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神社仏閣ラブ(弛め)

不定期「熱田考」(2)

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熱田神宮」は、かつては「尾張造」と呼ばれる独特の造でしたが、明治期に「伊勢神宮」と同様の神明造に改められたそうです。

 

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

 

↑の174コマから176コマまで、見開き6ページにわたって図絵が紹介されています。

特に、175コマでは、「尾張造」だった「熱田神宮」の姿が見られます。

現代には残っていませんが、当時は「透垣」(蕃塀)が立てられていたことがわかります。

168コマからが「巻之三」なのですが、ここからしばらく熱田に関する記事が続きます(※引用部分、旧字を改めた部分あり。読めない文字は■に置き換える)。

 

 

「熱田

愛智郡のうち南のはてなる郷名にして、[和名抄]に厚田とかき、其餘の古記には皆熱田の文字を用ふ。[寛平縁起]に、社を占め神剣を遷し奉らんと衆議し、其社の地を定めしに、其地楓樹一株ありしが、自然に炎焼し、水田の中に倒れ入り、光焔消えずして其田猶あつかりければ、熱田と名づけしよしにしるせり。」

 

 

熱田の語源について、です。

「楓樹一株ありしが、自然に炎焼し、水田の中に倒れ入り、光焔消えずして其田猶あつかりければ、熱田と名づけしよし」とあります。

うーん、よくわかりません

現代的な感覚からすると、

 

 

石油でも出たんじゃなかろうか

 

 

という気がしますが(それじゃ「焼田」か「燃田」になっちゃうのか)……あるいは、石炭?

いずれにしろ、わかるような、わからないような、何か神威を顕わしているのか、いないのか。

尾張国風土記』が逸文でなく完全に残っていたらよかったんですけれど。

他に「厚田」と書くこともあったようです。

でもですね、土地的に考えると、「熱田」はどう考えても、大々的に農業やる土地じゃないような気がします。

海は近いし、どちらかといえば漁業か、漁撈か、が主要な産業だったんじゃないでしょうか。

そうすると、「田」は「稲田」だったのかどうか……。

 

 

◯こちら===>>>

熱海の由来|熱海市役所

 

 

↑似たような地名である「熱海(あたみ)」の場合、温泉が沸いて海が熱い(「あつうみ」)が省略されて、「あたみ」となった、と言われています。

 

 

正一位勲一等熱田皇大神宮

景行天皇四十年七月、東夷、皇命に叛きしかば、皇子日本武尊(※略)勅命を奉りこれをたひらげ給はんとて、十月御首途ありて、まづ伊勢大神宮にまうで、斎宮におはしける御姨倭姫命より、天叢雲の神剣と燧嚢とを授り得て、尾張に渡り給ひ、氷上の里(今知多郡大高村なり。)にして建稲種命(たけいなだのみこと)の御妹、宮簀媛命を寵幸し、暫御逗留ありしが、後会を期して東行し、駿河国に到り給ひしに、凶徒狩猟に事よせ、野火にて焼殺し奉らんと謀りて、すでに危かりしが、彼神剣自然とぬけ出で、曠野の草を薙払ひ、又燧嚢の口ひらけ、其火還て賊徒を焼き亡し、尊は急難を免かれ給ひぬ。それよりして天叢雲の名を改め、草薙の神剣とぞ申しける。かくて常陸・陸奥等の夷賊征伐畢つて、信濃坂を越え、再び宮簀媛命の家に淹留し給ひしが、別に臨み、神剣を媛の許にとどめ、我帰京せば、必汝が身を迎へん、此剣を我床の守とせよとのたまひ置きて、徒行より出でまし、近江の膽吹山の悪神を退治し給ひけるに、其神化して小蛇となり御道に横れり。尊又心して過ぎさせ給ひしかども、山神毒気を吐きければ、御心乱れにけり。夫より伊勢に移り給ひ、能褒野にて御病甚しくなりにければ、武彦命をして天皇に事のよしを奏して、竟にかくれ給ひぬ。御年三十なり。天皇聞し召して、哀み給ふ事限なし。群卿百寮に仰せて、伊勢国能褒野に納め奉らしめ給ひしに、白鳥と成りて大倭国をさして飛行き、琴弾原に留る。其所にまた陵を作らしめられければ、又飛びて河内の古市に留る。其所に陵を定められしかど、白鳥又飛びて天に上りぬ。仍て三つの陵あり。宮簀媛命御約に違はず、獨御床を守りて、翌四十一年建稲種命と議り、御社を此地に草創し、御剣を鎮座なさしめ給ひぬ。しかして建稲種命の裔孫、尾張氏の人々斎き祀りて、熱田大神宮と称し奉れり。」

 

 

東征の帰途、尾張に立寄った日本武尊は、宮簀媛命のところに神剣を置いて、伊吹山の神を退治しに出かけます。

で、『古事記』では白い猪、『日本書紀』では蛇の姿をしている伊吹山の神が、雹だか氷雨だかを降らせて、それが原因で日本武尊は亡くなるわけです(『古語拾遺』によれば、「毒にあたって」)。

ところで、『尾張国風土記』は、逸文が残されておりまして(『釈日本紀』)、手元には現代語訳のものしかないのですが、

 

 

「熱田の社は、昔、日本武命が東の国を巡歴されてお還りになった時、尾張連の遠祖宮酢媛命と婚されてその家にお宿りになった。夜のほどに厠に行って、腰につけていた剣を桑の木に掛け、忘れたまま殿にお入りになった。気がついて驚き、また往って取ろうとなさると剣に光があって神々しく、とることができなかった。そこで宮酢媛に仰せられて、「この剣は神の気がある、大事にお祭をして、私の形影(かたみ)としなさい」といわれた。それで社を建て、郷の名(熱田)によって宮の名とした。」

 

 

だそうです。

「この剣は神の気がある」って、この人今さら何を言っているんでしょうか?

おばであり、伊勢神宮を定めた倭姫命から授かった、天叢雲剣ですよ?

焼津の地では、独りでに抜けて、草原を切り払って、火難を逃れた神剣ですよ?

風土記』、しかも逸文ですから(それも現代語訳)、『記紀』と違っていたって別に構いませんが。

この剣、

 

 

本当に「草薙剣」なんでしょうかね

 

 

それから、私の形影(かたみ)としなさい」って言葉も何か妙ですよね。

もちろん、今より生死の境界は低い時代ですから、いつ何時のために、形見わけをしておくことは不思議ではないかもしれませんが。

だったら、剣置いて戦闘に向かいますか?

うーん……分からないことだらけです。

 

 

そういえば、草薙剣という名称ですが。

刀剣につけられる名前っていうのは、古今東西、様々です。

横文字で聞かされると何だかかっこいいなぁと思ってしまう、残念な日本人の私は、「カラドボルグ」とかアロンダイトとか「オートクレール」とか、いいなぁと思います。

一番好きなのは、「クラウ・ソラス」かな。

ただ、我々がその響きから感じるような意味を持っていない可能性もあります(実際、今では意味がよくわからないものもあるようです……「カラドボルグ」は「雷の一撃」、のようですが)。

そこで、「草薙剣」です。

この剣の前身が、天叢雲剣だということは、ほとんどの日本人は知っているでしょう(……か?)。

が、ですね、「草薙剣」の前身が天叢雲剣」だ、ということなんて、日本書紀』の一書にしか書いてないんですね。

古事記』にいたっては、「都牟刈(つむがり)の大刀(たち)」です。

つまり、最初からこの剣は「草薙剣」だったんじゃないかと思われるわけです。

さらに言えば、八岐大蛇の尻尾から出てきたこの剣と、倭姫命からもらった剣とは、違うものだったんじゃないのか。

 

 

 

なんてね。

 

 

 

さて、どうなんでしょうか。

うーん……?

 

 

 

 

史跡あつた (1962年)

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日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

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日本書紀〈2〉 (岩波文庫)

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古事記 (岩波文庫)

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