べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「萱津神社」(補)

前回の「萱津神社」について、何か書き忘れたなぁ……と思ったら。

尾張名所図会』の引用を忘れていました。

 

◯こちら===>>>

近代デジタルライブラリー - 大日本名所図会. 第1輯第9編尾張名所図会

 

↑こちらの89コマ辺りから、萱津に関する記事になっています(以下、引用にあたり、旧字を改変した部分あり)。

 

「阿波手森(あわでのもり)

上萱津村にあり。個人の秀詠多く、蒼鬱たる古林、日の影を見ず。木の下露は雨にも勝り人跡稀にして、鳥聲寂寞たる勝地なり。[藻塩草]に尾張とあり、又[名所方角抄]に、阿波手の森、浦里有之、下津という里の南にあり。建保名所に入るなりとしるし、阿波堤、粟手、粟殿などとも書けり」

 

たくさんの和歌も掲載されており、なるほど尾張八景に選ばれるだけの景勝地だったことが窺えます。

 

「薮香物

同村正法寺にて製す。むかし萱津の里に市ありし時、近里の農夫、瓜・茄子・羅葡(※)の類の初なりを、熱田宮へ奉らんとせしかども、道遠ければ、阿波手の森の竹林の中に甕を置き(今も猶其旧姿を存ぜり)あらゆる菜蔬を諸人投げ入れ、塩をも思ひ思ひに撮み入れなどせしが、自混和して、程よき塩漬となりしを、二月・十一月・十二月、彼社へ奉献せしなり。是を薮の香の物と名け、名産とす。後世路傍の行人など、神供の物をも憚らずとり喰ひ、或は穢物をもほどこしければ、終に正法寺の境内にうつして、今に至る迄熱田宮へ奉納するを例事とす。『薮に香の物』とはふるき言葉にて、[十訓抄]に菅三品の家にて、人々月をもてあそびしに、或人『月はのぼる百尺楼』と誦しければ、老いたる尼のあやしげなるが、これをききて、僻事を詠じおはしますかな、月はなじかは楼に登るべき、『月には登る』とぞ故三位殿は詠じ給ひしといひければ、人々恥ぢて、薮に香の物といへる児女子がたとへ、たがはざりけりとて、感心せられしよしにしるし、[源平盛衰記]にも、やぶにかうのものという事見えたり。[尾陽雑記]に云く、むかしは正法寺大地にして、住持は東巌禅師といへり。其比瓜・茄子・大根・小角豆・蓼やうのもの商へる人、此森の前を通りけるが、必ず一つ二つ此神にささげて通りけるを、禅師只捨て置くべきにあらずとて、甕に入れ、塩を交へてつけ置きしより初るとかや。大方日本香の物のはじめなるべしといへり。扨吉例として此所の香のものを二月初午の日に、熱田に其品三十二をささげて神供とし、又十二月二十四日にも是を備ふとなり。近き頃までは、阿波手の杜の藪の中に有りけるが、あぶれ者の来りてとり食うひ、果には穢はしきものなど取り込みなどしける故、制しかねて、今は寺内に取り来り、藪の中に漬け置くなり云々。」(※は「だいこん」、ただし本文中とは別の文字)

 

元々、漬物をつける甕は「阿波手の杜の中」にあったようですが、

 

勝手に食ったり、変な物入れたりする奴ら

 

がいたので、寺に入れた、ということのようです。

まぁ、ならず者は昔からいましたからね……。

「薮に香の物」という言葉自体は……どんな意味で使われていたのか、いまいちわかりませんでした。

何か、「こんなところにこんな珍しいものが!!」というのが元々の意味なんでしょうが、↑の『十訓抄』の話がよくわかりません。

 

 

 

……ああ、『十訓抄』、読めばいいのね……。

 

 

 

 

「萱津神社」の伝承では、「日本武尊」の時代まで遡っていますが、ここではせいぜい8世紀までではないか、と伝えられています。

いずれにしろ、「大方日本香の物のはじめなるべしといへり。」とは言われていたんですね。

 

「阿波手社

阿波手の森の中にあり。祭神 日本武尊。[本國神名帳集説]に、按阿波手森有神祠。称熱田神。疑是萱津天神社。而以香物故。光明寺境内亦祭之歟云々。

末社 八剣大明神・白鬚大明神・金山彦尊・銭神等の数祠あり。

連理榊 社前にあり。」

 

今の「萱津神社」のものと思われる記事は、これだけです……。

按阿波手森有神祠。称熱田神。疑是萱津天神社。而以香物故。光明寺境内亦祭之歟云々。」ってことで、「熱田さんだって称してるけど、萱津天神のことじゃないの?香の物の話のせいでそうなったんだよね?」的なことが書かれている、と思います。

元々、「萱津神社」の主祭神は、鹿屋野比売神だったはずなんですが、一言も書かれていません。

末社は、現存するものと一致するようですが。

明治の神仏分離令以降、周囲の寺より「萱津神社」の勢力の方が強くなったということなんでしょうね。

うーむ、もう少し調べたい……。

 

「反魂香塚

阿波手の森の東なる堤の下にあり。光仁天皇天応元年(781)、河内権守紀是廣が子、七歳にて父を尋ね、東國に下らんとて、此所まで来り、煩ひ失せけるを、父是廣、出羽より上るとて、ここに来合わせ、我子の死せしをきき、智光上人を頼みて、反魂香をたき、しばしの冥会を遂げし跡、塚となり今も猶残れり。しくは名古屋七ツ寺の條にしるしたれば、ここに略す。正法寺縁起にしるせるは、当寺開祖東岩和尚、此浦に草庵を結びてありしが、光仁天皇宝亀十一年(780)、奥州信夫の里より、若き夫婦(夫を恩雄(やすたか)、妻を藤姫といふ)上京せんとここまで来りしに、藤姫病にかかりて、遂に身まかりぬ。病中に一首の和歌をよみて、恩雄に残せり。『忘るなよ我身きえなば後の世のくらきしるべに誰をたのまん』と。恩雄これを見て、悲嘆のあまり、東岩和尚を請して営をなし、其身は剃髪して弟子となり、藤姫の塚の邊に庵を結び、菩提をぞ弔ひける。此時恩雄は二十一歳、藤姫は十六歳なり。法名を大空了覚信女といふ。其後天応元年、橋本中将関東に下向の折から、粟手の森の古跡など、ここかしこ遊覧し給ふに、彼恩雄法師が庵を窺ひ、本尊の薬師佛いと尊く、庵主も若き身にして、殊勝に念佛せしを感じ、法師が身のなるはてをも問ひ給ふに、法師もしかじかと語れば、彼卿頓に色を失ひ、泣々語り給ふは、其藤姫こそ、我奥州に左遷ありし時、賤の女の腹にやどせしわが一子なり。我帰洛の後、音信もせざりしが、母は死して、其子汝に嫁し、共に我を慕ひ上京せんとせしに、ここにて身まかりし事のはかなさよとて、遂に其師の東岩和尚を請じ、反魂香を焚き、秘法をも修せしかば、香烟の中に、二八の女性忽然と顕はれけるを、近づきて言葉をかはさんとせしかど、烟と共に失せにけり。彼卿は悲喜の泪をしぼりつつ、『魂を反すにほひのありながら袖にとまらぬむかし悲しき』と詠じ給ひければ、法師も、『思ひきや花のすがたの香を留めて烟の中に見なすべしとは』とぞ詠じける。夫より此塚を反魂塚と呼びそめしなり。委しくは縁起に出でたれど、事長ければここに略しぬ。さてかかる伝説あれば、七ツ寺の縁起とは大に異同ありて、一定しがたければ、今二説ともに其略を挙げて、以て後考に備ふるのみ。

按ずるに反魂香の事蹟、我邦にては当所にかぎり、彼土にては[白氏文集][東坡詩集]等の註にのみ見えて、其餘の史籍にはかつて載せず。又其法を知る人とても絶えてなければ、其名のここに朽ちざるはいとも珍し。

 

気になっていた地名「反魂香」の由来がここに……思いのほか長い。

長いということは、それだけ人気があった(失礼)んだと思います。

確かに、人情に触れるいい話ですからね。

今で言えば、

 

 

「泣けるゾンビ映画(故・殊能将能先生より)

 

 

でしょうか(私は一つも見てません)。

で、「しくは名古屋七ツ寺の條にしるしたれば、ここに略す。」……え、そっちを調べろと?

「七ツ寺」というのは、大須にあるお寺のことで、まだ行ってないんですが……また調べるか。

最近は、「キラキラネーム」といって、奇妙な漢字に奇妙な読み方を当てる人がいるようですが、「夫を恩雄(やすたか)」←こういうのを見ると、まぁ無理もないかと。

 

 

絶対読めないよ。

 

 

元々日本語と漢字は別の言語でしたし、漢字(漢音にしろ呉音にしろ)の音読みと、漢字の意味に対して日本語を当てた訓読みとは別物で。

それをごっちゃにして読み書きできるようになった、というのが日本人の凄いところなのかもしれませんが。

ですから、「キラキラネーム」も安易に批判されるものではないと思います。

ただまぁ、最終的に子どもには選択権がないので、熟慮していただければ。

間違っても、

 

 

泡姫と書いて「アリエル」(『リトルマーメイド』の人魚姫)と読ませる

 

 

とかは、しないでいただきたいです。

それにしても、「正法寺縁起」の方の話ですが、「共に我を慕ひ上京せんとせし」と、夫婦の上京の理由が話のかなり後段になって表れる辺り、プロットとしてどうなんですかねぇ(←偉そうに)。

「え、何その御都合主義?」って思っちゃいますよね。

そうです、大抵のお話というのは、「御都合主義」なのです。

それでよかったのです、昔は。

今はねぇ……。

まぁともかく、二つの説話が「反魂香」の地名の起源として語られているわけですが、「今二説ともに其略を挙げて、以て後考に備ふるのみ。」←こういう姿勢で、

 

とにかく残っているものを収集する

 

というのはなかなか素敵だと思います。

優柔不断ともいいますが、日本はそれでいいのかな、と。

日本書紀』ですら、「一書に曰く」って、異説を列挙しているんですから。

何が真実かは、後から考えてくれ、と。

 

 

大抵、後から考えても、真実にはたどり着きませんけども。

 

 

 

ご先祖様、期待し過ぎ。

 

 

 

按ずるに反魂香の事蹟、我邦にては当所にかぎり、彼土にては[白氏文集][東坡詩集]等の註にのみ見えて、其餘の史籍にはかつて載せず。又其法を知る人とても絶えてなければ、其名のここに朽ちざるはいとも珍し。」←この部分も気になります。

[白氏文集]は白居易(だと思います)、[東坡詩集]は蘇東坡だから、詩に歌われるだけなんですかね、「反魂香」。

そりゃ、「史籍」にはなかなか残らないと思います(幽霊の話ですから)。

日本の「反魂香」について、あとで検索してみようっと……。

 

「権薬師(かりやくし)

上萱津村にありて、正法寺の隠居所なり。本尊 薬師如来聖徳太子の御作にして、藤姫の守本尊なり。藤姫位牌一基。『大空了覚信女』位牌うらに宝亀十一年八月十四日』とあり。上の方に三つ巴の紋見えたり」

 

「反魂香」で甦った「藤姫」の位牌があるところだそうです。

でもまぁ、怪しいかな、と。

いや、位牌の書き方なんて私には分かりませんが。

 

宝亀十一年八月十四日』

 

↑昔であればあるほど、正式に没年を表現しようと思ったら、「干支」を書いたんじゃないですかね。

ま、史書ではないから、そこまでじゃないのかな。

その点から、ちょっと怪しいなと思いました。

 

「日東山正法寺

同村にあり。曹洞宗、熱田法持寺末。

本尊 正観音の木造。

寺宝 藤姫の面。鉦。(藤姫の所持)。阿波手森謡本(古写本一冊)。

縁起に云く、当寺は天平勝宝(749-757)年中、唐僧東岩和尚を以て肇創の師とし、元和元卯年今の宗旨に改め、法持寺の八世月峯慶呑和尚を以て中興の開山とす云々。古跡相続のためとて、國君より香のもの田若干の除地を賜り、今も猶寺伝とす。

毎年当寺より 熱田宮へ香物・御供米等を奉献す。(以下略)

 

「横笛山光明寺

中萱津村にあり。時宗、相模藤澤の清浄光寺末。

(中略)

熱田大神宮へ毎年十一月寅卯の祭事に、当寺より献供左のごとし。(中略)右当寺より貢献の香物は、正法寺よりの貢献とは別にして、則当寺の末寺林光院是を掌りて、毎年製造す。故に林光院を香物庵と呼べり。又國上に香物畑とあるは、則当寺の除地にして、今もかく両寺より貢献すれば、後世いづれか本末なりにしや。更に考訂しがたし。

 

正法寺」と「光明寺」は、それぞれが熱田神宮に「香の物」を奉献していた、というのが江戸末期まで。

それが今では、「萱津神社」だけが、「漬物発祥の地」として宣伝されています。

後世いづれか本末なりにしや。更に考訂しがたし。」どころじゃないですよご先祖様。

明治という時代は恐るべしですね……。

 

(続……かも?)