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「袋町お聖天」から広小路通まで歩き、たどり着いたのはこちら。
「朝日神社」。
◯こちら===>>>
「中区史跡散策路(名古屋市:中区:史跡散策路(中区))」は、前回までの「碁盤割コース」から、「広小路今昔コース」に移っております。
名古屋のメインストリートである広小路通沿い、しかも栄のど真ん中にある神社です。
なので、遠景がうまく撮影できませんでした……。
隣には交番があったりします。
もう何か、致命的にだめな写真で……。
いただいた由緒書によると、
清洲城下の朝日郷(地名)に祀られており関白太閤殿下の母堂(朝日どの)の妹、朝姫(家康公の正室)の氏神様でした。
慶長十五年(1610)家康公の名古屋開府の大号令が発せられると住民の移住に先立って、当神社が城下の中心地(現在地)に遷座併せて、郷内の三社(氏神)も城下に移築造営、翌年の十六年夏には完成した。
これは家康公特別の計らいで、清洲の人達の移住を促す事となった。
万治三年(1660)の大火後、防火帯として広小路通(道路巾十五間、距離七丁)が誕生する。そこに露天や芝居小屋が軒を並べ城下一の賑わいとなり、当社も城下町一番の参拝者の多い神社となった。
氏子の熱望により、稲荷社、芭蕉天神、秋葉社、塩竈社、児宮社、薬祖神社、公孫樹龍神社などが境内に祀られるようになった。
境内には戦火にも焼失せずに江戸時代の透垣(不浄除け)が現存する。当社の斜向かいに藩の牢屋敷があり、罪人の引き廻しを神様に見せない為といわれている。」(※一部略)
とあります。
透垣は、いわゆる蕃塀です。
「外から見えないように」とか、「怨霊を外に出さないために」とか、解釈(勝手に)されていますが。
なるほど、「外の景色を神様に見せないように」、ですか。
それも牢屋敷ですか。
中臣氏の祖神である「天児屋根命」は、岩戸神話で太祝詞を唱えた、由緒ある神様です。
日本神話の神統譜に突っ込まれたのは、中臣氏が力を持っていたからでしょう。
もちろん、藤原氏の祖神でもあります。
「子守社」「児宮社」と、「朝日稲荷社」。
境内社として、
「八幡社」
「春日社」、「戸隠社」。
「天神社」、「塩竈社」。
「秋葉社」、「金刀比羅社」。
小さな鳥居を備えているのが、「公孫樹龍神社」、です。
「神輿殿」。
公式HPによれば、立地もよかったためか、昭和初めには名古屋市内で「熱田神宮」に次ぐ参拝客の多かった神社なのだそうです。
こう言ってはなんですが、今ではとてもそうは思えない感じです。
ただ、こうした町中にある神社に共通と言いますか。
一歩境内に入ると、音が遮断され、静謐とした空間を感じられます。
例えば、新宿の「花園神社」とか。
西洋でいえば、教区の教会になるんでしょうが、あちらは建物の中に入る必要があります。
一方で神社というのは、そもそも「建物の中には神様か神職以外入れない」んです(祈祷時は除く)。
ですから、野外にも関わらず、深閑とさせる機能があるのは、木々の影響が大きいのではないか、と思います。
「鎮守の杜」とはよく言ったもので、境内の木々も含めた空間こそが、神社の真髄と言えるかもしれません。
「都会のオアシス」、「別世界」、「パワースポット」等等、いろいろな呼び方があるでしょうが。
聖別された土地、一種のアジール、何かから逃げ込む場所、そういう意味では、半島の影響が残っているんでしょうかね(半島には「蘇塗」という、逃げ込んだら捕えられない場所があったそうです)。
まぁ、日本列島は文化の漂着地ですから、何も半島の影響だけが残っているわけではなく、それこそ遠くはシルクロードの果てから流れ着く文物が留まる地ですので。
「様々な、名状しがたいモノ達が、日本を作ったのでしょう」
ちょっとかっこつけました。
ところで、防火のために拡張された広小路通ですが、名古屋には100メートル道路というものがあります。
他の町に比べても、名古屋の道路は、全体的に広いんですね。
これは、大災害時に備え、緊急車輛が通りやすくするためだ、という話をどこかで聞いたことがあります。
もっとも、そのせいで、愛知県の交通死亡事故は、大抵ワースト1、2なんですが。
あちらを立てればこちらが何とやら、ですねぇ……。