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仏閣を巡ると、大抵堂内は撮影禁止です(当たり前)。
ですので、つたない筆致で伝えるしかなかったり、伝えなかったり(これが多い)。
図録などが発売されているといいのですけれど。
「不忍池弁天堂」を参拝して、順路通り(?)に、次は「清水観音堂」へ。
◯こちら===>>>
↑のHPにも書かれていますが、立地的にも、京都の「清水寺」を模しています。
何となく、見上げる感じも似ている……ような。
妻入り……でしたっけ、「清水寺」。
あれはもう、妻入とか何とかというレベルではなかったですが。
鰐口があるので、こちらが正面でしたか。
蔀が上がっています。
この前に、舞台があって、その辺りが「清水寺」を模しているんです。
写真、ありませんけど……(多分、参拝したときは、「清水寺」との関係に気づいていなかったものと思われます)。
何してるんだろう、俺……。
燈籠にも葵の紋。
裏側より。
うーん……本当に、記憶にない。
へろへろだったから覚えていないだけなのか。
↑の公式HPによれば、
「寛永八年に天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正によって創建されました。
天海大僧正は寛永二年に、二代将軍徳川秀忠から寄進されていた上野忍が岡に平安京と比叡山の関係に倣って「東叡山寛永寺」を開きました。
それは同時に、比叡山が京都御所の鬼門を守護、王城の鎮護を担うと伝えられるのに倣い、江戸城の鬼門の守りをも意味しました。
そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立した中の一つが清水観音堂です。」
とありました。
公式HPで、御本尊(お前立ち)等の写真が見られます。
「千手観音菩薩」ですから、「二十八部衆」もいらっしゃったようです(……覚えてないなぁ)。
観光客がそれなりにいた(外国の方も)ことは覚えているのですが。
月曜日だったので、動物園がお休みで、ということも覚えているのですが。
うーん……。
さて、
◯こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸名所図会. 第3
↑の125コマに「清水観音堂」の記事があります(引用にあたって旧字を改めた箇所あり/判読不能文字は■で置き換える)。
「清水観音堂
京師清水寺に比して、舞台造りなり。此邊殊更に櫻多し。本尊千手大悲の像は、恵心僧都の作にして、主馬盛久が守本尊なりとぞ。長門本平家物語に、盛久斬首の罪に處せらるる時、清水観音の加護によりて、刀杖段々に折て命を助けらるる事を載せたり。されど東鑑および其餘の書にも此事を見ず。」
「主馬盛久」というのは、「平盛久」のことのようです。
おなじみ、
◯こちら===>>>
↑のコトバンクによれば、
「平安時代後期の武将。
平盛国の子。元暦(げんりゃく)2年(1185)壇ノ浦の戦いで平家が敗れたあと,京都で捕らえられ鎌倉へおくられる。由比ケ浜で斬られようとしたが,日ごろ信心していた清水観音の加護ですくわれたという。通称は主馬(しゅめ)八郎。」
という、もろ直撃のエピソードが。
しかし、生没年も明らかならず、な方のようで、「東鑑および其餘の書にも此事を見ず」なのですから、多分伝説でしょう。
『江戸名所図会』の続きを読んでいくと、
「忍の岡
古き名所にして、当山の惣名なり。八雲御抄および歌枕名寄等にも、武蔵の國にいれたり。
按ずるに、当山の惣名を上野と號す。或人云ふ、むかし藤堂侯の第宅ありし頃、本國伊賀の上野に地勢相似たるを以つて名とすとなん。是大なる誤なり。永禄二年小田原北條家分限帳に、島津孫四郎および圓城寺左馬助等江戸知行の中に、上野の地名を加ふ。よつて古くより唱え来る事のあきらかなるをしるべし。」
とありました。
で、
「何で忍の岡なのか」
は書いてないんですね。
「本國伊賀の上野に地勢相似たるを以つて」上野の山と名付けたんだから、「本國を忍んだ」で「忍の岡」と名付けた、ってことにしておけば美しかったのに。
世の中は無粋ですね。
それから、
◯こちら===>>>
上野山内月のまつ|歌川広重|名所江戸百景|浮世絵のアダチ版画オンラインストア
↑にもあります、歌川広重の『江戸名所百景』にある「上野山内月のまつ」が、再現されていました。
がんばった!
ここから公園内を、次の目的地に移動。
途中、
(一番右上が「近衛文麿」、他にも「広田弘毅」「林銑十郎」「鈴木貫太郎」等の名前が見えます)
「博士王仁碑」や、
「天海僧正毛髪塔」など見所あります。
さてさて、京都の鬼門封じといえば、遠くは「延暦寺」、近くは「赤山禅院」が有名です。
◯こちら===>>>
「赤山禅院」は、「延暦寺」の塔頭でもあり、天台宗の寺院ですから、引っ張ってきてもよさそうな気がします。
天海僧正は、それをあえて「清水寺」を引っ張ってきたわけですが。
やはり、「清水寺」は、征夷大将軍である「坂上田村麻呂」と関係が深かったから、何でしょうか。
「寛永寺」で鬼門は封じたので、次は東国に睨みを効かせる(外様大名がいますから)。
そのためには、蝦夷討伐・東国遠征で名を馳せた、「坂上田村麻呂」の霊験をお借りしたかった、ということなのでしょう。
多分。
仏閣の場合は、ちゃんとメモをしておかないと、何を見たのかさっぱり記憶がなくなります……。