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神社仏閣ラブ(弛め)

「味鏡山天永寺護国院」

5/17。

味鋺神社」の隣には、「味鏡山天永寺護国院」があります。

 

◯こちら===>>>

名古屋市:味鏡山 天永寺護国院(てんえいじごこくいん)(北区)

 

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二天門。

 

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と思わせて、実は四天門でした。

なかなか珍しいのではないかと。

新しいので、近代のものなのかな。

 

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「味鏡山と号し、真言宗智山派天平年間(729〜749)僧行基の創建といわれ、薬師寺といった。

天暦二年(948)の大洪水により衰微したが、天永二年(1111)西弥(さいみ)上人が再興し、今の寺号に改めた。

本尊の薬師如来座像は行基の作と伝えられる。

また、寺宝は、文化財に指定されている絹本著色の絵画「千手観音二十八部衆(国重文)」、「尊勝種子曼荼羅図(市指定)」、「仏眼曼荼羅図(市指定)」をはじめ古鏡など多くが残されている」

 

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当たり前ですが、寺として機能しているので、墓地があります。

こういうところは苦手ですね……地域で役割を果たしているので、よそものはなかなかおいそれと立ち入れない……それでいいい、と思うのですが。

あ、庚申塚があったのでぱしゃり。

 

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まとめられています。

数を数えてないですが、四国八十八ヶ所ではなさそうですので、西国かな……。

 

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上の方が切れた……古墳から出土した石棺、だそうです。

 

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霊場順拝の供養塔。

 

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観音堂。

 

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こちらは何だったかな……。

後ろに「味鋺神社」の建物が見えます。

 

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尾州萬歳発祥祖」の碑。

 

◯こちら===>>>

http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

 

文化庁のデータベースです。

どうやら知多に伝わっているもののようですが、起源がいろいろあるみたいです。

碑文を読めればいいんですが……。

もうちょっと接写してみればよかったかな。

 

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「みかがみじぞうそん」。

「味鏡(みかがみ)」なんでしょうか。

 

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これは……薬師堂かな。

幟をみると、不動堂ですか。

※検索してみたところ、旧本堂だそうです)。

お寺さんは、どこでも、入るのに気が引けます……それではいかんのですが。

 

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本堂。

立派で……趣はありませんが、地域のお寺というものは、こういうものかもしれません。

 

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本堂奥に何やら八角形の建物がありますが、何でしょうね。

案内板とかあったかな……。

 

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実は、裏手に回ると仁王門があったりします。

これもなかなか珍しいかな、と思います。

隣の「味鋺神社」から怨霊が入り込むのを防いでいる……わけではないと思います。

 

いくつかの巡礼札所になっているので、御朱印もいただけるのだと思うのですが……手始めに、お不動さんの巡礼でもはじめてみようかな……(余生だな、もはや)。

四国巡礼は夢ですね。

 

 

さて。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第10編尾張名所図会

 

↑の56コマから、味鋺の記事です、というのは前回もご紹介しました。

57コマには、「味鋺神社」「天永寺」の遠景も描かれていますが、メインは「味鋺川」です。

現代でも、Googleマップなどで検索していただければ、神社/寺から南に下ったところに、庄内川という大きな川が流れているのがわかると思います。

こいつが氾濫して、洪水を引き起こしたのが天暦二年のできごと、だったようです。

 

58コマから、「護国院」の記事です。

 

「味鏡山護国院天永寺

 

同じ村にあり。真言宗大須眞福寺末。文明十二年の天永寺縁起に、鳥羽天皇之御願。西彌上人之草創。天永年中開基也。蓬萊宮末社。六所明神鎮護之霊崛(くつ)。瑠璃界之本主。十二願王接化之梵場也と見えたるごとく、味鋺神社の社僧なりし事は疑なくもと勅願寺にて、安食・柏井の両庄を寺領として、七堂十二区の僧坊慊然たる古刹なりしが、五百年来の兵革に零衰し、山號さへ鏡の池に附会して、味鏡と名くるに至る。さるを天正九年辛巳正月、郷民議して再建し、やや旧刹に復れるなり。

本尊 薬師如来は、聖武天皇の御宇、行基菩薩当所に来遊ありしに、鏡の池の水中より薬師の仏像現せしかば、菩薩白檀の形像を作り、彼像を中心にこめ納め、精舎を立てて薬師寺と名けられしよし、[文明縁起]にかける仏像を本尊とす。

寺宝 大般若経六百巻。暦應元年九月八日足利左兵衛督直義主の納むる所にて、建久・応安・康永等の年号、また安食の常観寺にてうつしたるよりの奥書ある古典籍なり。

鏡池 本堂より西北にあたる辺にあり。むかし金像の薬師仏出現ありしを、行基法師とり収めて当寺の本尊とせし古跡なり。

龍池 本堂のほとりにあり。開山西彌法師の時、白龍池中に現じたる古跡にて、池中の小島に今弁財天社をたつ。

岩屋堂 寺より北の方数町を隔てたり。当寺に属し、本尊十一面観世音は当国三十三観音の一所なり。因にいふ僧天澤は当寺の僧にして、[織田真紀]に、天澤者宗天台。再閲蔵経。学徳之僧也。見武田信玄甲州。信玄問何國人。曰尾州清洲東味鏡邑天永寺僧也。問信長行状如何。曰甚勤武事。毎旦調馬後。学弓於市川大介。鳥銃於橋本一巴。剣術於平田三位云々と見えて、信長公の行状を美しく対してよしにしるせり。」

 

「蓬萊宮」というのは、「熱田神宮」の別名です。

味鋺神社」の神宮寺(別当寺)だったのは明らかだ、と書いてありますね。

「もと勅願寺にて、安食・柏井の両庄を寺領として、」ということですが、

 

◯こちら===>>>郷土誌かすがい 第5号|春日井市

 

↑の「ふるさとの歴史・春日井市域の荘園」という記事では、安食庄は「醍醐寺」の、柏井庄はいろいろありながら「等持寺」の寺領だったということです。

この荘園とか寺領について、私は詳しくわからないので何とも言えないのですが。

尾張名所図会』の記述が全部正しいわけでもありませんし。

とはいえ、

 

「五百年来の兵革に零衰し、山號さへ鏡の池に附会して、味鏡と名くるに至る」

 

とまで書かれるんですから、相当に荒廃したんでしょうね。

「鏡池」「龍池」は、今ではどこにあるのか……検索したらわかるかもしれません。

昔は、「岩屋堂」というところに、尾張三十三観音の札所があったみたいですね。

 

さてさて。

この「味鏡山護国院天永寺」の次の記事が、↓です。

 

陰陽師兀太夫(はげだゆう)

同村に住めり。[年中行事故実考]に、春日井群味鋺陰陽師十六人、何れも萬歳をつとむ。其内兀太夫といふ者は、先祖陰陽師石田新左衛門といふものの家に敬公入らせ給ひ(御鷹狩之節)、兀太夫といふ名を賜り、代々御祝儀を勤め来りしが、今は中絶せり。其家代々兀太夫を稱せりと見えたり。これ木ヶ崎の無住国師より、萬歳の唱歌を得て、末の代に伝えし有助が徒なるべし。彼有助が住みし所は、山田川の辺に字を残して、今も有助と呼べり。」

 

「兀太夫(はげだゆう)」 ……有能ですな。

 尾張「敬公」といえば、初代藩主・徳川義直諡号が源敬公)のことを指す……んじゃないかと思いますが。

どうしてそんな名前をつけたのか、由来はどこかに残ってないんでしょうか?

 

 

まぁ、

 

 

お察し

 

 

ってことでしょうけれども。

いや、そのフサフサ……じゃない、兀太夫さんのこともいいんですが。

 

「木ヶ崎の無住国師より、萬歳の唱歌を得て、末の代に伝えし有助が徒なるべし。」

 

↑ここに、「尾張萬歳」との関係がわかる記述があって、ほっとしています。

「無住国師という人は、東区にある「長母寺」の住職で。

『沙石集』を著したことで有名らしいです(もちろん読んでません)。

先ほどの文化庁のページでも確認できますが、この方が「尾張萬歳」の元祖ではないかと言われています。

で、それを「有助」という人から教わって伝えているのが兀太夫さん達陰陽師

江戸期ですから、「陰陽師」といえば、民間宗教者です。

安倍晴明(多くは、夢枕獏先生原作の陰陽師のイメージ)のような感じではなかったのです。

それでも、宗教×芸能を伝える、という大役は果たしていたわけで。

そう考えますと、「兀太夫」という字も輝いてみえます。

そもそも、縁起の悪い名前をつけて、逆に力にする、というのは、洋の東西を問わずあることですし。

「はげ」が縁起悪いとかかっこわるいとかは、あくまで我々の観念でしかないですから。

ますます、かっこよく見えてきました「兀太夫」