べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「吉原神社」(浅草名所七福神)

8/2。

炎天下にうろつき、かなりへとへとに……足もぱんぱん、指先じんじん。

それでもめげずに、たどり着きました、「吉原神社」

 

◯こちら===>>>

吉原神社

 

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碑文に朱の文字、というのが、演出としても「らしい」です。

 

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小顔の狛犬様たち。

 

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境内はこじんまり。

 

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うまく全景が撮影できなかったので。

 

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火消し、の名残りでしょうか。

 

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「お穴様」。

「此処の地中には神社の土地をお守りする神様がおられます。心をこめてお詣りすると必ず福が得られると伝えられ大切にお護りしております」

地主神、ということですね。

 

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灯籠鬼っぽい方々が。

 

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「逢初桜」。

 

境内としてはこんな感じです。

祭神もよくわかりません。

↑のHPから引用しますと(引用にあたって改変した箇所あり)、

 

「(前略)吉原神社のご祭神は、稲荷神である倉稲魂命と弁天様である市杵嶋姫命で、開運、商売繁昌、技芸上達などのご神徳です。

 元和3(1617)年、徳川幕府の命によって、江戸市中各地に散在していた遊女屋は日本橋葦町あたりに廓として統合されました。これが「江戸元吉原」です。
 その後、明暦3(1655)年の大火のあと千束村に移転を命ぜられ、そこに新しく造られたのが「新吉原」ということになります。
 新吉原遊郭には古くから鎮座されていた玄徳(よしとく)稲荷社、それに廓内四隅の守護神である榎本稲荷社、明石稲荷社、開運稲荷社、九朗助稲荷社が祀られておりました。
 この五社が明治5年に合祀されることになり「吉原神社」として創建されました。吉原神社の歴史は新吉原遊郭のそれと折り重なり、廓の鎮守の神として古くから崇敬されてきました。
 五社のなかでも 九朗助稲荷社の創建は古く、和同4(711)年、白狐黒狐が天下るのを見た千葉九朗助という人の手で元吉原の地に勧請されたのがはじまりとされています。そして廓の千束村への移転にともなって浅草新吉原の地にふたたび勧請されました。
 廓内の神のなかでも伝説や逸話に富み、遊女、遊客とからみ、開運、縁結び、商売繁昌のご利益のある神として華やかな信仰を集め、その様は江戸の小噺集などにもしばしば登場しています。』

 

ああ、倉稲魂命市杵嶋姫命」なんですね。

朱塗りの理由がわかりました。

倉稲魂命「市杵嶋姫命」は、記紀神話上明らかに別の神様なのですが(どちらも親は「素戔嗚尊」ですので、兄弟ではありますが)。

倉稲魂命」が「宇賀神」と習合し、「市杵嶋姫命」が弁才天と習合し、最終的に「宇賀神」と「弁才天」が習合するにいたって、何故か同じ神性になってしまうという不思議な関係です。

それじゃ荼枳尼天と「弁才天」も同じなのかい、などいろいろと突っ込みたくもなりますが。

倉稲魂命」は「お稲荷様」で、ご存知の通り朱塗りですし。

「市杵嶋姫命」は、「厳島神社」をご覧いただけばわかる通り、朱塗りです。

そのどちらもお祀りしているのであれば、「吉原神社」も朱塗りでしょう。

 

さて、ここから少し移動しますと、

 

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こんなところに到着します。

 

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「新吉原花園池(弁天池)跡

江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦三年(1657)の大火後、幕府の命により湿地の一部を埋立て、日本橋の吉原遊郭が移された。以来、昭和三十三年までの300年間に及ぶ遊郭街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。

遊郭造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊郭楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参拝者が訪れている。

池は、花園池・弁天池の名で呼ばれたが、大正一二年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死したという悲劇が起こった。弁天祠付近の築山に建つ大きな観音像は、溺死した人々の供養のため大正一五年に造立されたものである。昭和三四年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋立工事のため、池はわずかにその名残りを留めるのみとなった。(以下略)」

 

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こちらがその観音像。

時間帯のせいか、見事な逆光がどこか神秘的に写ります。

 

奥に進むと、

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鮮やかに仏画の描かれた祠があります。

 

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「吉原辨財天」

扁額は昭和三十年となっています。

とすると、その周りの店の名前は、全部遊郭の名前なんでしょうか。

ううむ……何か、すさまじさを感じます。

 

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お不動様がいくつか。

焔に焼かれたからなのか、睨みを効かせて調伏するからなのか。

 

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「花吉原名残碑

二神出世この方 男女相関の道開け 日本国は常世の春となれり 中の頃江戸の初世に庄司甚右衛門といへる人あり 府内に一廓の遊所を開き 名づけて元吉原といふ 明暦三年故ありて廓この地に移り 名も新吉原と改む 爾来年と共に繁栄しやがて江戸文化の淵叢となれり 名妓妍を競ひ 万客粋を争ひ 世俗いふ吉原を知らざるものは人に非ずと 開基以来火災を蒙ること十数度 震災又戦渦を受くるとも微動だもせざりし北国の堅城も 昭和三十三年四月一日売春防止法の完全施行を期として 僅か一夜にして消滅し了んぬ 人為の天工を亡ぼす何ぞ甚しきや 二万七百余坪の旧地悉く分散して 辛くも瓢池一半を残すのみ 有志等この池畔に一基の碑を建つるは 麗人吉原が悲しき墓標の営みなりけりと云爾

昭和三十五年五月二十一日

白面青客 山路閑古 撰並書」

 

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案内板によれば、共立女子大学教授で俳人、古川柳研究家の山路閑古による」ものだそうです。

 著名な方のようですが、もちろん存じ上げません。

物を知らないもので、すみません。

境内(?)には他にも、「関東大震災」の犠牲者の慰霊碑などがあり、一大鎮霊地という趣でした。

同好の士らしい、数人の参拝者もありました。

どうしても、男性の興味を引くのかもしれませんね。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸名所図会. 第3

 

↑の289コマから、「新吉原遊女町」に関する記事があります(引用にあたって旧字を改めた箇所あり/判読不能文字は■に置き換える)。

 

「新吉原遊女町

日本堤の下にあり。俗に五丁町と唱へたり。(其街五町あるゆゑにいへり。)慶長の頃、江府日に増し繁栄の地となりければ、是を伝へ聞き駿州元吉原の駅より、遊女屋を始めんとする輩二十余人、江戸に移り住す。其頃は、定れる花街もなく、ここかしこに遊女屋散在せしかば、彼輩官に訴へて、京橋具足町の東、泥沼の地を築埋め、一方に口を設け、南の側を角町と唱へ、(今の京橋炭町是也。)北の側を柳町といふ。(今の京橋柳町是也。)又中の通を仲の町と號け、此地に傾城町を開発す。(今京橋具足町と柳町との間、南北への通を中通といへるも、仲の町の旧稱をうしなはざる證據なり。以上事跡合考に載するところなり。)其後庄司甚右衛門といへる者、(相州小田原の産にして、始め甚内と云ふ。また一説に、勘右衛門ともいひけるよしいひ伝ふ。)官の免を得て、元和三年、始めて花■を定め、葺屋町の末にて、二丁四方の地を賜ひ、是を吉原町と號く。(今所謂和泉町、高砂町、住吉町、難波町等、其旧地なりといへり。また菊岡沽涼云ふ、其地沼にして葭萱のみ繁茂したるを開きし故に、葭原ともいふべかりしを、賀して吉原に作るといへり。禄開板の江戸鹿子等の書には、其始め駿州元吉原よりうつす故に、この號ありと云々。)翌年、普請落成す。然るに江府益繁昌し、人家蔓りければ、明暦二年の冬、竟に今の所に替地を賜ふ。(明暦二年丁酉八月今の地にうつる。)依て新吉原町と號くるといへり。此花柳は、まことに三都の魁たり。其賑は、特弥生の花の頃をもて勝れたりとし、春宵一刻の値、千金を顧みず。初秋の燈籠は、萬字屋の玉菊が追福にはじまり、八朔の白重は、巴屋の高橋に起る。今も此日をもて、更衣の節とす。名にしおふ二度の月見の全盛はいふもさらなり、悉く其美を■るにいとまあらず。しばらく此處に是を略す。」

 

てっきり其地沼にして葭萱のみ繁茂したるを開きし故に、葭原ともいふべかりしを、賀して吉原に作る」だとばかり思っていたら、其始め駿州元吉原よりうつす故に、この號あり」なんて説もあるんですね。

しかし、どの文献に当たれば、「吉原神社」の元型である稲荷神社が出てくるのか、ネット調べでは何ともならず。

 

 

 

 

それにしても、華やかなりしを懐かしみ惜しんだのは、男性ばかりなのでしょうか。

それとも、女性もそうだったのでしょうか。

「花吉原名残碑」の中にあった、

 

 

人為の天工を亡ぼす何ぞ甚しき」

 

 

という言葉が、何となく滑稽です。

どうやら、これを書いた方は、「新吉原」は「天が作った」とお思いで、それを「人の仕業」=「売春防止法」などという雅さの欠片もないものが、一夜にして消滅させたことを嘆いておられるようです。

男女の営みは天が定めたことかもしれませんし、世界最古の職業(売春)もまた然りかもしれませんが、「新吉原」を作ったのは「」でしょうから、結局壊すのも「人」なのでしょうね。

雅さの欠片もない私はそう思います。

 

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ああ、ばっちり神紋はお稲荷さんでしたね。

そろそろ、披露はピークです……。