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せっかく静岡まで来ているのだから(といっても西の方ですが)、あちこち回っておこうと思いまして。
メインイベントは最後にして、お次はこちら。
「小國神社」。
◯こちら===>>>
遠江國一宮 小國神社 (おくにじんじゃ)|初詣・宮詣・厄除け・祈願・良縁・安産・七五三・桜・紅葉・花菖蒲|小国神社
こちらも「遠江國一宮」とされています(名乗っている?)。
敷地はかなりの広さのようです。
針葉樹の見事な参道。
「飛び出す神話の世界」という楽しげな看板が……見てこればよかったな……。
「勅使参道
人皇第二十九代欽明天皇の御代に奇瑞ありて天聴に達し正一位の神階を授けられ大宝元年春十八日勅使参向し十二段舞楽を奉奏以来毎年勅使奉幣し舞楽を奉奏せられた当時の勅使参道路にて一般参拝者は通行しない(一部略)」
道にも貴賎があるのです。
「十二段舞楽」というのは、
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十二段舞楽(国指定重要無形民俗文化財)|祭典・行事|遠江國一宮 小國神社(おくにじんじゃ)
↑で解説されております。
「番外 花の舞
一番 連舞
二番 色香
三番 蝶の舞
四番 鳥の舞
五番 太平楽
六番 新まっく
七番 安摩
八番 二の舞
九番 陵王
十番 抜頭(ばとう)
十一番 納蘇利(なっそり)
十二番 獅子」
雅楽の歴史まで踏み込むと、もはや抜け出せませんな……「抜頭」とか「納蘇利」とか、語源を探ると面白そうです。
「納蘇利」は、「のっそり舞う」からなのかね……いや違うな。
拝殿。
枯れた桧皮葺が美しいですな。
明治十五年に火災にあったのち、明治十九年に再建されたようです。
規模は以前の1/3とか。
往時の壮大さが伺えます。
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↑では、その往時の姿を見ることができます。
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↑では、外からは見られない社殿の様子が見られます。
ご神木である大杉の根幹、だそうです。
「昭和四十七年の台風」で倒れてしまったそうです。
「全国一宮等合祀社
延宝八年の社記・諸古文書の社頭配置図に依ると全国一宮等御祭神七十三柱が境内社として各所に祀られていたが明治の初めに本社焼失時又は腐朽等により明治十五年より境内末社八王子社に仮合祀されたものを平成元年十二月氏子崇敬者の守護神として復興鎮祭する」
「百観音」等のまとめサイト的祀り方は、仏教のみの特権ではありません。
神道もなかなか、負けていませんな。
全国の一宮だけではないのですが、ちらほらとあまり見かけない神社の名前が。
例えば、「供奉社」の「供奉(ぐふ)」は、「1 行幸や祭礼などのときにお供の行列に加わること。また、その人。おとも。」(デジタル大辞林)とあります。
となると、意味的には「おともの神様」なのでしょうか。
「酒王子社」は、wikipediaによれば、「富賀神社」という三宅島の神社の主祭神の御子神に、「あんねい飯王子」、「まんねい酒王子」が見えます。
検索で引っかかるのはこのくらいです。
「江文社」(江文神社)は京都、「苗鹿社」(那波加神社)滋賀県大津にある神社のことのようです。
「聖真子社」の「聖真子」は、どうやら「八幡大菩薩」のことを指しているようです。日枝山王信仰がからんでいるようです。
一宮だけでも遥かな旅路だというのに、面白そうなネタがいくらでも……。
ここをお参りしても、「全国一宮」の御朱印がいただけるわけではありません。
神幸所。
御神輿がやってくるところですね。
……本殿からここまで御祭神がやってくる、という意味だとすると。
境内の外には出られないわけで。
結構強力な結界ですねぇ。
「事待池」。
池にはそう、「宗像社」ですね。
以前は「弁天様」を祀っていたに決まっています。
「八王子社」。
「八王子」は、所謂「天安河原の誓約」神話で生まれた八柱の神で、「宗像三女神」と、「天忍穂耳」「天穂日」「天津日子根」「活津日子根」「熊野久須毘」の五柱の男神のことです。
あるいは、疫病神「牛頭天王」の御子神とも同一視されていきました。
「国狭槌尊」は、「国之狭土神」であれば、「大山津見」と「鹿屋野比売」の間に生まれた、坂道の神ですが。
『日本書紀』では、冒頭の国生みの神話で出現する神になっています。
「八王子」信仰の影には、やっぱり山王日枝信仰があるようですが、詳しくはさっぱりわかりません。
とりあえず、隅っこに、しかも橋を渡った先に追いやられているのには何か理由があるのではないか……と思ったあなたはやっぱり高田崇史ファンです。
「鉾執社(ほことりしゃ)」
珍しいのか、本当はもっと各地にあってしかるべきなのか。
「神人」と呼ばれる奉仕者達を祀った神社です。
仏教が入ってくるようになって、葬式は仏教のお家芸になりました。
ですから、こうして「神人」が祀られるのは珍しいのではないかと。
それともこれも、祟りなす、んでしょうかねぇ。
第一の鳥居付近、ということはほぼ入り口にあります「飯王子社」。
あれ、そういえばさっき「酒王子社」がありましたね。
やはり、三宅島の信仰と関係があるのでしょうか。
由来を読むに、「横須賀では日照りと長雨で作物が実らない。一生懸命祈ったら、神様が出てきて、「社を横須賀の方に向けて、保食神を飯王子社にお祀りすれば五穀が実る」とおっしゃったのでその通りにした」ということのようです。
「小國神社」から、横須賀とはずいぶん遠いな……と思ったら、静岡にも横須賀という地名がありました。
掛川の方です。
少し離れたところや山の中に末社や奥の宮があったりするのですが、そこまで網羅できず……。
◯こちら===>>>
摂社・末社|境内・施設|遠江國一宮 小國神社(おくにじんじゃ)
こちらでご確認を。
さて、神社でいただける略記を見ますと、
「御由来
創祀は神代と伝えられ、上代の事で詳らかでないが延宝八年(1680)の社記によれば、人皇第二十九代欽明天皇の御代十六年(555)二月十八日に本宮峯(本宮山)に御神霊が出現し鎮斎せられた。後、山麓約六キロメートルの現在地に都より勅使が差遣せられ、社殿を造営し、正一位の神階を授けられた。(略)
元亀三年(1572)徳川氏の目代武藤刑部氏定が武田信玄に味方し甲斐の軍勢を招き当社にそむいた時、神主小國豊前重勝は霊夢に感じ、子息千松麻呂を人質として徳川氏に訴えた。家康公は神主に命じて御神霊を別所に遷し、願文と三条小鍛冶宗近作の太刀を奉り、戦勝を祈願した後に、社頭に火を放ち全部の社殿を焼失した。その後、徳川方が勝を得て、天正三年(1575)家康公は家臣本多重次に命じて、先ず本社を造営、遷宮させ、次いで同十一年(1583)十二月七日天下平定の報賽として末社・拝殿・廻廊を造営、同十三年(1585)楼門を再建させた。(以下略)」
「御神徳
(前略)また、当社の「小國」の語源は、神を祀るきれいな場所・神聖な場所と云われ、古来より許当麻知(ことまち)神社(願い事を待つ意)、事任(ことのまま)神社(願い事のままに叶う意)とも称されてきた。」
↑というわけで、同じ遠江一之宮を名乗っている「事任八幡宮」を思わせるような記述があるわけですな。
◯こちら===>>>
「事任八幡宮」 - べにーのGinger Booker Club
この本では、「小國神社」がもともとの一之宮で、それを「事任八幡宮」にしようという勢力があって、お互いが一之宮を主張するようになったのではないか、と書かれています。
実際のところ、この二つのお社は、距離的にはかなり離れていて、同じものと勘違いするのは難しそうです。
近くにある山の名前は、どちらも「本宮山」です(が、そもそも「本宮山」という山はたくさんあります)。
「小國神社」は承和七年(840)、「事任八幡宮」は嘉祥三年(850)に、ともに従五位下の神階が送られたということになっています。
前者は『続日本後紀』、後者は『文徳実録』に記事があるそうなので、別の神社と認識されているのは確かなようです(原典に当たってないのでなんとも言えませんが)。
ただし、『文徳実録』には、「遠江國任事の神」と書かれているようなので、どちらのことかははっきりしません。
同じ神社に同じ神階を授けることはないように思うので、朝廷は別の神社と認識していたと考えるべきでしょうか。
で、困ったことに、お互いに『延喜式神名帳』に載っているらしいんですね。
どっちが元祖なのかはよくわかりませんが、同じ遠州に、昔から、「事任(ことのまま)の神社」がどうやら二つあったらしいのです。
これだけでなかなか、面白い話だと思いませんか?
私は思います。
まぁ、人間の考えることなんで、どっちかがどっちかに便乗したんじゃないのかな、とも思っていますがね。
しかし、日本では珍しい(ここだけ?)の、「事任(ことのまま)」、あるいは「事待(ことまち)」という神社が、何故この遠州にあるのでしょう。
元々奉斎を司ってきながら、中央集権が進むにつれて、その生業を奪われた氏族の怨嗟の声なのかも知れないですね。
特にオチはありません。