

ある意味、「日光東照宮」より派手です。

というか、パンフレットの写真では、金箔はともかく、もう少し派手な朱色に緑青鮮やかな銅葺屋根なんですが……どうやら改修されていたようで。

あちこちの寺社で「平成の大改修」というものが行われているようですので、妙な時期に神社仏閣巡りを本格的に始めてしまったものです……。

しかし、こちらの門は、やや沈鬱といった感じもしますが、落ち着いていていいのではないか、と思います(私の場合は、色合いや意匠から、仏壇や霊柩車を想像するから、というどうしようもない俗な理由です)。

拝観料を払うと、垣の中から社殿を拝見することができます。

 

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なんて素敵な連続性。

 

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「栄誉権現

四国八百八狸の総帥。奉献された大奥で暴れ追放後、大名、旗本、諸家を潰し、大正年間本宮に奉献された悪業狸。他を抜く(たぬき)強運開祖として信仰が厚い。」

 

……大正って、この前の大正ですよね。

いくら八百八狸の総帥(「隠神刑部」のことでしょうか)とはいえ、奉献された大奥で暴れ追放後、大名、旗本、諸家を潰し、大正年間本宮に奉献された悪業狸。」とはすさまじいですね。

どんな経緯で生まれた伝説なのでしょう(ほんの100年前のことです)。

四国出身で、

 

 

大暴れをして、

 

 

大名、旗本、諸家を潰して

 

 

 

 

……ああ、坂本龍馬」のことですか(違う)。

 

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本殿をパノラマってみました。

 

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もう、すごいですね……これは、海外の観光客に受けますわ。

 

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「唐門」の様子を内側から。

 

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「正式名称は唐破風造り四脚門。

柱の内側四額面には、日光東照宮の「眠り猫」で有名な左甚五郎作の「昇り龍・降り龍」の彫刻があり、毎夜不忍池の水を飲みに行くという伝説があります。偉大な人ほど頭を垂れるという諺に由来して、頭が下を向いているものが昇り龍と呼ばれています。

両側上部に錦鶏鳥の透かし彫りがございます。透かし彫りは裏表どちらから見ても美しく見えるように一本の木をを両面から彫り出す高い技術が必要なもので、室町桃山時代の技術を集大成したものとして評価されています。

両側中央にある透かし彫りは諌鼓鳥(かんこどり)というモチーフです。昔、中国の高弟が朝廷の門前に太鼓を置き、天子の政道に誤りがある時は人民にそれを打たせてその訴えを聞こうとしたが、政治に誤りが無く、打つことが無かった為、鶏が太鼓に住みつくほどであったと言う故事に由来します。徳川の世が天下太平であるように願いを込めて彫られたと考えられています。」

 

えー……もうちょっとじっくり見てこればよかった……。

 

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銅燈籠越しに本殿。

 

さて、

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸名所図会. 第3

 

↑の124コマに、「東照大権現宮」の記事があります(引用にあたって、旧字をあらためた箇所有り/判読不能文字は■に置き換える)。

 

東照大権現

文殊楼の後左の方にあり」

 

以上です。

 

 

 

 

 

……あれ?

徳川家のことにはあまり触れてはいけない、ということでしょうか?

『江戸名所図会』を書いた人の思想の問題でしょうか?

うーん……そもそも、我々は東照宮というところに、わりと簡単に参拝できますが、当時の庶民はどうだったんでしょうか?

そういったことをあまり考えたことがありませんでしたね……。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 東京府史蹟

 

↑は大正時代の本ですが、写真も掲載されています。

25コマより、

 

「上野東照宮

元和九年四月藤堂高虎天海僧正に謀り、曾て高虎が拝領して其の下屋敷とせる忍ヶ岡の地を選み東照宮社殿を創建せんとし、将軍秀忠の許を得て其の縄張に着手したり。最初の社殿は寛永三年十一月十三日竣成し、同四年九月十七日正遷宮の式行はれたるものにして、慶安二年七月二日後光明天皇勅額を賜り勅額門に掲げられしが、慶安三年三月十五日将軍家光社殿造替の命あり、同年度九月十七日外遷宮ありて改造に着手し、同年九月二日柱立の式、四年四月十七日正遷宮の式行はれたるもの即ち現今の社殿なり。勅額門は慶応三年十二月十七日焼亡せしが、社殿の構造は所謂権現造にして拝殿と本殿とを合の間を以て連ねたるもの、幕府の大工頭鈴木修理長恒木原杢之允義久の建つる所なり。明治四十四年特別保護建造物にしていせらる。」

 

写真は白黒ですが、拝殿内の様子が写されており、貴重だと思われます。

外国の方が多く拝観されており、それはそれでけっこうなことなのですが、「これが日本のスタンダードな伝統」だと思われるのはちょっと困りますよね。

しかし、我々は、システィナ礼拝堂やノートルダムケルン大聖堂を見て、多分そう思うのですから、まぁいいのかな……。

徳川家康公ご本人は、「祀りたければ簡素に」と遺言されたそうです。

それを、いろいろな思惑で、巨大に祭り上げられてしまったのを、泉下で家康公はどうお考えなのでしょう。

といっても、個人的には、東照宮ケレン味は大好きなのですけれど。

透塀をもう少しじっくり見てこればよかったです……。

 

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