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「小國神社」を後にしまして、向かった先は。
「可睡斎」というところです。
◯こちら===>>>
「萬松山」が山号のようですね。
向かって左には、「秋葉三尺坊大権現御本躰鎮座道場」と書かれております。
ようく見ると、屋根に「可睡斎」の文字が。
門をくぐってみますと、鮮やかな方位板が。
しかもこれ、その方向にある町や山まで何里あるのか、が書かれているのです。
面白いですね。
「可睡斎の由来
可睡斎は、六百年前(応永八年)如仲天誾(てんぎん)禅師によって開創された曹洞宗屈指の名刹です。
十一代住職仙麟等膳大和尚は、幼い家康を戦乱から救ったことがあり、後に家康が、浜松城主となった折、報恩の為に城に招かれた。その席でコックリコックリ居眠りを始めました。その姿を見た家康は、和尚の安らかな親愛の心を悟り、和尚に「睡る可し」(御前にて睡っても無礼ではないとの意)と言い「可睡和尚」と愛称せられ、寺号も東陽軒から可睡斎と改め、後に拾万石の待遇と、徳川幕府最初の僧録司という職を与えられました」
「火防守護の総本山
秋葉総本殿可睡斎にお祀りしてあります秋葉三尺坊大権現様は、今から千三百年の昔、越後蔵王権現堂の十二坊の一つである三尺坊という僧坊で厳しい修行を重ね、秘密奥義を極めて神通力を得、観世音菩薩三十三化身の一つであります迦楼羅身を現じられました。かくして、秋葉三尺坊様は、衆生済度のため、失火延焼の難を逃すことを第一に三大誓願をおこし火防の霊場を開かれました。
秋葉三尺坊大権現様の御真躰は、明治六年に秋葉山秋葉寺より遷座奉安され、以来秋葉三尺坊大権現鎮座火防霊場として、全国より信仰を集める祈祷の道場として、日々火防と人々の幸福を祈願しています」
葵の御紋、です。
本堂。
全景がない、という……緑青ふいたところに葵の御紋、というのがなかなか素敵なので。
あ、ご本尊は「聖観音菩薩」です。
だから扁額には「大悲殿」とあります……が読めません。
こちらは、本堂の傍にある位牌堂です。
象さんがいたので、撮ってみました。
「開運大黒天」。
あるいは「出世大黒天」。
基本、堂宇の中にある仏像の写真は撮影しません(撮影可、であれば別です。あと、屋外にあるものも)。
当たり前といえば当たり前すぎて、何故とは言えませんが。
そういうものです。
できれば、撮影したいですけれどもね……。
階段の左右に、天狗の像。
「三尺坊大権現」様は、「可睡斎」の案内によれば、修行の果てに迦楼羅身となった……ということで、「修験者=天狗≒迦楼羅」という図式なのでしょう。
山で修行する修験者は、もっぱら「天狗」に例えられました。
前出の案内板とほぼ同じ内容。
「廃仏毀釈に伴い、「三尺坊大権現さま」のご本躰が秋葉山秋葉寺から可睡斎に遷座した」ことから、「秋葉総本殿」となったわけです。
「三尺坊大権現」様は、「1300年前、信州戸隠村岸本家に生まれ」たそうです。
金の扁額が、ある意味で東照宮等の権現造を凌駕している気がします。
金が好きなんですかね、秋葉の神様は。
さて、それでは境内をぶらぶらと。
「勝軍地蔵」堂。
その近くにあった、羽団扇型の燭台。
これイカしますな。
進路に従って階段を上っていくと、「出世六の字穴」に行き当たります。
「戦国時代、徳川家康は、武田信玄との戦いにおいて遠江・森、袋井方面へと攻めてきた武田勢に追われ、この寺のほら穴に隠れて命拾いをした。
その後、家康は浜松城主となり、やがて駿府城、江戸城などを築き國を平定し、江戸幕府を開いて将軍となった。その出世の故事になぞらえ、当斎のほら穴は、家康公の威徳を称えていつしか「権現洞」と、また「出世六の字穴」とも呼ばれるようになった。
出世六の字とは、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の世間から解脱する「出世間」からとも、あるいは六観音や六地蔵に由来するとも伝えられる。
なお、当斎にはその後、徳川幕府より駿河・遠江・三河・伊豆の寺院を統括する「僧録司」の職と十万石の待遇が与えられた。」
最初の案内板の、大和尚に救われた家康の話のようです。
「出世間」、つまり「世間から出る」=「解脱」じゃないか、と考えられているようですが。
家康の出世はどう考えても、
煩悩と業にまみれた俗世の生業でしょう。
むしろそれを皮肉ったのかもしれませんが。
「活人剣(かつにんけん)」の碑。
この碑が何なのか、わからなくって。
ただ最後に、どう読んでも、
「李鴻章」
って彫ってあるんですよね。
あの「李鴻章」ですよね。
で、検索してみると、
◯こちら===>>>
↑公式HPに記述がありました。
また、
◯こちら===>>>
↑袋井市議・寺田氏のHPに、エピソードが掲載されています。
簡単に書きますと、
「日清戦争の講和のための交渉が下関で行なわれていたが、清国側の最高責任者である李鴻章(直隷総督・北洋大臣)が狙撃されるという事件が起こった。その治療を、陸軍軍医監だった佐藤進氏が行った。医師であるのに軍服を着て腰に剣を下げている佐藤氏に対し、李鴻章が「人の命を救う医師が、何故剣を下げているのか」と訊ねると、佐藤氏は「医師は日夜病魔と戦うことを使命とする」と話した。禅に、「活人剣、殺人刀(かつにんけん、せつにんとう)」という教えがある(※刃物には、人を殺すものもあれば、人を活かすものもある、といった意味でしょうか)。李鴻章は感銘を受け、治療の礼を述べた」
といったものだと。
円筒形の石碑にはその事績が記され、以前はその頂上から刀状のモニュメントが立っていたようです。
後ろの石碑は、李鴻章の七言絶句が刻まれているそうで。
「耄年◯節赴東瀛
願化干戈見太平
盟約重申同富弼
伏戎一撃鄙荊卿
奇才醫◯君無敵
妙手回春我更生
待乞寶星◯上賞
緑◯歸去達通明」
七言絶句なら、ちゃんとそう読めるように刻んでほしいな……それに、明らかに私には読めない漢字がいくつかありました(「◯」のところ……他にも間違っているところがあるかもしれません)。
意味なんかわかりませんよ。
エピソードを考えると、
「年取って東海に赴いた
戦争を平和に変えようと願って
富弼(北宋の政治家)と同じように盟約を重ねて申す
隠れていた賊が卑しい私を一撃した
医術において奇才である君は敵なく
その腕前は春を迎えるように私は回復した
星にも勝る報賞を待ち求めている
帰国したら緑章に達することは明らかである」
くらいの意味かもしれません。
奥の院。
奥の院途中から、堂宇を見下ろしました。
坐禅堂。
本堂遠景。
輪蔵。
「大蔵経(一切経)」を納めたもので、時計回りに一回転すれば功徳が得られる、というあれです。
でかいマニ車。
あるいは、まとめサイト。
傅大士という人が考案したそうですね。
南北朝時代の斉の人。
こういう、手抜きの極意みたいなのを開発する人というのは、自分自身は頭がいいし、多分「大蔵経」も覚えているんじゃないかと。
できない人のために、こういうものを考えちゃう。
いいのか悪いのか。
山門。
非常に新しいものですが、古いだけで価値があるわけではありませんから。
こういう、新しく作られる、ということにもちゃんと価値を見出さないといけません。
山門への階段。
……『ナニコレ珍百景』って書かれています。
「白山堂」。
「白山妙理権現」がお祀りされています。
弁天堂。
よく見えないかと思いますが、橋を渡った先にあります。
弁天様=島、です。
「酒塚観音」。
由来がよくわかりませんが……。
◯こちら===>>>
↑の下の方に、「酒塚観音大祭」の記事があります。
狛犬の下に「酒」「塚」と刻まれているのが珍しいですね。
お酒が配られるようですが、
境内は基本的に、酒気厳禁ですから、
多分飲めませんよ。
「可睡斎」の門を出て、しばらく道沿いに下りていくと
「旧東陽軒」
があります。
今は地蔵堂になっているようです。
何だかすっかりさびれてしまって。
何となく、残念です。
さて、静岡にやってきた目的はといえばもちろん、火伏せの神様である「秋葉権現」総本山にお参りするためです。
しかし、下調べ段階で、どうやら「秋葉権現」は「秋葉山」にはいないらしい……と知り、慌てて「可睡斎」を検索して立ち寄った次第です。
お寺にしては気安いので、一度お参りをしてみてはいかがでしょうか。
拝観料は要りますが、『ナニコレ珍百景』で話題になった、「日本一の烏芻沙摩明王像のあるトイレ」にも入れます。
私は、どこだかわからず、「東陽軒」の方まで下って、「あ、寺務所で聞けばいいんじゃん」と思ったのですが、もはや階段を上る気力が沸かず……断念しました。