8/2。
「入谷鬼子母神」を後にして、次の目的地に邁進。
といっても、かなり足が痛むので、休憩しいしいですが。
途中で、緊縛された河童を発見しました。
どうしちゃったんだろう……。
途中、「幡随院長兵衛墓」と「谷文晁墓」という史跡に遭遇。
◯こちら===>>>
「源空寺」というお寺のようです。
惹かれましたが、今は先を急ぎます。
それにしても、どこからでも見えますね、奴は……。
そんなこんなで、やっとこ到着「矢先稲荷神社」。
◯こちら===>>>
馬の情報館として知られる【矢先稲荷神社】 - 台東区活性化ネットワーク
扁額が面白い感じに。
矢羽根の意匠を、点描のように表現しています。
道に面した、割に狭隘な長方形の土地に建っている、という感じです。
「浅草三十三間堂跡
『文政町方書上』によると、寛永十九年(1642)十一月二十三日、弓師備後が浅草において、幕府から6247坪8合の土地を拝領し、三十三間堂を創建した。市はこの付近一帯と推定される。
堂創建に際し、備後は矢場(弓の稽古場)を持つ京都三十三間堂にならい、堂の西縁を矢場とし、その北方に的場を設けた。ここでの稽古は京都の例にならって、堂の長さを射通す「通矢」の数を競った。
元禄十一年(1696)九月六日、世に「勅額火事」と呼ぶ江戸大火が起こり、三十三間堂も焼失。跡地は公収さえrた。同十四年に替地を給され、三十三間堂は深川に移転して再建。以後、両者を区別するため、浅草・深川の地名を冠して呼ぶのが通例になった。
矢先稲荷神社は的場に隣接していたのにちなみ「矢先」の名が付されたという。」
何と、東京にも三十三間堂があったんですねぇ。
こちらでも紹介されています。
元禄元年の「江戸大絵図」の抜萃も掲示されていたのでぱしゃり。
三十三間堂が中心にありますが、それより、
寺ばっかだなおい、
という印象。
ある意味すごいなぁ……と。
さて、『江戸名所図会』はその刊行年代からして、深川の三十三間堂の記事が掲載されています。
◯こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸名所図会. 第4
↑の15コマです(引用にあたって旧字を改めた箇所あり/判読不能文字は■に置き換える)。
同所二丁ばかり東の方にあり。相伝ふ、寛永年間(或人云ふ十九年なりと)大江戸の弓師備後といへる者、射術稽古の為、京師蓮華王院を模して、三十三間堂を創立せん事を乞ふ、依て浅草において地を賜ひ、諸家に勧進して、建立の功を募る。ここに於て同十九年壬午十一月、普請落成す。(浅草清水寺の辺を今矢崎と字するは、三十三間堂の旧地なればなり。その地今は町家となれり。俗間堂前と唱ふるも、三十三間堂の前と云ふべき略語也) 然るに元禄十一年戌寅九月、回禄の災に罹りて、灰燼せしかば、其後今の地に移させられたりとなり。(江戸三十三間堂矢数帳に、慈眼大師の発起なりとあり。又一説に、昔森刑部直義といへる射術一流の武士これを建立し、江戸射術の達人数輩と共に力を盡せし所なりともいへり。)」
「浅草清水寺の辺を今矢崎と字するは、三十三間堂の旧地なればなり。その地今は町家となれり。俗間堂前と唱ふるも、三十三間堂の前と云ふべき略語也」
↑この部分で、かろうじて、浅草の方にも触れています。
「矢先稲荷神社」のことはまったくありませんが。
17コマには、深川の三十三間堂の絵図があります。
そちらもよろしければご覧下さい。
深川の三十三間堂は、江戸時代を乗り切ったようですが、明治五年に廃されたようです。
「東普門院」というお寺が三十三間堂を有していたのですが、廃寺になったのにともなって破毀されたようです。
明治五年……うーん、天皇が東京に遷ってこられるわけですから、残しておいてもいい気がしますが。
元祖の「蓮華王院」に遠慮でもしたんでしょうか。
◯こちら===>>>
↑から引用しますと、
「ご祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと) を祀りります。ご神体は上野東叡山寛永寺の祖慈眼(じげん)大師(天海大僧正)によって寄進され、「御府内寺社備考」によると「木造で翁の型をして稲を荷い、7寸8分、弘法大師作」となっています」
ということです。
元々、記紀神話の神というのは、姿形の描写があるものは別として、どんな姿をしているのかがよくわかりません。
ということは、逆に、「どんな姿をしていてもいい」とも言えます。
「倉稲魂命」が、「翁の型をして稲を荷い」でももちろんいいわけです(「稲荷」という文字から、「稲を荷う」姿が連想されたっぽいです)。
で、ここからの連想で、「福禄寿」がお祀りされたのではないでしょうか。
うん、こじつけこじつけ。
さて、ようやくラストです……果たして間に合うのか。